**無職71日目(11月10日)**
心太朗が目を覚ますと、そこには隣でぐっすりと眠る澄麗の姿があった。昨日は些細なことでケンカしたが、今や何事もなかったかのように仲良く戻っている。とはいえ、心太朗は何か大切なことを忘れている気がしてならない。今日は確か助産師に指導された「運動モード」に突入する日だったような…。
澄麗が一言、「山に登ろう」と提案してきた。臨月の妊婦が山登りなんて大丈夫なのかと一瞬不安がよぎるが、彼女の弟の奥さんも出産日の前日にもっと高い山に登ったと聞き、それが奇跡的に安産につながったらしい。もはや科学的根拠か迷信かもわからないが、澄麗には効果的に映っているらしい。
心太朗も不安を抱きながら準備を始める。さすがに頂上まで行くのは無謀すぎると判断し、適当なところで引き返す予定で出発。気軽なハイキング気分を期待していたが、山の麓に到着して神社でお参りを済ませた後、彼の緊張は少しずつ高まっていく。周囲では七五三の子供たちが可愛らしい衣装を着てはしゃいでいるのを見て、「俺は一体、何をやってるんだろう」と思わず苦笑。
いよいよ山に入り、コースを選ぶことに。険しく短い道か、長く緩やかな道の二択だが、危険は避けるべきだと判断して緩やかな道を選ぶことに。しかし「緩やか」とは名ばかりで、階段になった山道を息を切らしながら登ることに。
道中、あちこちにベンチが設置されており、そこで小まめに休憩をとる。70歳代のお年寄りが軽快に抜いていくのを見て、心太朗は「俺、老人に負けてる…」と心が折れそうになる。澄麗は涼しい顔でベンチに座りながら、「ほら、まだまだ行けるよ!」と微笑んでいる。心太朗は内心「いや、妊婦のほうが元気じゃないか?」とツッコみたくなるが、ここでも飲み込む。
途中で休憩しつつ、なんとか30分ほどで展望台に到着。ここから見える街の景色はまさに絶景で、心太朗は疲れも忘れてしばらく見とれてしまう。ふと横を見ると、澄麗も満足そうに微笑んでいる。「健一が産まれて少し大きくなったら、家族でお弁当を持ってまた来よっか?」と彼女が言い、心太朗もつい、「それも悪くないな」とつぶやいてしまう。
帰り道、心太朗は一層の慎重さで歩みを進めていた。下り坂は想像以上に滑りやすい。「臨月の妊婦を転ばせたら一大事だ!」と、心太朗の心に緊張が走る。澄麗は心太朗の腕や肩にしっかり掴まって、心太朗は彼女を優しく誘導する。足元が危ないところは、まず彼が先に確認してから進む慎重ぶりだ。そんな心太朗の気遣いが功を奏した…かと思いきや。
「おっとっと!」滑りやすい箇所で、心太朗はあえなく転倒。ドサッと尻もちをついた彼を見て、澄麗は「何やってんの」と言わんばかりにケラケラ笑っている。心太朗は、「これも妻と子供のためだ…父は体を張るのだ」と、心の中で悲壮な決意を新たにするが、澄麗は笑いが止まらない様子。さらには、もう一度滑って転び、尻もち連続2回の大サービス。今や澄麗の笑いは止まらない。
ようやく無事に下山し、家にたどり着いた心太朗。全身がガタガタで、内心「妊婦に山登りなんて勧めるもんじゃない…」としみじみ思う。登りはまだしも、下りのあの滑りやすさは一歩間違えれば大惨事。だが、隣の澄麗はケロッとしていて、まるで平気そうだ。
「やっぱり俺が全部損しただけか?」と、心太朗がぼやいていると、ふと澄麗のお腹の膨らみが少し下がってきたような気がした。もしかして、これが効果というやつだろうか?「よし、これなら2回転んだ甲斐があった!」と一人密かに満足感を噛み締める心太朗。
心太朗は、痛む尻をさすりながら思った。人生は時に滑りやすい坂道のように不安定だが、大切な人のために一歩前に進む勇気が大事なのかもしれない。どんなに転んでも、支える覚悟をもってゆっくり進めばいい。
「父は、こうして強くなる。」
そして、ふとカレンダーに目をやると、出産予定日まであと10日。さあ、次はどんな試練が待ち構えているのか。果たして、心太朗の父親奮闘記はどこまで続くのか…。