空が運ばれたのは、大きな病院の敷地内の一番東にある緩和ケア病棟。壁紙や蛍光灯の色合いが柔らかくて、病院とは思えない温かみのある空間だった。

彼はカバンの中に自分の名前や病名、入院していた病院や主治医の名前まで書き記したカードを入れていて、それを見た救急隊員の人が病院に連絡をして運んでくれた。

外来の受診時間が過ぎているためか、ここには誰もいない。たまに看護師さんらしき白衣を着た人が、行ったり来たりしている。

私たちが病院に着いた時、空のおじさんとおばさんはすでに搬送口に一番近い処置室の前にいた。
きっと救急車で運ばれている時に、病院から連絡があったのだろう。ふたりはストレッチャーに乗せられた空と一緒に処置室の中にいる。
空から病院の近くに引っ越したと聞いていたから、連絡からすぐに駆けつけられたのだと察せられた。

扉の閉まる瞬間、隙間からちらりと見えたおじさんとおばさんは随分憔悴して見えた。運ばれてきた空のそばに寄り添い、彼の手を握りしめながらなにか話しかけている様子を見ると、今日1日無理をさせてしまったのではないかという罪悪感に襲われる。

今日は特別体調がいいと空は言っていたけれど、身体も細くなっていたし、あまり食事も摂っていない。久しぶりの外出だったのなら、なおさら疲れさせてしまったのかもしれない。

今日のせいで、今後の外出が制限されるようなことがあったらどうしよう。
ううん。それよりも、本来残されていたはずの時間が短くなってしまっていたら……。

空は残りの時間を自由に生きたいと、入院生活を続けるよりも退院を選んだ。だから今日みたいに外に出て自由に過ごすことは空の希望通りのはずで、きっと彼は後悔していない。

私だって、空と今日みたいにたくさん出掛けたい。楽しい思い出をたくさん作りたい。
けれどその一方で、どこにも行かなくてもいいから少しでも長く生きていてほしいとも思う。

「空……空……」

両手を組んで、祈るように何度も名前を呼ぶ。

家族ではない私は、当然中には入れない。彼が無事だと確かめてから帰りたくて、処置室から少し離れた待ち合いスペースに座っていた。

今日はこのまま入院になってしまうのか、それとも自宅に帰れるのだろうか。次に会う約束をしないと不安で、私は空と話ができるようになるまでここで待たせてもらうつもりだった。

「美波ちゃん」

処置室の扉が静かに開き、懐かしい声で名前を呼ばれてハッと顔を上げた。
視線を向けると、記憶の中よりもずっと痩せた空のおばさんが私を見て小さく手招きをしている。
その後ろでは、白衣を着たお医者さんとふたりの看護師さんが部屋から出ていった。

「おばさん……」

膝が震えてなかなか力が入らなかったけれど、なんとか処置室の前まで歩く。
言うべき言葉が見つからずに、ただ頭を下げた。

「ごめんなさい……っ。私、今日ずっと空と一緒にいたの。もっと早く救急車を呼んでいれば――」
「謝らないで。こうなったのは誰のせいでもないわ。空だって自分でわかっていたはずだもの」
「……え?」
「空が呼んでるの。もし大丈夫なら、一緒に……」

目元を真っ赤に染めたおばさんが、私に小さく微笑もうとして……失敗した。
顔をくしゃりと歪め、唇を噛み締めて泣くのを堪えているおばさんを見て、私の心臓がドクンと嫌な音を立てた。

「今日はね、久しぶりに『いってらっしゃい』って空に言えたのよ」
「……え?」
「治療をやめてしばらくは体調がよかったんだけど、やっぱりひとりで外に出かけることはできなかったから。ここ最近はずっと薬の影響で眠ってばかりだったし、私たちもそろそろだと覚悟はしていたの」

