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 悠都と優月が学校帰り、歩いて塾に向かっていると、進行方向から、一つ結びをしたスポーティーな女性と散歩している真っ白な大型犬がやってくる。舌を出し、しっぽを小刻みに振りながら徐々に近づいてくる。俺たちを見てワンワンと二回吠える。そして、優月の前で立ち止まり、前足をあげる。
「キャー」
 すぐさま横に視線を移すと、優月が、悲鳴を上げて尻もちをついていた。
「すみません。この子、人が好きで、初対面とか関係なしにしっぽ全開で飛び込んでいくんです。特に女の子が好きで」
「大丈夫です」
「ごめんね。ジョン、女の子怖がっているじゃない。むやみやたらに飛び込んでいってはダメよ」
「くぅーん」
 ジョンは、首を垂れて、素直に反省しているようだった。
「ごめんね。君は何も悪くない。悪いのは私の方。本当ごめんね」
 そんな様子を見て、優月は自分のスカートを掴み、座り込んだままジョンに対し謝る。飼い主さんは頭を下げ、ジョンを引っ張って、その場を後にした。
「優月、大丈夫?」
 悠都は手を差し伸べる。
「いてて」
 右手から血が出ている。擦りむいてしまったみたいだ。
「優月、その手提げ貸して」
「えっ」
 優月は、目を見開き、手提げを悠都の前に出す。
「おぉ」
 怪我している右手で、手提げを持つのは大変だろうと思い、悠都は優月の代わりに持つことにした。

「お疲れ! あれ、二人今日いつもより少し早いね!」
 塾に到着し、ドアを開けると、偶然、受付口にいた汐里がおり、二人に話しかける。
「お疲れ様です」
 優月と悠都は、息ぴったりに返す。
「優月ちゃん、手どうした?」
 ハンカチで右手を押さえている優月の様子に、汐里は気づく。
「来る途中に、手をついてしまって……」
 優月は、苦笑いしながら、答える。
 なぜ、嘘ついたんだと悠都は優月に密かに視線を注ぎながら思った。
「ちょっと待ってて、救急箱持ってくるから」
 汐里は、救急箱を取りに職員室に向かい、返ってきた後、優月の怪我を手当した。

「石橋くん。嶋田さん、何かあったの?」
 教材庫から戻って来た廉介が、タイムカードを押している悠都に近づき声をかける。優月は、面談室で汐里に怪我の手当てをしてもらっている。その様子を少し遠くから、悠都と廉介は見ていた。
「来る途中、大型犬が飛び掛かってきて、手を捻ってしまったんです」
「そう……」
 廉介は、頭上にタライが落ちたかのような衝撃に陥る。
「優月、口では大丈夫って言っていたけど、来るまで唇も肩も震えていて…元気なかったんです。今も無理していると思います」
 廉介の表情が黒色を混ぜたように暗くなる。悠都は、ゴクッと喉を鳴らし、唇を噛み、言おうか悩みながらも、意を決したかのように、口を開く。
「優月の前世に関係しているんですか」
 廉介は、鳩が豆鉄砲を食ったような表情を浮かべる。悠都は、そんな廉介お構いなしに続ける。
「先生、優月の前世の飼い主……なんでしょ。もう、嶋田さんとか言って、他人の振りしなくてもいいですよ」

――えっ。いつの間に、俺とユヅの関係を石橋くんに…
 廉介の前には、宿題の確認をしている優月が映る。こんなに見ても、答えが分からないのに、本人に聞けば分かるかもしれないが、聞くのなぁ…
 言葉の代わりに溜息を零す。
 授業の始まりを告げるチャイムが鳴る。チャイムが鳴っても、一向に始まらない授業に、優月はとうとうしびれを切らす。
「先生、授業始めましょ! 先生、先生」
 声のボリュームを大きくしても、上の空。
「廉くん…授業を、お願い…します」
 優月は、最後、視線を逸らした。
「お、うん」
 優月が利き手である右手を負傷したため、廉介は優月に問題を解かせる授業ではなく、手を動かさないで済むように、授業を進めた。終始、二人の間には気まずい空気が流れていた。
「今日、仕事終わるまで自習室で待っててほしい」
 出ていこうとする優月に、廉介は雲がかった表情で伝える。
「分かりました。じゃあ…」
 頭を軽く下げると、優月は教室を後にした。

「お待たせ、帰ろうか」
「うん。今日、いつもより早い…ね」
 ユヅの目が溺れているかのように苦しそうだった。
「最後のコマの子が、熱で休みだったから」
「そうなんだ」
「石橋くんから聞いたんだけど手のケガ大丈夫?」
 授業の時に触れようと思ったのだが、触れてしまったら、空気が重くなってしまい、授業どころじゃなくなると思い、吞み込んだ。
「あぁ、うん。大したことないから、大丈夫」
 優月は、頬を緩ませる。目を見たら、無理していることが一目散に分かる。俺のせいだ…。優月の右手を手に取り、心配そうな表情で見つめる廉介。
「気にしないで。大丈夫だから」
 手を振り払い、さっきより濃い目の笑顔を作る。
「でも、一応だから、病院……」
「噛まれたわけではないから大丈夫」
 優月の声が大きくなる。
「ユヅ、ごめん……」
「何で、廉くんが謝るの……」
 優月の声に怒りの赤と哀の青が混じる。あ、やってしまったという表情を一瞬浮かべ、赤と青をかき消そうとする。
「早く帰ろ! お腹空いた」
 いつもより無理して元気を装っている優月を見て、廉介は、息が出来なくなるぐらい心が強く締め付けられた。何て言葉をかければいいのか分からず、優月の背中から離れないように追いかけることしかできなかった。
 
