誰かの『緊張してる』が自分にとっての『死ぬほど緊張してる』だと明らかなら、堂々と被害者ヅラできる。だが自分は自分の思考でしか生きたことがないため、他人の感覚など確かめようがない。
山之内尚輝は今日も、脳内で多弁になり、現実で黙り込んでいる。
人と会話がしてみたい。どんな感じなんだろう。声を出して、声が返ってきて、意思を表明し合う。その行為は一体どれほど楽しいのか。その行為に抵抗がないのは一体どれほど生きやすいのか。考えない日はない。
緊張しない心を手に入れるためなら、払えるだけのお金を払う。十年くらいなら寿命を削ってもいいかなと思う。お金が少なくなっても命が短くなっても、人と会話ができる充実した人生を手に入れたほうが良いに決まっているのだ。
生んでも仕方ないにも関わらず、心緒の存在を主張するように言葉は常に溢れ出てきた。声として外に放たれず閉じ込められた言葉は、誰にも伝わることなく、やがて脳内で腐敗する。まるで誰にも食べてもらえなかった残飯みたいに、届かなかった言葉はゴミと化し脳をぐちゃぐちゃに汚す。
「どうして喋らないの?」「口があるのにもったいないよね」「本当に声が出ない人に失礼じゃない?」「なんで普通学級なんだろ」「口開けてみて〜。あっ、意外と大きいウケる」「試しに『あ』って言ってみてよ」言われ飽きたセリフは、脳内のゴミ箱に入ったまま。やらないのではなく無理なんだと伝えるまでは、きっとこのゴミを捨てることはできない。
尚輝は、会話の経験がないわけではない。家族や親戚とは普通に話せるし、そのとき会話は楽しい。
楽しいと知っているから余計に悔しかった。会話が楽しいって知らないんじゃないか?と周りに思われるのが癪なのだ。彼らはこちらが黙り込むと、『自分の意思で喋らない選択をした』と思いやがるから。言葉を発さないのを、キャントなのかドントなのか気にしないで、安易に可哀想という目を向けてきたし、時には聞こえてきた。
人間のできる一番のエンタメ、『会話』。何かを犠牲にしてでも話したい。きっと、みんなこそ、言葉の素晴らしさや必要性なんか考えたことがないだろう。恵まれてることを知らない。しかしそれは『可哀想』にはならず、恵まれている証拠でしかない。なんなんだよ、と思う。
この世界は言葉から逃げられない。話せないからこそ、それを知った。当然のように娯楽を手にしている者には、喉から手が出るほど話せる喉を欲しがっている人の気持ちは到底理解できない。
(馬鹿ばっかり)
身内以外もしくは家から一歩外に出ると人と話せないのはどうして?玄関に境界線があるかのように家と外で性格がすっかり変わってしまう。なぜ?
分からない。小学四年生くらいからのはずだが、突然のことだったかグラデーションだったかの記憶は曖昧。話せていた頃の感覚も、もう尚輝には思い出せなかった。
「教師歴一年目になりますので、皆さんよろしくお願いします。核島典幸です。…えーっと、血液型はB型、好きな食べ物は唐揚げ、んーと、担当科目は現代文です。そ、うーだなぁ…、…やっぱり個性を大切にしたクラスにしていけたらいいなと思います」
人と話せない。でも尚輝は自己愛を失うことはなかった。それは、多様性を認められる今の自分がいるのは人より劣っている部分を自覚しているからで、その自覚は優しさに直結すると考えられるためである。
声に出さなきゃ思ってないのと同じ。口に出さなきゃ伝わらない。意思を発さないと、自分の意見はちゃんと主張しないとダメ。人形じゃなくて人間なんだから。
分かってる。尚輝が一番分かっている。分かっていたとて、出せないものは出せない。『人形が喋らない』のは『人形は喋れないから』で、それで納得できるならば、自分も同じ理由で納得していただきたい。
体内の現象を例えるならば、喉の奥に大きな飴玉がつっかえているような感覚だ。緊張すればするほど、飴はどんどん大きくなる。顎から下、臍から上。その場所では溶けた飴がドロドロともつれあっている。黒いモヤが胸の辺りをぼんやりと渦巻き、不快感で吐きそうになる。
緊張した時の自分の胸元は、『飴玉工場』と表現できよう。
「僕も新米教師なので。支え合って、楽しい一年間にしましょうね」
学校が嫌いな人の気持ちは、先生になった人にはわからないだろうと思う。クラスはチームじゃない。人生は個人戦であり、それは学校だけが例外なわけはなく、楽しい一年間になるかは絶対に自分次第だ。
(あー、うるさい)
脳内“だけ”がお喋りすぎる。
「先生の好きな言葉は『多様性』です」
唐突に彼は言う。我に返った尚輝はギョッとした。しかし皆が驚いていないところを見ると、さほど唐突ではなかった可能性もある。彼はずっとダラダラと自己紹介を続けていて、自分が現実に集中していなかっただけかもしれない。もしくは、発言内容に引っ掛かりを覚えたのが自分だけだったのかもしれない。
多様性。反芻させてみて、そんなことわざわざいう時点でお察しだなと思う。でもそれは確かに、自分みたいな人を救おうとした人が作ったか、流行らせた言葉であるのは間違いない。加えて、自分みたいな人が縋りつきたい言葉だ。人と話せないけれど、こんな自分も地球に生まれ落ちた尊い人間であるから。許されたい。責めないでほしい。人と違うのは悪いことじゃないと理解、否、評価されたい。
多様性。人とズレた部分を持つ者に対して、尚輝は『認める』という感覚を持つようになった。理由は自分がズレているからだ。皮肉だなと思うが紛れもない事実で、他者の個性を認めようと心がけるのは、自身が抱えるものを認めてほしい、個性として扱われたい、己の欲望の産物だ。
『特別扱いしてほしくないけれど特別な存在であると思われたい』と思う人間が乱用する単語。嫌いなわけではない。ただ豪語するなと思っているだけだ。例えば好きな言葉にするとか。
尚輝は、「好きな言葉は多様性」だなんて善人ぶる先生よりは確実に多様性を理解し、遥かに大切にできるだろうなと自負した。「困ったことがあれば、なんでも聞いてください」聞けたら困らない。「相談事があれば、声をかけてください」声がかけられないから悩んでいるのだ。
みんなにデクノボウと呼ばれたいのかとツッコみたくなる担任の提言に、尚輝は心底ウンザリしていた。
人にしてもらいたいことはしてあげる。人にされたくないことはしない。そんな考え方で生きるようになったのは話せなくなってからだったなと、「一人ずつ前に出て自己紹介しましょう」と言い「自己紹介とか苦手なんですけどね」と前置きしてから話し始めた担任を見つめる。絶対に自分とは真逆の人間だろう。
教室内では、皆『会話』というものを当たり前にしていた。入学日では、さすがに友だちがいない人も自分以外に数名おり、席に座ってスマホを眺めていた。地元の中学の人が行きがちな学校ではなく何かしらの事情で遠くの高校を選んだのだろう。もしくは高校デビューでクールを気取っている。廊下で会話しているのは、唯一の友だちとクラスが離れた人か。
(なんか、学校だな)
まずまず騒がしい室内だが、先程までの自分の脳内と比べれば幾分マシだ。会話が出来ない自分を恨んでいたはずが、視野が広い自分が好きだという結論で我に返るくらい、たくさんの文字が脳で暴れていたのだから。
どれもこれも全て、入学式後のホームルームで核島と名乗るヤツから放たれたセリフのせいである。聞きたくなかった提案に、尚輝の心臓はズキンッと跳ねた。跳ねた衝撃でじわじわと痛むと、今度は酷く失望した。やっぱりダメか、と。やっぱり所詮は学校か、と。それはそれは、尚輝が地の底まで落ち込むのに最も的確と言っても過言ではない事案だった。
「自己紹介をしましょう」
ちょっぴり期待していた。新しい学校で自分のキャラを変えられるかな、なんて。そのためにわざわざ遠くの高校を選んだ。でも。
(この学校…、先生じゃダメだ)
あくまで他人への期待なのは、自分が変われないと分かっているからだ。変わりたいと思うだけで変われるのなら、とっくに変わっている。
喋れない人への配慮のある先生が担任だった、みたいな。そういう展開を求めていたが、彼は少数派に寄り添わない人間のようだ。何が「好きな言葉は多様性です」なんだろうか。全く反吐が出る。豪語するだけならまだしも。
(アホだ、あいつ)
単純に自己紹介をやりたくないだけで、彼は悪人ではない。けれども、このクラスでなければ自己紹介をやらなくて済んだ可能性が一パーセントでもある限り、尚輝を残念に思わせ核島の好感度を下げさせた。
核島の第一印象は最悪だった。まるで窓の外を見ながら「今日の天気は晴れですね」と独りごちるみたいに発せられたセリフに、尚輝の心は大荒れ模様である。
(今日は晴れてたっけ?)
