「はい、どうぞ。優月ちゃんが大好きな親子丼」
 守が用意してくれた晩ご飯に目を輝かせている優月を見て、昔の犬だった時のユズをふと思い出す。昔の記憶を回顧して懐かしくなり、頬が緩む廉介。


「ユズちゃんのごはん、あげて」
 台所にいる母の元に行き、ユズのご飯が入った皿を受け取る。
「分かった。ユズ! ごはんだよ!」
 音が鳴るキリンのおもちゃを噛みながらブンブン回して遊んでいたユズは、キリンを投げ飛ばし、廉介の元へと一目散に走っていく。
「ワンワン」
「ユズ、ご飯だよ」
「ワンワン」
 キリンのおもちゃをその場に置いて、廉介の元へと走っていき、立って、早く早くと廉介の足を掻く。
「はいはい。あげるから。落ち着いて」
「ワン」
「じゃあ、お座り」
 あぁ、可愛い。ずっと見つめていたい。
「お手」
 小さなおてて、愛おしい。
「待て」
 え、まだ? という目で俺の目を見てきて、床を右手で掻く。あぁ、可愛すぎて、この顔を見たくて、つい焦らしてしまう。
「いいよ!」
 合図を貰ったユズは、無我夢中でごはんをがっついている。
 よほどお腹空かせていたのだと思う。キリンで遊ぶ前は、サッカーボールのおもちゃで遊んでいたからな。
「誰も取らないから、ゆっくり食べな」
 皿からはみ出したドックフードを拾い、皿に入れたりしながら、ユズが食べ終わるまで、廉介は見守っていた。そんな日々の繰り返しで、たまに携帯電話で写真や動画を取って、ユズは可愛い自慢の家族だと、同級生たちに見せていたなと記憶が呼び起こされる。

