「まあ急に無心になれと言われても難しいよな。手助けをしようか。美緒は雪を見たことがあるだろう?」
「うん」
 祖母が住んでいた村では冬に雪が降る。
 豪雪地帯ほど積もりはしないが、辺り一面、雪に覆われることは珍しくない。

「じゃあおれが言う通りにイメージしてくれ。いまは冬だ。吐く息が白く染まり、手がかじかむほど寒い真冬の日」
「はい」

 いまは冬。そう思い込む。
 春の夜風は身を切るほどの寒風で、踏みしめているのは地面ではなく敷き詰められた雪。そう強くイメージする。

「君は一人、広い雪原に立っている。辺りは真っ白で、何もない。君は空を見上げている。肩の力を抜いて、ただぼうっと、雪が降る様子を眺めている」

 純白の雪原に立つ自分を想像し、美緒は高く顎を持ち上げた。
 白い息を吐きながら、美緒は空を見上げている。
 耳が痛くなるほどの静寂の中、しんしんと降る雪をただ見ている。

 独りぼっちで。何もない雪原の真ん中で。
 風邪を引かないように分厚いコートを着込んで、耳当てをして、手袋を嵌めて。

(――ああ、わたし、似たようなことをしたことがある)

 小学生の頃のことだ。
 美緒は家の庭に一人立ち、空を仰いで、降り注ぐ雪を見ていた。
 ずっと眺めていると、自分が雪の降る速度に合わせ、ゆっくりと空を上っていくような錯覚に陥った。

 重力の楔から解き放たれて、高く、どこまでも高く――あの灰色の空の彼方まで昇っていけるような気がした。

 瞼の裏に、あの日見た雪が降る。
 無限に降り注ぐ小さな雪が、全てを白く染めていく。

 美緒の雑念も、焦りも、全てを等しく飲み込んでいく――

「――よし、もう目を開けていいぞ」
 その言葉を受け、美緒は夢から覚めたような心地で目を開けた。

 瞬間、見上げる夜空を何かが横切った。

 目を凝らして見れば、星を散りばめた空の下、何かが飛んでいる。
 人間ではない。あれは――

「……ねえ、朝陽くん。布に乗った猿が空を飛んでるように見えるんだけど、幻覚かな?」
 呆然と呟く。

「いや、幻覚じゃない、現実だ。正しくは布じゃなくて一反木綿。一反木綿の一族は運輸業を営んでるんだ。頼めばあやかしでも物でも運んでくれる」
「へえ……って、ここ、ヨガクレなの?」
 慌てて辺りを見回せば、すぐ傍にあったはずの鳥居はなく、風景そのものが一変していた。

 例えるならどこかの城下町、だろうか。
 通りの両脇には趣ある木造の家屋が立ち並び、満開の桜が洒落た形の外灯に照らされていた。

 外灯の中では火が揺れている。上下左右に、ふらふらと。

(七年前の夏祭りのときもそうだったけど、ヨガクレの火は踊るものなのかな)

 下駄を鳴らしながら、着物姿の女性二人組が通りを行く。
 談笑する彼女たちの頭には角が生えている。鬼だ。

 鬼の他にも、鳥の頭を持つもの、曲がった角やまっすぐな角を持つもの、鱗を持つものに、服を着て人語を話す動物たち。

 道行く全てがあやかしだった。

 がさっと音がして、振り返れば、茂みの向こうから伺うように何かがこちらを見ていた。
 ウサギのように長い耳を生やした、全体的に丸く、可愛らしい小動物。
 体毛は灰色と白の二色で、つぶらな目をしている。
 これもまたあやかしの一種だろう。