🐾
「同棲していた彼女に振られたって気の毒だね。廉介」
ビールをゴクゴクと飲み、プハァーという声と共に、哀れみの視線を送るのは坂木守。 彼は居酒屋を経営しており、今日は休日で、高校時代の同級生の結婚式帰りに、近くの居酒屋で飲んでいるところだ。ちなみに同棲していた彼女に振られたというのが、守の高校時代からの友達である俺、高岡廉介だ。もう少し詳細に説明すると、浮気現場を目撃してしまい、振られた。なんで、向こうからなんだ。普通は、目撃した側だろうと思うかもしれない。それは頭に過った…俺も。
色々と気持ちを整理整頓したかったのに、昨日、守からの電話で、今日、高校時代の友達である直治の結婚式で、なんも予定がなかったし、休みだったから参加に〇をつけたことを忘れていたことに気づいた。気づかされた。
誰かの不幸の上に存在する誰かの幸せ。自分のものではない誰かの幸せなオーラが重く圧し掛かっている。今日行った結婚式で、さらに追い込みをかけられている。このままだと押しつぶされそうだ。
俺は、個別指導と集団指導の両方を行っている塾で、正社員の塾講師として働いている。
勤務している塾の研修で、一週間、大阪に行っていて、家を留守にしていた。そして、研修から帰ってきて、玄関のドアを開けると、いつもと違う違和感が漂っていた。
玄関に置かれているオレンジに近い茶色の革靴。俺はこんな色の革靴を持っていないし、彼女のものにしては、大きすぎる。リビングに向かって一歩足を踏み入れると、静けさが異様なほどに重たく感じられる。廉介は、リビングを通り過ぎ、寝室に向かった。閉まり切っていないドアを開けると、タオルケットを身にまとった男が俺の婚約相手…だった人に馬乗りしている。
「萌乃」
無感情の声で、同棲していた彼女の名前を呼ぶ。
目が合い、心臓を射抜かれたかのような表情をして、タオルケットを急いで胸に手繰り寄せる。男の裸体が露わになる。そして、男が振り返る。獲物を食べている途中のライオンのような表情をして。
この人が、浮気相手か。心の中のモヤモヤが真ん中に集まり固められたかのような気持ちになる。
「廉介、これは…」
彼女は、取り繕う言葉を探そうとしているが、一向に見つからないようだ。それにしても、この男の顔、どこかでみたことがある。
「廉介、私と別れてください。私、祐治さんのことが好きなの」
沈黙を断ち切るように出てきた言葉に、目が落ちそうになる。浮気した女が言うセリフではないだろう。でも、彼女の言葉に大いに賛成している自分がいた。なぜなら、俺も、彼女と別れる口実が欲しかったから、ショックではなかったし、今日みたいに他の男に会っているのは薄々気づいていた。
「分かった。お幸せに」
喜怒哀楽、どの感情も含まない平常運転している時に出す声で伝えて、ドアを閉める。閉まる音が、千切れかけて修復しないまま放っておいた糸をハサミで裁断したかのようだった。ドラマでよく描かれている修羅場のシーンに、人生で初めて遭遇したが、怒りで気が狂うことはなかった。なぜか安堵が心に浸透していた。本当は、自分から別れを告げるはずだったが、告白してきたのは向こうだからこれで良かったのだと思うことにした。
あ、あの男が誰か、思い出した。俺が以前勤めていた飲料メーカーの人事部の川村裕治副部長。今の役職は知らないが。
お幸せにと言ったけど、川村さん、既婚者だった気がする。俺があの会社辞めてから、三年も経つから既婚者から独身になっている可能性もある。
もう、俺には関係ないことだ。
「廉介……」
俺の話を聞いて、守は酒で紅潮した頬が、元に戻り、慰めの言葉を必死に頭の中で選んでいる様子だった。すると頼んでいたビールが到着する。
「お待たせいたしました。生二つです」
「ありがとうございます」
大学生ぐらいのアルバイトの女の子から渡されたジョッキを守が受け取り、廉介の前に置く。
「今日はとことん飲もうぜ! 良い人、そのうち見つかるからさ」
守は、廉介の背中を二回、励ましの気持ちを込めて強く叩く。
「痛い、守」
「すまん。つい」
「でも、ありがとう」
廉介は守の肩に手を置き、ジョッキを静かにぶつける。
「じゃあさ、今、どこに住んでいるの?」
「ビジネスホテルに一週間いる」
結婚前提に同棲していた彼女に振られ、住む場所がなくなった廉介は、職場に近いビジネスホテルに泊まっているところだ。ずっとビジネスホテルにいるわけにはいかない。机に置いたビールのグラスの持ち手に手をかけたまま、溜息をつく。
「そうか。じゃあ、良かったら、お店の二階が空いているから貸すよ。前まで住んでいたんだけど、実は二月終わりに引っ越したんだ。梨乃、妻が今妊娠していて、あの部屋だと子供がまだ小さいうちは大丈夫かもしれないけど、ゆくゆく大きくなったら狭くなるだろうから、子どもが生まれる前に今、梨乃が安定期な時に引っ越したんだ。ちょうど新居も完成したから」