そんなことを思い、外を見ようと顔を窓側へ向ける。すると、視線を感じたのか真横の人がスマホから顔をサッと上げた。黒目は動いていないが、横目で見られているのが感じられる。
尚輝は、相手がこちらに首を向ける前に別に貴方を見たつもりはありませんとアピールするため教室中を見渡し、最後に自分の机に目線を落とした。
心臓がトクトクと動く。
そして、ハッと気づく。横から視線を感じる。当の本人はこちらの動きをボケーっと眺めているのだと察する。こっちがその視線に気づいていることも知らなければ、気づかれることを恐れてもいないのだ。
(腹立たしい…っ)
自分が見られた時はあんなに警戒心を剥き出したくせに、他人には堂々とやるらしい。自分がされたくないことを人にする。図太く、いやらしい神経が、理解できない。
何見てんだ?というニュアンスで睨んだら、彼はどう誤魔化すのだろうか。試したかったが、今後の学校生活で気まずくなるかもしれないと考えると己の勇気・根性では行動できない。ただでさえ面倒な奴だと嫌われるのは確定なのに、嫌な性格の奴だと思われたら終わりだ。穏やかに過ごしたい。小ニと小四のときに学んだが、イジメはツラい。ツラいのは嫌だ。
さっき教室中を見渡している時に、廊下の窓から青空が見えた。わざわざ室内の窓を見て確認する必要はなかったらしい。無駄な労力を使ってしまった。頑張ったのに。嫌だ。
尚輝は既にグッタリと疲れた体を机に伏せて脱力させる。心拍数は未だ必要以上に速く、こうやって人は寿命が縮まるのかなと思うと、やれやれ、絶望してしまう。どうせ話せないなら長生きしたいのに、寿命すら手に入らないらしい。
「廊下で喋ってる人たちも戻ってくださいね。僕が自己紹介してるだけだったから呼ばなかったけど、ホームルームとっくに始まってますよ」
核島の声掛けで、廊下の女子たちの会話が駆け足になり、止まる。泣いている演技で「じゃあまたあとでね」「アカリが終わったら連絡して」と言い合っているのが聞こえた。戻ってきた一人の女子は最寄りの席、廊下側の一番前に着席した。
(アカリ。一人名前を覚えた)
核島が目立たせたことにより、クラスの半分くらいが彼女の一挙一動を傍観していた。だから尚輝がアカリを見ているのは何の違和感もない。同様、罪悪感もなかった。加えて彼女は自身が目立つことに対して、特に関心が無さそうだった。自分がされたくないことはしないにしても、あまりにも彼女にとってはされたくないことに当てはまらない。それならば堂々とやってしまえた。
自分とは真逆の人。ああいう人が先生になるから学校が変わらないのだろうか。いや偏見は良くない。ごめんなさい。でも実際そうなんだと思う。だってそうだろ?
尚輝の脳内は、緊張と焦りで普段より忙しく回転する。『帰りたい』の文字が頭を重くした。
明か灯か、さぞかし性格に合った漢字を使った名前なのだろうなと考えていると、核島が「さて!」と合掌し教卓に両手をついた。先生っぽい動きだ。これをやりたくて教師になったのかなと考えたら実直で、ついニヤけてしまい、さりげなく制服の袖で口元を隠す。まだ袖丈にゆとりがあり、新品の匂いがした。
「さっきも言いましたが、僕は核島と言います。好きな食べ物の話とかは…もういっか。えー、かっしーとか、かくしまっちとか、そう呼ばれることが多いですね。今はあだ名禁止とか言う学校もありますけど…、もしかしたらこの学校もそろそろそうなるかもしれないですけど。一応、先生は大丈夫です。本人がいいって言ってれば、ね、わかんないですけど。…あっ、でも核島先生でいいですよ全然。別に敢えて変な言い方とか、そんなのしなくていいですからね?」
彼がおちゃらけて言うと、「かっしーのが言いやすいよね」「かくしまっちは幼稚じゃね?」と自然に二択にされていた。本人が核島先生でいいって言っているのだから核島先生でいいだろうに、と尚輝は唇を突き出す。退屈だった。
「時間も限られてるから、さっそく自己紹介しましょうか。一人につき、今の僕くらいの時間でいいので」
核島は自分の腕時計を見て、教室の掛け時計を見た。
(アップルウォッチ)
(授業中にメールできるのか?)
今どのくらい彼が話したか、知らない。尚輝は「今の僕くらい」というセリフに、「臨機応変」とか「適当に」などの無責任で他人任せな言葉と同じ匂いを感じた。もっと具体的に言えよと、何秒だとしても話せないくせにイラついた。
抽象的な表現は嫌いだ。口外の意味を感じ取る能力を試されているみたいだし、だいたいこうだろうという世間の固定概念を認知しているか確認されている感じがしてムカつく。
(さすがにバレた時がマズいからメールはしないか)
そもそも見るのは腕時計か教室の時計かどちらか一つで良いだろう。どちらかを信用していないのか、腕時計のほうは癖だったか。
「えー、マジかよお!!」
一人の男子生徒が叫ぶ。尚輝は鼻で笑う。「出たよ」と内心で大きく声に出した。不満の声を上げられる時点で、おそらく彼は自己紹介にそこまで抵抗はない。心の底から嫌がっている人の声は届かない、典型的な例が見られた。
数人から自己紹介を嫌がる声が核島に投げられると、彼は「まあまあみんな」と全体に目配せし、何事もなかったかのように自己紹介をする順番を言う。そうすれば「まあまあみんな」に含まれていた人も含まれていなかった人も、黙って受け入れた。
「はい、じゃあさっそくどうぞ」
朱莉から順に教卓の後ろに立って話していく。尚輝の席は真ん中の列の一番後ろだ。
良かった、と尚輝は思った。最後だと記憶に残りやすいし、最初だと皆を澱んだ空気の中でやらせてしまうことになる。真ん中くらいが誰にとってもちょうどいいはずである。
名前順だったら最後の確率も高かったが、この学校のルールなのか、すぐに席替えをする予定なのか、特に規則性のない並びになっている。進路をここにして良かった理由がやっと一つ見つかったかもしれない。ハナから進学しなければ自己紹介をしなくて済んだだろうなんてツッコミには耳を貸さないし、どんな順番だろうと良くはないだろうという声も知らない。じゃあ中卒でも就職しやすい世の中を創っておいてくれという話であり、高校に行く以外の選択肢を大量に用意してくれないからこんなことで「良かった」と思わなきゃいけない人生になったと反論させてもらう。
「俺、人見知りなんで緊張します」
「手ぇ震えちゃってます」
「ホントに話すの苦手なんですけど頑張ります」
各々の前置きは、尚輝には演技にしか見えなかった。だけど、発言している本人がそれを事実だと思って言っているから、ちゃんと事実らしく聞こえた。
たとえどんなに言葉がまとまっていなくても、人前で声が出せるだけで大したもの。みんなそれを分かってない。話したくないのなら自己紹介のハードルを下げるためだけの言葉なんかわざわざ吐かなければいい。その文字数分、話す量を減らせるじゃないか。
尚輝は同級生に「嘘つけ」と内心で悪態をつくが、正直なところ賢いなと感心もしていた。最初に発言力のハードルを下げておく手法は、良いアイデアだと思う。自分も喋れたら言うのだろう。
(話すの苦手ですが頑張ります)
もしかすると、一度でいいから言ってみたいセリフナンバーワンかもしれない。
頑張れない尚輝は、謙遜するセリフすら吐けない。今、教壇上で話している彼が『頑張っている』のか、知る術はない。
緊張しないで話せる人が羨ましい。ただ、ひたすらに。
声を分けてくれないだろうか。売ってくれたら高値で買うから。
(…なんてね)
現実味のないことを考えて、現実逃避をする。早く終わってほしいけど、自分の番は一生回って来て欲しくない。迫り来る順番を気の抜けた表情で眺めた。あと八人だ。八は五タス三だから分かりやすい。四の二倍でもある。好き。
「コミュショーで全然自分から話せないと思うんですけど、よかったら仲良くしてください」
一人の男子生徒が言う。ハキハキと聞き取りやすくて、大嘘つきなのは明らかだが、誰もツッコまない。理由は単純で、「コミュショー」や「人前が苦手」などのセリフが、何かを話す時の前置きとして浸透しているからだ。テクニックを使える奴、として認識されて、何故か「話すのが苦手です」と言うことによって、話すのが得意なんだなと見受けられる不可思議な状況が出来上がっている。
だるいな、と尚輝は頬杖をつく。尚輝が余裕を取り繕う素振りを校内で行えるのも、残り僅かな時間だ。今後はビクビクしている子を演じなければならない。意識するまでもなく本能的に演じてしまうだろう。喋りかけたら怯えるような子が態度だけ横柄だったら嫌われてしまう。人は自分の思い描いたイメージと実際の差が大きいほど、その人を嫌うようにできている。
尚輝は一旦頬杖を解き、反対の腕に変えて再び肘を置く。まだ余裕があると判断した脳は、言葉を探すべくグルグルと回転していた。
コミュショーのショーって、漢字は何だっけ?元来、普通に使っていい言葉だっけ?『症』か『障』だと思うのだけれど、後者なら良くないのではないのか。
答えは、インキャのインが「隠」なのか「陰」なのか問題と同じく、よく分からない。こんなのはただの言葉遊びに過ぎないが、言葉遊びが好きなのが日本語の尊いところで、日本のうざいところなのだ。
(日本語、喋りたい)
思い当たるものといえば、小学生の頃に「シンショー」と発言して怒られている子を見た。その類なのではないかと思っていたが、「コミュショー」は怒られる様子がないから、やっぱり違うのかもしれない。これだけ普通に使われ、核島も怒らない。
(学校は神様はいないってのを証明してくれるよなぁ)
誰かが変な発言をして、学級崩壊しないだろうか。悪人が侵入してきたり、サプライズの避難訓練でもいい。こんなことをしている場合ではないような事件が起こって、危機に侵されても、自分だけは救われたと万歳をするだろう。だって、これから変な発言すらできずに『教室の空気崩壊事件』を起こすのは紛れもなく自分であるから。
「浅野美香です。私はまだ友だちが一人もいないので、ぜひ声かけてください」
腐敗する声が止んだタイミングで浅野の声が発せられたため、自己紹介の声が唐突に耳に入る。現実世界に引き戻された尚輝は、自分が思っているより現実が静かなことに、毎度のことながら驚いた。我に返ると騒がしい世界が待っている映画などで観る演出はファンタジーだと理解していない脳が混乱を示してくる。
