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 夏休みが終わり、九月に突入した。怒涛の夏期講習がようやく落ち着いて、気持ちがすこーしだけ楽になった気がする。久しぶりの塾講師、やはり夏期講習になると目まぐるしい忙しさに追われる。でも、悠都くん、優月ちゃん、高岡先生と遊園地に行けたことが、かなりリフレッシュになった。
夏期講習も、今日で終わりだ。でも、夏は終わらない。暑さは変わりなく、私たちを蝕んでいく。今まで暑い日々に耐えてきたからだであるが、疲れとなり、からだに圧し掛かる日々が続いている。暑いと口にする日が来なくなるのはいつだろうか。暑い→涼しい→寒いという言葉になるときに、季節の移り変わりを感じる。
 汐里は、スーツのジャケットを脱ぎ、片手に持ちかえ、塾へと足を急がせているところだ。
「早く行って準備しようと思ったのに。あぁ、もう…二日酔いで寝過ごした。しかも、こういう時に限って、なぜ電車遅延しているの」
 心の声を漏らしながら、パンプスで音色をラストスパートに向けて奏でているところに、雑音が入る。
「お待たせ」
 気のせいかなと思い、無視をしているといきなりフレームインしてきて、進行を妨げてくる。
「ハニー」
 ハチミツ、いや、あのハチミツが大好物なプーさんだったら、「可愛い!」となって、立ち止まることを厭わなかったのに…誰、この男。
「人違いじゃないですか? 私急いでいるので」
 汐里は唾を飲み込み、溜息交じりに告げる。頭を下げ、その男から遠ざかる。職場に向かって、さっきより速いテンポで足を進めるが、背後から厄介な男がついてくるのが視界に入る。必死に逃げるが、パンプスだから、走れない。パンプス脱ぎ捨てて走ろうかと頭を過ったが、靴を履いていない所を先生や教師たちに見られてしまったらとか、道に何が落ちているか分からないため危険とか追いつかれてしまった。
「あぁ、つい、お姉さんが可愛いくって、口と体が勝手に動いてしまいました。これから一緒にカフェ行かない? 近くに超インスタ映えするスイーツの店あるんだけど、行かない? どう?」
 溶けてしまった飴が手にべっとりついたかのような不快感に汐里はなり、俯いたまま、顔を歪める。
「いいえ、結構です。急いでいるので」
 あぁ、厄介な奴に絡まれてしまった。ここで、油売っている余裕もない。油置いて、逃げたい。
「えーいいじゃん。彼氏いないでしょ? お姉さん」
 無視を貫く。パンプスの音色にクレッシェンド、テンポをアフレッタンドにして、雑音の相殺を試みる。
「一緒に行きません? もちろんおごるんで」
 おごる、おごらない問題ではない。なぜ、突如目の前に現れた見知らない人とお茶をしないといけないのか、頭をフル回転したところで答えは、「断る」一択だ。
「やめてください」
「行こうよ、こんなにかっこいい俺が言っているんだからさぁ」
 その男は、苛立ちが噴きこぼれ、汐里の足にわざと足をひっかける。そして、汐里は体勢を崩してしまう。
「あっ」
 体勢を立て直せないまま、地面に近づいて行く。手をつかなきゃ、でも、両手、塞がっているし…
 すると、誰かが横から私の前に颯爽と現れて助けてくれたため、地面に直撃せずにすんだ。救世主さん…と心の中で呟く。
「大丈夫?」
 この声、知っている…
 私の右腕を掴む凛々しい手が目に入り、心臓がドクンと高鳴る。
「あの、俺の彼女に何しているんですか。この汚らわしい手を離してください」
 休みの日以外、毎日聞いている声。でも、いつもの声と違って、赤く黒く染められているようだった。大きな声ではないのに、地面が揺れるかのような声…
「あぁ、彼氏いたんだ」
 厄介な男は、舌打ちをしてその場を去っていった。
汐里は、男が去ったのを確認してから、顔をあげる。廉介は汐里を困らせてきた男の牛ら姿を白い目で見る。
「大丈夫ですか? 満島先生」
 廉介は、汐里を掴んでいた手を離す。
「助けてくださりありがとうございます」
 本当は怖かった。道に人がいるのに、誰も助けてくれず、自分でどうにかするしかなかった。高岡先生が助けてくれた時、遅れて恐怖がやってきて、からだに纏わりつき、絡んできた男の顔を見ることができなかった。男がいなくなってから、纏わりついた恐怖が一気に離れていった。安心のあまり、体の力が抜けていく。なぜか、呼吸も苦しくなる。
「大丈夫ですか」
 廉介はしゃがみ込み、汐里の背中をさすり、荒ぶる呼吸を落ち着かせようとする。
「は…い」
 か細い声で答える。
「一緒に行きませんか? 塾まで。満島先生のこと心配ですので」
 廉介の言葉に汐里の顔が紅潮する。
「あ、ありがとうございます。お願いします」
 今までに助けてくれた人なんていなかった。変な輩に絡まれても、自分でどうにかするしかなかった。厄介ごとに巻き込まれたくなくて、見て見ぬ振り。こんなの初めてだ。戸惑っている。心臓の鼓動が早くなり、元に戻ろうとしない。「彼氏」という言葉が、頭の中を反芻している。高岡先生が、私をあの男から守るためについた嘘なのに、その嘘が、頭から剥がれない。剥がそうとしても、引っ付く。この気持ちは、まさか……。