熱された板に何度も押し付けられ、感覚が麻痺してきた時、ふと思い出す生前の記憶があった。
紅花は生前、総面積の大きい大国の片隅、政府からも見捨てられた山脈の麓、少数民族のいる地域に住んでいた。その場所では閻魔王信仰が強く、悪いことをすれば必ず死後閻魔王に罰されると言われていた。各家庭に一体は閻魔王の小さな像があり、それを祀るのが風習だった。
そして、そんな信仰があるにも拘わらず、貧困により治安は悪化していった。麓に住む人々は今に精一杯だったのだ。死後どうなっても構わない、今を生き延びられたらそれでいいと思っていたのだろう。
そんな中、紅花だけは、家の物を盗まれた時も必死に集めた食料を奪われた時も性的暴行を受けた時も阿片中毒の両親に熱された鍋に押し付けられた時も手足を折られた時も、歯を食いしばって耐えていた。
――――いつかあいつらは閻魔王が罰してくれると思っていたから。
悪い人は皆いつか罰を受ける。だから紅花は不幸なわけではない。復讐は閻魔王が行ってくれる。酷い目に遭った紅花よりも何倍も、閻魔王が彼らを苦しめてくれる。
「好き、好き、閻魔王様。私を救ってくださいますよね。憎い、憎い憎い憎い憎いあの人達は、貴方によっていつか罰を受ける。あはは、ざまあみろ、閻魔王様、貴方の前では皆無力。いつかいつかいつかいつかいつか、私のために彼らを、お父さんを、ずっとずっとずっとずっと気が遠くなる程の時間、罰してくださいね!」
部屋の一角に祀られている閻魔王の像に向かって、笑いながらぶつぶつとそのようなことを呟く日々だった。
雪がふぶき、風の激しいある日、家に帰ると血溜まりができていた。
倒れている父親と、その父親の前に座っているやつれた母親。
「母ちゃん、父ちゃんのこと殺しちゃった」
耳を疑った。
「あのひと、もう、無理だったの。もう、阿片のことばかりで。母ちゃんもほしぃい、って、言っているのに、くれなくて。母ちゃんの分まで、奪って。母ちゃんがあれをもらうのにどれだけ苦労したか、知らないくせに。奪いやがって。死ね、死ねえって思ってたら、動かなくなっちゃった」
父親を見下ろしていた母がゆっくりと紅花を振り返る。その目には生気がなく、人間と呼んで良いのかも怪しかった。母も、すっかり薬物に冒されている。
「紅花、紅花がしたって言ってくれる?」
「……え?」
母の目は据わっている。口元だけに微笑を浮かべながら、ゆらりゆらりと紅花に近付く。呆然としているうちに、血塗れの包丁の柄を持たされた。
「母ちゃん、母ちゃんがしたって思われたくない。閻魔王様の像に、〝私がしました〟って言って頂戴。でないと母ちゃん、地獄行き」
手元にある、ぬるりとした血の感覚で動けない。
「母ちゃんの代わりに、地獄に落ちてよ」
その瞬間、紅花の中でぷつりと何かが切れた。
「何で私が……子供が、親の殺人の責任取らなきゃいけないの! あんたが殺したんでしょ!」
紅花が怒鳴ったのは初めてのことだった。どれだけ殴っても大人しくしていた紅花の豹変に驚いたのか、一瞬狼狽えた母だったが、すぐに反論してくる。
「はあ!? 産んであげたんだからそれくらいやりなさいよ! どんだけ腹痛めたと思ってんの! こんなろくに食料もない土地で、その年まで生きてこられたのは誰のおかげ!? ほら! 言いなさい!」
母は、叫びながら何度も紅花の頬を叩く。
「親不孝者! 死ね! 死ね死ね死ね死ね死ね! 母ちゃんが地獄に落ちてもいいって言うの!? どれだけ苦しもうと知らん顔する気!? さっさと閻魔王様に謝れよ! 私は殺人を犯しましたって言え!!」
鼓膜を破られるような感覚になる、母の甲高い声が、ずっと苦手だった。
母が手を振り上げた時、防衛本能が働いた。
――また打たれる。
気付けば紅花は、手元にあった刃で母を貫いていた。
呆気なかった。母は紅花を最期まで睨み付けていたが、徐々にその目に色はなくなっていった。目の前に広がる血の海と、二つの死体。
ふと顔を上げると、鏡に血を浴びた自分の姿が映った。
その瞬間、酷い罪悪感に襲われた。自覚してしまった。一人の人間の命を自らの手で終わらせてしまったのだと。
紅花は部屋の中をふらふらと彷徨い歩いた。そして、祀られている閻魔王の像を見上げて、手に取った。閻魔王の像は神々しかった。
「私も一緒に、罰してくれますか」
紅花は、足から崩れ落ちた。閻魔王の像を抱いて啜り泣いた。
「貴方に会いに、地獄に行きます――」
そう言って、紅花は自死した。
(そうか)
溶けた銅を飲み込みながら、生前のことを思い出した紅花は納得する。
(私は生前から、閻魔王様が心の支えだったんだ。だからこんなに好きなんだ)
■
目を覚ますと、見慣れない天井があった。息を吸うと激痛が走る。喉が痛い。死んだ方がましだと思う程に痛い。
(嗚呼、懐かしい)
死んだ方がましだという感覚は、地獄で一兆年間味わってきたものだ。久しぶりの感覚に懐かしさを覚えていると、横から物音がした。
はっとしてそちらを向けば、愛しい王――帝哀がそこにいる。紅緋色の短髪と、深緋色に輝く瞳。火傷痕はもう治っている。裁判官としての格好でなく、部屋着のような軽い服の間から厚い胸板が見えてどきどきした。
「こ……げほっ、ここはどこですか……ごほっ、どうして貴方がここに……?」
「喋るな。冥界の者は怪我の治りが早いとはいえ、まだ万全ではないだろう」
体の火傷は治っている。帝哀が治癒能力を持つ鬼を呼んでくれたのだろう。
「ここは俺の養心殿の一室だ。お前を運んでもらった」
養心殿は帝哀の寝室のある宮殿である。
帝哀と密室に二人きり。火傷とは関係なく、身体が熱くなっていくのを感じる。
「俺の書記官には、桃の花園の庭師と名乗っていたな。お前は鬼殺しではなかったのか?」
「鬼殺しでもあり、最近庭師になりました」
即答した。嘘が嫌いな帝哀に、嘘を吐いたと思われたくなかった。
「何故、宋帝王の区域に所属しているお前が桃の花園の庭師に?」
「天愛皇后様に送っていただきました」
「天愛皇后が……。珍しい。お前は彼女に気に入られているのだな」
帝哀の大きな手が紅花の喉に触れる。
「この火傷痕もそのうち消えるだろう。しばらくは安静にしていろ」
こんなに近くに、生前から恋い焦がれていた人がいる。まだ動けないとでも言ってずっとここに居させてもらおうかとも思ったが、帝哀相手に嘘を吐かないと言った手前、そんなことはできない。
代わりに確認した。
「……あの、身代わりって有効なんですよね?」
「何故そんなことを聞く?」
「あの書記官たちが言っていたので……。それと、帝哀様は治る間もなく罰を受けているから、火傷痕が治らないのですよね? なら、今日のように代わりに私が罰を受けます」
「……自分が何を言っているのか分かっているのか? お前は罰が嫌じゃないのか」
「こう見えて地獄上がりですから。痛みや苦しみは慣れたものです」
帝哀はぽかんとした。彼はいつも険しい顔をしているため、それに比べたら間の抜けた、珍しい表情であるように思った。