彼女は「友だちが一人もいない」と言った。一緒だ。「まだ」と付けたところは、今後友だちができる自信があると取れる。そこは自分とは違った。でも現時点では共通点がある人だと尚輝は認知する。
「えっと……趣味は読書です」
「僕も最近やっと本が好きになって。浅野さんはどういうの読むの?」
核島の質問タイムもあるらしく、彼は社会人の表情の作り方を覚えたばかりの大学生の顔をして質問をしていた。そもそも作り笑顔が似合ってない。というか、下手だ。先生という立場でなければ、新宿駅で女の子に絡むも無視されたらすぐ諦めるナンパ師と変わらない。
高校生が、大学生だの社会人だの、何を言っているんだという話であるが、自分は己の運命(さだめ)のせいで早めに達観してしまったから、観察眼は人並よりは上な自負がある。彼の無知な感じもピュアな新社会人と思えば「これから多様性を学んでくれるのならまあ…」と期待と受容の心を持てる。切り捨てて嫌悪するつもりはないのだ。
あの、ごげ茶色のふんわりマッシュな髪は、優しい人間であると主張していた。目はある程度大きめでタレ目。口は一時期大ブームになったアヒル口。さっきから何かに似てるなと思っていたが、なめこを栽培するアプリゲームのあいつらだ。なめこを擬人化したら多分この人で、自分はそこに出てくる謎キャラのマサルといったところかもしれない。心は枯れなめこだが…。
「色々?」
浅野さんという人が、小首を傾げて答えていた。尚輝は、えっ?と思う。自分が核島の顔を菌類に例えている間、彼女はずっとどういう本を読むか考えていた。そして答えは「色々」と、なんとも大雑把なのである。
「へえー、色んなジャンルを読むのいいですね。じゃあ拍手!」
沈黙の痛みを感じない様子の彼女に、尚輝は呆気に取られ、拍手などする気にならなかった。机の上で両手の指先を合わせ、格好だけ周りと揃える。そもそも一人ずつ自己紹介終わりに拍手をしていたことを今知った。頭の中に集中しがちなくせに、つい集中ゾーンに入り、周りの音が聞こえなくなってしまう。困りものだ。現実から置いていかれていくのが、まるで意図的な行為に感じそう。
なぜ見られるのが恥ずかしくないのかを考えようとして、答えは顔を見て即座にわかった。浅野という女性は、顔がとても整っていた。自分は恋愛が出来る気がしないのでするつもりもないが、恋愛で一喜一憂したいお年頃の皆はこの子を狙いたいだろうと思う。いくらルッキズムの時代であろうと、美貌レベルがスカウターで言うところの桁違いだった。
(ああ、なるほどね。顔面で間(ま)が持つのか)
鼻で笑いたい気分になった。自分がイケメンだったら『無口』は『クール』と前向きに映るのかなと考えたことが何度も何度もあるからだ。
早く帰りたい。迫っているタイムリミットに手が震え始め、慌てて机の下に隠す。
あぁ、消えたい。それは決して死にたいわけではないし、生きたくないわけじゃない。切実に透明人間になりたい。
「次は山之内尚輝」
スンッ――。
音が無くなる。あんなに騒がしかった頭の中に、刹那、名前を呼ばれただけで静寂が生まれた。
ショックで思考が停止している。トキガトマッタ。トキガ。トトトトトトト……。
核島がこちらを見ていた。今日初めて人と目が合ったな、と思った。思う余裕があるのがおかしいと思った、その余裕もあった。
静かなのも束の間、カクカクロボットが教壇に向かうまでの短い距離で、猛スピードで溢れ出す記憶。これは走馬灯に近いのかもしれない。
中学までの同級生が一人も行かない高校に入学したのも、只今この瞬間から意味がなくなる。これから晒す中学までと何も変わらない自分の印象を、三年間維持して生きていくんだ。人生を三年捨てる。もったいない。もう既に何年も捨ててきたけれど、どんなに無駄にしてきていても、もったいないなと毎回思う。
絶望。お金を払って時間を捨てる。時間は有限なのに、お金を払って寿命を削っている。こんな行為に一体何の意味があるのだろうか。
「緊張してますか?」
あー、はい。貴方の問いに答える余裕がないくらいに緊張しています。それは質問ですか?分かることを聞かないでください。
みんながこちらを見ている。…のだろう。確認はできないけど、刺すような視線が痛くて、頭がクラクラして、視界がぼやけてきて、心臓がドクドクと跳ねる。足は左右交互に動いているらしいが、歩いている感覚はない。
(怖い、怖い、怖い、…)
いつの間にか辿り着いた教壇の上。視界には、目を覆う水の膜のせいで歪んだ教卓。
油性ペンだろうか、丸いシミが二つ付いていた。人の目みたいだ。少し顔を上げれば、これが三十個以上ある。そう思うと、また体が恐怖で震えた。この振動で雫を落としてはいけない。絶対に。
「……」
(シーーーン)
尚輝は心の中で呟いた。
何を言うんだったか。名前と性格と趣味…だったはず。
自分の性格を言うなら、当たり障りのないことなら「無口」だ。しかしそれは、「l can’t speak English」に似ている。無口は「自分は無口」と言える口があってはならない。「英語が話せない」と英語で言えてはいけない。
だから性格については現在進行形で自己紹介中なんだけどな…なんて屁理屈を考えるも、薄ら寒いだけであった。
趣味。趣味なんてない。あったって、どうせ言えない。一つ挙げるなら、自分みたいな境遇の人の掲示板まとめを眺めるのは好きだ。今日も「ぼっちだけど質問ある?」のスレッドを電車で読んで、仲間がいると安心してから門を潜ったこと。
ネットサーフィン。趣味はサーフィンって言ったら面白いだろうか。つまらない自己紹介が続く中で「趣味はサーフィンです。あっ、ネットサーフィンなんすけどね」と言ったら、爆笑が取れてクラスの人気者になれるのだろうか。
――まあ、考えるだけ無駄だ。
(シーーーン)
尚輝は再び呟く。
本当はシーンなんて音は聞こえない。皆、今お腹が鳴ったら恥ずかしいな、とか考えているんじゃなかろうか。図書館や試験中の気まずさではなく、あいつがやらかすのを見届ける時間だから自分に注目を集めてしまうのはお門違いだと、視線を奪ってしまわないように気を使われているとすら思う。伝わってくる。
「……」
尚輝は核島の「もういいよ」待ちで、下を見たまま直立不動だ。
静寂が耳障り。うるさいカラスや低空飛行の飛行機が近くを通らないかなぁと考えたりする。人間は頼りにならないから、鳥や機械に閑散の誤魔化しを願い、委ねる。
(長いなぁ…)
早く止めてほしい。さすがに遅い。尚輝は「どうしたの?」と逆に核島に対して首を傾げたくなった。これだけ生徒が固まっており、教室も重い空気に包まれている。提案した彼自身も気まずいはずで、不思議だった。この状況は自業自得だが、先生は先生でなんなんだよと思う。
「……ぁ……、……」
あまりにも暇だと、ちょっと挑戦してみようかという気が湧き上がってしまうではないか。だがやってみたって声なんか出るはずもない。
こんなに喉が締め付けられているんだから。尚輝は胸の圧迫感に押しつぶされて、心臓がはち切れそうだった。いっそドカンと爆発したい。
「……」
『多様性の時代』なんて言われているが、学校はその時代についていけていないなと、つくづく思う。学校なんて、別名『個性潰し同調圧力施設」である。対義語だ。多様性↔︎学校だ。
しかし自分は高校生の身分。学校のシステムが変わったらなぁと、週に二、三回考えてみるだけ。何も行動しない。生徒や先生が何もしなければ学校は変わらないのに。己は何もやらない。もちろん国は何もしない。国のトップに立つ人は、きっと優等生だから。学級委員みたいな人だから。学校を楽しめるから。さっきの…、…アカリさんとか。
「…っ…、ぇ……と……」
じんわりと頭が痛くなった。スポットライトが当たっているのは分かるが、現実逃避のために関係ない文字が暴走している。文字が重たい。いたい。くるしい。つらい。くやしい。助けて。
核島先生――。
「山之内さん…?」
やっと、核島が言う。
教室内が微小ながらザワザワとし始める。まだみんなが仲良くなる前で良かったと思う。友だち同士が少ない分、ザワザワ音が小さめだった。
「……」
尚輝はチラッと核島の顔を見て、また教卓に視線を戻す。ボヤけて表情がわからなかった。あの人、一体これから何を言うのか。確かめたいけど知りたくない。もう帰りたい。消えたい。
学校は最悪だ。小学生の頃から思っている。しかし、尚輝に学校へ行かない選択肢はなかった。両親を不登校児の親にしたくない、それだけが尚輝の学校に通う意味だ。両親のことは好きだし、困らせたくない。心配させたくない。加えて、自分自身も心配されたくない。
恵まれた身分。その通り。家も食事も毎月のお小遣いも、当たり前にある。人に心配されるような子ではないと自覚しているから、心配なんてかけられてもどんな顔をすればいいのか困る。
浅ましい姿を晒すのが最善の人生ではないなんて、さすがに分かっている。そこまで自傷的に人生を諦めてはいない。それでも桜が咲いたら花見をして、クリスマスにケーキを食べる家庭に生まれている分際で、学校に行かないなんてこの上ない贅沢を手にする度胸はなかった。さらにそれを不憫だと考える者に憐れみの心を向けてもらおうだなんて烏滸がましい。
「山之内尚輝って名前なんだよね。もう席に戻っていいよ」
「…?……ぇ……」
考え事をしていたせいで、尚輝は核島のセリフを聞き逃す。また腐敗の言葉に過集中してしまった。グルグルと言葉が頭の中を巡っていて、その言葉は今考えるべきことではなくて、やっぱり吐き出す声はない。
……あぁ、爆発しそうだ。
尚輝は、何を言ったのか探るために先生の顔を見た。時間をかけてピントが合う。困った顔なら最悪だと思ったが、彼は真顔だった。
「戻っていいよ」
核島の目と人差し指は、尚輝の席に向けられていた。
「あ……」
小さく頷き、床を見ながら感覚で席を目指す。椅子に戻るときの皆からの視線は痛くなかった。不思議ちゃんを見る目は痛くないと気づいたのも、たしか話せなくなった頃だ。興味はあるが、ぜひ関わりたいという意の興味ではないから、目力に強さがない。自分には関係ないからどんな人間でもいいや、と期待がこもっていないのが伝わってくる。
