帝哀は紅花から視線を外し、部屋の隅の引き出しから小さな木の容器を取り出した。容器の中に入っていたのは、すり潰したような黒い粉だ。

「俺がいつも飲んでいる薬だ。痛みが和らぐ。最初はかなり苦いが、湯で溶かすと呑みやすい。ここに置いておく」

 そう言って部屋から出ていこうとする帝哀を慌てて呼び止めた。

「一人じゃ飲めません」
「は?」
「腕も痛くて手を動かせません。帝哀様に呑ませてほしいです」
「…………」

 帝哀が何か考えるように無言になった。本来なら使用人にでもさせるべきことだ。しかし、帝哀が人間不信である故に、この宮殿には使用人が一人もいない。自分がやるしかないと諦めたらしく、帝哀はしばらくして戻ってきた。
 紅花が座る寝台の横の椅子に腰をかけ、先程の真っ黒な薬を湯に溶かし、匙で掬って紅花の口元に持ってくる。紅花はどきどきしながら口を開け、その薬を口に含んだ。できるだけこの時間を長くするため、口に入れたのはほんの少しだったのだが――瞬時に口の中に広がった苦味に思わず叫ぶ。

「にっっっっっが!」
「我慢しろ」
「うえ、これ呑みたくありません」
「呑まなければ夜、全身が痛むぞ」

 紅花は渋々、促されるままもう一口薬を呑む。やはり、不味い。呑み込むので精一杯だ。

(帝哀様に呑ませてもらえるなんてこれ以上ない幸せだけど……っ苦い……!)

 顔を歪める紅花を、帝哀は冷酷にも急かしてくる。

「どうした? 薬はまだまだある。早く呑め。全量呑まなければ効果は薄い」
「ちょ、ちょっと休ませてください。そうだ、水! 水呑みながら交互に呑みたいです。そしたら口の中にこの苦味が残らなくてましかも……」
「……仕方ないな」

 面倒そうに溜め息を吐いた帝哀。水を持ってきてくれるのかと思えば、残った紅花の薬をそのまま自分の口に入れた。

(……え?)

 困惑しているうちに、帝哀の美しい顔が紅花に近付いてくる。その両手が紅花の顔を固定した。

 次の瞬間、帝哀の唇が、紅花の唇に重なった。

 舌で口を割り開かれる。隙間から苦い薬が流れ込んできたが、突然のことに狼狽し、苦さを感じる余裕などなかった。
 帝哀の胸を押し返そうとするがびくともしない。その間にも薬がどんどん入ってくるので、呑み込むしかない。ごく、ごくと何度かに分けて必死に呑んだ。

 全て呑み切ったところで、ようやく帝哀の唇が離れていく。
 紅花の心臓は爆発しそうなくらい高鳴っているが、帝哀はすました顔をしている。おそらく帝哀にとって、これは特に意味をなさない、薬を呑ませるためのただの手段だったのだろう。しかし、紅花にとっては一生忘れられないくらいの思い出になった。

「う……嬉しいです」
「は?」
「全然初めてじゃないですけど、今のを私の接吻の初体験ということにします。そうします。私の初めての接吻のお相手は、帝哀様です」
「何が接吻だ。お前がなかなか呑まないから、無理やり薬を呑ませただけだ。俺も忙しいんでな」
「どう解釈するかは私の自由ですので!」

 帝哀は呆れた顔をしながら器を片付けた。ここで一人で生活をしているため、片付けまで自分で行っているらしい。紅花は王らしくないその姿を見て何だか微笑ましくなった。

「私、少し分かりますよ。人間がお嫌いだという帝哀様のお気持ち」

 そう言うと、帝哀の目が紅花を捉える。

「生前、親に体を売らされていました。痩せた貧困地域で生き抜くにはお金が必要だったから。客はどいつもこいつも、いい年して娘くらいの年齢の私に発情して体を求めてきました。でも、年端も行かない少女に手を出すあいつらも、普段は外でまともぶって生活してるんです。汚れきった欲を抱きながら、金で女を買っておきながら、ちゃんとした大人みたいな顔をして。私はそれが許せませんでした。客のことも親のことも嫌いになりました。少なくともあの地域では、誰も信用できませんでした。私が酷い目に遭ったところで誰も見てくれない。助けてくれない。自分のせいで私に性病を移そうとどうなろうと責任なんか取ってくれない」

