「来てくれてありがとう」
 悲しくなりながらも微笑んだが、朝陽は返事をしなかった。

 美緒をここまで案内した使用人が立ち去る気配を背後に感じながら、玄関の中へ消えた彼の後を追い、静かな屋敷の廊下を歩いて台所へ向かう。

 多分そうだろうとは思っていたが、台所にガスコンロはなく、古めかしい二つの釜戸が並んでいた。

 大きな羽釜と鍋が釜戸の上に、鉄製のフライパンや料理器具が壁にかけられている。
 右手の食器棚には食器がずらりと並び、その前に急遽運んできたと思われる木製の作業台が置いてあった。

 二リットルのミネラルウォーターが数十本。
 米に卵、野菜、みりん、砂糖、塩、だんご粉――とにかく大量の食材が乗せられている。
 溢れた食材は床に敷かれた茣蓙の上に積まれていた。

「おう。あんた新しい料理番かい?」
 男性の低い声が聞こえた。
 驚いて右の釜戸の下を覗き込めば、小さな赤い火の玉がそこにいた。

「こんにちは、お嬢さん。まあまあ、新しい料理番さんは随分と若くて可愛らしいのねえ」
 左の釜戸の下からも、のんびりと間延びした挨拶が聞こえた。
 こちらは女性らしい高い声だ。

 美緒は左右の釜戸を交互に見ながら言った。

「あ、いえ。わたしは花祈りの美緒と申します。今日の夜、庭で花見会を開くことになり、急遽茨様に捧げる料理を作ることになったんです。美味しい料理を作りたいと思っていますので、よろしくお願いしますね」

「ほうほう。そういうことなら協力は惜しまんぞ」
「ええ、ええ。茨様に逆らおうものなら水をかけて物理的に消されてしまいますからねえ。お料理頑張ってねえ」
 応援するように、左の火の玉は膨らんだり縮んだりを繰り返した。
 心がほっこりと温かくなり、美緒は頬を緩めた。