刺激がないのならば、見られていてもいなくても、こっちこそどうでもいい。尚輝だって彼らと友だちになれないことなんて知っている。それに、誰かと友だちになりたいなんて欲望は、入学前に捨ててきた。好んで一人でいると思われたほうが、『可哀想』から遠くなる。憐れむな。
(僕は恵まれてるんだぞ)
ゆっくりと席に座ると、核島は柔らかい声で言った。
「緊張しますよね。先生も自己紹介苦手でした」
それは一ミクロもこちらへの励ましにならない。彼が“フォローしてあげる先生”として株を上げただけ。自分はいい人アピールに利用されただけ。
こいつ、マジで――。
イラついたけれど、その憤りは瞬時に悲嘆へ変わった。尚輝は何もかもが悲しくなって、ゆるゆると俯く。顎と首がくっつきそうでくっつかない。鼻がつんとして、顔がボッと熱くなるのを感じる。人前で醜態を晒すのは慣れたものだから、この有様自体は恥ずかしくなんかない。今さらこんな自分を恨んだりもしない。
(違う)
涙をグッと堪え、尚輝は唇を噛み締めた。ここで泣いたら周りは「話せなかった自分を責めて泣いている」と思うだろう。そう思われるのは耐えられない。思われたら、それが真実になる。真実を知っている唯一の人間には、否定する声がない。
(違う。僕が泣きたくなるのは、どうして話せないのか、わからないからなんだ)
母はよく言っていた。
「青春がもったいないわ」
もっと発信すればいいのに、と。言われる度、尚輝は「できたらやってるわ!」と思った。でも言わないのは「なんでできないの?」と理由を問われるのが怖いから。具体的に説明できるならまだしも、「わからない」と言うのは、とても心配させそうで。自分のことが自分で分からないと言う勇気はない。本当の理由を言いたくないから、はぐらかしていると思われる可能性もあり、それが一番面倒だ。親に隠し事をする子だと結論づけられたら、まず部屋の中の捜索から始まって、別に見られたくないものもないが、怪しいものがなければないで、最終的に辿り着くのは自分の目の届かない学校。担任に「うちの子、学校で大丈夫ですか?」なんて聞かれたら、自己紹介の失敗をバラされる。それは終わりだ。
「もったいない」なんて、自己肯定感の高い尚輝が一番感じている。自分の意思を、発想を、どこにも発表できなくて、もったいない。ネットサーフィンネタを思いついたのに披露できなくてもったいなかった。
「おとなしい性格なのは知ってるよ?お母さんも恥ずかしがり屋さんだったから遺伝かしらね。でも尚輝はお笑いファンじゃん」
「自分語り聞いてたら気を抜いてる隙に僕がお笑いファンって話になってる」
「ふふっ。喋ったら面白いのになぁって。もうちょっと頑張ってみたら?」
「僕を面白いと思ってるんだ?」
「よくツッコんでくるじゃない」
「お母さんがボケるからだよ。……やっぱ喋らなきゃ面白くない?」
「そりゃそうでしょ。喋らなきゃ面白いかどうかわからないじゃない。何言ってるの?あと、お母さんはボケてないけど?」
「天然かよ。それは遺伝してなくて良かった」
本当はセンスがあるのに。
喋ったら面白いのに。
お笑いファンなんでしょ。
芸人さんに憧れてるんでしょ。
(雛壇で無言の芸人はいない)
(ピンマイクをして無言の芸人はいない)
どんなに面白い人だったとしても、表現して初めて『面白い人』になるわけで、無言のままでは凡人以下。親だけが「持て余してる」と言ってくれる凡人以下の面白くない芸人。それはもはや芸人ではない。自分は芸人になれない。
喋れない。たったそれだけなのに、たったそれだけで、自分が何もできない人間に思える。みんなもそういう扱いをしてくる。人間に生まれたのに、行動しなければ、伝えなければ、能力や発想、思考や感情がないのと同義だなんて。夢を見ることも許されない。
……そんなのあんまりだ。
(もったいない)
命がもったいない。
スマホを持ち始めた頃、思ったことがある。自分が人前で喋れない天命を引き受けていて良かった、と。SNSを眺めていると、若者が病んでいるらしい呟きが嫌でも目に入る。もし神様が割り振りを間違えて自己否定的な人間にこの性格を与えていたのなら、そいつは心を閉ざしていた可能性が著しく高い。
尚輝とて、こんな十代は過ごしたくなかった。会話ができなくてウンザリする現状に対して、当然だろう自己嫌悪に陥ることもある。だが、自分だからこんな生活に耐えられているんだという自負は、自分のナルシシズムを作り上げる一番の原料になっている。
この経験なしで大人になってしまったらどうなっていただろうか。例えば学校に行かなかったなら、社会に出て急激な重みに耐えられなくなる可能性がある。強いメンタルを持たないまま大人になるのも怖い。トレーニングで崩壊ギリギリまで鍛えられ続けるメンタルは、現在の自信喪失に繋がり、将来の唯我独尊に繋がるのだ。
弱さを知っているから強くなる的な言葉は有名な曲の歌詞にありがちな気がするけれど、何の曲かと聞かれたら尚輝は一曲も答えられない。刺さらなかったのだと思う。
自分が喋れないのが元凶であるが、わざと喋らなかったのではないため、申し訳ないとは思わなかった。喋らない子も騒がしい子も、同じく問題児扱いされる世界。喋れる人が声を上げてくれたら喋れない人が救われるのに。でも自分は騒がしい人を救えないから、まぁそりゃそうだ。
尚輝は想像した。核島は職員会議で言うのだろう、「クラスに喋らない子がいるんです」。
ただの被害妄想ではあるが、近い未来にしか見えなかった。「クソが」と思った。喋らないのではない。喋れないんだ。何も知らないくせに――。
話せなくても、最初の一週間は優しい同級生が声をかけてきた。裏で核島に指示されたのか?と疑ったが、話しかけ方に演技っぽさはなかったため、単に気の毒に思ってくれたのだろう。ありがたいが、こちらは自分のされたくないことをしない、つまり相手の自己紹介を聞いていないし顔を見ないようにしていた。そのため「あなた誰?」と心の中で呟きながら、相手の発言に対して『頷くか・首を横に振るか・首を傾げるか』三択で答えていた。こちらが本当に喋れないのを知らない相手は「はい」でも「いいえ」でもない質問ばかりしてきて、ずっと首を傾げていたら、やがて話しかけてこなくなった。
中学までと、何も変わらない。
世の中には、○と×以外の答えが多すぎる。人は質問をされたとき、大半が白黒はっきり答えていないのを尚輝は知っている。グレーに濁していても、その作り方は白と黒を混ぜるだけではない。グレーにもたくさんの種類がある。彼らの答えには、ちゃんと色がついていた。
言葉はカラフルなのだ。絵の具で様々な色を混ぜていくように、複数のカラーの単語を組み合わせて相手に伝える。いっぱい混ぜるから、ほとんどグレーになる。互いのグレーをぶつけ合う、それが会話。人の発言はカラフルで、色を多用しているほど面白い。
尚輝には、白と黒の絵の具しか持たされていない。同じ分量を出すことしか許されていない。白・黒・均等なグレー、それだけでの会話はとても難しい。圧倒的に首傾げ(グレー)を多用するのだが、「聞こえなかった」「わからなかった」「どちらでもない」に違う色味を付けられないから、察してもらうしかない。そして大抵は察してもらえない。最悪の場合は、「首を傾げた」で終わり、濁したとすら伝わらない。
全てに違うジェスチャーがあったらいいのに、と昔から思っている。それだけで助かっただろう場面は幾度もあった。人と話さないくせに、誤解を与えた回数は人並みより多かった。
高校からは給食がなく、昼食には母の作った弁当を持たされていた。しかし、一人で食べているところを見られるのは、どうしても恥ずかしかった。他人にどう思われてもいいと言い聞かせても耐えられなかったのは、「可哀想」の象徴だと自身で感じていたからである。ぼっち飯という言葉が存在するくらいなのだ。その言葉は、尚輝の人生ゲームにいらない手札であった。
元々、食事をする姿を見られるのも苦手だ。声は出せないのに咀嚼はするのかと。口が機能してないわけじゃないんだなと。誰にも言われてないのに、そう思われることが怖かった。人のいる空間で飯を食うのは、何も満たされない、むしろ神経を削る行為で、最悪のミッションだった。
ぼっち定番の便所飯に挑戦しようとしたこともある。しかし尚輝はそこで、母の遺伝の天然を炸裂させてしまった。トイレの天井に設置された火災警報器を、防犯カメラだと思った。個室でこっそり弁当を食べているのを職員室の先生たちに見られてしまう、そう思った。それは果たして防犯なのか、変態行動だと冷静になって考えればわかるのだが、尚輝は逃げ場を失った犯罪者のように彷徨い、降参の白旗を掲げた。母には「購買で買う」と嘘をつき、食事から釈放された。
その結果、昼食の時間は尚輝にとって長い長い休み時間となった。読書は好きではなかったが、滅多に人が来ないという理由で図書室を暇つぶし場所に選んだ。用を足さないのにトイレにいるのは気が引けるが、読書をしないのに図書室にいるのはなんとも思わない。この差はなんだ。
本を読まないと何もすることがないので、尚輝は図書室の中を耳の下のリンパマッサージをしながら歩いていた。ウォーキングと言えば聞こえがいい。みんなが食べて太っていく中、自分は歩いて痩せていくのだ。更にリンパを流したおかげで小顔になるのだ。
「ん?」
たぶんこの日、尚輝は高校に入学して初めて声を出した。周りを見渡す。スズメの鳴き声だけが聞こえた。スズメのほうが声が大きかった。
(誰にも聞かれなかった)
声が出たのは、床に何か落ちていたから。別にゴミが落ちているだけで声が出ることもないのだが、それがキラリと光ったものだから、思いがけず声が飛び出した。キラキラしたものには幾つになっても感情が動く。
下を向いていることが多いから、こういうのをすぐ見つけるなぁと苦笑いした。四葉のクローバーを見つけるのも特技と言えるほどだ。最近探していないから、たまには探してみるか。
(なんじゃこりゃ)
蛍光灯に反射するそれは、青いPTP包装の錠剤であった。二錠。受付の下に、ポツンと、まるで置いてあるみたいに落ちている。
(…薬?)