『覚悟』という言葉が重すぎて、うまく飲み込めない。
ショッピングモールの屋上庭園でも感じた違和感が、喉奥につかえている気がする。

「でも今日は朝から起きて、自分の足で階段を下りてきた。『美波に会いに行かせてほしい』って頭を下げたのよ。たぶん、今日が最後だからって」
「今日が、最後……」
「驚いたけど、私たちは見送ることにしたの。空はもう十分頑張ったもの。あの子の最後の望みを叶えてあげたかった」

ドクン、ドクン、と自分の心臓の音が静まり返った病院の廊下に響き渡る。

――――私、なにか大きな勘違いをしてるんじゃ……。

ずっと頭の片隅に引っかかっていた違和感が、ここにきて大きく膨らんでいく。

『進行が早くて、もって1年だろうってハッキリ言われた』

空から聞いた時、私はその話を勝手に最近のことだと思っていた。
余命を宣告された空は、自分に残された時間が残り1年だと知り、私に会いに来てくれたのだと。

空の病気が再発したのは中学3年の冬。そして身体中に転移していると知ったのは、私と最後に会った日、つまり去年の3月初旬。
それから入院して放射線治療をしていく中で、これ以上は手の施しようがないと余命宣告を受けたと聞いた。

宣告されたのは、一体いつ?
考えてみれば、明確には聞いていない。
空は、あとどのくらい生きられるの……?

「おばさん、空は……」

いつの時点から、空の命のカウントダウンは始まっていたの……?

ぞわ、と全身に鳥肌が立つ。
もしも、入院してすぐに宣告を受けていたのだとしたら。

『こうなったのは誰のせいでもないわ。空だって自分でわかっていたはずだもの』
『あの子の最後の望みを叶えてあげたかった』

先ほどのおばさんの言葉が頭の中で大きく響く。

突然病気を打ち明けられ、残された時間が短いと聞いてショックを受けたし、絶望で膝から崩れ落ちそうな衝撃を受けた。
だけど、それでも明日も会えると当たり前のように思っていた。

今日みたいにふたりで出掛けたり、もしも入院することになればお見舞いに行ったり、そういう日々を少しずつ積み重ねて、これから恋人として短くても幸せな思い出をたくさん作ろうと考えていたのに。

まさか、今日が最後……?

そうだとすれば、辻褄は合う。

『他の日じゃダメなんだ。どうしても今日、美波に一緒に来てほしい』

空が〝今日〟にこだわっていた理由。
それは、彼には今日しか残されていなかったから――――。

きっと空は自分の残り時間を正確にわかっていて、それでも私に会いに来てくれたんだ。
私を心配して、私が笑って過ごしているのかを確認するために。病気を打ち明けるつもりはなかったと言っていたから、それを見届けたら家に帰るつもりだったのかもしれない。

けれど私は1年前の失敗を引きずって努力する意義を見失い、大切な時間を無駄にして過ごしていた。
それを放っておけない彼は、私と一緒にふたりの思い出の場所を巡り、本来の私を取り戻す手助けをしてくれた。

