離れていても、山の熱気がこちらまで来ている。
 黒縄地獄は、生前殺生や盗みをした者が落ちる地獄だ。代表的な八大地獄は王たちが住む後宮の階層の地下にあり、その中の一つである黒縄地獄は地下二階に存在する。ここで罪人たちは獄吏によって熱鉄の縄で縛られ、熱鉄の斧で切り裂かれる。大釜で煮られることもある。
 紅花は今日、その大釜の準備を頼まれたのだが、適当に他の鬼に頼んで抜け出してしまった。

(何が楽しくて人が煮込まれるところを見なきゃいけないのよ)

 黒縄地獄の横にある獄吏専用の温泉に浸かって溜め息を吐く。この階層で趣味の悪い罰に使われている熱鉄の山。あの山のおかげでこんなに良いお湯に入れるのだけは喜ばしいことだ。


 湯でほかほかになった紅花は、後宮のある上層階にさっさと戻ることにした。
 後宮の近隣には獄吏専用の版築工法で造られた家屋が並んでおり、紅花もその内の一つで玉風と一緒に住んでいる。

 今日もうまく仕事から逃げることができた。しかし、いつまでも人を苦しめずに獄吏として地獄にいることは難しい。

(後宮入りできたらなあ……)

 紅花は少し離れたところから後宮の大きな門を見上げた。
 冥府の長い長い歴史上、地獄の十王が獄吏を見初めて後宮入りさせた例がないわけではない。というか、むしろかなりある方だ。
 後宮入りさえすれば獄吏としての仕事はせずに済む。そこに僅かな希望を持ちたいところだが――今の代の王たちは裁きの仕事以外では滅多に後宮の外に出ない。
 それこそ、お会いできる機会があるとするならば、昨日のような移動時のみだ。

 そこで紅花ははたと思い付いた。

(移動中の王様の目に留まることさえできれば、今よりは可能性があるのでは)

 紅花は容姿に自信がある。水に映る自分の顔を見てもなかなかの美形だと思うし、獄吏たちの間で美人だが仕事のやる気がないと噂されているのを知っているからだ。それ故、顔さえ見てもらえればきっと王に気に入られることができるという根拠のない自信が湧いてくる。
 悪巧みを考え気分が良くなった紅花は、鼻歌を歌いながら家の戸を開けた。
 明らかに帰るのが早く、仕事をしていないであろう紅花を玉風が叱りつけたのはまた別の話である。


 ◆

 日によって死ぬ人間の数や罪は異なるため、王たちが裁判の場から後宮まで移動する時間は常にばらばらだ。中には後宮に帰らずずっと裁判を続ける日も多く、決まった時間に待っていれば必ず来るものでもない。
 玉風に怒られるためずっと後宮の階層で見張っているわけにもいかず、しばらく王の移動用の車と鉢合わせることはできなかった。特に意識していない時は何度か見かけたのに、早く来てほしいと願う時には来ないように感じた。


 運を待ち続けて八日目、ようやく、王の車が後宮の門に向かっていくのを見つけた。玉風と、家の隣で育てている薬草を摘んでいた時だった。
 鬼たちが運ぶ、幌の被さった青い色の派手な軒車。あれは誰の車だったか。帝哀にしか興味がない紅花には、他の九体の王の物など全て同じに見える。

(帝哀様のお車じゃないのがちょっと残念だけど……これを逃したら次の機会がいつになるか分からないし)

 薬草を集めていた籠を土の上に置いた紅花は、走りやすいよう服の裾を捲くり上げた。手に付いた泥を払い、前髪を整えてから、向こうに見える後宮の門に向かって走り出す。紅花の突然の行動に、玉風がぎょっとしたのが視界の片隅に映った。

 冥府では、鬼が就く職業は獄吏だけではない。書記官として王の隣で働いている者もいれば、王の后の侍女をする者、後宮内の掃除をする者まで様々だ。今目の前に見えている、王の車を運ぶような運び屋も鬼である。
 走って突っ込んでくる紅花の存在に最初に気付いたのも運び屋の鬼だった。こんなことは初めてなのか、驚いて火を放ち紅花を止めようとしてくる。
 身軽な紅花はその攻撃を避け、計画通り車の進行方向に入った。運び屋達は慌てて足を止める。急に止まったため、王が入っている箱が大きく揺れた。