 あの場所に正しい人間なんて誰一人いなかった。人間の罪を罰してくれる閻魔王の存在が、どれだけ紅花にとって心の支えとなったか。

「生前からずっと貴方が好きでした。どんなに酷い人間もいつか貴方が罰してくれると思って生きてきました。冥府でやっと会えた時、貴方が想像していた以上に素敵な人で、もっと大好きになりました」

 いつの間にか、不機嫌そうな帝哀が、再び紅花の方に近付いてきていた。寝台に片手を付いた帝哀の、もう片方の手が紅花に迫ってくる。

「べらべらとうるさい舌だ」
 
 親指と人差指を口に突っ込まれ、舌を掴まれた。

「王である俺に取り入ろうとしているのか? 今のが嘘だったら、すぐにでもこの舌を引き抜いてやる」

 数秒、見つめ合う。紅花は動じなかった。嘘のつもりは全くないからだ。
 紅花の唾液が垂れそうになった時、帝哀はちっと舌打ちして紅花から手を離した。

「抜かないのですか? 帝哀様になら、舌を抜かれてもよかったのに」
「……何を馬鹿なことを」

 少し間を置いて帝哀が聞く。

「怖くないのか。俺が」
「好きな人のことが怖いわけないじゃないですか」

 恐れも痛みも、地獄の日々の中で忘れてしまった。

 帝哀は紅花を見ずに指示する。

「……痛みが引くまでここにいろ。他の庭師には俺から伝えておく」

 あまりに優しい言葉に驚いて、思わず聞き返した。

「え、まだいていいのですか?」
「どうせあまり動けないだろう。お前をそんな状態にしたのは俺の責任だ。治るまで面倒は見る」

 紅花の過去に同情したのかもしれない。いや、同情などせずとも、帝哀はきちんと責任を取る男だ。紅花は嬉しくなって口元が緩むのを抑えきれなかった。
 そこで、はっと長子皇后と会う約束をしていたのを思い出す。

「あの、今夜だけこの宮殿の外に出てもいいですか? 約束があって」
「その体でか? 推奨はしないが」
「もう約束しちゃったので……。待たせるわけにはいかないかなと」

 帝哀は少し考えるような素振りを見せた後、あっさりと提案した。

「なら、俺も付いていく。途中で倒れられても面倒だ」
「……そこまでして頂かなくても」

 いつもなら喜んでお願いするところだが、紅花が会いに行くのはあの長子皇后だ。帝哀を正妻と直接会わせるのは少し嫌だ。

「さっきまで図々しかったくせに、急に何を遠慮している?」
「…………長子皇后様なんです」

 悪いことをした子供のように小さな声を出してしまった。
 帝哀の眉がぴくりと動く。

「長子?」
「今夜会う約束をしている相手は、長子皇后様です」
「何故お前が……。接点などないはずだろう」
「実は、天愛皇后様に長子皇后様について探れと言われていて、庭師としてこちらに送られてきたのもそのためなんです。それで、昨夜たまたま長子皇后様と会うことができてですね……」
「俺の正妻について探ろうとしていたと?」
「……長子皇后様の侍女たちが、天愛皇后様の侍女を馬鹿にしていたんです。だから、次のお祭りでその鼻をへし折ってやろうという魂胆でして……」

 帝哀を前に隠し事などできない。馬鹿正直に全て話してしまった。
 すると、帝哀はまた呆れた顔をする。

「お前のようなべらべら喋る奴を間諜に選ぶとは、天愛皇后はいつから見る目がなくなったんだ?」
「そ、そういうわけで、帝哀様に長子皇后様を好きになられたら困るので、できれば会ってほしくありません」
「いい。何にせよ、長子がいるのであれば俺は同行しない。あいつは俺に会いたくないだろうからな」

 何故、と聞こうとした時、ちゅっと軽く額に唇を当てられた。びっくりして二度見する。

「〝印〟を付けておいた。それでお前の居場所は俺に丸分かりだ。朝になっても帰ってきていなければ俺の方から捜しに行く」
「は、はい……お気遣いありがとうございます」
「くれぐれも無理はしないように」

 そう言って、帝哀は部屋を出て行ってしまった。
 玉風が彼のことを〝恐ろしい男〟と言っていたことを思い出し、彼女は何も分かっていないなと思った。

(とてもお優しい人だわ)

 帝哀の意外な一面を見られたことが嬉しくて、ふふふと笑ってしまった。