こんなところに、何故こんなものがあるのだろう。尚輝は頭を掻いた。平凡な日々に、微小ではあるがいつもと違う展開が舞い込む。自分がこの学校のモブキャラではなくなった気がして、息が上がる。興奮していた。
トットット。胸が弾む音。
パチパチパチ。瞬きが速くなる。
自分次第で新しい物語が始まりそうな予感に、すぐに手を伸ばしたくなった。
だが、躊躇う。
これを見なかったことにしようかな、と考える。ワクワクする光が差し込んでいるのは確かだが、果たしてそれがハッピーなストーリーとは限らない。スタートしたとしても、途中で変化を恐れて終わらせようと素行するんじゃないか?と自分を信用できない。
今自分が人生を楽しめないのは声が出る人ばかりが集まる施設に滞在させられているからで、尚輝は期待も、厳密には選択もしていない。しかし、新たな物語をスタートさせる選択を自ら取り、つまらない展開を作ってしまえば、“自分自身の選択で人生を楽しめなかった”という悔恨に押しつぶされ、立ち直れなくなる。
(考えよう)
他の誰かが拾ったら、その人はこれをどうするのか。検討もつかない。でも、他人の思考は分からずとも、確実にわかることがある。自分の思考だ。
自分なら、自分がされたくないことはしないであげられる。それは絶対なのだ。
そういう思想がない、例えば、もし核島が拾ったら?「これ落とし物、違いますかー?」なんて教室で言ったら?もし生徒の中に薬に詳しい人がいたら?「それ違法のじゃね?」と大事件になったりするかもしれない。または、「それを飲むってことは〇〇病だよ。えっ、誰?」と誰かのプライバシーに土足で踏み入ったりするかもしれない。
吐きそう、と尚輝は思った。ヘルプマークを知らない人と同じくらいに気色悪い。
薬。持ち主には大事なものだろう。誰かにとっては毒で、誰かにとっては必需品。先程までゴミが落ちていると思っていた自分を恥じ、尚輝は薬を丁寧に持ち上げる。
落とし主に届けたい。
純粋にそう思った。何の薬であろうと、飲まなきゃいけないことが本人にとって不本意であるなら尚更、誰にもバレずにその人の手元に戻ってくることが一番だと思った。一人にバレているが、そいつにはチクる声がないから安心してほしい。
何を考慮しても、やはり自分がヒーローになるべきなんじゃないかという結論に行き着く。
さて、何の薬だろう?と顎に手をやる。振ってみると、微音であるがシャッと鳴った。長方形の長辺に点々があって短編がツルッとしていることから、二錠ずつ切れ目が入っているタイプのものだと推測する。
落とし物は職員室に持っていくべきだろうなとこれからの動きを決定しかけたとき、ふと胸がザワザワするのを感じた。喉の締め付け感は慣れっこで、なるほど緊張しているのかと自認する。職員室に行って「落とし物がありました」と先生に言うのを、どうやら自分はやりたくないらしい。
ヒーローになりたい。自分以外の人間にはヒーローが務まらない。でも体が動かない。
尚輝は自問自答する。「自分の為に生きるんだ?誰の人生なんだ?」
(心を削って徳を積むって、幸福レベルプラマイゼロかもな)
自分は、自分の人生を、自分の為に生きなければ。ただでさえ他人や環境に傷つけられているんだから、自分だけでも自分を大切にしなければ。それが義務感に近いのは、命がもったいないなんて本来思ってること自体が不謹慎であり、不毛であり、無駄な時間だからだ。
人生、楽しみたい。
薬を見つめる。一番自分の為になる有効な使い方。実は最速で思いついていたけれど、モラルで真っ先に捨てた候補。
(これ、飲んでやろうかな)
それは、決して自傷的な感情ではなかった。一番自分がワクワクするのはこれだと思った。つまらないルーティンの日々から逃げたい。新しい人生に出会いたい。
学校に行かない理由が欲しくて、もしそれらが手に入るなら寿命を削る覚悟がある。よって生まれた選択肢だ。
(これで死んでも悔いなし、か…)
そう問われると首を傾げてしまうが、薬を一錠誤飲したくらいで命を落とすわけがないと心のどこかで思っているから、大きな恐怖心は生まれない。「お腹が空いていて、拾ったラムネを食べただけで、…ま、まさか危ない薬だなんて!だって学校にあるわけないですし、そんなこと思わなかったんです!」喋ることすらできないのに、演技付きでシュミレーションする。妄想の尚輝は、別に理想の尚輝ではない。最善の尚輝だ。
これで捕まらないはずだ、と理性が飛びIQがゼロに近い知識で思考していく。万が一捕まっても、牢屋と学校どちらの地獄を生きるかに関して尚輝は僅差で学校を選んでいる。まあ牢屋もありだろう。その人生は、つらいだろうけれど、きっと今より刺激的だ。同じ『つらい』なら、どうせなら皆が体験しない特別なことがいい。お金を払って寿命を削るより、タダで削るほうがお得なのではないか。
そこまで考えると、ヒーローになろう作戦はどこへやら、罪人になる人生を視野に入れていた。むしろそちらに傾いている。
(ヒーローか罪人か、白か黒か)
最高で体調不良、良くて入院、悪くて牢屋、最悪で何も起こらない。思い浮かぶ展開は、黒を選んだあとのことばかり。
……できる。尚輝は思った。
つるんとコーティングされていると思ったが、どうにか粉を丸い形状に保った、といった程度の軽い口当たり。唾液に触れると表面が柔らかくなり、少しだけ苦味を感じた。口内で形が崩れてしまう前に、レモンを搾る映像を思い浮かべ、出てきた唾で飲み込んだ。
もしも声を持たずに生まれたなら。不謹慎であるのは承知でも、考えずにはいられなかった。『喋りたい』という願いが『自分の努力次第で叶うもの』である事実が、尚輝を苦しめる燃料の最多の成分だから。
眠気は多くの薬にある副作用である。帰りのホームルーム、まどろみの中、どうやらこれは違法薬物ではないなぁと思う。もし危険な薬なら、ハイになったりキマったりするのではないだろうか。牢屋の可能性は消えただろうと安堵する。やっぱり逮捕は怖い。身内にも迷惑をかける。尚輝は「よしよし」と頷いた。
しかし、はたと気づく。尚輝は一瞬固まり、口を覆って絶望した。まるで違法行為をしたかのようだった。
(最悪な結果になった)
明日からも普通に登校している自分が見えたのだ。薬を飲んだ結果は、『眠くなった』だけなのだと気づき、ガックリと肩を落とす。
嘘だ、嫌だ、やめてくれ、それじゃ薬を拾わなかったのと同じではないか。それだけは神様仏様――。存在しない存在に祈る。そんなに自分は悪い子だろうか。少しくらい同情でアクションを起こしてくれてもいいんじゃなかろうか。
「はいじゃあまた明日!さようならー」
自分は人生を変えることを、己の命を賭けてもできないと言うのか世界よ。覚悟を決めて勇気を出しても、現実は何一つ変わらない。その事実を突きつけられて、生きた心地がしなかった。
怯えながら最寄駅までの道を歩いた。ここを歩くのが今日が最後だったらいいのに。そういう予定だったのに。そうじゃない可能性があると思うと、明日が来るのが怖かった。
「冗談じゃねぇよ…」
吐き捨てるように呟く。この気持ちを抱えたまま家に帰るのは嫌だ。電車は苦手だ、と言いたいけれど、学校へ到着するのも学校で受けた嫌な感情も電車にいる間は忘れられるので、一生乗っていたいとも思う。
退勤ラッシュ時間だというのに、椅子が一席だけ空いていた。珍しいな、と思う。定位置の車両の隅っこに向かおうとした尚輝だが、他に誰かが座る気配がないので、試しに座ってみた。座ってみようと思えた。
無駄に重たい学校のリュックが、電車で肩から外される。この経験は初だ。座る時にチラッと左側の人がこちらを見て少し距離を取った。邪魔かな、とか。体臭が不快だったのかな、とか。よぎったけれど、ネガティブに考えても良いことないかと思い直し、優しさだったと解釈して小さくお辞儀をする。右側の人はガタイが良かったので肩が当たった。他人の体が自分に触れるのはいつぶりだったか、そんなの考えなきゃ思い出せないほどだ。触れている箇所を意識するとムズムズするので、気にしないように心がけた。相手はとっくに気にしていなかった。大人になるとは電車での他人との接触に慣れることまで含まれるのだろうか。ならば、ますます子どもでありたい。人肌がここまで苦手なのは自分だけなのだろうか。
「すみません、すみません」
次の駅に着くと、杖をついたお婆さんが入り口の隅を陣取っていた人に道を開けてもらいながら、電車内に入ってきた。
皆は「そんな申し訳なさそうにしなくていいのに」という表情で彼女を見つめていた。
そして。
尚輝は偶然、周りよりも早くその感想を脳内で呟くのをやめられた。
腐敗するのが早い。自分だったら申し訳なさそうにするもんな、とすぐに納得したからかもしれない。やっぱり主観主義の思考はラクだ。電車で座れたときと同じくらい。人にしてもらいたいことはしてあげる。人にされたくないことはしない。
我儘で傲慢な正義だとしても、判断基準に軸があるのは生きやすい。自分勝手だと思われたって、ブレないのは長所と仮定し、愛する材料にしてしまえば、間違っていても落ち込まないで済む。
「座りますか?」
気づけば立ち上がって声をかけていた。
「え?いいのかね?」
「あ、はい」
「ありがとう、優しいねぇ」
