「……そうか。であれば、我の死後はそなたにこの地位を譲る」

 地面に視線を落としたまま、長子皇后は言う。
 紅花は驚いた。彼女は本当に皇后の座に価値を感じていないらしい。そうでなければ、身分の低い鬼殺しの紅花に座を譲るなどとは言えないはずだ。

「本当にいいの?」
「ただ、我が遺言に遺したところで反対する者は多いだろう。特に我の家の者は……代々閻魔王の妃を育てている一族だ。王に娘を嫁入りさせて出世を図っているのさ。ぽっと出のそなたに皇后の座を渡すとは思えん。それこそ、閻魔王本人の特別な意思表示がない限り不可能だ」
「何だ、結局無理なんじゃない」

 つまらなくなった紅花は歩き出した。やはり正攻法――帝哀を恋に落とすことでしか、皇后にはなれなそうだ。

 それにしても、天愛皇后の命令の件はどうしたものか。当初の予定では、長子皇后かその元にいる侍女たちの誰かと友好的な関係を築いて祭事の準備について聞き出すつもりだった。しかし、これでは長子皇后との友好の道は絶たれたといえよう。本音を喋りすぎたと後悔した。

「そなたは、しばらくここにいるのだったな」
「ええ、まあ。帝哀様とも会いたいですし」
「であれば、明日の夜、また桃の庭に来い。用心棒が欲しい」
「長子皇后様なら、もっと優秀な護衛がいらっしゃるでしょう」
「そなたが良い」

 何故か指名されてしまった。無礼な態度を取ったにも拘わらず。
 不可解な点はもう一つある。狂鬼に襲われかけたのに、どうしてまだ夜に御花園へ行きたがるのだろう。普通は恐ろしくなって行くのを控えるところだ。

「……月はそんなに良いもの?」

 確かに美しいとは思うが、危険を犯してまで毎晩見に行く程ではないのではないか。疑問に感じて聞くと、長子皇后は薄く笑った。暗闇によく溶け込む、少し恐ろしい笑みだった。

「我も、一兆六千億年以上、恋をしておるからな」


 ■


(恋……)

 長子皇后の昨日の発言が気になって、翌日まで考え込んでしまった。

(………………月に?)

 天体に恋しているとは、変わった趣味だ。
 一瞬自分も帝哀が好きだと宣戦布告されているのかと焦ったが、昨日のあの言い方で帝哀が好きということはないだろう。どちらかと言えば、長子皇后は皇后であることに対して投げやりに見えた。

(彼女が生物でないものに恋をする趣味なら、帝哀様と両思いになることもない。その点は安心だけれど……)

 先輩庭師に伝えられた通り雑草を抜きながら考え込んでいると、不意に紅花以外の影がうつった。
 見上げると、そこには飛龍が立っている。

「げっ」
「……君さぁ、王を見てその反応はないんじゃない?」
「……失礼しました。お忙しいんじゃなかったの? どうして閻魔王様の区域にいるのよ」
「そりゃ忙しいけど、君が庭師として泥だらけで造園してるって聞いて、居ても立っても居られなくてさ。こんな愉快なことってある?」
「ちょっと愉快さが分からないわね。私と貴方の笑いどころって違うみたい」

 くっくっくっと笑う飛龍は、朝から動き回って汗だくの紅花とは違い、涼し気な顔をしている。何だか腹が立った。

「笑いものにしにきたなら帰ってくれる?」
「いや、本当は天愛に言われて来たんだよね。君が元気にやってるか見てこいだってさ。天愛は君のことを心配してたよ。他所の区域の者にいじめられてないかってね。ったく、君ばっかり天愛に気にかけられてて嫉妬するなあ」
「……貴方から寝取るのも悪くないかもね」
「あ?」

 冗談のつもりだったのだが、予想していた以上に低い声を返された。

「調子乗んなよ。天愛に手を出されるくらいならその前に俺が君の体を奪って服従させる。毎夜俺の下で力なく喘ぐ覚悟はある?」
「そんなに本気にしなくてもいいじゃない。私に女色の趣味はないわ。天愛皇后様にも手を出さないから安心して」

