学校近くの総合体育館を借りて、球技大会の練習をすることになった。チームは各クラスAとBの二つに分かれているが、バスケ部の晴陽、功祐、漣の3人が主体となって合同で練習することになった。3人とも、教え方が上手いし、一人一人の動きを見て的確にアドバイスをしている。そのおかげで、楽しみながらバスケの練習をしていた。
「そろそろ休憩しようか。月くん疲れたな」
 晴陽がボールを取り、体育館の脇に戻ろうとしたとき、出入り口から同じ高校の体操服を着た生徒が続々と登場する。
「あっ、橘晴陽くん」
 晴陽の目の色がガラッと変わる。先ほどの、穏やかな目から、鋭い警戒の色が混じった瞳へと変わる。晴陽は、自然に由真の前に立ち、深く唾を飲み込んでから口を開いた。
「宮元先輩」
 由真は、すぐにその人物が誰かを理解した。星稜高校の3年生だと示す緑のシューズが目に入ったからでもあるが、それ以上に、この人物は学校内で悪名高く、他学年の生徒からも避けられていることで知られていた。彼は、かつてタバコを吸いながら飲酒しているところを見つかり、一カ月の停学処分を受けた。しかし、本当なら退学になるはずだったが、親の影響で処分が軽減されたという噂が広まっていた。
 どうして、そんな人が…僕たちの目の前に。
「良かったら、俺たちと練習試合しない?」
 その男の言葉に、バスケ部3人の肩が一瞬震えたように見えた。宮元という先輩の理性を繋ぐ糸がぶつっと切れたら何をしでかすか分からないような目に急に背筋が凍るかのような恐怖に包まれ、すぐさま目を逸らす。この人、噂以上にヤバい人かもしれない…
「俺たち3人なら、いいですよ」
 晴陽が拳を固くし、宮元に対抗するかのように、眼圧をかける。晴陽の言葉に、功祐と漣はゆっくり頷く。
「嫌だね。バスケって、5人ですよ――」
「じゃあ、そこの男子二人、この三人に加わってねー」
 高橋翔人と由真を指差す。功祐と漣は、憤怒に燃える目で、宮元と柴田のことをねめつけていた。僕は、背筋を舐められたかのような感覚で、声が出なかった。ただ、立っているだけで、精一杯だった。

 男子5人で、宮元がいる3年2組と試合をすることになった。向こうには、宮元と柴田、元バスケ部の二人がいて、残りの三人は帰宅部らしいのだが、なぜか手強そうな雰囲気をひしひしと感じる。

「月くん。ごめん」
「俺たちがあの人のこと何とかするから」

 皆、すごい。高橋くんも、さすが野球部で、バスケ部のスピードに余裕でついていっている。情けない、ただボールが進んでいく方向についていくのが必死だった。
 せめて、迷惑かけないように頑張ろうと自分を鼓舞して、前に走っていた時、宮元が由真の足を引っかけ、バランスを崩して顔から倒れた。
「おいおい、何もないところで転ぶなよ」
立ち上がろうとして、見上げると、宮元が上から鼻で笑い、壊れたドアが軋むような不気味な笑みを浮かべたのが視界に入る。その冷たい視線に、由真の背筋が凍っていく。
僕なんかがみんなに迷惑をかけてはいけない…。
そう思いながら、由真は震える膝を支えて立ち上がった。ボールに夢中で、僕がこけているのに誰も気づいていない。気づかなくていいか。 僕なんかが皆に迷惑をかけちゃいけない… 恐怖を必死に抑え込み、立ち上がった。

 再びコートに走り出した由真。功祐が由真に合図を送り、パスをする。
 松井くんがパスする相手に選んでくれたのだから、ちゃんと取らなきゃ。ボールの方へと走り、手を伸ばそうとした瞬間、宮元と視線が交錯する。そして、宮元は薄く冷笑を浮かべた。そして、由真の体は一瞬で硬直した。柴田の手にボールが行ってしまった。
 申し訳なさでいっぱいになっていると、次の瞬間、ボールがまっすぐ由真の頭に飛んできた。
「この子、よわっ」
その言葉が届いた時には、周囲の声がぼやけ、視界が揺らぐ。柴田が宮元にパスしようとフェイントをかけ、由真の後頭部を狙ったのだった。
「ツッキ―」「月くん」「月島くん」
「こんなんで意識失うなんて、ウケるんですけど」
 宮元は左手で口を覆い、目を細めて笑いを堪えたが、ついに我慢できずに笑い声が広がった。

「わざとですよね、先輩?」
 晴陽が凍てつくような視線で宮元を睨みつけ、静かに問いかけた。
「…わざとじゃないよ。ただの偶然だろ。なぁ、柴田」
 宮元はすました顔で答える。
「受験勉強で寝不足だったんだよな」
 宮元が柴田の右肩に手を置き、かばうように言うと、宮元は右の口角をわずかに上げた。
「あぁ、そうなんよ。勉強大変で――」
「ごめんねー。でも、わざとやったわけではないから、これぐらい大丈夫だよねーー」
 ジメっとした声で、宮元は由真をこかした右足のつま先をトントンと叩き、倒れている由真を見下ろす。そして小さく舌打ちをし、その場を去った。

 ボールが床でバウンドする音、シューズがキュッキュッと床を擦る音が、体育館に響く。由真は、ゆっくりと目を開けた。視界に入ったのは晴陽の顔だった。首を動かして確認すると、どうやら自分は膝枕をされているらしい。そしておでこには冷たい氷嚢が載せられていた。
「まだ…動かないの。月くん」
 晴陽の声がそよ風のように耳の中で優しく響く。
「いたっ」
 体を動かそうとした瞬間、頭に痛みが走る。
「ほらぁ」
 晴陽は、いわんこっちゃないみたいな表情を浮かべる。
「すみません。迷惑かけてごめん…」
「あの人たちは、もう帰ったから安心しな」
「ごめん」
 僕が、運動音痴なばかりに、迷惑をかけてしまった。
「謝るな。月くんは何も悪くない。もう少し休んでな」
「……ありがとう」
 由真は晴陽の言葉に甘えて、もう一度静かに目を閉じた。
 再び目が覚めるまで30分の間、橘くんは膝枕をし続けてくれていた。