そして、研修から帰ってきて、玄関のドアを開けると、いつもと違う違和感が漂っていた。
 玄関に置かれているオレンジに近い茶色の革靴。俺はこんな色の革靴を持っていないし、彼女のものにしては、大きすぎる。リビングに向かって一歩足を踏み入れると、静けさが異様なほどに重たく感じられる。廉介は、リビングを通り過ぎ、寝室に向かった。閉まり切っていないドアを開けると、タオルケットを身にまとった男が俺の婚約相手…だった人に馬乗りしている。
「萌乃」
 無感情の声で、同棲していた彼女の名前を呼ぶ。
 目が合い、心臓を射抜かれたかのような表情をして、タオルケットを急いで胸に手繰り寄せる。男の裸体が露わになる。そして、男が振り返る。獲物を食べている途中のライオンのような表情をして。
この人が、浮気相手か。心の中のモヤモヤが真ん中に集まり固められたかのような気持ちになる。
「廉介、これは…」
 彼女は、取り繕う言葉を探そうとしているが、一向に見つからないようだ。でも、この男の顔、どこかでみたことがある。
「廉介、私と別れてください。私、祐治さんのことが好きなの」
 沈黙を断ち切るように出てきた言葉に、目が落ちそうになる。浮気した女が言うセリフではないだろう。でも、彼女の言葉に大いに賛成している自分がいた。なぜなら、俺も、彼女と別れる口実が欲しかったから、ショックではなかったし、今日みたいに他の男に会っているのは薄々気づいていた。
「分かった。お幸せに」
 喜怒哀楽、どの感情も含まない平常運転している時に出す声で伝えて、ドアを閉める。閉まる音が、千切れかけて修復しないまま放っておいた糸をハサミで裁断したかのようだった。ドラマでよく描かれている修羅場のシーンに、人生で初めて遭遇したが、怒りで気が狂うことはなかった。なぜか安堵が心に浸透していた。本当は、自分から別れを告げるはずだったが、告白してきたのは向こうだからこれで良かったのだと思うことにした。
 あ、あの男が誰か、思い出した。俺が以前勤めていた飲料メーカーの人事部の川村裕治副部長。今の役職は知らないが。
 お幸せにと言ったけど、川村さん、既婚者だった気がする。俺があの会社辞めてから、三年も経つから既婚者から独身になっている可能性もある。
 もう、俺には関係ないことだ。