 ――俺があの日、ユズを殺してしまった……。
 そして、そのせいで、前世の記憶が戻ったユヅを苦しめてしまっている。

「優月ちゃん、お帰り! あ、廉介も」
「ただいま」
「今日、優月ちゃんの大好きなサバの味噌煮用意しているよ!」
「やったー。荷物置いてくる!」

「はい、廉介、ビール。優月ちゃんは、烏龍茶」
「ありがと」
「今日は、和風サラダ、サバの味噌煮、シソのから揚げ、豚汁、あとご飯」
 守が、配膳し終わった後に、今日の晩ご飯の献立を簡単に説明する。
「美味しそう」
 優月は、手を叩きながら、目を輝かせる。
「食べよ!」
 優月は、料理から廉介に視線を移し、烏龍茶が入ったジョッキを廉介のビールジョッキに近づける。
「あ、うん。だな」
「乾杯」
 こんな日でも、ジョッキがぶつかる音は変わらないんだなと対角線上になるように、お互い顔を伏せて思う。
「廉くん、どうぞ」
 和風サラダを取り分けて、廉介に渡す。右手を怪我しているのに、あぁ、もう……。気が利かない自分を殴りたくなる。
「ありがとう」
「いただきます!」
 優月は、最初に、大好物のサバの味噌煮を口にする。目を閉じて、美味しさを噛みしめている。
「味噌煮、味どう?」
 空いた皿を運んで戻って来た梨乃が優月に感想を聞く。
「梨乃ちゃん、美味しい!」
「良かった。それより、優月、気になっていたんだけど、右手どうした?」
 箸を動かす手が止まってしまう。
「あぁ、ちょっとこけちゃって、手の付きようが悪くて、少し擦りむいてしまった」
 優月は、心配かけたくなくて口ごもらせる。
「気をつけなよ」
「うん、ごめん」
 そんなユヅを見ると、胸が痛い。
「廉介、どうした?」
 守の手が廉介の目の前を遮る。
「うん?」
 廉介は、目を瞬かせる。
「さっきから上の空だけど」
「あぁ、ごめん。いや、何でもない。いただきます」
 唐揚げを口に運ぶ。サクッという音が脳内に響く。目を閉じて美味しさを噛みしめる。
キンキンに冷えたビールで喉を潤す。
「うまっ」
 あの日のことを思い出して、胸を痛めても、唐揚げの味は変わらなく、美味い。
「だろ? どんどん食べな。どんな時もお腹はへるもんだ。とにかく食ってからまた考えな」
 腕を組んで、鼻を鳴らしながら答える。そして、最後ウィンクを決める。 
「おぉ」
 廉介は、唐揚げを口に運び、首をゆっくり振る。

 ご飯を食べ終わって、二階に上がると、お風呂上がりの優月が、ダイニングテーブルで、英語の単語本を持って赤シートで隠しながら勉強している。
 まだ、髪が濡れているではないか。
「ユヅ、髪乾かしな。風邪引くよ」
「明日、学校で単語テストあるから」
 会話が嚙み合っていない……あっ。右手、ケガしているから、髪乾かすの大変なのかもしれない。
「ここ、おいで」
 ドライヤーを洗面所から持ってきて、ソファーに座り膝を開き、優月を呼ぶ。戸惑っている様子の優月だったが、目で「遠慮しなくていいよ。早く来な」と念を送ると、無事伝わったようで、単語帳を持って、「お願いします」と廉介の足元に来る。ソファーに背中をつける。
「勉強してていいよ」
 本を閉じようとする優月に声をかける。
「うん、ありがと」
 タオルを被せ、しっかり水気を拭き取る。その間、優月は、高鳴る心臓と格闘していた。ある程度、水気がタオルへと吸収されたところで、ドライヤーのスイッチを押す。
「よくユズの毛乾かしていたの思い出す。ユズ、お風呂から出てきたら、部屋中逃げ回ってて捕まえて乾かすの大変だったなぁ」


「ユズ、お風呂行く?」
「ワンワン」
 廉介も服を脱ぎ、一緒に入る。ユズは廉介に体を洗ってもらった後、タライに張られたお湯に浸かる。
「気持ちいい?」
 目を細めて、気持ちよさそうに、身を委ねている。
「ワン」
「良かった。俺も、ユズと入るお風呂の時間好き」

「そろそろ出るか」
 ドアを開けた瞬間、勢いよく飛び出る。
「ユズ、待って」
 扉閉めるの忘れてしまっていた。タオルを腰に巻いて、ユズを連れ戻しに行く。
「はいはい。ユズちゃん、ダメでしょ? 廉くん困らせちゃ」
 台所にいた母の麻美がユズを捕まえる。
「母さん、ありがとう」
 ユズを受け取り、浴室に戻る。
「ユズ――」
自分の体を拭いて、服を着て、ユズの体を乾かす。
――ユズが家に来てから八年間、お風呂一緒に入っていたもんな。

「その節はごめん……なさい」
 ユズも、お風呂での廉介とのエピソードを思い出して、しょげてしまう。あと、恥ずかしさで顔が紅潮してしまい、持っていた単語帳で顔を覆う。
「いいの、いいの。それも俺にとって、大切な思い出だから」
 優月の頭を優しく撫でる。また、乾かせる日が来るとは思わなかったから嬉しい。
「よし、できた」
「ありがと」
 優月は、廉介の方を振り向き、目を細めて、微笑む。
「早く寝な」
「うん。おやすみ!」
「おやすみ」