リッチェ商会の応接室に迎えられたニルダは、父の年上の友人、パオロの腕に抱きしめられた。

「ニルダ嬢ちゃん! おいおい、べっぴんになってきたな!」

 ダルドでもそこそこ羽振りのいいリッチェ商会。ドゥランがそこに長男のルッカを預けたのは、このパオロがいるからだった。
 ドゥランより十歳以上年上で昔からの兄貴分、パオロ。お互いに訪ね合う仲なので、ニルダも赤ん坊の頃から可愛がってもらっていた。
 肉厚でパンのようにふくふくしたパオロの手は、以前ならひょいとニルダを抱き上げたものだ。しかし背も伸びて少し女らしさを見せ始めたニルダにもうそんな扱いは相応しくない。パオロは少し寂しいが満足げにニルダを眺めた。

「ニルダは母親似か。ドゥランに似なくて、よかったよかった」
「あら、お父様はお母様が大好きだから、それだと喜ぶだけよ?」
「知ってるさ。喜ばせとけ」

 パオロは呵々と笑ってドゥランの背を叩いた。
 なんだかんだ言ってルチェッタの我がままを聞いてしまうドゥラン。その両親の関係をニルダは正確に把握しているらしい。惚れた弱みというやつだ。ドゥランは小さく照れ笑いした。

「ルッカの奴は、いないのか」
「ああ悪いな、出張中だ。うまくいけば明後日かそこらに戻るんだが」
「いや。いろいろやらせてもらってるならありがたいよ」

 しっかりと働く長男の消息にドゥランは一安心した。だがニルダは唇をとがらせる。

「なーんだ。お兄様はお出かけなの?」
「ルッカが帰るまでダルドで遊んでおいで。商会の連中は忙しいが、女中か下男になら街を案内させられるぞ」
「ああ、いや」

 パオロの申し出にドゥランは軽く手を上げた。

「ニルダの友だちが一緒に来ていてね。今その子はお祖母さんに会いに行ってるけど、明日は遊ぼうと誘われてるんだ。だからおかまいなく」

 その祖母というのが、ダルド侯の母だとは伏せておく。
 商機を感じてツテにされてもよくない。ニルダの交友関係なのだから、大人の話には巻き込まずそっとしておいてやりたいのだ。


 ドゥランはパオロを訪ねた目的について話した。取引先の経営を傾けたと思われる家令リージの、不正の証拠がほしいのだと。

「商人で、リージ?」

 家令の実家を探したいと言われてパオロは記憶を探った。ダルドでの商売のことなら、ドゥランよりずっと詳しい。

「俺も、一人しか知らないな。ドゥランの言う奴と同一人物だろう。年頃も一致する」

 出資して経営の顧問を務め、配当金をもらう。そんな男だった。もう六十がらみだが、顧問なら現役でやっていける年齢だ。しかしパオロは苦々しく首を振った。

「ずいぶん前に辞めてるよ。あいつは取りつかれちまったのさ」
「え――何に取りつかれたの? おばけ?」

 大人しく話を聞いていたニルダがたまらずに口を挟んだ。パオロはおかしそうに微笑んでポンポンとニルダの頭をなでる。まだまだ子どもらしいことを言うものだ。

「おばけじゃあない。もっと怖い――芸術ってヤツさ」



 男爵家の家令マルツェロの父だと推定される、ベンヴォリオ・リージ。
 商売に関する目の付け所にはムラがあり、ひと山当てたり、逆に大損したりと浮き沈みがひどかったそうだ。
 そのベンヴォリオはある時、投資に見切りをつけたのか、何かの啓示を受けたのか、絵を描き始めた。工房の親方も歳をくった弟子に困ったことだろう。
 元から芸術品は好きで、新人の作品を買っては人気が出た後に売るのを繰り返していた。それがこうじて自分でも描きたくなったのかもしれない。
 
「だかあいつ自身は売れっ子にはならなかったね」

 パオロは冷たく首を振った。
 絵を見たことはあるそうだ。技術はそれなりにあるのではないかと思った。だが、それだけだ。パオロは苦笑いした。

「上手いだけじゃあ人気は出ない。芸術ってやつは、俺にはわからん」



 リッチェ商会を辞して、ニルダとドゥランは今日の宿へ向かった。朝にアデルモを発ち、昼を過ぎてからダルドに着いた。そしてパオロと話し、もう夕方だ。
 先にリクが馬車と荷物をまとめ、宿の手配に行ってくれている。こちらに来た時の常宿なのでドゥランには慣れた道だった。
 まだダルドが物珍しいニルダを連れて、日の傾き始めた街をそぞろ歩く。アデルモより人が多くにぎやかな石畳の通りを眺めながら、ニルダはぼやいた。

「私だって、わかんない」
「俺もわからん。わかって買ってる奴の方が少ないんじゃないか?」

 芸術の話だ。
 上手いだけではダメと言われても、では何が足りないのか。それがわかれば苦労しない。
 強烈な個性。たぎる情熱。あふれる感性。
 そんなあやふやなもの、一般人には知ったこっちゃない。感受性に富む一部の有識者が素晴らしいと言った物を、それならばとありがたがっているだけのような気がする。
 つい最近も人気画家ジョバーノに似せた絵を売りさばいたりした。だがそれを描いた画家ジョバーネが何故評価されないのか。ジョバーノの物だと思い込めば、人は大枚をはたくのに。

 売れない絵を描き続けたベンヴォリオ。今どうしているのかパオロも知らないそうだ。
 見かけたという話はあるので、ダルドの中で引っ越したのだろう。美術工房が集まる地区らしい。明日ニルダがフィルと出かけている内に調べてみるよ、とドゥランは笑った。
 ニルダの居ぬ間に調べがつけば嬉しい。娘には、人間の汚ない部分をあまり見せたくはなかった。
 

 ***


 私物を整理した部屋を見回し、マルツェロ・リージは無表情だった。
 アルベロアの領主館に与えられた私室。そこにある調度品は少なく、贅沢でもない。
 今しがた荷造りした服飾品や本。それも家令として最低限の威厳は保っていたが華美ではなく、財務を牛耳って私腹を肥やした男の物とは思えなかった。

 だが、マルツェロは逃げることにした。罪を犯したのは事実だった。

 金策に困ったマルツェロの雇用主は、堅実な商会から顧問を入れるという。
 調べられればマルツェロが行っていた横領も、その金をつぎ込んだ私的な取引も明るみに出るはずだ。帳簿は表向きのものを作成してあるが、専門家を誤魔化せるとは思えなかった。
 これまでの領地経営に関する資料をまとめておけ、と男爵からも言われている。この機会に問題をすべて洗い出すつもりだろう。

「私が、悪いのか……」

 愛するものに思いを馳せて、マルツェロの瞳がギラリと光った。するとその顔つきは痩身に似合わず脂ぎって見えた。

 狂おしく思い詰め、手に入れたくて足掻いてきた。そのためなら金を積む。罪を重ねることもいとわなかった。
 だが、もう終わりだ。
 
 マルツェロは再び冷静をよそおうと、その情熱を隠した。
 昼日中に堂々と、荷を運び馬車にのせる。あまりに淡々としているので誰もとがめることをしなかった。みずから馭者台に乗り込むと、ムチを入れる。風に乱れた前髪が一すじ、額に落ちた。

 そうしてマルツェロはアルベロアから姿を消した。この馬車と馬が、彼が横領した最後の品だった。