ニルダは邸の勉強部屋でぼんやりしていた。脇の机では双子のエリオとジェンマが石板につづり方のおさらいをしている。たまに間違いを直してやりつつ、ニルダ自身は何も手につかなかった。
 もう、眠り薬の後遺症でもないのにな。
 あれは阿片だのマンドラゴラだの毒性の強い物を使っているから身体がしばらくダルかった。宿で寝ているところに駆けつけた兄ルッカには、さんざん叱られた。
 だがいまだに何となく気力がわかないのは、ニルダの心の問題なのだ。

 ダルドでの調査と誘拐騒ぎ、その中でニルダにはいいところがまったくなかった。
 マルツェロは商会から顧問が来るという話だけで逃げ出している。ニルダが何もしなくても急行したアレッシオが捕まえただろう。むしろニルダが余計なことをしたせいでフィルベルトを危険にさらしたわけで。
 とんだ役立たずの自分が嫌になる。


 ドゥランはそんな愛娘の様子を廊下からうかがい、そっとため息をついた。仕事部屋に戻った冴えない顔に、エドモンドが苦笑いを投げる。

「僕のニルダはまだ元気がないのかい?」
「おまえのじゃないって言ってるだろうが」

 ドゥランは渋い顔だ。ニルダは自分の娘なのに、何故エドモンドの方になつくのか。
 俺がオジサンだからか。臭いのか。ヒゲか。ベンヴォリオの家で救出した時にも「ヒゲが」と嫌がられたのを思い出す。
 ドゥランはあごをなでながら、友人の姿を見つめた。エドモンドの顔はさっぱりしている。ドゥランも毎朝ヒゲをあたればいいのだろうが、剃刀負けするのだ。

「ヒゲ……そんなに痛いもんかな」
「何を言ってるんだか」

 エドモンドはクスクス笑った。いちいち爽やかな奴め。やっかみを込めてドゥランは言ってみた。

「ちょっと試してみるか」
「え、僕で試してどうするよ?」

 腰のひけたエドモンドに少し溜飲が下がったが、ドゥランだって男に頬ずりしたいわけじゃない。
 首を振り、仕事に戻ろうと椅子にかけるとエドモンドはチラリと三階に目をやって言った。

「今回は危ない目にあったけどさ。ニルダはそこから学び、また強くなる。心配するな」
「――あんまり強くなられてもなあ」

 ぼやくドゥランに、エドモンドは大声で笑った。


 ***


 横領事件を総括するために、ランザ男爵にはペンデンテ商会までご足労願った。リージ父子の身柄を商会の倉庫に押し込んであるので、移送するよりも楽だからだ。二重帳簿の実態なども検証済みだし、ここで話す方が都合がいい。

「よくまあ、あそこまで勝手されて気づかないものですね」

 ドゥランはチクリと嫌みを言った。次第にやり口が大胆になっていくのが書類上に読み取れて面白かったよ、と調査に行ったエドモンドが苦笑していた。

「うむ。面目ない」

 さすがに小さくなった男爵だが、謝られても仕方ない。ふくれ上がった債務は謝罪では消えない。

 マルツェロ所蔵の美術品は押収してあった。まだ売却はできていないのだが、売れたとしても損失額を補填できるほどにはならないとの見積もりだった。
 少しでも回収できた金は、まず教皇庁への納税へ回さないと領地没収につながる。だがその後は、他の商会への返済を優先してもいいとドゥランは提案した。
 ペンデンテ商会としてはその分、顧問料と今後の取引の優先権をもらう。領地経営そのものに関わるなら、いくらでも儲けの目はあるだろう。もちろん貸し付け分に対してかさんでいく利息はきっちりいただくし、損をするつもりはない。


「ところで、娘とアレッシオ殿の婚約の件なのですが」

 商売に関して大まかに合意してからドゥランは切り出した。声をかけて、応接室に妻と娘を呼び入れる。

「――アルベロアの財務状況は、顧問を入れて経営改善を図れば健全に戻せるでしょう。商会として参画するこちらにも利益が見込めます。男爵家とのご縁が無くとも、そこを変える気はありません」

 男爵は眉をひそめて聞いていた。気分を害しているのではない。頭がよろしくないので理解が追いついていないだけだ。

「つまりですね、二人を結婚させる必要はないんじゃないか、と」

 ドゥランは隣に座らせたニルダを見やった。
 元々ペンデンテ商会の資金を目的に申し込まれた縁談だ。金の目処が立つなら、結婚など不要のはず。

「ニルダはまだ若い。何を学び、どう生きていくか、親の都合で縛りたくないのですよ。伴侶だって自由に選ばせてやりたい」

 ドゥランの手がそっと肩に置かれ、ニルダは静かに男爵を見る。
 事の元凶たる男爵に直接お断りを申し上げたかった。しばらく落ち込んでいたけれど、ヘコむのにも飽きた。ここで自ら決着をつけるのだ。

「アレッシオ様はとても良い方だと思います。でも私」

 ニルダは可愛らしく首を傾げた。

「領政を壟断(ろうだん)されて、まったく気づかない。そんな頭の悪いご一家の嫁なんて嫌なんです」

 言い方。
 ドゥランは凍りついた。相手は馬鹿だが、これでも爵位持ちだぞ。

「まあニルダったら」

 ドゥラン同様に硬直したランザ男爵を横目に、ルチェッタはニルダをたしなめた。

「ちょっと口が悪いわ。事実としてそうなってしまったけれど、男爵様は頭が悪いのではなく心が広くていらっしゃるのよ」

 だから言い方。ドゥランは嫌な汗をかき始めた。事実上は馬鹿だとさらっと言うな。

「申し訳ありませんわ、こんな娘ですのでアレッシオ様にふさわしくないのではと心苦しくて。おわかりいただけまして?」

 困り顔で微笑んでみせるルチェッタと、無邪気にニッコリするニルダ。ドゥランは胃が痛むのを感じた。

「ま、まあこのように無作法なところがニルダにはありまして。他に良縁を探していただいた方がアレッシオ殿もお幸せかと」

 うわずりながら何とか言いつくろおうとするが限界がある。空気を変えたくて、ドゥランはさらに外から人を入れた。

 マルツェロとベンヴォリオのリージ父子だった。
 手を前に縛られ、武闘派商会員リクが付き添っている。二人とももう抵抗する気などまったくないのだが、建前上だ。

「旦那様、申し訳ありませんでした」

 マルツェロが深々と頭を下げた。男爵の顔が怒りに赤く染まる。こんな縁談を組むことになった原因はこの男なのだ。
 わなわな震え出した男爵に、ルチェッタは悠々と話を持ちかけた。

「ねえ男爵様。お怒りはごもっともなのですけど、マルツェロにはまだ利用価値がありますのよ?」

 ルチェッタが艶然と浮かべた笑みに気を呑まれ、男爵の開きかけた口が止まった。

「縛り首にしたところで損害は戻りません。ここは身体で払わせればいいと思いますの」

 楽しそうに持ちかけるルチェッタに、男爵は目をしばたたかせた。

「お母様、うちは奴隷貿易には手を出していないけど?」

 ニルダも眉をひそめた。世の中に人身売買が存在するのは知っている。だがペンデンテ商会ではそういう取引を扱っていなかった。

「大丈夫、あてがあるの」

 マルツェロと少し話したルチェッタには自信があった。ニルダの前では言いにくいけれど、彼を喜んで迎える人がいるはずなのだった。