「小珠様。今日は僕と一緒に出かけませんか」
――避け続けていた空狐から突然そう誘われたのは、屋敷での生活にも慣れてきたある日の朝だった。
襖を開けた途端、まるで待ち伏せしていたかのように部屋の前に立っていた空狐を見つめ返す。小珠に避けられていることにさすがに気付いたのかもしれない。これからずっと同じ屋敷で生活を共にするというのに、避けられているままでは良くないと考えたのだろう。小珠は一族の長の花嫁なのだから、この辺りで仲良くしておかねばという焦りもあるのかもしれない。
しかし、小珠はまだ空狐への気持ちに終止符を打てていない。やはりまだ気まずいのでどうにか言い訳を作って断った。
「……私、いつも野狐さんたちの手伝いをしたり市へ行ったりしていて、一日忙しいのでそのような暇は……」
「一日くらい良いでしょう。野狐たちにも伝えてあります」
――先回りして逃げ道を塞がれている。空狐の有無を言わさぬ笑顔が怖かった。
◆
雨上がりの空が広がっている。
空狐に連れられて牛車に乗り、いつも行っている市とは反対の町の北側へ向かった。
小珠は気狐たちに着付けてもらって立派な金色の着物を身に纏い、髪も結い上げてもらった。きつね町では北の方面に富裕層が集まるらしく、それなりの格好をしていなければ目立ってしまうらしい。最後に、素性が分からなくなる狐のお面も装着させられた。これから行く場所では皆お面を付けるのが一般的だという。
牛車の中では、互いに無言だった。
大きく立派な橋の前で牛車が止まる。橋を渡った先に大門があり、何本もの柳の木が生えていた。
牛車から降り、空狐と共に大門を潜る。朝は小雨が降っていたため石畳の道が濡れている。行き交う妖怪たちの足音が優しく響いていた。
ここは、〝お面破りの通り〟というらしい。
市の賑やかさとは違う上品な雰囲気がある。どの妖怪たちも豪華に着飾っている。皆様々なお面を被っていて素性は見えない。ここでは正体を隠して遊ぶのが一般的なのだろう。
道の両側には木造の怪しい店が連なっている。
提灯が吊るされた広い軒先には、振り袖を着た美しい女性たちが立っていた。その店の女性たちのみ、他とは違って顔を隠していない。彼女たちの微笑みや仕草は大人っぽく妖艶だった。
「あまり僕から離れないでくださいね。ここは遊興の場としても有名な通りです」
「……はい」
空狐に指示され、少しだけ距離を詰めてみた。触れるか触れないかくらいの距離にどきどきと胸が高鳴る。邪念を払うようにぎゅっと目を瞑った。
街角では簡単な興行や芸の披露も行われており、笑い声や拍手が聞こえてくる。
小珠たちが歩いている途中、店先に立っている美しい女性たちが空狐を呼び止めた。客寄せの芸者だろう。
「空狐様、お久しゅうございます」
お面を被っているというのに、彼女たちには空狐が空狐であることが分かったらしい。その言葉で他の芸者たちも空狐の存在に気付いたようで、わらわらと集まってきて空狐を取り囲む。
「嗚呼、空狐様ではないですか。今日はお一人ですか?」
「天狐様はいらっしゃらないのですね。ゆっくりお楽しみになりませんか?」
「ああん、空狐様。わたくしお待ちしておりましたよ。貴方のことを夢に見ない日はございませんでした。文も送りましたのに、返してくださらないのですから……」
彼女たちはまるで小珠のことが見えていないかのように押しのけてくる。
芸者たちの細く長い指先が無遠慮に空狐に触れるのを見て、ちくりと小珠の胸に小さな痛みのようなものが生じた。
前に立つ芸者たちが底の厚い履物を履いているため、背の低い小珠からは空狐が見えなくなってしまった。
どうやら空狐と彼女たちは既知の間柄らしい。自分は邪魔だろう、と感じた小珠は少し離れて道の端に寄り、空狐たちの話が終わるのを待つことにした。
しかし、空狐は思いの外すぐに芸者たちを押し退けるようにして小珠の方にやってきて、軽く腕を引っ張ってくる。
「離れないでください、と言ったでしょう」
小さな声で「すみません」と言った小珠に、お面の向こうの空狐が少し微笑んだような気がした。芸者たちは空狐の冷たい態度に怯んだようで、そそくさと店の入り口へと戻っていく。
空狐に連れられるまま、小珠もまた歩き始めた。
「空狐さんって女性に人気なんですね……」
