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 灰色の雲が空一面を覆い尽くし、早朝の静寂を打ち破るかのように激しい雨が降り続いている。雨粒は無数の小さな矢のように地面に打ち付け、舗道や道路がまるで川のように水で溢れかえっている。窓を開けると、ひんやりとした湿った空気が部屋に流れ込んでくる。雨水が屋根から滝のように流れ落ち、排水溝は激しく流れる水で音を立てている。遠くの建物や木々は、雨のカーテンの向こうにぼんやりと見えるだけ。車が通る音が水しぶきとともに響き、その後に続く静寂が再び雨音に支配される。
「おはよう。ユヅ」
 ケトルに水を注ぎ、沸騰するまで、テレビをつけて天気予報を確認している廉介は、足音で優月が起きて来たことに気づく。
「おはよ。今日警報出ているから学校休みになった」
 眠気眼で欠伸混じりに、答える。でも、優月の声がいつもより少し元気ないように感じる。
「そうか。実は、俺も、仕事休みになった。だから、塾も休校」
「そうなんだ」
「塾でやる分、ここでやるのはどうかな」
 今日は悪天候で塾も休校という連絡が来た。でも、俺とユヅは、一緒に暮らしているため、塾に行かなくても授業ができる。振替授業しないといけないし、どっちにしても、暇だから、ユヅの勉強の手伝いをすることにした。
「うん」
「じゃあ、朝ご飯食べてから、八時半でどう?」
「分かった。朝ご飯、準備するね」
「ありがとう」

 朝食が済み、テレビとソファーの真ん中に位置する机で、マグカップに注いだコーヒーをお供に、勉強を始める。
「コーヒー苦くない?」
 廉介は心配げにマグカップのかげから現れた優月の顔を覗く。
「大丈夫! 実はブラック飲めるんだ」
「すごいじゃん。何か大人」
 廉介は目を丸くし、感心していた。俺が、コーヒーのブラック飲み始めたの、ビールを飲むようになってからだからすごいな。
「そんなことないよ」
 大げさだよという表情で廉介のことを見て、筆箱の中からシャーペンを取り出して問題を解き始める。

「もう、十時か。ここで終わりにしようか」
 廉介は壁に掛けている丸い時計で時間を確認し、優月に告げる。
「うん」
「よくできましたっと。お疲れ。ユヅは何する? おやつ食べる?」
「また、雨脚さっきより強くなった気がする」
 窓の外を注視して、さっきより顔が強張っている気がする。迫りくる脅威に怯えている
「言われてみれば、そうだな」
「雷鳴っている。近くで落ちたのかな……」
 オドオドしている優月が廉介の目に映る。
 思い出した。ユズが雷鳴るたびに部屋の隅っこで怯えていたことを。
「ちょっと待ってて」
 このままだとユヅが……

「んきゃ……」
窓から閃光が走る。ソファーの隅で体操座りをして肩を震わせて怯えている優月の耳に廉介はヘッドフォンを被せる。
「ゴロゴロ、ピッカーン」
突然、家全体が一瞬にして明るく照らされた。耳をつんざくような轟音が家全体を揺さぶった。窓ガラスがビリビリと震え、床にまで振動が伝わってくる。「ドーン!」という爆発音が身体の芯まで響き渡る。タオルケットで優月を覆いかぶせるようにし、廉介はその上から、自分の方へと優しく抱き寄せる。
「俺がいるから。大丈夫、大丈夫」
 優月が廉介の顔をちらりと見ると、穏やかな陽だまりに包まれているかのように、恐怖が少し和らいでいく。
 外では、激しい雨が窓を叩きつけ、風が怒号のようにうなる。雷鳴が再び遠くで鳴り響き、まるで大地が怒り狂っているかのようだ。優月の呼吸は浅く、心臓はまだドキドキと早鐘のように鳴っている。
二十分ぐらいすると、優月の寝息が聞こえ始める。

「寝てしまったな」
 それにしても今も昔も変わらない寝顔だな。頬を人差し指で優しくツンと突く。
 可愛いな……
「ヘッドフォンは外してと」
「お休み」
 再び降り注ぐ雨音と遠ざかる雷鳴に耳を澄ませる。廉介は優月の頭をそーっと撫で、静かに見守っていた。
 懐かしいな。ほんと、あの時と変わっていないな。


 眠い目を擦りながら、朝ご飯を食べに台所に降りると、お母さんがエプロンを身に着け、朝ご飯の味噌汁を作っていた。
「あら、今日は珍しいわね。おはよう。廉――今日大雨洪水警報出ているから休みになったよ」
 この時の、俺は、小学校低学年。ユズと家族になって二度目の夏を過ごしていた。この日は、地面を強く叩きつける雨が真夜中から降り続けており、耳朶に太鼓のごとく響く雨音でいつもより早く目が覚める。
「よっしゃー。ゲームできる!」
 どんよりとした雨空と真逆に、廉介のテンションは快晴だ。
「ちゃんと勉強しなさい」
 浮かれ気分の廉介を制す母の麻美。怒られる予感を察し、顔を逸らすとソファーの横に俯いているユズが視線に入る。ユズの様子がおかしいことに気づく。
「ユズ、どうした?」
 ユズの顔が強張って、小刻みに震えている。廉介はどこか体調が悪いのかと先ほどと打って変わって心配の雲が陰る。
「もしかしたら雷が怖いのかもしれないね」
 麻美がしゃがんでユズの顔を見て呟く。
「おいで、ユズ」
 廉介も続いてしゃがみ、膝をトントンと叩く。顔を上げて、そろりそろりと近づき、廉介の右足に寄り掛かり、「クゥーン」と廉介を見つめながら鳴き声を漏らすユズ。そんなユズを優しく抱き上げ、自分の部屋に連れていく。

「大丈夫。俺が今日一日いるから」
 落ち着かせようと言葉をかけるが、雷と大雨に怯えて言葉が届いていない様子。あぁ、どうしよう……犬って、人間の倍、耳がいいから、ユズはまだ怖い思いをしている。どうしたら怯えを取り除くことができるんだ。
この方法ならどうだろう……ベッドに乗り胡坐をかき、真ん中にユズを置いてタオルケットを被る。
「大丈夫、大丈夫。廉くんがユズの側にいるから」
 背中をトントンと小刻みに叩いて行くと、ユズはスヤスヤと夢の世界に入っていた。
「おやすみ、ユズ」

 ――俺が君のこと、何があっても守るから。