そして余命を抱えているという事実が私の知るところとなり、覚悟を決めたのだ。
命の灯火が消えようとしている中、私と最初で最後の恋をしようと……。

おそらく間違ってはいないであろうその真相に辿り着き、私はもう涙を堪えきれなかった。

「空、どうして……空……っ!」

震える手で必死に口を塞ぎ、叫びださないようにするだけで精一杯。リノリウムの床にぽたぽたといくつもの雫が零れ落ちる。

きっと彼は敢えて言わなかった。いつ余命宣告されたのかを。
私が残り時間を勘違いしていると知りながら、訂正しないまま過ごしていたなんて。

なんて優しくて、残酷な嘘――――。

「……美波ちゃん、空を見送ってあげてくれる?」

泣き崩れそうな私に、控えめな声が届く。

言葉の意味は、考えなくてもわかった。
残された時間は1日どころか、もう一刻の猶予もないのかもしれない。

「ごめんなさい。もし辛いのなら――――」
「ううん」

無理をしなくてもいい、と続くであろうおばさんの言葉を遮る。
それから手のひらで乱雑に涙を拭うと、ぱちぱちと何度も瞬きをして水分を飛ばした。

そうだ。空と約束したんだ。
辛いのは私じゃない、病気と闘っている本人に決まってる。

彼が悲しんでいるのを見たくないと言うのなら、私は泣いたりしない。これ以上、彼を苦しめたくない。
必死に涙を堪えるのは、その一心だった。

「空と約束したの。ちゃんと泣かないでお見送りするから、入ってもいいですか?」

おばさんは私の言葉に驚いたような顔をしたけど、またしても笑顔を作るのに失敗して「ありがとうね」とぼろぼろと涙を零して頭を下げた。


コンコン、とノックして部屋に入る。

リクライニングのベッドに緩やかな角度をつけた状態で、空は横になっていた。清潔そうな真っ白のブランケットが腰まで掛けられている。
処置室には小さな窓がひとつだけあり、そこからオレンジ色の光が強く差し込んでいた。

ベッドの横には丸椅子がふたつ並んでいて、そのひとつには空のおじさんが座っている。
振り返ったおじさんが、私を見て「あぁ、美波ちゃん。ありがとう」と頭を下げた。

「空、美波ちゃんが来たぞ」

一歩ずつベッドに近づくと、おじさんは立ち上がって場所を代わってくれた。

「え? でも……」

空の両親を差し置いて、私が一番近くにいくなんて。
戸惑ったけれど、おじさんもおばさんも首を振って私を空のそばへ行かせてくれた。
もしかしたら、もうお別れは済ませたという意味なのかもしれない。

ベッドの脇から顔を覗き込むと、空はぞっとするほど青白い顔で目を閉じている。
ドラマで見るような酸素マスクもつけていないし、点滴やなにかの管がたくさん刺さっているようなこともない。入院着でもなく、さっきまで一緒にいた彼のまま、ただ横たわっているだけ。

それはきっと、もう酸素マスクも点滴も必要ないということなんだろう。
このまま眠ったように旅立つのかもしれない。

「空」

そう考えたらたまらなく怖くなって、つい名前を呼んだ。自分でも思った以上に、不安に揺れた声だった。
苦しまなくていいのなら、このままいかせてあげたほうがいいに決まっているのに、声を掛けずにはいられなかった。

「空……」

もう1度呼びかけると、彼は私の声に反応してゆっくりと目を開けた。
もう瞼を動かすのすら今の彼にとっては重労働なのか、ゆっくりと少しずつだったけれど、もう一度その大きな黒い瞳に私を映した。

「み、なみ……」

私の名前を呼ぶと、口の端が少しだけ上がった。
きっと彼の中ではニッと楽しそうに笑う、いつもの笑顔のつもりなのだ。

今日は私たちふたりだけのエイプリルフール。だから私も笑った。

「また騙された。……あと1年あるって思ってた」

さすがに肩をぺしっとたたくわけにはいかないけれど、毎年お馴染みのやり取りを、いつも以上に楽しそうな声で繰り返す。

だけど、それが限界だった。

声が震えていないか、頬が引きつっていないか、気を付けなくてはならないことはたくさんあるけれど、そのどれもが吹き飛んでしまった。

そっと手を握ってみても、空は握り返してはこない。してやったりという笑顔も見せない。握力だけでなく、頬の筋肉すらもう自由に動かないのだ。

その現実が容赦なく私を打ちのめす。

頭で事実として知っていることと、心で理解して納得することは全然違うのだと思い知らされた。

もうすぐ、この世から空という存在がなくなる。
それは悲しみよりも、何かにしがみついていないと正気を保っていられないほどの恐怖だった。

空のおばさんには泣かずにお見送りするなんて言い切ったけれど、そんな覚悟なんて全くできていない。

「ズルいよ……待ってよ、空。まだ伝えたいこと、たくさんあるんだから……っ」

静かに、少しずつ、確実に空の命の炎が消えていく。
それを目の当たりにすると、なにから伝えればいいのかわからなくて頭が真っ白になる。

「今日、来てくれて本当に嬉しかった。お揃いのキーホールダーも大切にする。あと、今度中学の時の友達にも連絡してみようと思う。卒業間際の態度を謝って、また仲良くしてくれたら嬉しいって伝えてみるつもり」