「ありがとうございます」
「いただきます」
 美味しそうに頬張る姿が、息をするのを忘れるほどご飯にがっついているユズと重なり、咽ないかな、大丈夫かなと心配になっていたのを思い出す。
案の定、優月が咽る。
「あぁ、大丈夫か」
水飲みなと言いたいところだったが、よりによって、優月のコップの水がない。もうすでに飲み干していたのか。確かに今日少し暑かったし、俺のせいでたくさん泣かせてしまって、喉乾いていたのかも。あぁ、帰り、コンビニ寄って飲み物買ってあげればと後悔する。
「大丈夫? はい」
 廉介は自身のコップを優月の前に差し出す。優月は咽ながら「ありがとう…」と言いながらも、まだ咽続けている。
「あぁ。飲みな、水」
 優月が水を飲み干し終わると、廉介は優月の背中をさする。
「ありがとうございます」
 岸辺に追いやられてしまった魚が、元居た場所に戻されて、ホッとした表情を浮かべているようだ。
「良かった。守、水ちょうだい」
「はいよ」
「ありがと」
 水が入ったピッチャーを守から受け取り、廉介は、優月のコップに水を注ぐ。
「七味が喉を刺激して咽たんだと思う」
 優月は目頭に手をあて、咽た時に出てしまった涙を拭きとる。
「優月ちゃん、気をつけなよ」
 守は、焼きおにぎりをひっくり返しながら、優月に目を遣る。
「はい」
「優月ちゃん、何か飲む?」
「じゃあ、烏龍茶でお願いします」
「せ、廉くん、ありがとう」
 優月は先生と言おうとしたけど、廉くんと言い直す。
「どういたしまして」
 焼き鳥を頬張り、咀嚼して呑み込み口に何もない状態して、廉介は答える。
「食べる?」
「いいの?」
 目を輝かせながら、優月は聞く。
「うん」
「じゃあ、せせり食べたい」
「はい、どうぞ」
 取り皿の上に、せせりを置いて、優月の目の前に差し出す。
「ありがと」
 優月は、「いただきます」と言って、串を持ち上げ、口へ運ぶ。
「美味しい?」
「うん」
 あまりにも幸せそうに焼き鳥を頬張る優月を見て、もう一本上げたくなる廉介。
「これも食べな」
 そして、ねぎまを、優月の皿に移す。
「いいの? ありがと!」
 優月のご飯、食べている様子を見ながら廉介は、ビールをゴクリと流す」。
 ビールが進むな。ユズがいた頃は、もちろん俺は子供で、ただ眺めるか、たまに携帯、スマホを右手に持って、写真や動画を取ったりしながら、「可愛いな、ユズ」と思っていたが、今やその右手には、ビールのジョッキ。年取ったな。そして、今隣には、人間に生まれ変わったユズが、焼き鳥を美味しそうに頬張っている。いや、人生何があるか予測できないというが、昔飼っていた犬が、人間に生まれ変わって一緒に住むことになるなんて考えたこともなかったから驚いた。驚いた、びっくりしたって、何もないのに食卓のごはんが豪華だったり、歩いていたら顔に虫がぶつかってきたり、ちょっとしたことでも口にしてしまうが、今回の件は、婚約していた彼女の浮気現場に遭遇した以上に、衝撃的だった。いつも簡単に使っている便利な「驚いた」「びっくりした」という言葉では、物足りないほど、「本当に」「とても」という副詞をつけても、驚きを言い表せないほどだった。人生で一番驚いた、びっくりしたと言っても過言ではない。でも、嬉しい。驚きの種類にも喜怒哀楽があるが、「喜」「楽」だ。ユズが人間になって目の前に現れたことへ驚喜と、これから再び時間を共有できることへの楽しみで胸がいっぱいだ。本当に嬉しい。
 気づけば、頬が緩んでおり、視線を動かすと、ユヅが俺の顔を見つめている。そして、目が合う。
「ど、ど、どうした?」
「泡ついています」
 優月は、自分の唇を指差し、廉介の唇の右端に泡がついていることを教える。
「取れました」
 お酒に酔ったのか、無意識に口に泡を付けていたことへの照れか分からないが、頬が紅潮する。
「優月ちゃん、烏龍茶」
 ジョッキに並々に注がれた烏龍茶が守から優月の手に渡る。
「守くん、ありがとう」
 優月は、烏龍茶を飲もうとするが、手を止める。スマホの通知が鳴り、確認をしている廉介の肩を叩く優月。
「うん? どうした?」
 スマホを置き、優月に視線を向ける。
「乾杯したいです」
「おぉ……いいよ」
 予想もしていなかった優月の発言に、目を丸くする。でも、嬉しい。今日、何回「嬉しい」と思ったのだろう。口にはしていないが、相当な数、思った、思っているし、これから思うだろう。
「やったー。乾杯のコツとかありますか」
「乾杯のコツ、初めて聞かれたな。『その日の自分、お疲れ』とねぎらってあげることかな。俺はいつもそうしている、一人でも」
「なるほど。じゃあ」
 ジョッキを廉介の近くにスライドさせる。廉介も、テーブルの上でビールが入ったジョッキを重ねる。
「乾杯」
 カーンという音が響く。余韻をぼんやりと眺めて微笑む優月。その姿を見て、ビールをグビっと飲み、ジョッキで口角が緩むのを隠す。よし、と意を決したかのように優月が、烏龍茶をゴクゴクと気持ちよさそうに飲む。飲み終えた後のプハァーと言う声が可愛い。犬だった時も、水を飲み終わってから同じようにプハァーと可愛い吐息漏らしていたな。ずっと見てられる。昔は、ペットだったから、家族だったから、「可愛い」って心の声でとどまらず、通過して、声に出していたが、今隣にいる高校生の女の子は、前世で飼い主と飼い犬の関係ということが判明したが、それを抜きで考えるとただの塾の講師と生徒の関係だ。この子は、「高岡ユズ」ではなく、「嶋田優月」とし犬ではなく人間として人生を歩んでいる。ただ前世で一緒に暮らしていたからといって、あの時みたいに安易に、「可愛い」なんて口に出してはいけない。前世の記憶が思い起こされたことと、一緒に生活することになったことで、この子の運命に悪影響を及ぼすのだけは避けないといけない。

