「もういいわ、十分よ。粉のお礼と失礼のお詫びにいいこと教えてあげる。お探しの新入りちゃんならあっちにいるわよ。ほら、あそこ。池の橋の上をよーく御覧なさい。あの子、気配が薄いから目を凝らさないと見えないわよ」
 桜の精は池を指した。
 言われた通りにじっと目を凝らせば、ぼんやりと人の影がある。

 赤い髪をおかっぱにした、周囲の桜の精よりも濃いピンク色の着物を纏った、小さな背中。
 外見年齢は十歳かそこらだ。

 美緒はその子に駆け寄った。

「枝垂桜の精ちゃん?」
「馴れ馴れしくちゃん付けするな」
 その子は俯いて池を見下ろしたまま、幼子特有の高い声で即座に注意してきた。
 気が強く、扱いが難しそうな子だと思った。

「ごめんなさい。じゃあなんて呼べばいいですか? わたしは美緒っていいます。名前を教えてもらえませんか?」
「……変な奴。人間でしょ、あんた。なんで敬語使ってんの」

 女の子がこちらを向いた。
 どんな人形も霞んでしまうほど美しい顔立ちだったが、声は刺々しかった。
 でも、ついさっき剥き出しの悪意に晒された美緒にとっては大したことではない。

「馴れ馴れしいのは嫌いと言われたので。あの、それで、お名前は?」
 機嫌を損ねて消えられたら困る。
 低姿勢で尋ねると、女の子はため息交じりに名乗った。

「……紅雪《べにゆき》」
「では、紅雪さん。どうしてこんなところにいるんですか? さきほど粉を撒いたんですけれど、ちゃんと身体に届いてます?」
「わかるに決まってるでしょ。あたしは枝垂桜の化身なんだから」
 苛立ったように、紅雪は下駄を地面に打ち付けた。

「感謝なんてしない。妙ちくりんな粉をどれだけ撒かれようが、あたしは花を咲かせるつもりなんてないから」
「どうしてですか?」

「あんたには関係ない。ていうかさ、あんた、馬鹿でしょ? さっき客間で話してるの聞いた。あんたが狐を連れてきたんだよね」
「ええ、まあ。頼んだわけではないんですが、親切心で彼がついてきてくれると――」
「はっ」
 紅雪は台詞の途中で笑い、皮肉っぽく口元を歪めた。

「呑気なことね。その親切が身の破滅を招くとも知らないで」

「え?」
「あんたは狐をここに連れてくるべきじゃなかった。こんな、誰もかれもが狂った屋敷に連れてくるべきじゃなかったんだ」
 吐き捨てるように言って、紅雪はふっと消えてしまった。

 水面に浮いた花びらが風に吹かれ、意思を持っているかのように滑る。
 美緒は橋の上で困惑し、水面で踊る花びらを見るともなしに見ていた。

(……どういう意味?)
 全くわからない。
 でも、紅雪の言葉は時間の経過とともに得体の知れない恐怖を加速させ、美緒は客間を振り返った。

 朝陽は茨と話している。
 緊張しているようだが、特に異常は見当たらない。

(……なんだ。なにもないじゃない)
 そのうちに朝陽が立ち上がり、茨に一礼してから客間を出て行った。

 まさか美緒を置いて帰ることになったのでは。

 顔色を青ざめさせた美緒は、玄関へと走った。
 敵だらけの屋敷に一人ぼっちなんて恐ろしすぎる。

 どれだけ朝陽の存在が精神的支柱になっていたのかを思い知りながら、息を切らして玄関へ行くと、ちょうど朝陽が出てきた。

「朝陽くん、帰っちゃうの!?」
 朝陽は突然の叫びに面食らった顔をした。

「いや。話はつけたよ。おれも美緒がいる間はここにいていいってさ」
 安堵のあまり腰が砕けた。
 へなへなと座り込むと、朝陽が慌てて「大丈夫か?」と屈み、手を差し伸べてくれた。

「うん、大丈夫……でも、本当に良かった」
 気の抜けた笑みを浮かべ、朝陽の手を借りて立ち上がると、彼は笑った。楽しそうに。

「おれが帰ったら寂しい?」
「えっ。そ、それは……もちろん」
「素直でよろしい」
 朝陽は美緒の頭を撫でた。

 完全に子ども扱いだ。
 美緒は頬を膨らませたが、それどころではないと表情を改めた。

「難しい顔してたけど、茨さんに何か言われた? 大丈夫だった?」
 茨は朝陽に随分な暴言を吐いた。いまだに根に持っている。
 さらなる暴言を吐かれたのなら今度こそ怒ろう。

 失礼極まりない鬼の枝垂桜なんて知るかと仕事を放棄してやる。
 烏丸や黒田は一度引き受けた仕事を投げ出すとは何事かと怒り、罰として減俸されるかもしれないが、姫子は許してくれるだろう。

 銀太は大変だったねお兄ちゃんと、あの可愛い姿と声で兄を慰めるはずだ。

「大丈夫。どっちかっていうとおれが喧嘩を売ったかな」
「えええ!? なんでそんなことに!? さっきは怒らなかったじゃない、やっぱり……もっと酷いこと言われたの?」
 最後はトーンを落とし、心持ち頭を下げ、窺うように尋ねる。
 朝陽は何故か美緒をじっと見つめてから、かぶりを振った。

「大したことじゃないよ。それよりそっちはどうだ? 花は咲かせられたのか?」
「それが……」
 顛末を話すと、朝陽は顎に手を当てて考え込んだ。
 紅雪が最後に吐き捨てた謎の言葉は話さなかった。
 ただでさえ緊張している朝陽をいたずらに不安にさせるだけだと思ったから。

「……そっか。まあ、焦らず気長に行こう。といっても、土日で終わらせような。おれも長居はしたくないし。どうも客間だけじゃなくて色んな部屋で香を焚いてるみたいだ。臭くてかなわない」
 朝陽は辟易したような顔で嘆いた。

「そんなに苦手なの? 花の匂い」
 首を傾げる。
「……。鼻が利かない奴はいいよなぁ……」
 朝陽は本当に恨めしそうだった。よっぽど辛いらしい。

「わ、わかった。またすぐ紅雪ちゃんと話してみるよ」
 励ましを込めて、美緒はぽんぽんと朝陽の腕を叩いた。

「早く帰れるように頑張るから。そうだ、帰ったらココア淹れてほしいな」
「ああ、任せとけ」
 笑い合う二人の頭上で、星が流れた。