あぁ、何だか緊張する。大学時代以来の個別指導で、どう接すればいいのかが全くもってして分からない。深呼吸をして、少しでも緊張を和らげようと試みる。そして、ゆっくりとドアを開けた。
 教室の中に、一人の女の子が英語の単語帳を開いて一生懸命勉強している。集団指導部では、授業が始めるまでの空き時間、勉強している子もいれば、スマホをいじってゲームをしたり、友達と話で盛り上がる生徒が多かったので、この子は、真面目な生徒なのだろうと思う。肩に付くくらいのボブヘアが印象的で、落ち着いた雰囲気を持つ彼女だ。教室の明かりが彼女の髪に柔らかな光を当て、彼女の周りに穏やかな空気を作り出している。
「初めまして。今日から町田先生の代わりに嶋田さんの担当になりました、高岡廉介です」
 廉介は、自己紹介をする。
 その声に反応して、彼女はゆっくりと視線を上げ、単語帳を閉じた。澄んだ目でこちらを見つめる彼女は、少し緊張した面持ちで口を開いた。
「あ、えっと、嶋田優月です」
 彼女の声は控えめで、しかしどこか暖かさを感じさせるものだった。彼女の頬がほんのりと赤く染まり、少し照れている様子が伺え、不覚にも可愛いと思ってしまう。いや、このおっさんに可愛いと思われても嬉しくない。すぐさま、思い浮かんでしまった「可愛い」を掻き消す。でも、穏やかで控えめな印象の彼女に、廉介も少し緊張が解けた気がした。
「よろしくお願いします、嶋田さん」
 微笑んで返す廉介。
「お願いします」
 優月も小さく微笑んだ。

「今日の授業はここまでです。嶋田さんは英語と数学の二つで×週二コマのコースで、次は来週の火曜日ですね」
 廉介はバインダーに挟んでいる優月の塾の予定表を眺め、顔を上げる。  
 教室の窓からは夕日が差し込み、部屋を温かなオレンジ色に染めている。優月は静かに頷き、少し疲れた 様子ながらも集中力を切らさずに最後まで授業に取り組んでいた。
「はい」
 優月は短く答えた。その声には少しの疲れが感じられる。初対面の人とコニュニケーション取るのって、気疲れするよなと心の中で優月に同情していた。
「お疲れさまでした。気を付けて」
 廉介は板書を消しながら、優月に声をかける。優月も自分の持ち物をまとめ、席を立つ。
 この子は町田先生の記録に書かれていた通り、確かに優秀だ。問題の解き方や理解度も申し分ない。しかし、授業中、進路のことについて聞いたとき彼女の瞳にはどこか迷いが感じた。「まだです」と言わせてしまい、少し気まずい空気にさせてしまった。
「ありがとうございました」
 優月が頭を下げ、教室を後にする。
「お疲れ」
 廉介は手を止め優月の方を向く。まだ焦る必要はないが、今度の授業で進路についてもう少し話を聞いてみ ないとな。嶋田さんの手助けになればと思う。
 優月が教室を出ると、廉介は一人、静かに教室の整理を続けた。窓の外では夕暮れの街が賑わいを見せ始める。その景色を眺め、次の集団指導部での授業に向かう。