彼からの反応はない。それでも喋るのをやめられない。
それは伝えたい思いがたくさんあるということでもあるし、無言になるのが恐ろしいからでもあった。
決して零してはならない涙の代わりに、空への思いを吐き出す。

「全部、空のおかげだよ。私、これからあの学校で頑張るし、絶対小児科の先生になる。空がヤキモチ焼くくらい少年たちに人気の女医さんになってやるんだから、ちゃんと見ててよ。それから、それから……っ」

溢れてくる思いを止められず、空の手を握ったまま隠しきれない本心を打ち明けた。

「会いに来てくれてありがとう。大好きだよ、空」

いちばん伝えたいのは感謝の気持ち。彼が最後まで私を気にかけてくれていたのなら、もう大丈夫だと安心してほしい。
それと同時に、育ち過ぎた恋心を胸のうちに留めておくのは限界だった。

「好きにならないなんて、嘘にきまってるじゃん。今日は私たちのエイプリルフールだもん。どう? 騙される側の気分は」

心なしか、空の黒目がちな瞳が揺れ動いた。
それに気付いた私は、唇を噛み締めて覚悟を決め直す。

「私だって、いつも騙されっぱなしじゃないんだから。ずっと……ずっと空のことが好きだった」

私は必死に口角を上げる。

泣いちゃダメだ。
泣くな。泣くな、私。
泣いたら、この想いを伝える資格がなくなってしまう。

「幼なじみだって周りに言い張ってたけど、ずっと空が好きだった。会えない間も、今も、ずっと大好き」

ずっと蓋をしていた想いを口にした瞬間、止めどなく溢れてくる。
好き。好き。空が大好き。

「み、なみ……」
「うん?」
「すき、だ……」
「……っ、うん」
「わら、って……」
「うん……笑ってるよ。ずっと、ずっと」

空がこの世界で最後に見るのは、最初で最後の恋人の顔。私の満面の笑顔。
そのために、会いに来てくれたんでしょう?
だから『好きにならないで』なんて思ってもいないことを言ったんでしょう?

「私は大丈夫だよ。ちゃんと笑顔で生きていくから。だから言わせて。空が好き。大好きだよ」

いつ好きになったとか、どこが好きとか、そんなのわからない。
ただ、空だから。ずっと一緒にいてくれて、私に寄り添ってくれた。いつも私を笑顔にしてくれた。そんな空が大好きなんだよ。

繋いでいた手をわずかに握り返された直後、空の瞳が閉じていく。まるでスローモーションのように、ゆっくりと。
そして糸が切れたように、身体からガクンと力が抜けたのがわかった。