 呆れていると、向こうから先輩庭師がやってきた。

 人が来たことに気付いた飛龍はつまらなそうに去っていく。
 宋帝王が来ていると分かれば人々はその姿を一目見ようと集まり出すだろう。面倒事は避けたいらしい。
 軒車に乗り込む飛龍を眺めていると、先輩庭師が小声で聞いてきた。

「今のって宋帝王様だよな? 紅花ちゃん、王様と面識あるのか!?」

 その目はきらきらしている。王というのは後宮の憧れの存在だ。話を聞きたくてたまらないのだろう。
 紅花は仕方なく、作業をしながら自分の知っている宋帝王のあり方について長く話す羽目になった。


 庭師としての一日の仕事が終わる夕刻、久しぶりに水で身を清めていると、黒い鳥が紅花の頭上を通り過ぎた。冥府に広く生息する怪鳥で、普段は地獄の方で仕事をしている。落下する亡者を痛め付ける、火を吐く鳥だ。十六小地獄でよく見た。
 体を拭き荷物を持って長子皇后の宮殿の方へ向かっていると、途中、門の傍で誰かが倒れているのを見かけた。目を細めればすぐに分かった。――閻魔王、帝哀だ。
 日々忙しいはずの彼の姿を拝める機会はそうない。走って近付こうとした時、両脇にいる書記官の声が聞こえた。

「困ります、帝哀様」
「本日の罰は終了しておりません。立ってください」

 近付くごとに、帝哀の姿がはっきり見えてくる。
 帝哀の体は服から焼け爛れていた。骨まで見えている。おそらく罰を受けた直後なのだろう。帝哀のそんな火傷だらけの酷い姿を見ても、二人の書記官は淡々としている。

「この後も裁判がございます。罰などはさっさと終わらせねば。早く動いてください」

 帝哀の片足はなくなっている。あれを治す前に、更に罰を受けさせようというのか。紅花の目には書記官が本物の鬼に映った。
 走っていき、一本の足で立ち上がろうとする帝哀の前に立ちはだかった。
 突然の邪魔に驚いたのか、書記官たちが目を見開く。

「誰ですか、貴女は」
「桃の花園の庭師、紅花」
「王の前に許可なく立つなど、無礼極まりない」
「貴方たちが帝哀様をいじめているからよ! こんな状態のこの人をどこに連れて行く気!?」
「いじめている? これは冥府の決まりです」
「だからって、少しも休ませないわけ!?」

 閻魔王は、人を裁いて地獄に落とした罰を受ける。紅花はそんな帝哀の、人を罰した責任を取るところに惚れ込んだ。しかし、実際に帝哀のこんな姿を見ると、あまりの惨さを感じ、止めたくなってしまう。

「閻魔王様はお忙しいのです。休んでいる暇などありません。我々の時間を奪うのなら、貴女にも罰を与えますよ」
「――構わない」
「……はい?」
「罰を受けても構わないと言っているの。帝哀様の代わりに、私が銅を飲んでやるわ。その後は、熱した鉄板にでも押し付けなさい。私は何でも受け入れる」

 閻魔王は、死者を裁いた責任としてどろどろに溶けた銅を飲む。紅花はその罰をかわりに背負うと申し出たのだ。
 書記官二人は目を見合わせ、ふむと頷く。

「身代わりですか」
「確かに、身代わりがあればいいという決まりもありましたね」

 書記官は頷き、「この者を連れていきなさい」と周囲の鬼に命令した。すると、鬼たちは紅花の両腕を掴み、恐ろしい速さで移動する。そんなにがっしり掴まなくても逃げないのに、と紅花は溜め息を吐いた。
 後ろから「待て!」と帝哀の怒鳴る声が聞こえたが、その声は火傷のためか掠れていた。