午後七時。
 花見会の開催時刻を迎え、美緒は朝陽とともに紺色の法被を着て茨の屋敷の庭に立っていた。

 背筋を伸ばして直立し、手は重ねて腹の上へ。

 いつ茨が来てもいいように畏まっているわけだが、不思議と心は凪いでいた。傍に朝陽がいるからかもしれない。彼の存在が美緒に勇気をくれる。一世一代の大勝負を控えているいまでさえ。

(……ううん、朝陽くんだけじゃないね)
 玄関とは逆方向の屋敷の壁から銀色の狐の頭が出ていた。

 身体のほとんどが壁に埋まり、頭だけ外に出した状態で、銀太が心配そうにこちらを見ている。彼は外との連絡係だ。
 目が合うと、彼は頑張れとでも言うように前足を振った。

 目くばせだけしてありがとうと伝えておく。

 声は出せない。左右に張った紅白幕の前に並び、楽器を抱えた使用人たちがいるからだ。即席の楽団員である彼女たちは小声で話し合ったり、琴を軽くつま弾いたりしている。

 楽しそうだったり、真剣だったりと、表情は様々だが、嫌そうな顔をしている者は一人もいない。

 香のせいでこの屋敷にいるあやかしたちは茨の虜だ。茨のためになると思えば何でもする。死ねと言われれば喜んで死ぬだろう。

 だから美緒は、この狂った状況を根底からひっくり返す。

 と、足音が聞こえて、使用人たちが一斉に平伏した。
 美緒も朝陽も深く頭を下げて屋敷の主を出迎えた。

「ほう」
 ぞろぞろとお供を引き連れてやって来た茨は一変した庭の様子を見て感心したような声をあげた。

 まず目を引くのは花見会場を鮮やかに彩る紅白幕だろう。
 そして次は煌々と燃え上がる篝火。この日ばかりは石灯籠に火を入れておらず、光源となるのは屋敷から届く光と篝火だけだ。

 会場には緋色の毛氈をかけた長椅子が整然と並べられていた。
 椅子の横に大きな赤い野点傘を立て、客が自由に飲めるように茶器や菓子鉢も用意済み。

 会場は完璧だが、肝心の愛でるべき桜は全て散り、とても寂しい状態だ。
 無論、それは美緒が予め桜の精たちに頼んだ結果である。