正式名称は綿ウサギ。
 綿のようにふわふわな毛を持っていて、ウサギのような長い耳を持つから。
 何の捻りもない、わかりやすいネーミングだ。

 大慌てで綿ウサギを追いかけると、綿ウサギは路地裏で小さな三匹の綿ウサギ、恐らく子どもに粉を食べさせていた。

 粉の原料はヨガクレの大地を流れる霊脈なので、あやかしが食べれば霊力の回復効果が見込めると黒田が言っていた。
 ただし超まずいし苦い。要するに全然美味しくない、とも。

 それでも籠を狙った理由は、三匹とその母親のやせ細った体形が物語っていた。

 境遇に同情はしたが、貴重な粉を失うわけにはいかなかった。

 美緒は籠を奪い返し、地面にぶちまけられた粉を手で掬って籠に入れ、言葉が通じることを祈りながら綿ウサギに、仕事が終わるまでここで待つように伝えた。

 足りない粉の分はほとんど懇願に近い祈りで補った。

 二週間の間に築いた信用のおかげか、幸い、桜の木に宿る精霊は美緒の祈りを聞き入れ、仕方ないわねぇと頬を膨らませながらも立派な花を咲かせてくれた。

 花祈りの仕事は、他の烏天狗が言うように、ただ粉を撒けば良いというわけではない。

 たとえば疲れているときに栄養剤を渡され、上から目線で「働け」と命令されたらどうだろう。
 同じ栄養剤を渡して働いてもらう仕事でも、「お願いします」と低姿勢で頼まれたほうが俄然やる気が出るに決まっている。

 それと同じで、桜の精も、誠実な祈りには素晴らしい花を見せてくれるのだ。

 仕事が終わると美緒は朝陽たちとともに綿ウサギの元に戻り、トートバッグに入っていた駄菓子を綿ウサギたちにあげた。

 綿ウサギたちは全てを食べ尽くしたら駆け去った。

 何よあの恩知らずと姫子は文句を言ったが、後日、美緒は仕事中に物陰から綿ウサギの親子がこちらを見ていることに気づいた。

 一定の距離を挟んだまま近づいては来ないけれど、彼女たちはいつも美緒を見ている。

(……まあ、悲しみはしないか)

 綿ウサギたちが美緒を見ているのは、深い感謝とか籠を奪った罪悪感などではなく、もっと餌を寄越せという強迫の可能性のほうが高いのだろう。

 綿ウサギは知能が低く、人の言葉もあやかしの言葉も理解せず、喋ることもない。
 ただ、数だけはやたら多く、ヨガクレに来たら大抵は見かける。暗がりにそっと隠れている。

「わかりました。どこへ行けばいいんでしょうか?」
「それがねえ……」
 黒田は何故か苦い薬でも飲まされたような顔になった。
 朝陽も姫子も不思議そうな顔をしている。銀太も美緒の足元で黒田を見上げていた。

「依頼主は大鬼なんだよ」
「へ」
 美緒は口を半開きにした。

「……それって、もしかして……おばあちゃんが倒したっていう……?」
「……うん、そう」
 冷や汗が頬をつうっと頬を撫でる。

 隣で朝陽と姫子が囁き合っていた。
 まずいんじゃないの、とかなんとか姫子が言っている。

(……屋敷の花を咲かせてほしいっていうのは建前で、屋敷の門をくぐった途端、わたしは大鬼もしくは、その手下たちにボコボコにされるんじゃ……?)

「……無理にとは言わないよ? 大鬼と君のおばあ様の関係を知る烏丸様も、どうしても嫌なら断っても構わないと仰っていた。もらった金なら返せばいいし、何より美緒ちゃんにそんな顔をさせるのは辛い」

 黒田は美緒の右手を取り、顔を近づけてきた。
 キラキラした光が彼の周囲を取り巻いているように見える。
 これがイケメンオーラというやつか。

 烏天狗たちはまたか、という顔をしているだけで、誰も諫めようとはしない。
 黒田が美緒にこういう思わせぶりな言動をするのは日常茶飯事なのである。

 美緒は左手を上げてそこら中弾けまくる光の粒子を防ぎながら言った。

「いえ、大丈夫です。一度引き受けたものを断ったら、烏丸様の信用にも関わるでしょう? 烏丸様はたとえ大鬼の意図がどうであれ、ヨガクレで働き続けたいというのなら、困難から逃げずに立ち向かえ、と仰りたいんだと思うんです」
「それはそうだけど……俺は美緒ちゃんのほうが心配だ」
 黒田は眉尻を下げた。

「大丈夫です。純粋にわたしの働きぶりが気に入ってくださったと信じて、行ってみます! 危なかったら即逃げます! わたし、逃げ足だけは早いんです! 中学では陸上部でしたから!」
 どんなに足が速くても、鬼という人外に追いかけられて逃げ切れるとは思わなかったが、黒田を安心させるためにそう言う。

 黒田は他の烏天狗たちと違って、一度も人間だからと差別しなかった。
 嘘か本当かわからない甘い言葉を囁き、隙あらば口説こうとしてくるのは勘弁してほしかったが、それでも優しくしてくれたのは確かで、好きか嫌いかと問われたら好きだと即答できる。

「……わかった。じゃあ、大鬼の屋敷まで運んであげるよ」
「ありがとうございます」
「あの」
 と、朝陽が会話に割り込んできた。

「おれもついていっていいですか。おれの担当区域は姫子に任せるので」
「え、でも。姫子ちゃんが大変じゃ」
「いいから。朝陽の担当区域の桜はあたしがきっちり咲かせておく。その代わり、ちゃんと無事に帰ってこないと承知しないからね。数学のプリントでわからない問題もあるし、あんたたちにいなくなられちゃ困るのよ」
 姫子は朝陽と美緒を交互に見て、腰に手を当てた。

 こういうとき、心配そうな顔をせず、素直に「無事に帰って来てね」と言えないのが姫子らしくて、
「うん!」
 美緒は笑って頷いた。

 朝陽がついてきてくれるなら、こんなに心強いことはない。
 心の中で膨れ上がっていた不安の雲は消え去り、何があっても大丈夫だと、そう思えた。