「空……?」

ハッとして呼びかける。細い肩を掴んで身体を小さく揺すっても、なんの反応も返ってこない。

「空……? ねぇ、空……っ!」

ひゅっと自分の息を飲む音が響いた。口元を押さえて後ろを振り返ると、目元を抑えるおじさんと、床に崩れるおばさんの姿がある。

その光景が、ひどく残酷な現実をあらわしていた。

「そんな……」

ずっと握っていた空の手は、まだ当然のように温かい。それなのに、どれだけ呼んでも彼はもう目を開けてはくれない。

「待って、やだっ……! ふっ……う、あ、あぁ……っ! いやぁぁぁ……っ!」

空が死んでしまった世界は、ぐにゃりと歪んで均衡を崩した。
私は静かに横たわる空に縋りつき、髪を振り乱して泣き叫ぶ。

空が旅立ってしまった悲しみも、張り裂けそうな胸の痛みも、もう我慢しなくていい。

溢れる涙も、聞くに耐えない慟哭も、あの小さな窓から見えるオレンジ色の夕空が吸い取ってくれるだろうか。

処置室に、私の悲鳴のような泣き声だけが響いていた――――。



***

数日後、空のお葬式が執り行われたらしい。

らしい、というのは、私は参列しなかったからだ。
生前の彼の希望で家族や親族のみの小さな式だったけれど、空のおじさんとおばさんは私にも日程を知らせてくれた。

けれど彼の死の直後に正面から向き合う気にはなれなくて、お母さんを通じて行けないと伝えてもらった。

空が亡くなった金曜日。
あのあとの記憶は正直あまりない。

彼の亡骸に縋りつく私を引き剥がしたのは、たぶんお母さんだったと思う。きっと空のおばさんが連絡してくれたのだろう。

どうやって家に帰ったのかも覚えていない。けれど機械的に食事をして、お風呂に入って、睡眠をとっていて、気づけばお通夜とお葬式が終わったと聞かされた。それからずっと、学校にも行かず自分の部屋へ引きこもっている。

涙は枯れてしまったのか、もう1滴も出ない。ただぼうっとしていたら1日が過ぎていく。

きっと空がこの現状を知ったら怒るだろうし、それ以上に悲しむと思う。わかってはいるけれど、まだ空の死から立ち直れそうにない。

今日は金曜日。ちょうど空が旅立って1週間が経った。外は生憎の雨模様で、午前中だというのに室内は薄暗い。
けれど電気をつける気力すらなかった。

早く日常生活に戻らなくてはいけないと頭ではわかっているのに、どうしても身体が動かない。


コンコン、と部屋の扉がノックされた。

「美波、入るね」

虚ろな瞳でドアに視線を向ける。
ベッドに背中を預け、ラグの上にただぼんやりと座り込む私を見て、お母さんは泣きそうな表情になった。部屋の入口にある電気のスイッチを入れると、私の返事を待たずに部屋に入ってくる。
それから私の向かいにゆっくりと腰を下ろした。

「空くんのことだけど、少し話しても大丈夫?」
「……なに?」
「今朝、律子さんから連絡がきたの。美波と話がしたいから、大丈夫ならうちに来てくれないかって。まだ無理なら日を改めてって言ってくれてるけど……どうする?」

律子さんとは、空のおばさんのことだ。
きっと空と過ごした日のことを聞きたいのだろう。
あの日の私の取り乱しぶりや、葬儀に参列しなかったのを考慮して、少し時間を置いてくれたのかもしれない。

「わかった。行く」

私はのろのろと出かける準備をして、お母さんと一緒に空の自宅へ向かうことにした。
フロントガラスに叩きつけられる大粒の雨と、それをワイパーが無造作に拭い取っていくのを、助手席から静かに眺める。
車で約1時間。空の家族が引っ越した先は、病院へ歩いて行けるほどの場所にある4階建てのマンションだった。

「わざわざ来てもらってごめんね。ありがとう」

出迎えてくれたおばさんは控えめではあるけれど笑顔を浮かべていて、あの日よりも多少顔色がよく見えた。
そのまま中に促され、リビングへ上がらせてもらう。

小学生の頃は、何度も空の家へ遊びに行った。
以前の家とは間取りが違うけれど、テーブルやソファなどは変わっていなくて、懐かしさがこみ上げてくる。

「このたびは、大変ご愁傷さまでした」

お母さんが空のおばさんに頭を下げると、「ありがとうございます」とおばさんも返事をした。
こういう時のマナーだと知っているけれど、なんだか他人行儀に感じる。無機質な『ご愁傷さま』という言葉によって、空がいなくなった現実を突きつけられた気がした。

