里村隼人(さとむらはやと)。里村君。私はそう呼んでいた。
 私よりも身長が低いけれど、手のひらは、とても大きかった。
 足のサイズも、あの身長にしては大きかった気がする。
 身長が低いから見落とされがちだったけれど、よく見ると、顔も悪くは無かった。むしろ、良い部類に入るのではないだろうか。美少年とまではいかないまでも、クラスでは上位に入るぐらいの。
 私は彼の瞳が好きだった。決して大きくはないけれど、瞳の中に炎が宿っているような。そんな瞳だった。
 彼といる時の私は自然に振る舞えていた覚えがある。
 彼はよく歌を聴かせてくれた。その歌は私の知らない歌ばかりだった。でも、とても心地良かった。春の風が頬を撫でるような感覚。
 実際、何語で歌っているのかさえもわからなかった。英語だったらなんとなくわかったはずだ。
 でも、そんな事は、関係なかった。ただ、彼と一緒に、瞬く間に過ぎてゆく時間を共有できる事が何よりも嬉しかった。
 彼は、たまに将来の話をしてくれた。彼の夢は、歌手になる事。彼は、私にだけ、その事を話したと言ってくれた。
 初めて聞いた時は、すごく驚いた。歌手と言う響きは、異国語を初めて聞いた時のような響きだったから。
 でも、不思議と、「無理だ」と言う気持ちにはならなかった。彼には、何かを成し得そうな特別な雰囲気があったから。それは、俗に言う芸能人のオーラとは違う気がした。
 彼がよく歌を聴かせてくれた場所は、学校の帰り道にある河川敷だった。
 その河川敷は、ドラマの撮影でもよく使われているようで、ロケ地巡りをしている学生風の人たちがよくいた。
 皆一様に、携帯で写真を撮っては、誇らしげな顔をしていた。
 その河川敷の一角に、私の胸元まで雑草が伸びている場所がある。
 そこには、ペットボトルや雑誌、衣服など様々な物が捨てられている。そこで、彼は歌うのだ。
 私は初め、「何でこんなところで」とも思ったけれど、彼にとっては特別な場所だったようだ。
 そこに、どこで拾ってきたのかわからないような木の箱を置いて、ステージにしていた。
 彼は歌う時にだけ、いつもの少し猫背な姿勢を正す。それから、私以外に誰もいないのに、周りを見渡してから一瞬瞳を閉じて声を出す。
 きっと、彼には、未来の大勢の観客が見えているのだろう。
 彼の声は、強いとも弱いとも感じない。絶妙なバランスで成り立っている。
 ささくれた気持ちの時も、彼の声を聴けば、すぐにシルクの生地のような気持ちになれる。
 歌い終えると、彼は深々と頭を下げて、私の双眸そうぼうをじっと見つめてくる。
 その時の彼の瞳は、何よりも澄んでいて真っ直ぐだった。
 最後に彼の歌を聴いたのは、確か中学三年の冬だったと思う。
 周りは、受験勉強に追われていた頃だ。私はと言うと、高校に行ってまで勉強はしたくなかったけれど、両親に高校さえ卒業してくれたら、後は自由にしていいからと言われていたので、高校までは行く事にした。
 彼は、高校受験をしないようだった。
「僕は、高校には行かない。歌だけで生きて行きたいんだ」
 彼のその言葉は、その時の私には、とても大人びて感じた。
 彼の歌を最後に聴いたのは、雪が降っている日だった。
 雪が、彼の睫毛に舞い降りて、彼が瞬きをしたら一瞬で消えた。
 雪が溶けるのは当たり前なのに、それが、種明かしのないマジックのように感じた。
 彼は、鼻先を真っ赤にしながら、いつもの調子で歌い続けた。
 数曲歌い終えてから、いつものように私の双眸を、じっと見つめてきた。
 それから、「今日は、もう一曲、聴いて欲しい歌があるんだ」と彼は言った。私は、「いいよ。聴いてみたい」と返した。
 彼は深く呼吸をした。その瞬間、空気が変わった。舞い振る雪が、止まった気がした。
 彼を見ると、大きな手のひらが震えていた。きっと、それは寒さのせいではなかったはずだ。
 彼が歌い始めたのは、今までに聴いた事のない歌だった。初めて歌ってくれた歌だった。
 相変わらず何語で歌っているかは、わからなかったけれど、私の心を強く揺さぶった。
 心の最深部まで突き抜けてくるような、そんな歌であり曲だった。
 その歌を歌い終えて、初めて彼が、「今の歌どうだった?」と感想を求めてきた。
 私は、手の甲で頬を拭ってから、「すごくよかった。今までで、一番よかった」と答えた。
 彼は、「ありがとう」とだけ言った。
 見せた事もないような表情をして。