――……地獄に落ちたその時、その世界の王に懸想していたのは私くらいのものだろう。




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 どこまでも続く暗黒の深淵。亡者の魂が集まる冥府――地獄とも呼ばれるこの地では、今日も二百種類もの逃れられない牢獄の中で、人々の悲鳴が響き渡っている。
 罰を与えているのは鬼だ。赤や青、恐ろしい形相や人知を超える怪力をもってして人畜に危害を加える異形の化け物。
 そんな鬼たちの横を通り過ぎ、こそこそ抜け出そうとする紅花(ホンファ)の首根っこを掴んで引き戻したのは、紅花の姉貴分とも言える玉風(ユーフォン)だった。

「紅花! あんた、昨日も死者の魂を責めにいかなかったんですってね。今日という今日は逃さないわよ」

 玉風は鬼も顔負けな恐ろしい形相で紅花に詰め寄った。

 冥府には獄吏(ごくり)と呼ばれる、生前悪い行いをした亡者を様々な形で責め立てる役人がいる。獄吏に就く者は本物の鬼が殆どだ。しかし、中には元々人間で、何千万年もの間呵責を与えられた後、罰を卒業し獄吏として働く許可を得られた者たちもいる。紅花もその一人である。
 異形の鬼たちに混ざり、赤や青の鬼の面を被って厳しい罰を与えている者は皆、元人間。元人間とはいえ獄吏になれば数々の道具や業火を自在に操ることができ、今日も来たばかりの〝後輩たち〟に痛みや苦しみを与えているのだ。

(元は同じ人間で、同じ目に遭ってきたのに、おかしな話ね)

 紅花は獄吏になる適性があって選ばれたわけではない。卒業した後、まだ地獄にいたいと必死に泣きついてこの役職を得た。

「私、人が苦しむ顔を見ていられないの」
「はぁ~~~!? あんた、あの顔の良さが分からないっての!? 少しだけ希望を与えてやって奪った時の反応がたまらないんじゃない」

 玉風は精神的な苦痛を与えるのが好きだ。玉風だけではない。紅花の周りの元人間の獄吏たちは、激しい痛みを乗り越えてどこか狂ってしまったのか、人を苦しめることを何よりの生きがいとしている。

(……私はああはなりたくないわ)

 口に出さないが、紅花は彼女たちのことを鬼よりも恐ろしいのではと冷めた目で見ていた。

 その時、遠くからゆっくりと軒車がやってきた。幌の被さった赤い色の派手な軒車は、閻魔王しか乗ることができないものだ。
 周囲の獄卒たちがかしこまって身を低くしている中、紅花だけが軒車見上げていた。幌で隠れていて今日も顔は見えない。彼の顔を見たのは冥府に来て一度きりだ。
 隣の玉風が慌てた様子で紅花の後頭部を掴み、頭を低くさせる。

 軒車の行き先は、獄吏たちが決して立ち入ることのできない後宮だ。閻魔王が近付くと大きく威厳のある立派な門が開き、軒車を招き入れる。
 紅花は閉まりゆく門を横目に見ながら、ちっと舌打ちをした。今日もろくに帝哀の顔を拝めなかった。それが悔しい。

 玉風が手を離してくれたので、姿勢を戻して後宮の高い壁を睨み付ける。

(あの中に入れたら、もっとあの人を見られるかもしれないのに)

 後宮内には十王たちそれぞれの私室があり、その東西南北に皇后や皇貴妃たちの棲む宮殿があるらしい。中はさぞ華やかなのだとか。
 紅花の様子を見て、玉風が溜め息を吐いた。

「紅花は変わってるわよねえ。あんな恐ろしい男のことが好きだなんて」

 第百五十代閻魔王、帝哀(ティーアイ)。生きていた頃の記憶などもうない紅花が、唯一覚えている最古の記憶の中には彼がいる。
 地獄に落ちた人間は順次、秦広王、初江王、宋帝王、五官王、閻魔王、変成王、泰山王の元で審理を受け、その七回で終わらない場合は平等王、都市王、五道転輪王とも会うことになる。彼らは十王と呼ばれる裁判官のようなもので、各王の庁舎では日々多くの人間が生前の罪を裁かれている。

 紅花も、死して三十五日目、初めて閻魔王の帝哀に会った。
 誰よりも美しいと聞いていた彼の顔は焼け爛れていた。曰く、彼は人を地獄に落とした分、その報いを受けているらしい。人に苦しみを与え、その責任として自身も苦しめている。閻魔王としての責任の重さと覚悟を感じた紅花は、何故かぽろぽろと泣いてしまった。彼を好きだと思ったからだ。

 一兆六千億年間、彼にまた会いたいという気持ちで地獄をやり過ごしていた。

 冥府を代表する紅の花々が咲き誇り、風も空もない冥府。

(あなたが欲しい)

 閻魔王への恋心。ただそれだけが、紅花の魂をこの場所に留めているのだ。