「いえい…え、……」
やり終えてから、自分が何をしたのか脳内ビデオで再放送する。
(知らない人と喋った)
我ながら優しい奴だと自覚していた。でも、視覚化するのは初めてだった。
己の言動なのに、自分の姿がまるで自分じゃない人物から見えているような感覚に陥る。動揺を悟られないよう堂々と立ち、定位置の隅に向かった。座ってたのは一駅だけかと苦笑いしたくなったが、気分は晴れやかで清々しかった。
ヒーローだったな、と思う。
関心か感心かわからぬ目を向けられながら、駅に着くのを待つ。背筋が、意識しなくともシャンと伸びた。
普段なら妄想で終わることを現実に持ってきた。長年望んでいた夢である。叶えたいというか、叶えられる人間だったらなと夢見ていた。席を譲るだなんて、山之内尚輝の人生にはないと思っていた。
優しさには勇気がいる。思っているだけでは意味がない。行動しなければ何も思わなかった人と同じなのが世の中だ。「席を代わってあげたいなぁ」「席を代わりたくないなぁ」「お婆さんがいるなぁ」と各々の感想。お婆さんが乗ったことに気づいておらず、感想すら持たなかった者もいるだろう。しかし、全て、側から見たら同じである。
優しさは目視するしかない。脳内が覗けないから人間は話すし、そうして優しさを見せつけることで優しくしてもらう。頼り頼られ、支え合う。尚輝が「本当は僕は優しいのに」といじけた数は、尚輝が脳内を覗いてほしいと願った数とほぼ同数だった。
「座りますか?」と席を譲って初めて、その人は「席を代わってあげたいなぁ」と思った人だと分かる。優しい人なんだと周りは知れる。
尚輝は、首傾げに似てるなと思った。声に出さなきゃ、行動に移さなきゃ、何も意思がないと思われる。そんなわけないのに、意外と人は頭を使って生きていなくて、シンプルに表現してあげなければ解釈してもらえない。内面を見てやろうと相手から歩み寄ることはない。
首を傾げているだけでは首を傾げているだけ。それに感情を当てはめて、稀に伝わったり当然伝わらなかったりする結果に、自分は一喜一憂していた。
馬鹿だった。
コンビニにが目に入り、行ってみるかと思う。反省と自惚れを同時に行ないながら、ちゃっかりご褒美は買うことにした。
たまご蒸しパンを一袋と、口臭タブレットを一つ、ジンジャーエールを一本持ってレジへ向かう。
「いらっしゃいませー」
普段、人の目を見ることはない。その日会った人の顔を思い出そうとしてもぼんやりと霧がかったようにしか浮かばないくらい、ピントを合わせることができない。クラスの人すら、学校以外で会ったら気づく可能はゼロだ。男子はベルトの位置と脚の太さ、女子は靴下の長さとふくらはぎの形で覚えている。
「袋はお付けいたしますか?」
お姉さんの声は可愛いアニメ声だった。尚輝は、彼女がどんな顔をしているのか気になった。
『顔を見られる』自分がされたくないこと。でも今の尚輝は特段されたくないとは思わなかった。それに、彼女はこちらの顔を見ている。
前髪を遠心力で振り払うフリをして、チラリと顔を見てみた。ふむふむ可愛い顔だなと思ったが、好みの顔ではなかった。芸能人ではない赤の他人のビジュアルを評価したのは初めてで、ビジュアルを主観で語るのは良いことではないと気づくと複雑な感情になる。
「レジ袋お付けしますか?」
「ぇ…と、カバンに入れる…から…、えっと…」
「大丈夫ですか?」
「え、あ、はいっ」
首振り以外で袋を断ったのはこれまた初めてのことで、なんと言えばいいか迷い、吃ってしまった。「大丈夫です」と言えば良かったのかと、彼女の質問に教えられる。顔について考えていたから、セリフを台本に起こすのも、シュミレーションをするのも、すっかり忘れていた。
(会計が終わるまで会計以外について考えちゃダメだな)
「四百十六円です」
「え?」
反省会をするのも早すぎたらしい。考えちゃダメということを考えていたせいで、早くお金を払わなければならないのにカバンから財布を取り出すのが遅れた。
(そういえば財布入ってたっけな。…なかったら終わりだ)
冷や汗がこめかみを伝う。嘘だ、神様、と数十分前に唱えた言葉がまた脳内を走り始める。彼らの創った世界で、彼らに自分の幸運を祈り、見事に裏切られたばかりなのに。
カバンの中を掻き回しながら、財布を忘れるという地獄の展開を想像していると、後ろに人が並んだ。早くしなければ。
(ゆかいーなナオーキさんっ)
(……じゃないんだよっ)
本格的にマズい。現実逃避が始まっている。俯瞰で見ている場合でも脳内に集中する場合でもない。早く。待たせたくない。会計に集中しないと。
焦燥感が汗の油分を増やす。明日も学校だ、このシャツを着る予定なのに汗臭くなってしまう。
(明日も学校?…、…は?)
尚輝の脳内は荒々しい。
(スマホはポケット。そうだ!)
「…ぁ、あ、あの…っ」
「はい」
「て、定期……あっ、交通、えーっと…アイシー?…交通、系…で」
支払い方法の一覧表を見て、書いてある通りに読み上げる。
「交通ICでお支払いですね。少々お待ちください」
店員さんが画面に何か打ち込み始めた。その間にカバンのチャックを閉める。PASMOは交通ICと言うらしい。普段「定期」と呼んでいるから混乱してしまった。
自分のせいで店員と後ろの人を待たせている時間が終わり、気が休まる。「こちらにタッチをお願いします」と言われ、カバンにぶら下がったカードをかざした。電子払いも、もちろん初めての経験だった。
「ありがとうございました」
「…っす」
先程閉じたばかりのカバンのチャックを再び開け、商品を詰め込む。お辞儀をして逃げるようにコンビニを立ち去った。
店から出たのに、入店音が鳴る。そこを超えたいつもの外の景色は、先程よりも明るく見えた。
空が青いこと、意外と並木道だったこと、葉っぱがほとんど緑色になっていること。
今、知った。
(日本って、きれいだな)
不思議なことにスキップをしたい気分だった。高校に入学してからの思い出で、今のコンビニの時間が一番濃い時間だと思えた。
制服からお気に入りのクリーム色のパーカーに着替え、カバンを持って自分の部屋に向かった。まだ両親は帰ってきていなかったが、部屋のベッドが一番落ち着くから、どんなときもリビングに居ようとは思わない。
ドアを閉めて鍵をかける。これで、ここは自分だけの空間。たまご蒸しパンとジンジャーエールを取り出し、ベッドに寝転がる。
ゴホッとワザと咳をした。
「…っあ、あーーーーーーーー」
発散するように声を出す。
「あーーがっこーつかれたあーー」
「あーーさいこーーぉーー」
「いえーがいちばあーーん」
習慣の声出しをすると、いつもより声が大きい気がした。朝の「いってきます」ぶりの発声になるから、いきなり話そうとすると出だしが掠れてしまうのだ。スムーズに出るようになるまでは意味のある言葉を発したなくて、帰宅後はテキトーに叫んでいる。
(あぁ、コンビニで喋ったからか)
喉が閉まりきっていない。
「うん、うまい」
昼食をとっていないから腹が減っており、あっという間に食べ終える。ジュースを飲んで怪獣のようにゲップをした。ここだけが、尚輝の全てを解放できる場所。
やっぱり学校は嫌いだ。
初めて山之内尚輝を見たのは、彼を教壇に立たせるため呼びかけたときだった。それまでも生徒みんなを眺めていたから、視界に入っていただろうけれど、一人一人に焦点を当ててはいなかった。
(生徒が寝てても気づかないんだろうな、起こす気もないけど)
「眠くなる授業をする先生が悪いでしょ、ってね」
あ、独り言しちゃった。と核島はさらに独り言を重ねる。
自分が前に立ったとき、生徒たちの顔は完全にボヤけている。ピントを合わせなければ、見られていると気づかないでいられる。
(早く呼ばれないかなあ)
病院の待合室で口元を覆ってあくびをする。全ての会話は小声で行われていて、精神の安定を計ってか空間を縫うようにクラシックピアノが流れている。眠くなるのも仕方ない場所だ。コロナの風潮が残っているのか、本や雑誌も置いていないから暇つぶしはできない。
(今夜は何食べよう)
せっかく薬を飲んでいるし、帰りに食事でも行こうかと考えながら、つま先をゆらゆらさせて時間が過ぎるのを待つ。
「診察券番号532番の方、診察室へお越しください」
やっぱり早く帰りたいから何か買って帰ろうと決め、核島はそそくさと診察室へ向かった。座っている人たちを避けながら歩くが、他の患者は誰もこちらを見ない。学校とは真逆だ。
「最近はどうですか?」
二十年以上会話とともに生きてきたが、「どうしたの?」には「どうもしてない」しかないし、「どうですか?」には「どう、とは?」しかない。
でも自分は国語の先生であり、普通に立派な大人なので、万能な言葉を知っている。彼が最初の質問を決めているように、核島も返事は決めていた。
「大丈夫です」
「お変わりないですか?」
はい、と口パクしながら、核島はコクリと頷いてみせた。病院だけは、薬を飲んでいても、飲んでいないときのような態度になってしまう。個人的な分析では、病院では病人でいなければならないと脳が決めつけ、条件反射的に言動しているんだろうと感じる。
「人が怖い気持ちはありますか?」
「…、まぁ…」
