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 紅花が一人前の庭師となるまで、そう時間はかからなかった。最後の方は意地だった。庭師に認められるよう、夜も寝ずに御花園の手入れをした。花たちには『必死ネ』『くすくす』とからかわれた。
 庭師からこれなら送ってもいいと許可が出ると、天愛皇后はすぐに紅花を閻魔王の区域に送り出した。天愛皇后から送られた庭師だと伝えると、鬼の形相をした門番も素直に門を開けてくれた。

 真っ先に向かったのはあの桃源郷のような、桃の花が咲き誇る御花園だ。紅花は一応、天愛皇后から長子皇后に送られた庭師ということになっている。失礼のないよう、他の庭師に早めに挨拶しなければならなかった。
 長子皇后に雇われている庭師はほとんどが年配の見た目をしていて、紅花よりかなり年上だった。最近は足腰が痛いらしく、高い木の上まで登れる紅花は重宝された。

「おお、そこだ、そこ切っておくれ」

 先輩庭師たちの指示通りに余計な枝を切る。
 広い御花園の手入れをするのは大変で、数時間が経つ頃には汗だくになっていた。油条の入った粢飯《ツーファン》という軽食をもらって休憩していると、ふとまた桃の花の声が聞こえた。

『アナタ 聞こえてるでショ』
「…………」

 周りに先輩庭師たちがいなければ返事をするのだが、ここで返せば独り言の激しい変人だと思われてしまう。初日からそれは避けたいと思い、視線だけをちらりと花の方に向けた。

『主ヲ 助けて』

(……助ける、ねえ)

 人間の肩を持つ花と出会ったのは初めてだ。この桃の花々は長子皇后に余程大切にされているのだろう。

『主は 月の出る頃に必ずここニ来る』

 風が吹き、桃色と白色の花々が揺れた。

『主ニ会って 話シテ 助ケテ』

「――紅花ちゃん、どうした? 仕事再開するぞ」

 先輩庭師に呼びかけられ、はっとして立ち上がる。
 休憩の時間は終わった。桃の花のことが気になったが、先輩庭師に付いて他の箇所へ向かう。

(月の出る頃にここへ来れば、長子皇后に会える……)

 紅花はしばらく、閻魔王の区域の宮廷庭師と共に寝泊まりすることになっている。うまく寝床から抜け出せるだろうかと少し不安に思った。


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 あっという間に一日が終わり、夜になった。
 大きないびきが響き渡っている。先輩庭師たちは爆睡していた。体を動かして疲れているのだろう。心配は無用だったようだ。
 紅花も疲れているが、いびきのうるささで眠気も吹き飛んだ。おかげで、起き上がってこっそりと寝床を抜け出すことができた。
 月が出ている。以前見たものとは違って少し欠けている。満ち欠けまでうまく再現しているらしい。さすが冥府の王だと感心しながら桃の花の咲く御花園に向かった。

 花たちが言っていた通り、月明かりの中、一人ぽつんと立っている女性がいた。長い黒髪をたなびかせ、今日も月を見上げている。この角度から見えるのは後ろ姿だけだ。また泣いているのだろうか、とその様子を物陰から窺っていた時、ふと何か蠢くものが長子皇后に近付いているのに気付いた。
 ――狂鬼だ。狂鬼はゆらゆらと不自然に体を動かしながら長子皇后の元へ向かっていく。当の長子皇后は、月をぼんやり眺めるばかりで全く動かない。

(警戒心がなさすぎるんじゃないの!?)

 仮にも皇后という立場にいるお方が、護衛も付けずに一人でこんな場所にいては危ない。ただでさえ冥府の後宮には狂鬼や幽鬼が現れるというのに――。
 ごちゃごちゃ考える暇もなく、紅花は慌てて走り出した。
 幸い、護身用に桃氏剣は持っている。魑魅斬にしつこく持っていけと言われたからだ。王に接触するつもりなら幽鬼が襲ってくる可能性も大いにあるだろうと。
 閻魔王の区域には閻魔王の区域の優秀な鬼殺しがいるだろうからどうせ使わないと思っていた。しかし、その予想は外れたようだ。

「――――伏せて!」

 長子皇后に向かって叫ぶ。
 振り返った長子皇后は、驚いたように目を見開き、反射的に紅花の命令通りに姿勢を低くする。

 長子皇后が伏せたのと、紅花が長子皇后に迫っていた狂鬼の肉体を桃氏剣で刺したのは、ほぼ同時だった。

『ヴ……アアアアああ』

 狂鬼が呻きながらその場に横たわる。桃氏剣を鬼の体から抜くと、紫色の血がどくどくと溢れ出た。
 紅花は剣を振ってその血をぴっと払い、蹲っている長子皇后に声をかける。

