しん、と室内が静まり返る。

「……お前の区域では鬼殺しにどういう教育をしてるんだ?」

 一拍遅れて、帝哀が怪訝そうに飛龍に問うた。
 王の発言に反論するなど常識では考えられないことだからだろう。

 あははっと飛龍が笑った。

「面白いっしょ、この子」
「面白い? 他の王の前でこの態度を取らせてみろ、即刻斬首されるぞ」
「心配してあげてるの? 優しいねえ、帝哀」

 眉を寄せる帝哀。帝哀の表情の変化の一つ一つが、紅花にとって素晴らしいものだ。思わずそのご尊顔を凝視していると、ばちりと目が合う。

「……何をしている。さっさと座れ」

 帝哀は無表情で言い放った。同じ卓を囲む許可が出たのだ。

「は、はいっ」

 焦って近付くが、焦りすぎたのか段差に躓いて転けてしまった。ぶっと飛龍がまた噴き出す。
 恥ずかしくて耳まで熱くなるのを感じた。勢いよく立ち上がり、何事もなかったかのように着席した紅花に、隣の帝哀が言う。

「慌ただしい娘だな」
「勿体ないお言葉でございます……」
「別に褒めてはいない」

 帝哀は小さな茶器を手に取り、話を先程のものに戻す。

「飛龍。先程の件について答えておくが、俺は後継者を作るつもりはない」
「はぁ~? それ、本気で言ってる? 何で?」
「閻魔王という役目を他の誰かに任せようとは思えないからだ」

 今度は飛龍が怪訝そうな顔をした。

「そんな我が儘はいつまでも通らないよ、帝哀。冥府が滞りなく機能するには、十王という舞台装置が必要だ。君にだっていつか老いは来る。その時閻魔王の後継者がいなければ困るだろ?」
「少なくとも今は必要がない」
「ったく、長子皇后との子作りの何がそんなに不満なの? 君んとこは子供の頃からの仲なんでしょう?」

 飛龍があまりに帝哀の夫婦関係についてずけずけと踏み込んでいくためぎょっとした。

 帝哀の正妻・長子は元々身分が高い女性で、子供の頃から閻魔王の次期妻としての教育を受けていたと聞いたことがある。それは古くから決められた婚姻だったそうだ。
 帝哀が皇太子に冊立されると、予定通り長子は皇太子妃となり、その後帝哀が即位すると同時に皇后に冊立された。天愛皇后の場合とは違い、周囲の誰も文句を言えない、祝福された結婚だったらしい。

(……気に入らない)

 帝哀のことが好きな紅花にとっては嫉妬してしまう話だ。

「あいつとはもう数千年程会っていない」

 しかし、帝哀の発言によって腹立たしさが収まった。

「しきたりに基づき、勝手に事が進んだだけの話だ。あいつも俺に通われなくてほっとしているだろう」

 どうやら帝哀と長子皇后の夫婦関係は冷え切っているらしい。冥府全体としてはよろしくないことだが、紅花は内心喜ばしく思った。すかさず質問を投げかける。

「では、帝哀様はどのような女性が好みなのですか? 長子皇后様のような身分が高くて完璧な女性でも駄目と言うなら、一体どのような方であれば帝哀様のお眼鏡に叶うのかと興味があります」

 貴方の好みが知りたいです、という目でじっと見つめた。
 帝哀は茶を一口飲んだ後、吐き捨てるように言う。

「嘘を吐かない女だ」
「……長子皇后様は嘘つきなのですか?」
「嘘を吐かぬ女など滅多に存在しない。後宮の女は狡猾だ。騙し合い、貶し合い、自己の利のためであれば手段を選ばない」