それでも、私はお母さんに倣って頭を下げた。

「あの、お葬式に出なくて、すみませんでした」
「ううん。美波ちゃんにとっては突然だったでしょう。それなら気持ちの整理がつかなくて当然だから」

おばさんは小さく微笑むと、視線をリビングの隣の和室に向けた。
そこには白い布で覆われた簡易的な小さな祭壇がある。
階段のように3段になっていて、1番上の真ん中に空の写真が置かれていた。

写真の中の空には見覚えがある。中学の修学旅行の時に清水寺で撮った写真だ。空だけがアップで切り取られているけれど、その隣には私も写っていたはずだ。そう確信できるのは、高校に入学する前まで、私の部屋の机の上にも同じ写真が飾られていたから。

3泊4日で大阪と京都を回る旅行で、私と空は当たり前のように同じ班だった。
京都の定番の観光スポットをできるだけたくさん回りたくて、空に無理難題を押し付けた思い出が蘇る。

「律子さん、空くんにお線香あげさせてもらってもいい?」
「えぇ、もちろん。ありがとう」
「美波もおいで」

お母さんに促され、私は祭壇の前の座布団に正座をする。
これまで仏壇に手を合わせたことはあるけれど、それは全部親戚のおじいちゃんやおばあちゃんに対してだ。
同い年の空に向かってお線香をあげているなんて、空が亡くなったのを理解しているはずなのに現実味がない。
お線香の独特のにおいがあたりを包み込む。

「ふたりともありがとう。それから、ずっと仲良くしてくれていたのに、黙って引っ越してしまってごめんなさい」

おばさんは改めて深々と頭を下げた。

「美波ちゃんは、空の病気のことをなにも知らなかったのよね」
「……うん」
「あの日、空から全部聞いたの?」

空と過ごした最後の日を思い出すのは、正直に言ってまだ辛すぎる。
けれど、それを話すためにここに来たのだとなんとか自分を奮い立たせた。

「小学生の時に1度手術したことと、中3の冬に再発したっていうのは聞いた。入院したけど、途中で治療をやめたっていうのも」
「そう。あの子、ちゃんと話したのね」
「でも空は私に話す気はなかったって言ってた。お昼過ぎに1度急に苦しみだして、そこで初めて空がすごく痩せてるって気付いたの。その時にやっと話してくれた。でも、まさか……」

病気を打ち明けられたその日に逝ってしまうなんて思わなかった。
その思いは言葉にならなかったけれど、おばさんには伝わっているだろう。

目頭がツンと痛む。視界がゆらゆらと揺れるのを、唇を噛み締めて堪えた。あれだけ泣いて、もう枯れてしまったと思ったのに、まだこんなにも悲しくて胸が押し潰されそうだ。

「ラストラリーって言うんですって」
「……え?」

おばさんが静かな声で口にした耳慣れない言葉に、私は俯いていた顔を上げた。

「ろうそくは燃え尽きる直前に一番明るくなるでしょう? それに例えて、死期が近い人が一時的に回復することを、ラストラリー現象って言うんですって」

別名、中治り現象。
なにも食べられなかった人がアイスを食べたがったり、どれだけ話しかけても意識が戻らなかった人が急に目を覚まして喋ったり。
そういう少し信じられないようなことが、死を目の前にした人に見られるらしい、と続けて教えてくれた。

「あの日の朝一番に言われたの。たぶん自分は今ラストラリーの真っ只中で、今日が人生最後の日になると思うって。だから、どうしても美波ちゃんのところに行かせてほしいって頼まれた」

あの日も、おばさんはそう言っていた。
私は涙を拭うこともせずに、じっと彼女の話に聞き入った。

「もちろん最初は信じられなかったし、主人は反対したの。さすがにひとりで移動するには遠すぎるから。どこかで倒れてしまったらと思うと心配だし、もしかしたら美波ちゃんに迷惑をかける可能性もある。そう考えたら、親としては行かせるべきじゃなかったのかもしれない。でもね、空がどれだけ美波ちゃんのことを大切に思っているか知ってたから……私は反対しきれなかった」

