ニルダはぼんやりと薄目を開けた。
 目に入ったのは黒く汚れた床だ。近くには椀のような物が重ねて積まれ、筆や木ベラが乱雑に置かれている。()えたような埃っぽいような、絶妙に(かん)に障る匂いがした。

「何でこんな馬鹿な真似を。どう見ても貴族の子と裕福な家の娘だろう!」

 怒気を含んだ男の声がする。押し殺しているが、激しい口調だ。どうしたのかと働かない頭で考えかけ、身体の不自由さにニルダはハッとなった。
 手足を縛られて床に転がされていた。猿ぐつわもかんでいる。

「うるさい! あれは俺の女神(ムーザ)なんだ! 啓示なんだ! あれを描かなくてはならんのだ!」

 応えた声は低く震えているが、興奮を隠せない様子だ。どこかで聞いた声のような気がする。男たちは隣室にいるようで、戸は開いているが姿は見えない。
 身じろぎすると、ふくらはぎをトンと蹴られた。身をよじって肩越しに後ろを見れば、フィルベルトだった。
 同じように転がっているが頭を起こして小さくうなずいてくれる。フィルベルトの顔の猿ぐつわはあごの方に外れていた。どうにかずらしたらしい。そしてフィルベルトはほとんど息だけでささやいた。

「手、ほどくから」

 フィルベルトはズリズリ床を動くと、ニルダの手首に顔を寄せた。縛る布に歯を立てて解くつもりだ。
 手がクン、と引かれる感覚と、あたたかいフィルベルトの吐息。くすぐったく思いながら、ニルダは記憶を探った。

 宿に戻ろうと歩いていたはずだ。
 その途中、建物の間の細い路地から伸びた腕にグイと引きずられた。
 何? と思った。
 とたんに濡れた何かを顔に押しつけられ――もうそこから覚えていない。気がついたら、この有り様だった。

 私、くそザコじゃないの。

 怒りと羞恥心でニルダの全身はカッとなった。こうも簡単に、暴漢にしてやられるなんて!

「あんな小娘のどこが美の女神(ムーザ)なんだ?」
「お前にはわからんのか、あの気高い魂が」

 こんな目に会わせてくれたと覚しき男たちの会話。詰問され言い返している男の声を、ニルダは思い出した。
 ベンヴォリオ・リージだ。


 仲介屋で居丈高になじられたベンヴォリオは、ニルダの姿に後光を見たのだった。たぶん、ただの逆光なのだが。
 卑屈に筆を取るばかりの自分を叱咤し、さとし、導く。そんな清らかな女神の姿をニルダに勝手に感じ取り、それを描くために誘拐を企んだ。思考がかなりおかしい。
 ニルダは他所者だと店の主人に聞き、宿が並ぶ辺りで待ち伏せた。ちょうどよく一人で帰って来たニルダを見つけ、路地に引き込み薬をかがせる。ニルダを追ってきたフィルベルトに騒がれそうになり、そちらにも同じく。そして崩れ落ちた二人を荷車に積んで布で隠し、自宅に運んだのだった。
 その乱暴なやり口に怒りを隠さないのは、ベンヴォリオの息子。アルベロアの男爵家を出奔し逃走中のマルツェロ・リージだった。

「もう父さんの面倒は見きれない。後始末は勝手にやってくれ。ここに預けた品を回収して私は逃げる」
「古代の彫刻とやらか。さっさと持っていけ。あんな生々しいもの、俺は好かん」

 スルリとニルダの両手が楽になってニルダは急いで猿ぐつわを外した。かなり苦しかったのだ。
 身体を起こすとフィルベルトにシッ、と注意された。心外だ。この状況で騒ぐと思われているのか。肩がしびれていて、うめきそうにはなったけど。
 ニルダ自身の足を自由にし、フィルベルトの後ろに回る。ニルダは布でふんわりいましめられていたのにフィルベルトのは荒縄だった。扱いが違う。

「あれ、リージ親子よね」

 縄を解きながらささやいた。うなずいたフィルベルトは疲れた顔だった。ニルダよりも厳重に縛られていて、姿勢が苦しい。

「父さんにはこの肉感的な美がわからないのか! 私は遥か昔に生まれるべきだった」

 マルツェロは大げさに天を仰いだ。
 フィルベルトを解放したニルダはそっと様子を窺う。
 ゴロンとしたベンヴォリオに対してマルツェロは痩せて背が高い男だった。
 父親に預けた品一つずつ布を解き、中身を確認していく。それはカメオの装飾された花瓶、どこかの建物のレリーフの一部など。確かに現在作られている美術品とはおもむきが違い、肉体美を強調し躍動的だ。
 マルツェロは古代の美に魅せられ、そんな品を手に入れるために大金を注ぎ込んできたのだった。ベンヴォリオが嫌そうにそれらを見やる。

「下品だな」
「何だと」

 この父子は見た目も真逆だが、芸術の解釈も正反対らしい。
 だがそんな二人はともかく、逃げなくてはとニルダは思った。しかしニルダたちが居るのは奥の台所、リージ父子に気づかれず戸口にたどり着けそうにない。窓は、と見回したニルダにフィルベルトは鋭くささやいた。

「大人しくしてて。きっと助けが来る」

 語気強く言い、ニルダをそっと腕に抱く。

「僕が守るから」

 救助は来る。ドゥランも、ベトも必死で手を尽くしているだろう。
 でもその前に何かされそうになったら。
 フィルベルトは身を挺する覚悟だった。これ以上ニルダに触れさせるものか。

「さすがムッチムチな聖母のレリーフを作って僧院を叩き出された奴だ! 芸術とは精神の高みを目指すものであるべきなのに」

 悲愴な覚悟をしていたところでベンヴォリオが妙な事を言い出して、ニルダたちは振り向いた。むっちむち?

「命を育む豊かな胸と腰の官能美、それこそ究極だろう! 身体の線を隠し、板のように描いた胸に何の価値がある!」
「性を感じさせない清らかさの中にあえてその萌芽を見る。その繊細さがわからんか!」

 激昂したマルツェロとベンヴォリオが言い合いになった。その内容にフィルベルトはうろたえる。

「父さんだって結局エロスかよ!」
「俺は作品相手にイッたりはせんぞ。クソ変態め!」

 フィルベルトは強くニルダの頭を抱きしめた。これは。

「な、何? 何言ってるの?」
「聞かないで! 聞かなくていいから!」

 この親子は性的にも壊滅的な乖離があるようだった。その内容にニルダには理解不能な部分が含まれていたのだが、フィルベルトはわかってしまった。こんな議論をニルダを抱きしめながら聞くなんて拷問か。

「あんな未熟な子どもに女を感じる父さんこそ変態だ!」
「何をこの野郎! 処女性こそが至高! そのうえ誇り高さと慈悲深さを兼ね備えた少女だぞ!」

 どう誤解すればそうなるんだ。フィルベルトはくらくらした。ニルダにあるのは計算高さと欲深さだろうに。
 片耳を腕で、もう片耳を胸でふさがれているニルダはフィルベルトの速まる鼓動に困惑していた。何が話されているのだろう。
 というか、こんなにフィルベルトは強かっただろうか。がっしり抱かれて動けなかった。

 少年少女そっちのけでリージ父子はがなり合っていた。そのせいで外の物音が聞こえなかった。
 ガンッ、と戸板が激しく鳴り、室内の四人は息を飲む。戸に体当たりする音。

 中から掛けられていた錠が弾け飛んだ。
 戸を破るようにして雪崩れ込んできたのはベトとリク、ドゥラン。そして――アレッシオだった。