 横から飛龍が会話に入ってくる。

「え~それがいいんでしょ。狡い女好きだよ? 俺は。俺のこと、醜く奪い合ってくれると最高の気分になる」
「お前と一緒にするな」

 そこからしばらく、飛龍と帝哀の会話が続いた。
 紅花は先程の帝哀の発言について深く考え込んでしまい、その後の二人の会話の内容はあまり頭に入ってこなかった。


 ■


 帝哀は鬼も人も信用しておらず、宮殿には一人の使用人も置いていないらしい。そのため、三人の中で最も身分の低い紅花が茶器を片付け、掃除も行った。
 あっという間の時間だった。帝哀の、声も仕草も表情の僅かな変化も好きだ。できることならもっと堪能していたかったが、帝哀にはこの後裁判があるらしいので無理に滞在し続けるわけにもいかなかった。

 去り際、帝哀を振り返って言う。

「帝哀様、好きです」

 帝哀は眉を潜めた。

「以前も聞いた。同じことを何度も言う必要はない」
「…………覚えていてくださったのですか? 私のこと」
「道案内をしてくれただろう」

 ――そんな、些細なことで。
 帝哀の記憶の一部に自分がいることが、涙が出そうになる程嬉しい。あの時あの御花園にいたのが自分で良かったと運に感謝した。

「そういうところも大好きです」
「時間がない。余計なことを言うのであれば早く出ていけ」
「私は嘘を吐きません。帝哀様への気持ちが本当であると、必ず証明してみせます!」

 意気込みを語るが無視された。
 あまりしつこくしすぎても嫌われる。今日のところはこの辺で立ち去ろう……と踵を返し、待ってくれていた飛龍の元へ走った。

 何とか追いついて飛龍の隣に並ぶが、飛龍は紅花のことを見ずに無言で歩き始めた。

(……何か、機嫌悪い?)

 軒車までの道、一度も口を開かない飛龍を見上げる。
 飛龍はわざとらしく大きめな声で言った。

「君を連れてくるの、もうやめよっかな~」
「はぁ!?」

 ぎょっとして次の言葉を待つ。

「だぁってぇ~、君帝哀がいると一度も俺のこと見ないんだもん」
「……そんなこと?」
「そんなことじゃないよ。俺、王だし。そんな態度取られたの初めてだから気に食わないなぁ」
「……それは、失礼しました」

 下手なことを言って本当に連れてきてもらえなくなったらまずいと思い、大人しく謝罪した。
 飛龍はむっとしながら紅花の両頬を摘んで引っ張ってきた。

「い、いひゃい」
「君のその無礼な態度は一生変わらなそうだからもういいよ」
「謝ったのに……」

 ふんっと鼻を鳴らして軒車に乗り込んでいく飛龍。さすがにそろそろ少しは敬意を示した方がいいのかもしれない。彼がいなければ帝哀には会えなかったという恩もある。今度何か贈り物をしよう。
 軒車に乗り込むと、どこからともなく送迎を仕事とする鬼が現れ、車を持ち上げた。閻魔王の区域内は飛行が禁止されているため、門までゆっくりと歩いて移動している。

『ネェ』

 門まであと少しと言うところで、何かの声が聞こえた。
 その声につられて帳の隙間から外を覗くと、――時が止まったかのような静かな絶景が広がっていた。
 まるで桃源郷だ。清らかな川が流れ、水面を金色に輝く魚が泳いでいる。一面、桃の花が優雅に咲き誇っており、花の香りが紅花の元まで漂ってきた。

『聞こえて ル?』

 花の声だ。

『わたしたちの主ガ悲しんでいる』

 主? と不思議に思い、目を動かして他に人がいないか確認した。
 咲き誇る桃の木の下、身分の高い妃のみが手にできる桃色の傘を持った女性が一人、立っていた。闇に溶け込む程真っ黒な長い髪と、対照的な白い肌、不健康な程に細い手足が見える。

『助けてあげて』

 軒車の移動速度が上がり、桃源郷が遠退いていく。
 桃の花が主と呼んだ彼女は――月を見上げて泣いていた。