「長子皇后ね、それは」

 ゆったりとした美しい衣装を身に纏い優雅に腰かけているのは天愛皇后だ。薄桃色の髪と金色の瞳は今日も美しく輝いている。その横では、何人もの侍女たちが曼珠沙華柄の団扇で天愛皇后に風を送っていた。
 後から聞いた話だが、あれ以降侍女たちの天愛皇后への態度は大きく変わったらしい。罪を犯した自分たちを許してくれた人だ。通常であればその広い心に尊敬の念を抱くだろう。
 紅花も、見せしめとして殺されかけた掃除鬼のことを思うと天愛皇后を簡単に尊敬することはできないにせよ、思慮深い人であることは確かだと彼女を評価している。

「長子皇后……ですか。あの方が」
「ええ。長い黒髪をそのまま下ろしているなら長子皇后よ。他の者は基本的に髪を結っているもの。それに、桃の木が多く植えられているのは長子皇后の宮殿の隣の御花園だしね」

 帝哀の正妻ということで、獄吏をしていた頃から流れてくる噂にはよく耳を傾けていた。帝哀とは幼い頃からの仲であることや、後宮にいる女性の中でも特に身分が高く、最高位の教育を受けていることなどは知っている。しかし、実際にその姿を目にしたのは初めてだった。

「どうだった?」

 天愛皇后が愉しげに聞いてくる。
 紅花は昨日見た長子皇后のことを思い浮かべる。

「悔しいですが……品格がありました」

 紅花も容姿には自信があるが、あれとは別種だ。
 知性と教養を感じさせるような静かな美。黙っていても皇后の風格が滲み出ていた。冥府の王の隣に立つ者はあのような女性でなければならないのだろう。

「諦める?」
「まさか」

 天愛皇后の問いに即答する。
 恋敵が強いからと言って諦めるくらいなら、一兆年を超える地獄の日々のどこかで既に諦めている。分の悪さで身を引く程聞き分けが良くなったつもりはない。
 すると、天愛皇后は満足げに笑った。

「貴女ならそう言うと思ったわ。ただ……しばらく飛龍は多忙なのよね。貴女をどうやって閻魔王様の区域に送り込もうかしら」

 さすがに、日々裁判で忙しい宋帝王ともあろうお方を頻繁に他区域に連れ出すわけにはいかないようだ。
 天愛皇后はしばらく考えるような素振りを見せた後、ふと何か思い付いた顔をした。

「そうだ、貴女は花の木の手入れをするためにわたくしが送り込んだ庭師ということにいたしましょう」
「にわし……」
「花の声が聞こえるのでしょう? 適任じゃありませんこと?」
「声が聞こえるというだけで、造園を学んだことはありません」
「これから学べばいいじゃない。……貴女、教えるのがうまそうな庭師を呼んできてくださる?」
「かしこまりました、天愛皇后様」

 天愛皇后がちらりと侍女に目をやると、侍女はうっとりとしながらすぐに立ち上がり去っていく。態度が以前と違うにも程があるのではないかと思った。もしかすると、あの侍女は既に天愛皇后のお手つきやも……。

「閻魔王様の区域の人々は、特に植物を愛でる傾向があるの」
「ああ……」

 確かに、宋帝王の区域よりも木々や花が多いと感じた。

「この区域では庭師というのはあまり重要視されていないけれど、閻魔王様の区域では違う。庭師は立派な職業として扱われていて、その腕を競い合っているわ。帝哀様はまだ子を授かっていないでしょう。その分妃たちの間の争いも激しくて、いかに宮殿の傍の御花園を美しくするかに力を入れているの。優秀な庭師は外の区域からの者でも喉から手が出る程欲しいはずよ」

 成る程、通ってくれない王をその気にさせるために、宮殿の外だけでも美しく保っていたいということか。子作りに無関心な帝哀も、美しい植物の前では立ち止まるかもしれないから。
 どの妃も必死なのだ。妃となったからには閻魔王の跡取り候補を産むのが役目だと周りからも散々言われているだろう。その閻魔王本人が誰の宮殿にも足を運ばない状態――焦ってしまう気持ちも分かる。

「うちの区域の御花園を造った庭師を付けるから、色々学びなさい。わたくしの名前で送らせていただくのだから、わたくしに恥をかかせないくらい、立派な技術を身につけるのよ?」

 鬼殺しとして働く際の情報収集で利用した御花園を思い出す。仕事の合間の休憩にも使っていた、居心地の良い場所だ。どうやらあの場所を造った庭師に直接話を聞けるらしい。

(しかし、なかなか鬼畜ね……)

 造園などしたことのない紅花に、短期間で一人前になれと言っているのだ。あまり自信はない。けれど、これが閻魔王の区域に入るための近道だとするならば、どんな努力でもやってみせよう。

「光栄に存じます」

 紅花は天愛皇后の目を見て、はっきりとお礼を言った。


 ■


 その日から、庭師との特別な勉強会が行われることになった。
 風の吹き抜けるあまりしっかりしていない勉強小屋で、基本的な知識やいかに形作るのが美とされているのかなどを学んだ。
 紅花は冥府の字が読めないため、書物は通さず言葉で教えてもらった。

「嬢ちゃん、何してんだ?」

 昼過ぎ、ちょうど近くで幽鬼を殺していたらしい魑魅斬が訝しげな顔で窓から覗き込んできた。鬼殺しとしての仕事をしばらく休んでいる紅花は久々に鬼の死体の臭いを嗅ぎ、やはり臭いなと思った。庭師がうっと鼻を摘んで魑魅斬から距離を取る。

「おー、悪い悪い。今日はそんなに匂わねえと思ったんだけどな」
「魑魅斬の嗅覚が馬鹿になってるだけでしょ……」
「言うなあ、嬢ちゃん」

 ぎゃはは、と魑魅斬が大声で笑った。

「折角休みをやってるのに何してんだよ。閻魔王の区域に行かなくていいのか?」
「閻魔王の区域に向かうために勉強してるのよ」
「はあ?」

 意味が分からん、という顔をされたため、仕方なく経緯を説明する。すると魑魅斬はぶはっとまた噴き出した。

「なるほどなぁ、嬢ちゃんも苦労してんだなぁ」
「折角の機会だもの、逃がすわけにはいかない」
「勉強熱心なのはいいが、晩飯には遅れんなよ」

 鬼殺しの仕事を休んでいる間も、寝泊まりしているのは冷宮だ。魑魅斬は毎日紅花の分まで夕食を作ってくれている。時間が惜しい今、凄く助かっていた。

「……いつもありがとう」
「おうよ。にしても、玉風嬢ちゃんは元気なのかねえ」
「何よ、最初は玉風姉様を殺そうとしていたくせに」
「俺は後宮の人間にしては情に厚いからな。少し世話すりゃ情が移っちまうのさ」

 魑魅斬は何だかんだ面倒見が良い。玉風は紅花にとって姉のような存在だが、魑魅斬も兄のような存在になりつつある。

「玉風姉様は料理人として働かせてもらっているわ。色々落ち着いたら様子を見に行きたいわね」
「だよなあ。また一緒にお邪魔しようぜ」

 天愛皇后の料理を作る人々が、紅花たちのような鬼殺しを料理場に入れてくれるとは思えない。どうにか天愛皇后に頼み込んでみようと思った。

「んじゃ、俺は仕事に戻るわ」

 鬼の死体の入った箱を持ち、立ち去っていく魑魅斬。魑魅斬と距離が開いたことで、気持ち悪そうな顔をしていた庭師がようやく立ち上がった。勉強の再開だ。