おばさんは立ち上がると、祭壇の隣に置いてある封筒を持って私のすぐ隣に腰を下ろした。

「これ、読んでみて」
「え、でも……」

封筒には『父さん、母さんへ』と書いてある。間違いなく空の字だ。きっとおじさんとおばさんへの思いが綴られた手紙に違いない。それを私が読むなんて……。

「いいの。もしかしたら空は怒っちゃうかもしれないけど、美波ちゃんにも読んでほしいから」

おばさんはふふっと肩を竦めて笑うと、綺麗なブルーの封筒を差し出した。
なぜ私に読んでほしいのかわからないけれど、この世界に確かに空がいたという痕跡に触れたくて、私は手紙を受け取った。
そっと便箋を取り出し、懐かしい文字に目を細める。

想像した通り、手紙の内容は両親への思いを伝えるものだった。

特に治療をやめる選択をした空を受け入れてくれたことについて、ふたりの心情に思い巡らせながら感謝しているとある。

本来は自分が親孝行をしなくてはならないと思っていたのに、退院してからは食卓に好物しか並ばなかったこと、休職してまで家族の時間を取ろうとしてくれたことなど、最後の1年間がどれだけ幸せだったかが書き記されていた。

十歳で手術をしてから今日まで、未練がないように、後悔しないように生きられた。それはサポートしてくれた両親のおかげだと、空らしい言葉で綴られている。

何度も滲む涙を拭って読み進めていくと、唐突に私の名前が出てきて驚いた。


【それから、俺がこうやって前向きに生きようと思えたのは、美波の言葉がきっかけだった。あいつに悲しい思いをさせたくないから、何も言わずに引っ越したいってわがままを言った。聞き入れてくれてありがとう。
だけど、俺が死んだっていつか美波が知った時、あいつ絶対びーびー泣くから。それだけが心残りかも。
もし美波が俺の病気のこととか死んだことを知る時が来たら、『約束はずっと守る』って伝えてほしい。たぶん、それで伝わるから。よろしく。】


「……っ、空……」

本当に、ずっと空は私のことを思ってくれていた。
そして自分がいなくなったあとも、私を支えようとしてくれている。

痛いほど空の思いが伝わってきて、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。
手紙を返さなくてはいけないのに、なにも言葉にならない。

嗚咽を漏らす私の背中を、お母さんがさすってくれる。反対側に座るおばさんは、手紙を持つ私の手をそっと包み込んだ。

「ラストラリー現象が本当で、空の望み通り美波ちゃんに会えたとしても、すぐに別れが来る。あの子、子供の頃からずっと美波ちゃんが大好きだったんだもの。会ってしまえば、顔を見てすぐに帰るなんてできなくなるだろうと思ってた。きっと美波ちゃんは病気について知るだろうし、苦しむ空を目の当たりにするかもしれない。そうなれば、きっと心の準備をしていた私たちよりも美波ちゃんがショックを受けるだろうとわかってた。それでも……私は息子の最後の望みを優先したの」

おばさんの声も、指先も、小さく震えている。
それでも私に向けて話し続けた。

「空を送り出して、この手紙を見つけて、私は自分の選択が間違ってなかったって思ってる。帰ってきた空が私たちの顔を見て、開口一番に言ったのよ。行かせてくれてありがとう、幸せだったって……」
「……っ」
「ごめんなさい……まだ高校生の美波ちゃんに、大切な人を看取らせる辛さを味わわせてしまって、本当に……っ」
「おばさん、謝らないで……っ! 私は、会えてよかった。悲しいし辛いけど、でも知らないままなんて絶対に嫌だったよ」
「……ありがとう。たった十七年の人生だったけれど、あの子はたしかに幸せだった。本人もそう思いながら旅立った。それはきっと、美波ちゃんのおかげね」