「気分が落ち込んだりしますか?」
「…んー、…たまに…?」
同じ薬をくれればいいから早く帰らせてほしい。パソコンに何かを打ち込んでいる先生の手元を見る。カチャカチャカチャ。一体何を書いているのだろうか。明らかに自分の返事より長文を書いている。
(今の俺、まるで尚輝みたいだな…)
暇つぶしに自分を俯瞰で見てみると、自己紹介をしている尚輝の姿が浮かび、自分と重なった。あのとき早く席に戻らせてあげれば良かったと、三日に一回は後悔している。早くしてと思っているのは伝わってきたし、脳内でグルグルと言葉を混ぜたあと緊張でショートし思考停止していた脳の忙しなさが、全て己のことのように分かった。苦しいとかツラいとか考える余裕もない、あの感覚。
言い訳をするなら、動揺したから。当時の自分を見ている気分になり、すぐに声をかけられなかった。わかるわかると共感しながら、つい観察してしまったが、彼からすれば酷く迷惑だったろう。
彼は自身が病気だと気づいていないようだし、よもや担任が「お前は病人だ」なんて言えない。過去に戻って、あの頃の自分に「病院に行って薬を飲んで話せるようになれたら友だちができるかもしれないし、青春を捨てなくて済むかもしれないんだよ」とめちゃくちゃ言いたくても、彼が折り合いをつけている可能性が捨てきれないなら、それはするべきではない。
他の教員に相談してみても、「カウンセリング受けさせたら?」と軽率な提案しかしてこなかった。『そういう性格』『ちょっと気にかけなきゃいけない生徒』と、言ってしまえば不思議くん、言い過ぎてしまえば問題児という括りだ。そこに手を煩わすのは教員の仕事ではなくカウンセラーの役割だから投げてしまえばいいと言いたげなアドバイスに、核島は心底呆れた。
(だから、尚輝は俺が守ろうと心に決めた)
「お仕事は順調ですか?事務職員でしたっけ」
「え、あぁ…はい」
質問を二つされた。どちらへの返事かわからなかったが、どちらも「はい」だから良かった。
医者には、自分が教員ということは伏せている。社交不安障害を抱えている奴が、まさか複数人の前に立ち、話し、書き、勉学を教えているなんて、意味不明にも程があるからだ。意味不明。でも自分にとっては大義だ。
(呼ばれ方『先生』同士ですね。あっ、俺は『かくしまっち』って一部の生徒には呼ばれてるっスけど。同じ『先生』でも敬われ方が違いますねー。まあ俺は堅苦しいのが嫌なんで、むしろ嬉しいことなんスけどね。てか自分で仕向けたし)
…なんて仲には一生なれない。なる必要もないが。
「ではいつもと同じお薬をお出しますね。お大事になさってください」
「…っス…」
優しさが沁みる。通院歴四年、二十二歳、残春。
結局、いや予定通り、処方箋を受け取るため家の近くの薬局へ行き、その隣のスーパーで酒と惣菜を買った。
アパートを見上げる。自分が先生として生きると決めた日に不動産アプリで選び、大学生の頃から住んでいる八畳の部屋。鍵を開け、入って、鍵を閉める。短い廊下を通ってリビングのテレビをつけた。アナウンサーの声に、まだニュース番組がやっている時間だと知る。
核島は、まずエコバッグから唐揚げとチューハイを机に並べた。今度はカバンから領収書、処方箋、ポーチを取り出し、ポーチを机に置く。そして処方箋の中身を出し、袋と領収書をミックスペーパー用のゴミ箱に入れ、薬を机に置いた。
「よっこらしょっと」
椅子の形をした座布団は座り心地が良いとは言えなくて、そろそろソファにしたいなと考えながらあぐらをかいた。大きい買い物をする時間が新米教師にはない。
内服薬のパキシルをポイっとベッドの枕元へ投げ、頓服薬のレキソタンをパキパキとニコイチに割っていく。十四日分、小さな長方形をポーチに仕舞う。
「[若者に流行]オーバードーズとは」
真剣に語るアナウンサーの声に、核島はテレビに目を向けた。
救急車で運ばれる地雷系コーデの女性の映像。派手髪の若者たちに囲まれている。飲んだのはあの女性だけなのだろうか。次に、担架で病院に運ばれている中学生男子と、「助けてください」と泣きながら訴える加工された声、母親だろう。そして、どうしてそんなことをするのか、カメラマンのインタビューを受ける中学生や高校生の音声。
市販薬をたくさん飲んで、錯乱状態になるのがストレス発散になるらしい。「不安な感情から逃れたかった」「ハイになってみたかった」「友だちに勧められた」スタジオに戻ると様々な意見がパネルに文字起こしされており、コメンテーターたちは深刻な表情をしていた。
(こんなのが流行ってるのか)
そんな快楽も束の間だろうに。核島は、薬の強さも弱さも知っているからこそ、ひとときの解放感の自傷に使うには、オーバードーズは効率が悪いと思った。
「かわいそうに」
泣いている母親に同情した。「私の内臓使っていいですから、どうかこの子だけは」
反省の色のないギャル二人の街頭インタビューも映る。
「ウチらの友だち全員ブロってる。舌もみんなマジかき氷のあと」
「それ、ハワイ味な。青かったら仲間って感じする」
「睡眠薬でやると、こーなるのぉ〜」
映った舌は、人間の舌とは思えなかった。彼女は青のシロップを直飲みくらいの青さだ。
「怖すぎだろ」
それに薬の無駄遣いだ、と核島は思った。自分は薬を大切に大切に使っている。無くしたら終わるし、切らしたら終わる。命とお金と家族とスマホ。その次に、抗不安薬は自分にとって必要不可欠で大事なものだ。数もマメに数えているくらい。
(…ん?)
は?ん、あ、え?と色んな一文字が出た。二日早く病院に行ったのに、薬を入れるため開けたポーチが空っぽだったのである。
「なんで?は?」
人生終わった?と心が喋る。
心臓がキュッと締まる感覚を覚え、慌ててポーチを逆さまにした。振ってみるが意味がない。叩いてみるがビスケットすら出ない。変な汗が出る。「マジかよ…あぁ?」と謎に喧嘩腰で言ったきり、開いた口が塞がらない。
(二錠、足りない…?)
自分が頓服薬を飲むのは、家を出る前と昼食の時間。校内で飲むには、皆が食事をしている人気のない図書室が都合良かった。たまに人が来ることもあるけれど、食べ終わってから来るのがマストだから飲む瞬間を見られる心配はない。
正直、国語の先生だからといって読書が好きなわけではないのだが、当たり前の如く図書室の鍵を管理させられている。ポーチをポケットに忍ばせ鍵を持ち、図書室へ向かい鍵を開ける。中に入って、薬を口に放り込んで、職員室へ戻る。毎日の完璧なルーティンだ。
(落とした?ポーチから抜け落ちたのか?)
モヤモヤ考え出すと、食欲がなくなってくる。終わったのだろうか。自分は、人生オワタなのだろうか。
もう唐揚げは食べられない。胸がザワザワして、理由も不明瞭なまま自棄になりそうだった。
「お薬もぐもぐというハッシュタグを知っていますか?」
広がった薬を手で払い、机から一気に落とす。
「知るかっ!薬なんか嫌いだ!ほんと、だいっきらい!!!」
最悪。最悪じゃないかもしれないけれど、最悪かもしれないことが最悪。
大好きな薬を罵る。罵る、というか、忌み嫌う素振りを薬に見せつける。俺はお前らが好きなんじゃない。利用してるだけだと。
酔うために酒を煽り、「あははは」と笑う。思考を飛ばし狂ってしまう方法は酒だ。みんなオーバードーズなんかしないで、度数の高い酒を一気飲みすればいいのに。あぁでも若者は買えないのか。なるほど、気持ちはわからなくもない。大人は酒が買えてズルいのだなと思う。
(あーもうクソがよ、)
核島はクッションに顔を埋め、
「心すり減らしてんじゃねぇよ!」
と叫んだ。これは自分への明らかな罵倒だった。
目覚めて最初に思ったのは、「内服薬飲み忘れた」だった。セロトニンを増やしてくれるらしいそれを飲まなかった。今のところ25mgで止めているが、一応少しずつ増薬予定である。途中でやめたら始めからやり直しだし、そんなことより離脱症状があるかもと思うと心配だ。
(今から飲んでもいいのかな…)
怖かった。薬を飲んでいない状態で学校へ行くのが、恐ろしく、悍ましいと感じた。頓服薬だけで補えるかもしれなくても、今日は内服薬の成分が自分の血液に流れていない、と思うと不安になる。
何もない。結果から言えば、危惧する必要など全くなかった。何一つ変わらなかった。薬の耐久性がついたのか。
何もない。図書室に薬はなかった。学校内で落とすならあそこしかないと踏んでいたが、落としていなかったのだろうか。酔っ払っていたし、数えミスだったのだろうか。嘘、数えたら違ったから酔うまで飲んだのである。
誰かに拾われた可能性。考えたくもない。誰のものか特定するのは難しいだろうから、そこは良い。だが噂にはなるだろう。今時、スマホで調べたら一発だ。『精神安定剤』の文字が表示される。高校生にとって衝撃的な文字だろう。“精神”を“安定”だなんて。
常人が己の力でやるべきことを、薬に頼らないとできない。そんな奴が校内にいる。そんなの興味を持つに決まっていた。犯人探しをし始める陽キャグループが誕生する蓋然性は、個人的な分析では九十パーセントを超える。
彼らの調査は単純で、きっと導き出す犯人は当たり障りのない疑いやすい人。証拠がなくても皆が納得してしまう人物。
(尚輝だと思われるんじゃないか?)