「それはおめでとう。梨乃ちゃん、大変だな」
廉介が昔よく行っていた居酒屋で大学生の梨乃がバイトしていてたまに話していたので、守が結婚相手として梨乃を紹介してきたときは驚いた。確か、三年前か…
住む場所を提供してくれるのは嬉しいはずなのに、何だか複雑……だ。大きな鉄球が心臓にぶつかってきたかのようで、うっ…苦しい。
浮気現場に遭遇し、別れを切り出された瞬間、戸惑いを見せることなく、素直に「分かった」と受け入れた。あの時、解放感に包まれていた。でも、今は虚しさで苛まれている。
同世代はすでに結婚し、子どもができて、今二人目、三人目が生まれたって報告が増えて、焦ってしまっていたのだと思う。妥協して、生涯のパートナーを選ぼうとしていたのかもしれない。世間から置いてきぼりにされたかのようで、今目の前にあるロープを手放してしまったら、いつロープを掴めるか分からない、だから、必死にしがみついていた。でも、そのロープが千切れかかっているのも気づいて、見て見ぬ振りしていた。いっそうのこと自分が千切ってしまう前に、千切れてくれないかなと思っていた。何て、無責任なんだ。
でも、目が覚めた。
俺はこの人のこと愛していない。愛していた瞬間もあったのかもしれない、でも、その愛情は気づかない間に穴からすり抜け、空っぽになってしまった。俺は、振られたことに関しては後悔していない。後悔しているとしたら、俺は妥協して、将来を共に歩む人をあの日選んでしまっていたことだ。周りの結婚ブームに、目が眩んでいて、自分の本心を無理やりに書き換えてしまった。
「ありがとう。で、どうする? お店の二階住む? リビングとちょっとしたキッチン、部屋が二部屋あって、風呂もトイレもある。家具とかは置きっぱなしだけど……家賃二万五千円でどう?」
破格だ。市内の家賃はどこも高い。守が梨乃ちゃんと二人で暮らしていたほどだから、十分な広さだ。家具が置いているままだったら、新たに買い足す必要なし。
「お願いします」
「了解! ビール飲みな。温くなるぞ」
掴んだままにしていて水滴が増えたグラスを持ち上げ、ゴクゴクと喉を潤す。「ぷはーっ」と声を漏らす。一気に飲み切ってしまった。
「すみません。生一つお願いします」
「廉介…」
おいおい、何か嫌な予感がするぞという視線で守は廉介を見つめる。
「同棲していた彼女に振られたって気の毒だね。廉介」
ビールをゴクゴクと飲み、プハァーという声と共に、哀れみの視線を送るのは坂木守。 彼は居酒屋を経営しており、今日は休日で、高校時代の同級生の結婚式帰りに、近くの居酒屋で飲んでいるところだ。ちなみに同棲していた彼女に振られたというのが、守の高校時代からの友達である俺、高岡廉介だ。もう少し詳細に説明すると、浮気現場を目撃してしまい、振られた。なんで、向こうからなんだ。普通は、目撃した側だろうと思うかもしれない。それは頭に過った…俺も。
色々と気持ちを整理整頓したかったのに、昨日、守からの電話で、今日、高校時代の友達である直治の結婚式で、なんも予定がなかったし、休みだったから参加に〇をつけたことを忘れていたことに気づいた。気づかされた。
誰かの不幸の上に存在する誰かの幸せ。自分のものではない誰かの幸せなオーラが重く圧し掛かっている。今日行った結婚式で、さらに追い込みをかけられている。このままだと押しつぶされそうだ。
俺は、個別指導と集団指導の両方を行っている塾で、正社員の塾講師として働いている。
勤務している塾の研修で、一週間、大阪に行っていて、家を留守にしていた。そして、研修から帰ってきて、玄関のドアを開けると、いつもと違う違和感が漂っていた。
玄関に置かれているオレンジに近い茶色の革靴。俺はこんな色の革靴を持っていないし、彼女のものにしては、大きすぎる。リビングに向かって一歩足を踏み入れると、静けさが異様なほどに重たく感じられる。廉介は、リビングを通り過ぎ、寝室に向かった。閉まり切っていないドアを開けると、タオルケットを身にまとった男が俺の婚約相手…だった人に馬乗りしている。
「萌乃」
無感情の声で、同棲していた彼女の名前を呼ぶ。
目が合い、心臓を射抜かれたかのような表情をして、タオルケットを急いで胸に手繰り寄せる。男の裸体が露わになる。そして、男が振り返る。獲物を食べている途中のライオンのような表情をして。
この人が、浮気相手か。心の中のモヤモヤが真ん中に集まり固められたかのような気持ちになる。
「廉介、これは…」
彼女は、取り繕う言葉を探そうとしているが、一向に見つからないようだ。それにしても、この男の顔、どこかでみたことがある。
「廉介、私と別れてください。私、祐治さんのことが好きなの」
