「好都合だ。咲かせる気になるまで痛めつけてやろう」
 朝陽の唇が嗜虐に歪む。
 茨に酷く似た笑い方を見て――それで、悟った。

 これは茨だ。茨の仕業だ。

「待って!」
 美緒は歩き出そうとした朝陽を呼び止めた。

「敬称を忘れた無礼は謝る。色々あって混乱してたの、ごめんなさい」
 美緒は頭を下げた。
 いまの朝陽と紅雪を接触させるわけにはいかない。
 正気に戻った朝陽が自分を責めて苦しむ様なことはあってはならない。

 その可能性がある事柄は極力美緒が排除する。排除してみせる。
 それが巻き込んでしまった朝陽に対するせめてもの償いだ。

「でも、枝垂桜を咲かすのはわたしの仕事だよ。一度引き受けた仕事は最後まで責任を持ってやり遂げたいの。わたしを信じて、朝陽くんは手を出さないでほしい。茨様は何日でも待つって言ってくださったでしょう?」
 作り笑いを浮かべながら、その実、美緒の腹の底では猛烈な怒りの炎が噴き上がっていた。

 黒田を拉致し、朝陽を洗脳したのは美緒への嫌がらせだ。

 個人への嫌がらせで周囲を巻き込むあやかしなのだ、茨という鬼は。

 大方、美緒が泣いて悲しむ様を楽しむ腹積もりだろう。
 あるいは怒って殴り込みに行くのを待っているのか。

 どちらにせよ、何をしたところで無意味だと――取るに足らない無力な小娘だと見下しているのだ。

(よくもここまで人を虚仮にしてくれた――)
 全身が弾け飛ぶほどの怒りが、激情が胸を焦がす。
 怒るのは好きではない。朝陽と同じく争いごとは嫌いだし、できることなら話し合いで解決したいと思っている。

 しかし、茨の所業は度が過ぎた。
 美緒の許容限界を遥かに越えていた。

「明日まで待って。それまでに必ず枝垂桜を説得してみせると伝えてもらえないかな。茨様のために素晴らしい花を咲かせてもらう。約束するから!」
 朝陽は探るような眼差しで美緒を見つめた。
 目を逸らさずにいると、朝陽はようやく頷いた。

「……明日までだな。わかった」
 朝陽は廊下を引き返していった。
 遠い背中を見つめて唇を噛む。
 足音がした。体重の軽い子どもの足音が近づいてくる。

「……屋敷に充満してる香が原因よ。茨が出入りの貿易商から買ったの。うんと東の町から取り寄せた一点ものとかで、あの香を吸い込んだあやかしは茨の虜になる。嗅覚に優れた狐なら、毒が回るのも早いわ」
 紅雪は美緒の隣で止まり、顔を伏せた。

「なんで早く教えなかったとか言わないでよね。茨に雇われてここにきたからには敵だと思ってたし、その、みんな不幸になれとか、やけになってたし――」
「うん。わかってる、大丈夫。紅雪ちゃんのせいじゃないよ。悪いのは茨だもの」
 去り際に紅雪の肩を叩いてから、美緒は夜霧に歩み寄り、軽く頭を下げた。

「まだいてくださってありがとうございます」
「ええ? まあ……うん」
 恨み言ではなく礼を言われるのは心外だったらしく、夜霧は戸惑っている。

「取引をしたいんです。あなたの目的はお金なんでしょう? 茨があなたにいくら払ったのかわかりませんが、わたしはその倍支払います。だから寝返ってください」
 真顔で言うと、夜霧は苦笑した。

「はは。面白いことを言うね。美緒ちゃんたちは金貨3枚も払えないから働いてたんでしょうに。今回茨がボクに払おうとしてたのは金貨5枚だよ? その倍の10枚を、どうやって払うの?」
「茨が将来わたしに払う慰謝料で」
「へ」
 目を瞬いた夜霧に、美緒は微笑んだ。

「最悪な嫌がらせを受けたんです、慰謝料を請求するのは当然の権利でしょう? わたしは調子に乗った大鬼を玉座から叩き落とし、相応の報いを受けさせます。必ず」

 決意を込めて断言する。

「わたしには何の力もありませんが、心強い味方がいます。彼らに頼れば勝算はあります。――ね、銀太くん。来てくれて本当にありがとう」
 身体ごと、屋敷のほうへ向き直る。
 ちょうどそのタイミングで、縁側の下の暗闇から一匹の狐が姿を表した。

「ううん、どういたしまして。なんだかよくわからないけど、大変なことになってるみたいだね。来て良かったよ」

 立ち塞がる高い石垣も、分厚い門も、万物をすり抜けられる幽霊の銀太には何の障害にもならない。

 とことこと可愛らしく四つ足を動かし、尻尾を揺らしながら歩いてきた銀太に、美緒は心からの笑みを浮かべ、しゃがんで頭を撫でた。