ランザ男爵家の家令、マルツェロ・リージ。三十代後半、独身。
 商人の息子で、聖職者になるべく学校に通ったが何らかの事情で聖職には就かなかったらしい。農工商の幅広い知識を買われてランザ家に勤めるようになり、その後家令になって五年だそうだ。

「その頃から財政がおかしくなりだした。やっぱり、こいつかな」

 長椅子でネヴィオの報告書を読みながらドゥランは言った。向かいのエドモンドがうなずく。
 そしてちゃっかり同席しているニルダも面白そうに隣から父の手元をのぞいていた。自分のことでもあるし、この件に関しては参加する気満々なのだ。

 アレッシオの証言はあったが、ここ数年のアルベロアの産品や取引を調査しても不審な点は見つからなかった。
 決定的なことは帳簿を見ないとわからない。だがそれが改竄されているとしたら、家令が絡んでいない方がおかしいだろう。それが有能な男ならば、なおさらだ。

「うちとの取引に関して、向こうとこっちの記録をつき合わせれば一発なんだが……」
「すぐに顧問を派遣しても、二重帳簿ぐらい作ってあるだろうよ」

 エドモンドが苦笑いした。となると不正の事実を何かしらの証拠と共に突きつけたい。ニルダは確認した。

「そのマルツェロさんが横領してたとして、何に使ってたか、よね?」
「そうだ。それにしても高額だぞ。酒に賭け事、おん……、う、うん、アルベロアの中だけでは使いきれん」

 女、と言いかけてドゥランは娘の耳をはばかった。エドモンドが察して言葉をつなぐ。

「出身はダルドだ。時々行っているのは仕事なのか、実家がまだあるのか。ダルドで何かに散財している可能性はあるな」
「待てよ、リージ……商人のリージっての昔いたな。商会は持たずに出資してた男だ。あれが父親か?」

 ドゥランと同じ年頃のマルツェロ。その父親ならばドゥランが駆け出し商人だった頃に現役で活動中だったろう。同じ名前の別人かもしれないが調べてみる価値はある。
 経験値を披露したドゥランを、感心したニルダはほめたたえた。

「お父様さすがね。無駄に年をとってないわ」
「年寄りって言うな」

 ニルダが無慈悲だ。
 四十手前の男盛りを何だと思っているんだとドゥランは泣きそうだったが、十二の女の子から見れば仕方ないのか。するとエドモンドが大げさに悲しい顔をしてみせる。

「じゃあ僕も年寄りなんだね、〈おじさま〉だし」
「エドおじさまは違うの」

 ニルダはピョンと立つとエドモンドの隣に座り直した。腕にくっついて、にっこりする。ニルダを面白がり可愛がるエドモンドのことが、ニルダは大好きだった。だって格好よくて頭がいい。
 娘が友人に向ける笑顔を見て、俺と何が違うんだよ、とドゥランは仏頂面になった。
 確かにエドモンドは四歳年下だし、独身で所帯じみていないし、身なりに気をつかうし――と考えて、悲しくなりやめる。わかったよ、違うよ。

「じゃあ俺がダルドに行ってみるさ。経験豊富で、昔のツテがあるからな」

 ドゥランはヤケクソで言った。
 ダルドでのマルツェロの足取りを追い、実家があるならその周辺で聞き込みをする。ついでに長男のルッカの様子も見てこよう。

「あ、私も行きたい」

 ふとニルダが言い出して、ドゥランとエドモンドは少女の顔をまじまじと見てしまった。

「ダルドなら、お兄様にも久しぶりに会えるでしょ?」

 まあ、そのつもりだ。
 だがマルツェロの調査が主だ。どこに行くことになるか自信がない。
 成人男性が大金をはたくのだから、健全とはほど遠い場所かもしれない。賭け事だの身売りだの薬物だの。ちょっと娘を連れて行きたくはなかった。
 エドモンドもそれは危惧したようで、スイとニルダの肩に手を回してなだめにかかった。

「うーん、地味な調べ事だよ? ルッカに会うなら別の時に行こう。僕と一緒でもいいしね。今回ドゥランが行くのなら僕は留守番だから、ニルダも家にいておくれよ」

 共同出資という立場上、なるべく二人のどちらかは商会にいるようにしているのだ。
 お気に入りのエドおじさま。彼とまた次の機会に一緒に行けるとなれば、これまでのニルダならそうしたかもしれない。だが今回のニルダは頑固だった。

「ダメよ、おじさま。これは私が売られた喧嘩でしょ? 自分の手で尻尾をつかまなくちゃ」
「いや、お前じゃなくてペンデンテ商会が喧嘩売られてるんだぞ。お前は優勝賞品みたいなもんだ」
「それが気に入らないの!」

 訂正したドゥランに向かって、ニルダはドンとテーブルを叩いた。

「女子供だから、どうにでもできるなんて甘いのよ! その賞品みずから、ぶん殴り返してやろうじゃないの?」

 ふんす、とニルダの鼻息は荒い。愛娘の男らしさにドゥランは頭を抱えた。

「どうしてそんなに勇ましいんだよ……」

 父親の嘆きを見据えながら、ニルダは容赦なく脅しにかかることにした。

「お父様、私が小さい頃、よく頬ずりしてきたわよね?」
「……いきなりどうした」
「お父様のおヒゲ、痛かったなあ」

 思い出したようにニルダは頬をさする。ニルダが何を言いたいのか、ドゥランもエドモンドも見当がつかなかった。

「お父様、私がやめてって言っても、やめなかったのよねえ」
「え、いや、だって。お前が可愛くってな。ほっぺが柔らかくて、ぷくぷくして」
「私、嫌って言ってたわよね?」

 ニルダは食いぎみだが静かに言った。ドゥランは渋々認めた。

「……まあ、言ってたな」
「私の頭の中に、帳簿があって」
「は? 何言ってんだ、怖いんだけど」

 ドゥランは椅子に座ったまま、気持ちだけ後ずさる。

「やめて、て言ってるのに頬ずりされたのを貸し一つに数えて心の帳簿に書きとめてあるの。お父様には、二百八十三回の貸しがあるんだなあ」
「にひゃっ?」

 猫のように珍妙な声を上げてしまったドゥランだった。それをエドモンドが若干引いた顔で眺める。

「……可愛がり過ぎじゃないかい?」
「だって可愛かったんだよ! 仕方ないだろ!」

 初めての娘で、愛しさが振り切れていたのだ。常に触っていたいぐらいだった。まさかそれをネタに貸し金を数えるような育ち方をすると、誰が思うだろう。

「債権者、ニルダ・ペンデンテは、父ドゥランにその債務の返済を求めたいと思います」

 ニルダはおごそかに宣言した。そして、ニヤッと笑う。

「つまり、私も連れて行けってことなんだけどね」
「やめろやめろ」

 ドゥランは椅子に沈み込みながら、娘を上目遣いにした。

「ニルダ、心の中で記された書類に拘束力はないよ。俺はその帳簿を見せられたことはないし、契約書にサインもしていない。今から請求書を書かれても、法的に突っぱねるからな?」

 疲れたように言われて、ニルダは父を見つめて小首をかしげた。うふふ、と愛らしく微笑む。

「もちろん、これは商取引じゃないわ。娘としてのおねだりだもん」