もう六年前のことだ。
 海辺の街アデルモの貧民街で病が流行っていた。高熱や嘔吐だそうだ。
 それを聞いた幼いニルダの黒目がちな瞳が揺れる。不安げにふるえた唇は、小さくつぶやいた。

「まちの人たちがたくさん死んじゃったら、わたしが大人になった時どうしよう。しょうばいの相手がいないと、もうけられないのに」

 ペンデンテ商会の代表であるドゥラン・ペンデンテは、愛娘のその言い草に動きを止める。今、何と言った?
 真っ直ぐな瞳で訴える、可愛いニルダ。
 子どもらしい容姿に似合わない利己的で現実的な主張に、育て方を間違えたかとドゥランは不安になった。
 わずか六歳のニルダが商人としての自覚を持ちつつあることには満足をおぼえるが、これでいいのだろうか。
 だがニルダの言い分にも一理ある。街の人々を守らなければならない、という一点は正しい。

「お父さま、おくすりや食べ物を、みんなに安く売ってあげてよ。でなきゃ、たくさんの人が死んじゃうんでしょ?」

 ニルダにせがまれて、ドゥランは品物をかき集めた。幸いなことに病の流行はこの地方だけだったので物資は手に入った。
 香草、薬草、蜂蜜、ミツロウ、薬酒。果ては怪しげな護符や、まじないに使うトカゲの尻尾の類まで。
 どうやら死病ではないようだったが、流行り病を放置するわけにもいかない。家族や従業員たちに累が及ぶ前に終息してもらいたかった。ドゥランは人々の求めに応じて働いた。

 病が街を通りすぎてみれば、ペンデンテ商会はそれなりにもうけていた。今回はニルダの言った薄利多売がはまった。
 おまけに世の為人の為に利を求めぬ商売をすると下町で評判になった。そのせいか、商人仲間や貴族の間でも実直で誠実な男だと評価されるようになる。するとアデルモのみならず近隣の街との取引も増え、事業が拡大した。
 ニルダさまさまだ。この娘は幸運の女神だろうか。
 ニルダが読み書き算術を学び始めてまだ一年。これからどう育つだろう。女であっても商売をしたいのなら才覚次第とドゥランは考えている。

「ニルダ、おまえも商人になるか?」

 ドゥランが高く抱き上げてクルクル回ってやると、ニルダははしゃいで笑った。黒髪が揺れ、赤いチュニックドレスがフワリと舞う。ドゥランは愛する娘を抱きしめて頬ずりした。

「おヒゲいたい! やめてよ、お父さま!」

 ニルダが唇をとがらせて元気に抗議する。ドゥランはニヤリとして、もう一度娘に頬を寄せた。
 世の男は浅はかなのだ。これが本当に嫌われる行為だということを知らない。
 軽い悪ふざけで女との距離を縮めようなど甘いのだった。たとえ相手が血をわけた娘であっても。
 ニルダは「お父さまにかし。ひとつ、ついか」と心の帳簿に書きつけた。


 ***


「おいニルダ! この手紙はなんだ!?」

 ノックもせずに勉強部屋に駆け込んできたドゥランを、十二歳になったニルダはきょとんと見上げた。

「どの手紙?」

 机に向かっていたニルダは立ち上がると、ドゥランの握る書簡をひょいとのぞいた。
 それは前金の領収書と、絵画の送付通知。加えて残金二リレの支払いを求めるものだった。その宛名は、ニルダ。
 最近背が伸び大人びてきたとはいえ十二歳のニルダはまだ子どもだ。子どものはずが、何を請求されたのか。一リレあれば四人家族一ヶ月分のパンが買えるのに。
 それに何より、ドゥランの知らない取引が商会の中で行われているのが不愉快で仕方ない。

「ああ、これ」

 ニルダは事もなげに笑って肩をすくめた。

「私の買い物なの。品物の方も来てたでしょ? うふふ、仕事の早い作家で良かった」
「良かった、じゃないだろう!」

 ドゥランは困惑した。内緒で何をやらかしたかと思えばぬけぬけと、買い物だと?
 届いた絵画はごくありふれた、寝室に飾るほどの小ささだった。だが題材は風景や恋物語などではなく、宗教画『受胎告知』。
 聖母信仰は昨今流行だが、ニルダが選んで買い求めるにしては少々渋い趣味だ。何の企みかとドゥランは不安になった。
 ニルダは心の中でニンマリした。父を驚かせたくて、鼻を明かしたくて、仕組んだことなのだ。

「絵はどこ? お父様の仕事部屋? 私にも見せて!」

 ニルダはいたずらな顔でスルリと扉をすり抜けた。ドゥランも慌てて追いかける。

「家の中を走るんじゃない」
「走ってないもん」

 父親の小言にニルダはツーンとした。軽やかに踊るように、早足で歩いているだけだ。それにしても行儀は良くない。
 ふわりと後ろにまとめた髪は少し癖毛だ。結わずに顔の横に垂らした一房がくるくると頬をふちどる。
 母親に似て美人になってきたなと親馬鹿なドゥランは目を細めてしまうが、ニルダの性格の方には手を焼いているのだった。

 三階から階段を駆けるように下り、二階の父の部屋へ。そこにいる人を見て、ニルダは花が咲くように笑った。

「エドおじさま! おかえりなさい」

 やあ、と手を上げたのはエドモンド・マビリオーニ。ドゥランの年下の友人でペンデンテ商会の共同出資者だ。十日ほど近郊の街と農村を巡っていて、今帰ってきたところだった。
 エドモンドは目を通していた留守中の書類を置くと、ニルダの肩を抱き寄せて頭に軽く口づけた。

「僕がいない間もニルダは元気だったみたいだね」
「あら、おじさまがいなくて、とっても寂しかったのよ?」

 上目遣いでにらむニルダの頬に手をやってエドモンドは楽しそうに笑った。

「それは嬉しいな。せっかく戻ったのにここはもぬけの殻だし、三階でガミガミと声がするし。ドゥランは僕のニルダにひどいことしてないかい?」
「例の絵に気づいただけ」
「これか」

 机の上で解かれた包みからのぞく『受胎告知』を、エドモンドはチラリと見た。娘と友人の間にドゥランが割って入る。

「待て待て待て。なんでおまえが絵の事を承知なんだ」
「エドおじさまには話を通したから」
「なんでエド!?」

 情けない悲鳴を上げるドゥランを横目に、エドモンドは問題の絵画をそっと手に取った。

「父親が過保護だからだよ。うん、いい出来だ。まさにアントニオ・ジョバーノ風だね」
「ジョバーノ……?」

 それは最近流行し始めた画家だった。投機商品としてはアリかもしれない。しかしジョバーノであるならすでに値が上がり、あの書簡に記された金額では買えるはずもないが。
 ドゥランは冷静になり、目を細めてその絵を検分した。
 右下の隅の暗がりに、かすれて読み辛い署名が入っている。なんとか A.Giovane と読めた。
 A.ジョバーネ。

「贋作か……?」

 眉をひそめたドゥランに、ニルダは小馬鹿にしたような笑顔を向けた。

「ジョバーノの作品として売るわけないでしょ。これはジョバーネの新作なの。ちゃんとサインもあるじゃない」

 しれっと言い切るニルダが何を考えているのか、ドゥランにはわからなかった。