沈黙を断ち切るように出てきた言葉に、目が落ちそうになる。浮気した女が言うセリフではないだろう。でも、彼女の言葉に大いに賛成している自分がいた。なぜなら、俺も、彼女と別れる口実が欲しかったから、ショックではなかったし、今日みたいに他の男に会っているのは薄々気づいていた。
「分かった。お幸せに」
喜怒哀楽、どの感情も含まない平常運転している時に出す声で伝えて、ドアを閉める。閉まる音が、千切れかけて修復しないまま放っておいた糸をハサミで裁断したかのようだった。ドラマでよく描かれている修羅場のシーンに、人生で初めて遭遇したが、怒りで気が狂うことはなかった。なぜか安堵が心に浸透していた。本当は、自分から別れを告げるはずだったが、告白してきたのは向こうだからこれで良かったのだと思うことにした。
あ、あの男が誰か、思い出した。俺が以前勤めていた飲料メーカーの人事部の川村裕治副部長。今の役職は知らないが。
お幸せにと言ったけど、川村さん、既婚者だった気がする。俺があの会社辞めてから、三年も経つから既婚者から独身になっている可能性もある。
もう、俺には関係ないことだ。
「廉介……」
俺の話を聞いて、守は酒で紅潮した頬が、元に戻り、慰めの言葉を必死に頭の中で選んでいる様子だった。すると頼んでいたビールが到着する。
「お待たせいたしました。生二つです」
「ありがとうございます」
大学生ぐらいのアルバイトの女の子から渡されたジョッキを守が受け取り、廉介の前に置く。
「今日はとことん飲もうぜ! 良い人、そのうち見つかるからさ」
守は、廉介の背中を二回、励ましの気持ちを込めて強く叩く。
「痛い、守」
「すまん。つい」
「でも、ありがとう」
廉介は守の肩に手を置き、ジョッキを静かにぶつける。
「じゃあさ、今、どこに住んでいるの?」
「ビジネスホテルに一週間いる」
結婚前提に同棲していた彼女に振られ、住む場所がなくなった廉介は、職場に近いビジネスホテルに泊まっているところだ。ずっとビジネスホテルにいるわけにはいかない。机に置いたビールのグラスの持ち手に手をかけたまま、溜息をつく。
「そうか。じゃあ、良かったら、お店の二階が空いているから貸すよ。前まで住んでいたんだけど、実は二月終わりに引っ越したんだ。梨乃、妻が今妊娠していて、あの部屋だと子供がまだ小さいうちは大丈夫かもしれないけど、ゆくゆく大きくなったら狭くなるだろうから、子どもが生まれる前に今、梨乃が安定期な時に引っ越したんだ。ちょうど新居も完成したから」
「それはおめでとう。梨乃ちゃん、大変だな」
廉介が昔よく行っていた居酒屋で大学生の梨乃がバイトしていてたまに話していたので、守が結婚相手として梨乃を紹介してきたときは驚いた。確か、三年前か…
住む場所を提供してくれるのは嬉しいはずなのに、何だか複雑……だ。大きな鉄球が心臓にぶつかってきたかのようで、うっ…苦しい。
浮気現場に遭遇し、別れを切り出された瞬間、戸惑いを見せることなく、素直に「分かった」と受け入れた。あの時、解放感に包まれていた。でも、今は虚しさで苛まれている。
同世代はすでに結婚し、子どもができて、今二人目、三人目が生まれたって報告が増えて、焦ってしまっていたのだと思う。妥協して、生涯のパートナーを選ぼうとしていたのかもしれない。世間から置いてきぼりにされたかのようで、今目の前にあるロープを手放してしまったら、いつロープを掴めるか分からない、だから、必死にしがみついていた。でも、そのロープが千切れかかっているのも気づいて、見て見ぬ振りしていた。いっそうのこと自分が千切ってしまう前に、千切れてくれないかなと思っていた。何て、無責任なんだ。
でも、目が覚めた。
俺はこの人のこと愛していない。愛していた瞬間もあったのかもしれない、でも、その愛情は気づかない間に穴からすり抜け、空っぽになってしまった。俺は、振られたことに関しては後悔していない。後悔しているとしたら、俺は妥協して、将来を共に歩む人をあの日選んでしまっていたことだ。周りの結婚ブームに、目が眩んでいて、自分の本心を無理やりに書き換えてしまった。
「ありがとう。で、どうする? お店の二階住む? リビングとちょっとしたキッチン、部屋が二部屋あって、風呂もトイレもある。家具とかは置きっぱなしだけど……家賃二万五千円でどう?」
破格だ。市内の家賃はどこも高い。守が梨乃ちゃんと二人で暮らしていたほどだから、十分な広さだ。家具が置いているままだったら、新たに買い足す必要なし。
「お願いします」
「了解! ビール飲みな。温くなるぞ」
掴んだままにしていて水滴が増えたグラスを持ち上げ、ゴクゴクと喉を潤す。「ぷはーっ」と声を漏らす。一気に飲み切ってしまった。
「すみません。生一つお願いします」
「廉介…」
おいおい、何か嫌な予感がするぞという視線で守は廉介を見つめる。