 この日から、「乾杯」は晩ご飯を食べる時、二人の掛け声になった。一緒にご飯を食べる時でも、時間が合わなくて一人で食べる時も。

 廉介は酔いつぶれ、机の上で寝てしまった。
 廉介のスマホが振動する。ロックの画面が露わになる。

 サッカーボールを持ってしゃがんでいる中学生の男の子、その横で目を細めて舌を出してお座りをしているマロン色のチワワ……
 
「廉介のロック画面、このまま、ずっと」
 守がグラスを拭きながら、優月に話しかける。
「え?」
「その写真に映っているワンちゃんのこと今でも大切に思っているんだなぁって」

「守くん! 日本酒お願い!」
 座敷から常連のお客さん、この声は建設会社社長の富士さんが叫んでいるのが耳に入る。
「は―い! 分かりました」
 守は、富士さんに返事をして、優月に微笑んでから、常連のお客さんがストックしている日本酒の瓶を棚からだし、持っていく。
 優月は残っている烏龍茶を飲み干し、ジョッキを置き、廉介を見つめる。

「ありがとう。迎えに来てくれて、そして、覚えていてくれて」
 廉介の顔に優月の右手が引き寄せられる。でも、手を引っ込め、首を静かに振る。あの時は犬だったから、でも、今は人間だから、だめだ。廉介が気持ちよさそうに眠る顔を見て、懐かしさが胸を焦がす。そして、この写真を撮ってもらった日のことを思い出す。


 確か、廉くんが中学一年生か二年生の時の秋頃だった。
「ユズちゃん」
「ワンワン」
「廉くん、ゴール決めたよ!」
 廉くんが所属していたサッカーチームの試合が三時から散歩コースでよく通る河川敷で行われていた。そして、私はお母さんの麻美さんの提案で散歩がてら応援に来ていた。
「廉介、お疲れ。ナイスゴールだったよ! ね、ユズちゃん」
「ワンワン」
 廉介はしゃがんでユズをわしゃわしゃと撫でる。
「廉介、写真撮るよ!」
 元プロサッカー選手のコーチ土井が、廉介を手招きしながら大きな声で呼んでいる。手にしていた水筒で急いで水分補給を済ませ、水筒を麻美に渡して、チームの皆がいる所へと足を走らせる。
「待ってユズちゃん」
 もっと構って欲しかった私は、廉君の元へ走っていく。
「ユズ!」
 廉介はユズが追ってきたことに気づく。
「いいよ、廉介。ワンちゃんも一緒に」
 土井がユズと目を合わせてウィンクをする。
「廉介、真ん中来な! 今日のMVPは廉介だから」
 同じクラブチームの同級生の悟が廉介を真ん中に持っていく。
「撮りますよ。はい、チーズ」
 集合写真を撮り終わった後は、現地解散となった。廉介が、スポーツバッグを持ち、ユズと麻美の所に来る。
「ユズちゃん、どうした?」
「クゥーン」
「ユズ、一緒に撮るか?」
「ワンワン!」
「お母さん、撮って欲しい」
 廉介はマイサッカーボールを持って、しゃがむ。その横に、ユズがお座りする。
「この図、いいよ。そのまま」
「ワン」
 ユズが廉介の顔を見つめる。
「うん?」
 廉介は、ユズの顔を見つめ返す。
 その瞬間をシャッターに収める母の麻美。
 気づけば河川敷は、秋特有の静けさと少し冷たさを含んだ空気に包まれていた。西の空は、茜色から深い橙色へとゆっくりと変わり、遠くの山々が影絵のように浮かび上がっている。河川敷に立つ木々の葉は黄色や赤に染まり、風が吹くたびに枝からはらはらと落ちていく。足元に敷かれた落ち葉がカサカサと音を立て、踏みしめるたびに秋の匂いが漂ってくる。遠くで散歩をしている犬の鳴き声や、帰り道を急ぐ人々の話し声が響く。
「そろそろ帰ろうか」
「うん」「ワン」
 廉介とユズは息ぴったりに返事をした。