本当にありがとう。もう1度そう言って頭を下げたおばさんに、私は必死に首を振った。

「私じゃない、空が……空自身が頑張ったんだよ」

そうするべきだって、彼が言っていた。

『自分の分は、自分で頑張らないと。人のせいにしても誰も代わってくれないし、責任だって取ってくれないんだから』

空は、限られた時間を最後まで生き抜いた。
病気と戦うのではなく、人生を謳歌することで、呪いをかけてきた大魔王に勝ったんだ。

ねぇ、空。
ごめんね。呆れてるよね、びーびー泣くなって。

『だから美波には病気のことを知られたくなかったんだ』

そう言って、いつもの笑顔を曇らせてしまうかもしれない。

『なんのために会いに行ったと思ってんだよ』

そう言って、呆れてため息をついているに違いない。

だから私、これからも落ち込んだら空を見上げるよ。晴れの日も、雨の日も。
だって、空はそこにいてくれるんでしょ?

手を繋げなくても、姿が見えなくても、空が見上げた先にいてくれるのなら、私は何があっても元気になれる。

次は私の番だ。
私が、私の分を頑張る番。

「おばさん、手紙見せてくれてありがとう」
「美波ちゃん……」
「もう本当に大丈夫。空に『またびーびー泣いてる』なんて言われたくないから」

乱雑にぐいっと涙を拭った。
そして、空に恥じないような笑顔を浮かべる。

空が私に会いに来たのは、決して悲しませるためじゃない。私を笑顔にするために来てくれたんだから。
それを無駄にするなんて、絶対にしちゃいけないんだ。

「お母さんも、ずっと心配させてごめんなさい。来週から学校に行くから」
「無理しなくてもいいのよ? 美波にとって、学校だって楽しいだけじゃないでしょう?」

心配そうなお母さんの顔を見て、私は見捨てられたわけじゃなかったんだと、こんな時だけどストンと腑に落ちた。
腫れ物扱いされているとか、呆れられているとか、そんなのは単なる私の被害妄想だ。
私が落ち着くのを見守ってくれていたのだと、今ならわかる。

「ありがとう。でも、たぶん大丈夫。空のおかげで、新しいクラスの友達とちゃんと仲良くなれそうなの」
「空くんのおかげ?」

ずっと学校に行くのが辛かった。
努力しても無駄。頑張ったって報われない。そんな風に物事を斜めに見る癖がついていた。
でも、それを空が打ち崩してくれた。

「うん。あのね、実はあの日、空と一緒に私の高校に忍び込んだんだ」

唐突な暴露に、お母さんとおばさんはカチンと固まっている。
空の祭壇のある和室に、これまでとは違う妙な空気が漂った。

「……ん? どういうこと?」
「あの子、美波ちゃんに何をさせたの……」

お母さんは眉間に皺を寄せ、おばさんは片手で顔を覆っている。
ふたりの戸惑った様子がおかしくて、私は久しぶりに声を出して笑った。

それから、私は空との1日の様子をふたりに伝えた。
私の家から公園、小学校、駄菓子屋と、子供の頃の思い出をたどるように歩いて回ったのだと話すと、おばさんは「本当に、奇跡みたいね……」としみじみ感じ入っている。

けれど、酸っぱいレモンガムは何度勝負しても空が勝つこと、高校にこっそり入ったもののいつバレるかとビクビクする私と違い、空は堂々と学食でお昼を食べた時の話になると、お母さんもおばさんも自然に笑顔が零れていた。

――――これで、いいんだよね。

こうやって空のことを話すことで、私たちの中でずっと彼は生き続けていく。悲しみに暮れるよりも、これからも笑顔で彼の話をしたい。

空が私にくれた言葉は、きっとこれからも私を支えてくれる。
私も後悔をしないように、毎日を生きていく。

それでも時々、繋いだ手のぬくもりや、触れた唇の感触が恋しくなることもあるかもしれない。
そんな時は、ぐっと上を見上げるから。
その先に、きっと空がいてくれると信じて――――。