この美貌なら当然か、と納得する小珠の横で、空狐は存外冷たい声で言った。
「花街の女性は金銭や権力に弱いですからね」
「……空狐さんも行ったことがあるんですか? ああいうお店」
「付き合いで何度か。天狐様が若かった頃は特に、彼女たちの伎芸《ぎげい》を見ながら酒を飲んでいました。天狐様は酒が好きでしたから」
空狐は昔からあのような綺麗な美女たちを見てきたのだ。自分では太刀打ちしようもない、と思った時、また良からぬ思考になってしまっていることに気付いて慌ててその考えを掻き消した。
歩いているうちに甘味処に辿り着いた。
扉を開けると、ふんわりとした竹の香りが小珠たちを迎える。床には色とりどりの畳が敷かれ、衝立で仕切られた空間の中央にちゃぶ台が置かれている。
衝立で周囲から隠されているため、ここでは面を外してもいいらしい。小珠は面を横に置いた。
壁には絵や書が掛けられている。四季折々の花々、詩のような句が描かれた絵だ。ちゃぶ台の中央には、季節の果物や和菓子が美しく盛り付けられている。
「これって食べられるのでしょうか」
「それはただの飾りですよ。食べられません」
ふ、とおかしそうに笑う空狐の笑顔を見ると、心臓がきゅうっと締め付けられるような心地がした。
小珠はその笑顔から目をそらし、ずっと気になっていたことを改めて聞いてみる。
「今日はどうして急にこのような場所に連れてきてくださったのですか?」
「僕は普段忙しく、折角屋敷に来て頂いたにも関わらず小珠様のために何かできる機会が少なすぎるような気がしたのです。小珠様の普段の様子を聞いてみれば、常に働いていると言いますし……息抜きにこういった処はどうかと」
「そんな……私はもう十分良くして頂いています。天狐様も定期的にお医者さんを呼んでおばあちゃんに会わせてくださっていますし。でも、お気遣いありがとうございます。このような処に来るのは初めてなので嬉しいです」
ちゃぶ台を挟んで向こう側に優雅に座っている空狐に向かって、ぺこりと会釈をする。出会った頃よりぎこちない態度になってしまっている気がした。
「小珠様」
「は、はい」
「僕のことを避けていますか?」
ぎくりとした。やはり空狐には勘付かれていたのだ。
なんと説明しようと逡巡した後、事実を確かめるために問うてみる。
「空狐さんは、私と以前お会いしたことがありますよね?」
少しの間があった。
窓辺に置かれた竹の籠の上で、風鈴が鳴る。店内に流れる淡い音楽と、衝立の向こうから聞こえてくる他の客の声も聞こえた。
「小珠様が幼い頃に何度か」
空狐がぽつりと呟いた。
(……何度か?)
小珠の記憶では一度しか会っていない。当時幼かったが故に忘れているのかもしれない。
「その……私が神社で迷った時、助けてくださいましたか?」
「ええ。あの村でまだ瑞狐祭りが行われていた頃の話ですよね?」
「やっぱり……!」
小珠は両手を合わせて喜んだ。小珠の思い違いではなかったのだ。
「空狐さんがあの人なのかなと思って、最近ずっともやもやしてしまって」
「それで僕を避けていたのですか? 何故?」
空狐の質問に口籠ったその時、和菓子と抹茶が運ばれてきた。
饅頭や羊羹、あんころ餅など、様々な種類の和菓子だ。季節の景物が色美しく表現された上生菓子も出てきた。どれも白砂糖を使用した高級菓子だ。器は美しい陶器や漆器だ。見ているだけでもわくわくする。
小珠が「先に食べてもいいでしょうか?」と話を逸らすように聞くと、空狐はまだ腑に落ちていない様子であるものの、「もちろんです」と頷いた。
「答えづらいことであれば構いません。ただ――小珠様に避けられるのは、少し寂しいです」
口に含んだ和菓子がもっと甘くなった気がした。
(そんな、捨てられた子犬みたいな顔しなくても……)
甘さを誤魔化すようにして抹茶を飲む。
「最近は夜中に何やら銀狐と仲良くしているようですし」
「誰からそれを……?」
「野狐です。彼らは一日中寝ずにこの屋敷を見張っておりますから」
野狐たちはどこにでもいる。屋敷で起こったことは全て空狐に共有されているのだろう。
「空狐さんはあまり良く思われないかもしれませんが……私、この町の瑞狐祭りを成功させたいと思っています」
「瑞狐祭りを?」
