「楽しみじゃのう。ワシを失望させるでないぞ、狐」
 烏丸は満面の笑みでばしばし朝陽の肩を叩いた。

「ご期待に沿えるように努力します」
 朝陽は苦笑いで応じ、烏丸に続いて階段を下りていく――

「――お待ちください!!」

 朝陽の姿が消える直前、姫子が叫んだ。

「なんじゃ」
 烏丸が引き返してきた。不愉快さを隠そうともしていない。

「死闘などお止めください! どうか、お願いでございます!!」
 烏丸の猛烈な怒気に晒されながら、姫子は再び平伏した。

「ほう。ワシの楽しみを邪魔するか。では、鳳仙草は要らぬということじゃな」

「――はい。あの人の妻となる夢は、諦めます」
 血を吐くような声で姫子は言った。

「おい! 何言ってんだお前――」
「狐は黙っとれ!!」
 烏丸に一喝されて、朝陽が悔しげに口を閉ざす。
 烏丸は下駄を荒っぽく脱いで姫子に歩み寄り、冷酷な表情で見下ろした。

「本当に諦めるのじゃな? 諦めたと見せかけてワシの領地に入り込み、盗みを働く不届き者は掃いて捨てるほどおったが」

「わたくしに二言はありません」
 顔を伏せたまま、きっぱりと姫子は言い切った。

「大事な友達を犠牲にして人になったところで、あの人は喜びません。喜ぶどころか軽蔑することでしょう。元より、魚が人と添い遂げるなど、過ぎた夢だったのです――」

 突然烏丸が跪き、喋っている途中だった姫子を引っ張り上げ、顎を掴んだ。

 吐息がかかるほどの至近距離から見つめられて、姫子がぎょっと目を剥く。

 暴挙に怯んだのもつかの間、姫子は持ち前の気丈さで烏丸を見返した。

「……ふむ。泣いて同情を引くようであれば、叩き出してやろうと思っておったが。泣いてはおらんか。その強気な目、気に入ったわ」
 烏丸は愉快そうに笑って手を離し、言った。

「3枚じゃ」
「へ」
 三本立てた指を眼前に突きつけられ、姫子が目をぱちくりさせる。

「天狐金貨3枚で売ってやろう。採算なんぞ度外視じゃ。こんな値で売っておったら商売なんぞ成り立たん、店が潰れるわ。決して他のあやかしに言うでないぞ」
 烏丸は中指と薬指を折り曲げ、残った人差し指を自身の分厚い唇の前に近づけた。

「……3枚って……3枚ぃぃ!? 鳳仙草が金貨3枚でいいんですか!?」
 姫子は大いに慌てた。

「ガハハハ。お前さんと狐と人間、3人じゃから3枚じゃ。狐の幽霊の分はまけてやろう。集めたら持って来い。人になる薬を調合しておいてやる」

「え。あ……あ、あり、ありがとうございます……!!」
 姫子はあたふたした後、深く深く頭を下げた。

「ああ、よいよい。堅苦しいのは好かぬ。良い友を持ったな、魚よ」
 烏丸はその場にどかりと座って胡坐をかき、朗らかに笑った。

「はい!」
 姫子は顔を上げて破顔した。
 目に涙が浮かんでいる。

「ところで魚。なにゆえ人に恋情を抱くことになったのだ?」
「はい。あれは去年の夏――」
 さっきまでの張り詰めた空気はどこへやら、二人は向かい合って和気藹々と話し始めた。

 緊張の糸が切れ、美緒は崩れるように座り込んだ。

「おい、どうした。大丈夫か?」
 朝陽が茣蓙に上がって来て、隣に跪く。

「美緒?」
 銀太も膝の上に乗り、つぶらな目で見上げてくる。

「どうしたって、朝陽くんのせいじゃない。本当に、どうなるかって……わたしの気も知らないで」
 じわりと視界が滲み、美緒は八つ当たり気味に朝陽の肩を叩いた。

「姫子ちゃんの味方をしたいけど、金貨を100枚稼ぐなんて現実的に考えて難しいし、朝陽くんが闘って勝ってくれたほうがそりゃあ手っ取り早くて簡単かもしれないけど、それで朝陽くんが傷つくなんて嫌だし、だからって他に解決方法も見つからないし、もう頭の中ぐちゃぐちゃで、なんでわたしは何もできないんだってもう、もう、ほんとに」
 涙が零れ、茣蓙に落ちて跳ねた。

「ああ、ああ、わかった。とにかく落ち着け。もう終わった、烏丸さんが金貨3枚で妥協してくれた。全部解決したから。な?」
 大きな手で頭を撫でられ、美緒は目を手の甲で拭った。

「……なんでわたしはおばあちゃんみたいに闘えないんだって、後悔した。いまからでも格闘術習おうかな……」

「ばか。しなくていいよ、そんなこと」
 背中に朝陽の腕が回った。
 え、と思う暇もなく抱き寄せられて、心臓が跳ねる。

「必要なときはおれが闘うから。美緒はそのままでいいんだ」
 幼子にするように、朝陽は一定のリズムで美緒の背中を叩いた。

 もしかして、銀太にもこうしてあげていたのだろうか。

 たとえば銀太が怖い夢を見たときとか。
 虐められて、泣いて帰ってきたときに。
 
「…………」
 狐とはいえ、朝陽は人の姿を取っている。
 それもとびきりの美形。照れるなというほうが無理だ。

 でも、背中を優しく叩く手の感触が気持ち良くて、甘えることにした。

 目を閉じて朝陽の胸に頬を寄せる。

「……一時はどうなることかと思ったけど、一件落着だよね。朝陽くんが烏丸さんと闘わずに済んで、本当に良かった」

「本当だよお兄ちゃん。もー、心配したんだから」
 銀太の声が朝陽の肩の上から聞こえる。頬ずりでもしているようだ。

「ごめんごめん。でも、一件落着って言うにはまだ早いだろ。金貨3枚だって稼ぐのは大変だぞ」
「そうだね。何かバイト見つけなきゃだね」

 人間のときも、狐のときも同じで、朝陽の身体からは良い香りがする。
 心を落ち着かせてくれる香りと、陽だまりのような温もりを感じながら、美緒は微笑んだ。

 もしも彼が落ち込むようなことがあれば、今度は自分が抱きしめてあげたいと、そう思った。