「うん。美味しいよね。刺身も煮魚も、焼き魚も、なんでも好きだよ」
 天使の如き無垢な微笑み。

「………………っ」

 姫子が顔を背け、身体を震わせた。
 こちらに後頭部を向けているため表情は見えないが、泣いているのではないだろうか。

「……まあ、普通はそういう風に解釈するよな……」
「うん……」
 複雑な思いで、朝陽と呟き合う。

「いや、あの……そういうことじゃなくて……恋愛対象として好きかどうかを聞きたいの! 率直な意見を聞かせてほしい! 魚は恋愛対象になりますか!?」

「え?」
 優は呆気に取られたように、口を半開きにした。

「魚って……あの、水槽を泳いでる魚だよね?」

「うん。水槽じゃなくて池を泳いでるやつ。具体的には鯉」
 姫子は真剣そのもの。

「……鯉が恋愛対象になるかどうか……?」

 優の頭上に浮かぶ疑問符が大量に増殖するのがわかり、美緒と朝陽は頭を抱えた。

(姫子ちゃん、もうちょっと……もうちょっと他に言い方ってものが……いや確かに間違ってはない、間違ってはないんだけど、それじゃ変人だと思われるよ!?)

 優が天然で穏やかな人で良かった。
 普通の人間ならからかっているのかと怒るか呆れるかしていたに違いない。

「うーん……ちょっと何言ってるのかよくわからないんだけど、鯉を恋愛対象として見るのは、さすがに無理かなぁ」
 優が苦笑いする。

「……そう……そうよね……」
 姫子は泣き出しそうな顔になった。

「変なこと言ってごめんね。わかった。うん。それはそうだよね……」
 姫子が俯いた。ぽつん、と彼女の足元に滴が落ちる。

「……あのさ、魚住さん」
 優は表情を真面目なものに改め、姫子に歩み寄った。

「何か複雑な事情でもあるの? 力になれるかどうかはわからないけど、悩んでるなら話してみて」

「……あたし……」
 俯いたまま、姫子は言った。

「信じてもらえないと思うけど、去年、あなたに助けてもらった鯉なの。夏に、小学生が公園の鯉に石を投げたことがあるでしょう? あのとき助けてもらった赤い鯉があたしなの。あなたに会いたくて、人に化けて、ここまで来たの……。信じないよね、こんな話」

 姫子は手の甲で涙を拭い、顔を上げて笑った。

「いまの話は忘れて。何馬鹿なこと言ってんだって、鼻で笑っていいよ。それで終わりにして。あたしのことは忘れて。助けてくれて嬉しかった。それだけ、言いたかっただけだから……もういいや……」

 姫子の目から、ぽろぽろ涙が零れた。
 優は笑わなかった。
 黙って、笑いながら泣く姫子を見ていた。

「……確かに」
 と、優が口を開いた。

「すっごく馬鹿馬鹿しくて、常識外れで、ありえない、荒唐無稽な話だとは思うけども」

「うん」
 仕方ない、というように、姫子が頷き、そのまま俯いた。

「本気で魚住さんがそう言うなら信じるよ」

「……え」
 姫子が顔を上げる。

「魚住さんがぼくに恋をして、わざわざここまで追いかけて来てくれたっていうなら嬉しいよ。一匹の鯉が人になって、人として生活するなんて、きっといままで物凄く大変だっただろうし、苦労したと思う。そこまで想われるなんて光栄だよ」
 優が姫子の頭を優しく撫でた。

「君は凄く可愛くて魅力的だし、付き合えたら楽しいと思うよ。でも、やっぱり、魚に本気で恋をするっていうのは難しい。もし、もしもだよ? 将来、ぼくたちの間に子どもが産まれたら人魚か、それとも完全に魚なのか、人なのか、わからないけど。半端として産まれたら、すっごく大変だと思うんだよね」

 美緒は心底驚いた。
 優もまた結婚を視野に入れている。

 つまり彼は一時の浮ついた感情ではなく、本気で姫子を愛した後、その果てのことまで考えているのだ。

「魚住さんがずっと人の姿でいられるっていうなら話は別だけど」

 優はそう言って、姫子の頭から手を下ろそうとしたが、
「じゃあ」
 姫子が優の手首を掴んで止めた。

「あたしが完全に人になったら、付き合ってくれる?」

 姫子は真摯な瞳で優を見つめた。

 優は一瞬驚いた顔をしたものの、
「うん」
 真顔で頷いた。

「約束だよ?」
 姫子が手を離して笑うと、優も微笑んだ。

「うん。約束する」