「空狐さんと市へ出かけた時、二口女さんが、今年は瑠狐花が咲かないとおっしゃってましたよね。あれを咲かせたくて……」
無謀なことだとは感じているので少し恥ずかしかったが、思い切って打ち明けた。すると、空狐は「……成る程」と納得したように頷く。
「それで毎晩銀狐と一緒に?」
「はい。練習に付き合って頂いていて。最近普通の花であれば咲かせられるようになったんです」
銀狐たちの言う妖力というものの扱い方にも段々慣れてきた。目を瞑り、自分の奥に感じる炎のようなものを指先に集中させていく。咲いてと優しく声をかけるように念じると、花が咲くようになった。
とはいえ、市の帰りに野狐たちと町の中心にある大木まで行って試してみたところ、瑠狐花だけは一向に咲かなかった。まだまだ練習が必要だ。
「では、今度僕にも見せてください」
空狐は意外にも小珠の挑戦を止めようとはしてこなかった。それどころか、柔らかく微笑んでくる。
「でも、空狐さんたちに比べたら私がやっていることなんて小さなことですよ」
「分かりませんか? 小珠様にまた避けられぬよう、会う口実を作っているのですよ」
何だかちくちくしたことを言われたような気がする。空狐は根に持つ性質なのかもしれない。
「約束ですよ?」
――空狐の、少し意地悪な笑い方が好きだ。小珠は自分の中に生まれる恋心の誤魔化し方が分からなくなってしまった。
甘味処を出る頃、空は晴れ上がっていた。
牛車に乗り込みながら空狐にお礼を言う。
「空狐さん、今日は本当にありがとうございました」
「息抜きになりましたか?」
「はい、とっても。おばあちゃんが屋敷を離れてもよくなったら、今度はおばあちゃんも連れて行ってあげてほしいです」
小珠がそう言うと、お面の向こうの空狐は何故か何も答えなかった。
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夜は満月だった。丸い月の明かりが屋敷を明るく照らしている。
空狐は、見回りに出ようとしている銀狐を呼び止めた。
「銀狐」
空狐に呼びかけられ、銀狐が振り向く。
「小珠様と、随分仲が良いそうですね」
空狐の問いに銀狐は少し嫌そうな顔をしつつ、諦めたようにゆっくりとこちらへ近付いてくる。
「妖力の使い方分からん言うから、教えたってるんですよ」
「毎晩? 一緒に?」
空狐が冷ややかな目線を送ると、銀狐は「ちょっとくらいええやないですか。けちやなぁ」とぶつぶつ文句を言ってくる。
空狐は銀狐がいつもの軽薄な調子であることに溜め息を吐いてから本題に入った。
「どう見積もっても夏までに小珠様が玉藻前様と同等の妖力を持つ見込みはありません。それは貴方も分かっていますよね」
「まあ、そら、知っとりますよ。小珠はん、まだ市へ行っても普通の妖怪たちに気付かれんくらいの微弱な妖力しか持ってへんもん」
どうやら銀狐も分かっていないわけではないらしい。その上で何のつもりで練習をさせているのか。おそらく、小珠の性格的に何もせずにはいられないと分かっているからだろう。銀狐は、小珠に妖力を扱う練習に集中させておけばこれ以上妙な真似はしないと思っているのだ。
「小珠はん、市で町民と交流しとるせいで色々思うところあったんやと思うで。この町を変えたいんやて。町民と俺ら、お互い誤解したままは悲しいて言うてはったわ」
「……」
小珠の様子を思い出す。小珠は、他者への感謝を人よりも多く感じる性質なのだろう。だからこそ、狐の一族や町の妖怪たちのために何かしたいと思っている。
「……雨降らし自体は、僕ができます」
空狐の言葉に、銀狐がぎょっとした顔をした。
「まさか、手伝う気ぃですか?」
どういう風の吹き回しだ、という疑いの目を向けられる。
空狐は、効率が悪いこと、意味のないことは嫌いだ。きつね町の統治においても、より早くより大きな効果が得られるような策を練る。無駄なことはしない。
――町民の間での行事である瑞狐祭りに貢献するなど、冷静に考えれば何の利もない、特に無駄なことである。しかし。
「僕らしくないのは承知の上です」
振り返ってそう言うと、銀狐は間抜けな程にぽかんとしていた。
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