「アレッシオ様、おじゃまいたします」
「ニルダ嬢!?」

 リヴィニ伯爵の館にある、騎士の詰所前。ひょっこり顔を出したニルダに驚いたアレッシオは、振っていた剣を取り落としそうになった。
 なんて素直な人だろう。表情と心中が一致することの方が少ないニルダはむしろ感心した。
 求婚に承諾の返事をしたのはアレッシオ本人にも伝わっているはずだ。突然の婚約者の来訪に動揺しているのが見てとれた。

「今日はこちらだと聞いたので、お話ししたくて。少しだけ、よろしいでしょうか」

 アレッシオが待機任務中だという情報はフィルベルトから入手済みだ。今なら話す余裕があるはず。
 街道に面する門の警備や市中巡回、そして何か起こった時の即応待機。騎士団が担当する輪番の中で一番時間が取れるところを狙って来たのだった。忙しい、と逃げられないように。
 
「……こちらに」

 アレッシオは前庭の隅にニルダをうながした。後ろでニヤニヤする同僚を避けたのだ。塀のきわの木陰で、アレッシオはニルダと向き合った。

「申し込みを受けてくれて、嬉しいよ」
「本当に、そう思っていますか?」

 ニルダはおかしそうに笑ってみせた。

「男爵様のお言いつけに従っただけなのでしょう? 相手がこんな小娘で、がっかりなさったかと」

 ここは駆け引きのないあどけなさをよそおうところだろう。率直にふところに入った方が、こういう人には効く。

「ニルダ嬢」
「ニルダ、とお呼び下さい。私はまだ年端もいかないですし、アレッシオ様に釣り合う令嬢ではありませんもの」

 ニルダは無邪気な笑顔で言った。

「――では、ニルダ。がっかりなどしていないよ。確かにニルダのことはまだわからないが、これから互いを知っていけばいいと思っている」
「でもアレッシオ様は、このお話に乗り気じゃありませんよね」
「――そんなことは」
「お顔を見ればわかります――他にお好きな方が?」
「何を言うんだ! ――あ」

 アレッシオはつい強い口調で否定してから口ごもった。大きな声にニルダが身をすくませたのだ。

「――いや、怖がらせてすまない」
「本音を、お話しいただける方が嬉しいですから」

 ニルダは小さく首を振って笑う。健気な少女、に見えた。
 アレッシオは申し訳なさに胸を痛める。もちろんニルダは計算の上で振る舞っているのだが、アレッシオはそんなこととは知らなかった。
 根が誠実なアレッシオにとって、結婚前から浮気を疑われるのは不本意だ。だがこの結婚に乗り気でない本当の理由は、金目当てのいやしい父親への嫌悪感。そんなことを当の相手に言えるわけがない。しかもまだ純真な少女に。

「本当にそんな女性はいない。安心してほしい」

 真摯な態度で訴えられて、ニルダはコクリとうなずいた。
 ということは、真実の愛が手に入った、などと向こうから婚約破棄してくることはないわけだ。うん、一安心。破棄そのものは目指す結末だが、その流れだとニルダがフラれたみたいになるのが納得いかない。

「結婚したら、私はニルダを愛するよ。それは誓う」

 えええ。ニルダは少しひるんだ。なにこれ、アレッシオ様って本当にすごくいい人なんだけど。
 ニルダはやや気がとごめて、気弱な笑みでこたえた。二人、見つめ合うような形になる。
 いやいやいや、ダメだ。
 こんな風にほだされるわけにはいかない。ニルダは恋をはぐくみに来たのではなかった。

「でも、気にしていることがありますよね。お家の――債務のことでしょうか。ごめんなさい、私も商人の娘ですから。事情は知っています」

 ためらいながら早口で言うニルダにアレッシオは息を呑んだ。父のやり方にますます反発を感じ、顔がゆがむ。
 まだ少女だと思っていたのにわかっているのか。金銭を目的に求婚されるなど、けがらわしいと思われただろうか。悲しんでいるだろうか。

「――すまない」
「アレッシオ様が謝ることじゃありません。ただ、不思議なんです。アルベロアの産物は良い物ばかり。うちでも高く買っています。何故そんなに財政が傾くのかわからなくて」
「そうなのか?」

 アレッシオは目を見開いた。内政に興味を持たず騎士として身を立てるべくまい進してきたアレッシオ。そんなこととは知らなかったのだ。

 ランザ男爵家は先代に叙爵したばかりの成り上がりだ。武勇に優れ、何かの戦争で大働きをしたとかで、アルベロアを与えられたのだった。
 先代がそんな人物なので領政については家令を雇い、事務と会計は領内の教会事務員に任せきりだった。家令も事務員も代替わりがあったが、体制は今もそのままのはず。

「その方々が切り回していらして、監査も入れていないのですか」
「……かもしれない」

 嘘でしょ。
 ニルダはあまりのことにめまいがした。それで不正が成されない方がおかしい。信用するにもほどがある。男爵の頭の中はお花畑か。アレッシオの脳みそは筋肉か。
 これは何かに投資しているとかではなく、横領の果ての困窮なのではなかろうか。
 ならば元のところを正さなければ、いくらペンデンテ商会が資金を出しても食われるだけだ。というか、正しさえすればすぐに財政は立ち直るだろう。
 簡単じゃないの。呆れ返ったニルダはうつむいた。ため息が出る。

「――そこを変えなければいけないんだな」

 アレッシオはニルダの肩にそっと手を置いた。驚いたニルダが顔を上げると、アレッシオは真っ直ぐにニルダを見下ろして微笑んでいた。

「ありがとう。ニルダはとても頼りになる」
「い、いえ、そんなこと」

 ニルダはうっかり頬を赤らめてしまった。だって距離が近いんだもの。この人、顔はいいんだし。
 ウブなところを見せたニルダにアレッシオは満足した。ニルダと二人、上手くやっていけるのではないかと期待する。
 この愚直な婚約者は、こんな成り行きの婚約にも関わらずニルダを裏切る気などさらさらなかった。
 それはニルダの思惑とは真逆だ。ニルダはそのことに、まだ気づいていない。


 ***


 アレッシオから聞き出したことをドゥランに報告しながら、ニルダはプリプリ怒っていた。
 つまりランザ男爵が間抜けなだけなのだ。それに巻き込まれて婚約させられた自分が可哀想で仕方ない。そんな状況ならもうけ話にもならないだろう。骨折り損だ。

「アレッシオ様も、かなり世間知らずだと思うの」
「そうだなあ」

 ニルダの方はスレ過ぎだと思ってドゥランは苦笑いした。
 確かにアレッシオは真っ直ぐな気性のようだった。跡継ぎの兄への遠慮もあり、家業に口を出さず騎士道に打ち込んだのだろう。
 純粋な、いい青年だ。こんな縁だが拾い物かもしれないじゃないか。ニルダを背負わせるこっちが申し訳ない。

「ま、彼のことは実家とは分けて考えてやれよ」
「……何よ、お父様。私にこのまま結婚しろって言うの?」

 珍しくニルダが拗ねるように唇をとがらせた。ドゥランは娘の中に残る幼さを見た気がして、目尻を下げる。
 そうだよな、まだ嫁に出すなんて早いさ。
 よしよしと頭をなでたドゥランを、ニルダは不審な顔で見上げていた。