 次の瞬間、紅花は首根っこを掴まれ勢いよく後ろに引っ張られた。
 そこにいたのは、走って追いかけてきたらしい玉風だ。玉風が紅花を怒鳴りつける。

「何やってるの! 王の行く手を阻むなんて、重罪よ!?」
「え」

 重罪?
 きょとんとした紅花に、玉風が泣きそうになりながら再度言った。

「打首もんよ!」
「打首?……それだけ?」

 獄吏が人間たちに与えている苦しい罰を見てきた紅花にとっては拍子抜けな内容だ。紅花があっけらかんとしているのを見てわなわなと体を震わせた玉風は、次にはっと気付いたように慌てて王の車に向き直り、頭を下げる。

「大変申し訳ございません、飛龍《フェイロン》様! この者は不勉強で、冥府の決まり事が全く頭に入っておらず……! 知らなかっただけで、悪気はなかったものと思われます! きつく言っておきますので、どうか、どうか御慈悲を……!」

 飛龍。第百代宋帝王の名だ。これは宋帝王の車だったのか。

 幌の隙間から、見目麗しい男性が降りてくる。
 筋の通った高い鼻、人とは違い先の尖った耳、緑色に輝く瞳、一つに結い上げられた美しい黒髪に、豪華な冕冠と袞服。どこを取っても王の威厳を感じさせる容姿である。
 ここまではっきりと顔を見たのは、死して二十一日目、彼に現世での邪淫の有無を調べられた以来だ。
 その鋭い眼差しに、一体何を言われるのだろうと緊張してごくりと唾を呑み込む。
 しかし、次の瞬間――飛龍はへらりと笑った。先程までの威厳はどこへやら、親しみやすい笑顔である。

「君、わざとでしょ。何のために突っ込んできたの?」

 軽い口調で問いかけてくるので、紅花は頭を下げずに答えた。

「王様に気に入られ、後宮に入れてもらうためよ」

 隣の玉風が怪訝そうに目だけでこちらを見上げてくる。何を言っているのだこいつは、という目だ。
 飛龍が、はははっと高らかに笑った。

「なるほどねぇ。俺たちに気に入られるためにつまらない小細工をしてくる獄吏の女はこれまでにもいたけれど、正面から堂々と突っ込んできた子は初めてだよ」

 ゆっくりと歩いて紅花に近付いてきた飛龍は、がっと紅花の頬を片手で掴んだ。突然乱暴な真似をされたが、紅花は動じずに飛龍を見据える。
 上等な、甘い香の香りが漂った。


「でも残念だね。生憎、俺は妻たちと男にしか興味がない。俺がこの冥府の最下層、獄吏なんかに惹かれる安い男に見えるかい?」


 その緑色の目は冷ややかだ。飛龍は短く指示を出す。

「この者たちを捕まえろ。連れていく」

 刹那、紅花の両隣に煙が立った。現れたのは王の護衛の鬼だ。紅花の体は拘束され、玉風も捕まってしまった。

「……後宮へ入らせてくれるの?」
「何を勘違いしているのか知らないけどね、後宮はそう良い処ではないよ。良い暮らしができるのは身分の高い者だけだ。後宮内にも汚れ仕事は沢山ある。臭くて汚くて恐ろしい仕事をして、その浮かれた頭を叩き直すといい。いやあ、俺って優しいね。頭の弱い獄吏をすぐ打首にせず、〝躾〟をしてあげるんだから」

 優しい笑顔を浮かべながら、言っていることは残酷だ。
 飛龍の口ぶりからして、これから紅花たちは酷い扱いを受けるのだろう。可哀想なのは、紅花を止めるために飛び出してきた玉風である。

「そちらの玉風お姉様は解放して。ここまで走ってきたのは私の意思で、お姉様は関係ない」
「意思がどうであれ、俺の車の行く手を阻んだのは君たち二人だよ。片方だけ許すなんて甘い真似、俺がすると思う?」

 ――運が悪かった。
 よりにもよって、今日見かけたのが鬼より鬼畜と有名な飛龍の車とは。

 隣の玉風の顔が青ざめている。
 紅花は他者を巻き込んでしまったことだけは後悔した。

 しかし、それ以上に――どんな酷い目に遭うことになろうが、閻魔王の棲む後宮に一度でも足を踏み入れる機会を与えられたことが、内心喜ばしかった。