「それで無事、司祭様は私の仕入れた絵をお買い上げになったの。フィルのおかげよ、ありがとね!」

 邸の三階にある勉強部屋の椅子を横に向けて、ニルダは行儀悪く座っていた。礼を言われ、隣の椅子を借りているフィルベルトが照れ笑いする。

 今日はフィルベルトがペンデンテ家を訪れていた。ニルダの企みが成功したと知ったからだ。
 ニルダが報せるより早く、司祭から新しい絵を自慢されたのだった。満面の笑みだったそうだ。喜んでいただけて何よりね、とニルダはぬけぬけと笑った。

 しかし考えてみれば、司祭が傾倒する画家の情報をもたらしたのはフィルベルト。司祭に引き合わせたのもフィルベルトなのだった。
 これは利益の三分の一ぐらいを支払ってもおかしくないのではないか――ニルダはそう思ったが、ひとまず笑って誤魔化す。笑顔はタダだ。
 二十七リレを売り上げた今回の経費は、絵画製作費と献金、書簡発行発送の手間賃などなど。合計四リレ三グロッシほどしか掛かっていないのに、功労者に対してケチくさい。

「フィルベルト様、うちの馬鹿娘が申し訳ない」

 一言謝罪しに、ドゥランも勉強部屋に顔を出した。こんなことがリヴィニ伯爵家に知れたらどうなることやら。

 司祭との売買契約書の品目として記した、「絵画 A.Giovane 作」。語尾を e とも o ともつかないようにサラサラと書き殴ったのはドゥラン自身だった。
 否応なく加担させられた父親としては、文句も垂れたくなる。

「あんな詐欺スレスレの事をして……」
「詐欺まがいをさせたくないなら、私にちゃんと仕事をさせてよ」
「しかしなあ……」

 ドゥランは困った顔で娘を見た。可愛い。愛おしい。だが難しい。

「おまえは女の子なんだよ。修行中の子どもだし、女性だ。矢面には立たせられん。今は事務を覚えながら大人しくしてろ」
「じゃあやっぱり、私独自の道を行くしかないのね……」
「お願いだからやめてくれって!」

 ドゥランの悲痛な叫びに、フィルベルトは同情の微笑みを浮かべた。気持ちはわかる。
 ニルダがおかしなことに手を染めるのはフィルベルトも嫌なのだ。でも頼まれると断れない。どうしてだろうなあ、と彼も困っていた。

「ルチェッタさんは、たくさんの取引をまとめているでしょう?」
「ああ、あれは……」

 フィルベルトが呈した疑問に、ドゥランは歯切れが悪かった。
 妻のルチェッタは女ながらに高額の売り上げを誇る。それは貴族の奥方たちに食い込んで贅沢な品々を売りさばいているからだ。
 金持ちな大人の女性たちの、赤裸々でえげつない欲望。そこにつけ入るやり方を、この少年にも娘にも、まだ教えるわけにはいかないだろう。ドゥランは当たりさわりなく誤魔化した。

「ダルドの街のサロンに出入りしてるんですよ。あっちにルッカがいるもんだから、会いに行くついでだとか言って」

 ここから南東へ二十ミッレ(三十km)ほどに位置する街、ダルド。そこの商会で十六歳の長男、ルッカが働いているのだった。
 ダルドは天然の良港を持ち、貿易船も出入りする。各所へのびる街道の起点でもある。つまり品物も人も行き交う大きな街だ。
 都会暮らしを望む近辺の貴族たちが集まりにぎやかなのだが、そこでご夫人方の開くサロンにもぐり込み、ルチェッタは何をしているのか。ドゥランは妻のことも心配で仕方ない。

「私もお母様に連れていってもらおうかな」
「それはダメだ」

 ニルダの提案を、ドゥランは言下に否定した。ルチェッタの扱う商品には、まだ娘に教えたくない物も入っている。たとえば媚薬とか。青少年の健全育成の観点から非常によろしくない。

「私もお兄様に会いたいもん。パオロおじさまにだって」

 子どもたちは五歳頃から学校に通い、読み書きと簡単な算術を教わる。市井を知るべきと学校に行かされたフィルベルトがニルダと出会ったのもそこだった。
 商人を目指す者はその後十歳になると専門の学校で二・三年学ぶ。勘定や簿記を習得し、その後は徒弟として経験を積みながら独立開業を目指すのだ。
 ルッカの修行先にとドゥランが選んだのが、ダルドにいる友人パオロの所だった。

「わかったから、今度俺と行こう」
「なんでお父様と?」
「俺じゃ嫌なのか!?」

 その時、廊下をパタパタと軽い足音が二人分近づいてきた。
 ノックと同時に扉が開き、男の子と女の子がヒョコヒョコと顔を出す。

「フィルさまー!」
「フィルさまー!」

 トテテ、とフィルベルトの脇まで行って膝にしがみつく。
 同じ大きさのこの二人は、七歳になるペンデンテ家の双子。男の子がエリオ、女の子がジェンマという。読み書きの学校から帰ったところだった。

「おかえり。でも僕じゃなくて、お父様にご挨拶じゃないかな?」

 両手で頭をなでるフィルベルトにさとされて二人は振り向く。

「お父さま、ただいまー!」
「ただいまー!」

 口を切るのはエリオ、真似するのがジェンマ。
 山びこのような双子は、今度はドゥランの所に駆け寄った。抱きとめる父の顔がとろける。この二人はまだ妙な事はやらかさないのでドゥランの癒しなのだった。その腕の中から父を見上げて、クリクリと四つの瞳が並ぶ。

「エドおじさまが呼んでるよー」
「呼んでるよー」
「お客さまー」
「だんしゃくー」

 山びこが乱れた。しかし大事な情報が含まれているようだった。男爵?

「ランザ男爵か?」

 ドゥランは双子の背をポンポンとすると、慌てて出ていった。伝言があるなら先にそれを、と教えるのはまた今度にしよう。

 ランザ男爵はアデルモに隣接する地、アルベロアの領主だ。農地と豊かな森を持ち、その産品をペンデンテ商会で多く扱っている。関わりの深いお得意様だった。

「ランザ男爵といえば、私、納得いかないことがあるの」

 ニルダが眉根を寄せて、フィルベルトは嫌な予感に襲われた。これは次のもうけ話を探しているのではないか。

「アルベロアの農産物は、そこそこの生産量を維持してる。ここ数年は天候も順調だし、うちで扱う品の質も悪くないわ。なのに男爵の借金が増えてるのよね」
「え……そうなんだ」

 フィルベルトは困惑した。他家のそんな事情を教えられていいのかな、と少し落ち着かない。

「それなりの収入があるはずなのに、何に注ぎ込んでお金が無いのか不思議じゃない?」

 よほどの投資先があってそれに賭けているのか。それとも何かにトチ狂って散財しているだけなのか。

「いい投資があるなら、ニルダも知りたいってこと?」
「それもあるけど。何かにのめりこんでるなら、その事業をする側になりたいな。お金もうけの匂いがするでしょ」
「お金もうけー!」
「もうけー!」

 可愛い二重唱が姉に続く。意味がわかっているのかいないのか。
 ルチェッタからニルダへ。ニルダから双子へ。こうして薫陶を受けていくんだなと理解して、フィルベルトの頬はひきつったのだった。