「この桃氏剣は、特別な素材でできています。この狂鬼は直に死ぬでしょう。鬼は死ぬと独特の異臭を放ちます。早くこの場を離れた方が良いかと」

 身分の高い温室育ちには辛い臭いだろう。さっさと立ち去った方が良い。

「……そなたは誰だ」

 長子皇后が口を開く。意外と男らしい口調だ。声も女性にしては低い。

「本日宋帝王様の区域より配属された、庭師でございます」
「そなたが?……あの女が突然贈り物と言うから何のつもりかと思ったが……ただの庭師ではないな?」
「ただの庭師ですが……」
「ただの庭師が、鬼を躊躇いもなく殺せるか。普通は怯んで動けぬものだ」
「ああ……それは、鬼殺しでもあるからです」
「鬼殺し?」
「元々鬼殺しをしていて、その……移動させられたといいますか」

 長子皇后はしばらく疑わしげに紅花を見つめていたが、「まあ良い」と視線を外した。

「助けてくれたこと、感謝する」

 礼を言えるのか、と驚いた。身分の高い者は身分の低い者に滅多に礼を言わない。高貴な者のために進んで動くのは、礼を言う必要もない、当然のことであるためだ。

(天愛皇后様も、長子皇后様も……変わっている)

 彼女たちは皇后であるにも拘わらず紅花のような鬼殺しを丁寧に扱う。不思議なものだ。
 そこで、紅花ははっとした。鬼の死体を回収するための箱まではここに持ち込んでいない。

「一緒にここを離れましょう、長子皇后様。今の私にはこれを処理できません。朝になればこの区域の鬼殺しが気付いて片付けてくださるはずです」
「あ、ああ……。そこまで酷い臭いなのか? 鬼の死体というのは」
「私の姉貴分は嗅いですぐ体調を崩しました。良くない臭いです」

 そう言うと、長子皇后は躊躇いながらもようやく御花園の外に付いてきた。遠回りになるが、御花園の反対側からでも宮殿には向かえる。危険なので送り届けると紅花は伝えた。
 歩いている最中、気になっていたことを問いかけてみる。

「何故月を見ていたのですか?」
「言わぬ」
「この前も見ていましたよね?」
「……そなたは何だ? ずけずけと。我の行動に口を出すな」
「貴女は皇后ですよ。深夜に一人であのようなところにいては、今日のように危険な目に遭いかねません」

 そう言ったところで、何故自分は恋敵の心配をしているのだろうと思った。長子皇后がいなくなれば皇后の座は空くだろう。そこに入り込めれば万々歳だ。しかし、そんな形で帝哀を奪うのは何か違う気がする。奪うのであれば正々堂々勝ち取りたい。

「……死んでしまっても構わないのだ、我は」

 紅花の思考を遮るように、長子皇后がぽつりと呟いた。

「……今、何と?」
「いつ死んでも構わぬ。我の生きる意味など、とうの昔に無くなった」
「はあーーーーーーー?」

 思わず、大きな声で聞き返してしまった。

「はあ? はあ? はあああああ? さすがにその物言いは、腹立つんですけど?」
「なっ……何だ急に」
「ご自分のお立場、理解してるわけ? 皇后よ? それも、帝哀様の区域の!」
「だから何だ」
「帝哀様の正妻ともあろうお方が、〝死んでも構わない〟? 世界一贅沢なお立場にありながら、よくもそんなことが言えるわね!」

 苛立ちが収まらず、長子皇后の進行方向に立ち塞がり、向かい合う。

「私は、帝哀様に一兆六千億年以上片思いしている元獄吏よ」
「…………」
「ついでに言うと、帝哀様を貴女から奪いたいと思っているわ。貴女がそんな態度なら、私が本気で殺すわよ。護衛がいない貴女に手を下すなんて簡単だもの」

 唖然。長子皇后は、その言葉がぴったりの顔をしている。

「……言葉の意味を、理解しているのか?」
「ええ。私は本気」
「……元獄吏ということは、帝哀には地獄に落とされたのだろう? 何故その帝哀を好きになった?」
「帝哀様は、私を地獄に落とした責任を取ってくれたからよ」

 その言葉を聞いて、長子皇后がはっとしたように黙り込んだ。その瞳は揺れていて、何故だか分からないが酷く動揺しているように見える。