失礼だが、核島は思う。彼は、正直に言うと当然、変わり者のレッテルを周りから貼られている。黙り込んで、ずっと斜め下を向いて、陰キャという肩書きでは収まらない暗さを纏う。自分の感じるまま換言すれば、陰鬱を放っている。
性根は明るいかもしれない。本来はセンス溢れる天才かもしれない。喋れなくても学校に通う選択ができる、根性のある強い奴であるのは確実だ。
それでも、シンプルに考えたら、犯人にしやすいのは尚輝だ。そして一番の問題点は、彼は「違う」と否定できないこと。
グループならこの結果であるが、一個人が拾った場合、ヤンチャな生徒に拾われたら面白いネタとして探偵ゲーム扱いされるかもしれない。科学が好きな生徒なら危ない実験に使うかもしれない。勉強や人間関係で心が不安定な生徒もいるだろう、そんな子は好奇心で飲んでしまうかもしれない。
(誰が拾ったか、それが問題だ)
何がどうなるかわからないが、何か起これば落とした自分に責任があるのは絶対的事実である。
(尚輝を守るのは俺なんだ!)
「核島せーんせっ!」
職員室で項垂れながらの脳内会議が終わると、本物の会議から戻ってきた浦山勝也に両肩を掴まれた。別名、体育教師に見せかけた社会科教師。隣のクラスの担任で、教師歴は四年目だそだ。
「浦山先生、急になんですか」
「夜ご飯、どう?」
夜ご飯と言いながら、彼のジェスチャーは酒を飲んでいた。
「一緒にですか?」
「うん、別々なわけないでしょ。貴方って天然でしたっけ」
「違うと思ってますけど」
核島は荷物をまとめた。もう一度図書室に行きたかったが、何度探しても同じだろうと行かない言い訳を作り、諦める。
「どうする?誰か誘う?」
「どちらでも大丈夫ですよ。僕、浦山先生としか飲んだことないので」
「だろうね、話しかけづらい空気出ちゃってますよ」
「あは、ほんとですか。学生時代の癖ですかねぇ。クラスの隅にいた人間なんで」
「えー!そういう人が教職選ぶことあるんだ!学校大好きで、もっと居たくてなる人か、勉強が好きか、大体どっちかですよ」
あはははと笑い合い、自分は後者なんで同類かもね、と自嘲する浦山。実際は隅どころか空気だった核島は、たぶん彼とは全く違う。空気と言うのも烏滸がましいくらい、誰にも必要のない存在だった。あと、勉強が好きな人は学校も好きだろう。
(味わえなかった青春を、薬を手に入れた身体で取り戻してやろうと思って、先生になった)
そんなのは、口が裂けても言えない。馬鹿だなと自分でも思うからだ。研修の頃から薄々気づきながらも後戻りできなかったが、やはり向いてなさすぎる。毎日疲労困憊で、抑うつ状態が悪化しているのも自覚している。
「歴史オタクなのもあるけどね」
「そうなんですね」
人と会話をしない十代を過ごしたため、国語を教えてるくせに語彙力がない。言えない。これまた、自然に身につけられなかった語彙を勉強という形で取り戻すために文学部を選んだなんて、言えない。
大学で勉強して知識は追いついたが、日本語の学修イコール会話のスキル上達ではないのは承知している。ソースは自分だ。
「まあでも、核島先生すごいなぁ」
肩をトンッと叩かれる。彼はフレンドリーな人だった。学生時代からそうなんだろうなと思う。そんな態度に、自分は助けられてる。聞き手に回らせてくれるから、会話しやすかった。
意外と勘違いされがちで、会話が下手だと相手もこちらのレベルにワザと合わせてきたりする。けれど、喋り下手は喋り上手な人と相性がいいのである。相手任せで悪いが、会話の道筋を案内してほしい。回数を重ねるうち、こちらも地図を見なくても歩けるようになるのだ。
置かれたままの手。自分が女性だったらセクハラになるんだろうな、と思いながら、自分は男性なのでその手を握ってポイっと元の位置に返してやった。
「何もすごくないですよ」
彼も本気で褒め称えたわけではないはずで、真摯に言わなくていいのは理解していた。しかし本当にすごくないので、謙遜じゃないニュアンスで否定の言葉を言わずにはいられなかった。
彼はあまり聞いていない様子だった。ありがたい。こちらが言いたいだけだったことも、もしかしたら分かっているのかもしれない。
(すごいなぁ…)
「でも、そんな先生で安心する生徒もいると思うよ」
「?…あぁ、だといいですね」
「そんな」に当てはまらない人ほどそんなことを言うのだ。嫌な気持ちになると言いたいのではない。励まそうとしてくれる心に救われた。
核島は「よいしょー!」とテンション高く立ち上がった。気弱を放って気合いを取り入れる。
「食事、どこ行くんです?」
「まあ二人でいっか。んーと…またトリキにしようか」
話題は早速、尚輝のことになった。どのクラスにも困ったさんがいるのは、一つのクラスに偏らないよう満遍なく配置しているからだとか。そういう裏話は、教師になってから知った。流れで、今クラスに困ったさんはいるか?となり、罪悪感はあったが彼の名前を挙げた。今のところ、彼しかいなかった。
尚輝がそうであるのは、最初からではなく現状を見て把握した。だから今回うちのクラスに来たのは分散ではなく、多分、彼は来年から配慮枠に収まる。じゃあ今年は誰かと思ったが、なるほど自分は新米だったから自分が配慮してもらった側だ。
「同じ担任が受け持つことが多いんだよ。把握してるから引き継ぎが必要ないし」
「へぇー、そうなんですね。じゃあ僕が三年間同じ担任だったのもそのせいか」
茶化して話した。
「えっ、核島さん問題児だったの?」
「知りませんよ。先生の主観なんですから」
「嫌われてたんかな。それか逆に、その担任にめちゃくちゃ好かれてたか」
「いやまあ偶然の可能性もありますからね?」
「そっか」「そうですよ」ビールがなくなったので、男梅サワーを注文した。
タッチパネルから目を離し向かいを見ると、彼は何か考え込むような表情をしていた。テーブルを挟んでいるだけなのに手招きされ、核島は首を傾げた。そして、あぁ内緒話かと悟る。まさか生徒はいないだろうが、親がいて聞かれたら非常に良くない。それを気にしているのだろう。物理的には難しいが、耳を傾け、集中して聞く体制に入った。
彼は声を落として言った。
「山之内尚輝くん、カウンセリングは受けさせた?」
ズキッ――。チクチクチクッ。
心が振盪し、傷つく言葉ではないのに細かい針が刺さったみたいに痛んだ。カウンセリングを受けさせたかどうかが、小声で言わなきゃならない内容であることに、どうやら自分は強くショックを受けているらしい。
動揺がバレぬように答える。
「あー、それはまだなんですよね。……浦山さんは、受けさせた方がいいと思いますか?」
「緊張で喋れないわけでしょ?心の…なんか、専門的な人に任せるのが一番なんじゃないかと俺は思うかな。彼のことを考えるなら、できることはやってあげたいでしょ」
「……まぁ、そうですよね……」
そりゃあそうなのだ。
しかし核島はカウンセリングに乗り気にはなれなかった。
当時、トラウマと言うと大袈裟だが、カウンセリングなるもののメリットを感じなかった。おじさんと雑談したり、絵しりとりをしたり、折り紙をしたり。心底楽しくなかった。喋る練習になったとは到底思えなくて、すぐに行くのをやめた。
アレにはそんな思い出しかない。芸術を創れなかったのではなく、声が出なかっただけなんだから、やるべきはボイトレだろう。できないけど。黙り込むけれど。やらせるべきはそれなのだ。何故おじさんと……いや別にお姉さんでも同じ感想である。時間の無駄だった。スクールカウンセラーは、なんというか、退屈だ。
「あの子って、病気ってわけじゃないよね?」
「…っ、……え?」
「ん?」
「あ、いや、…わかりません」
病気だと思います、とは自分の口から言えない。先生として、人として。他人の心の……確定ならまだしも、予測でそれはさすがに言ってはいけない。なんとなく。
「喋るのが苦手な…性格?っていうか、単に内気な子なんだろ?喉の病気とかだったらカウンセリング関係ないし、うちの高校に入ってるし…、…その、手話的な必要性は、ない子なんだよね?」
あっ、と思った。
浦山が理解者だと、勘違いし続けるところだった。核島はキュッと口を噤む。彼も、尚輝の為を、そして初めてクラスを受け持つ新米教師の自分の為を思い、協力しようとしてくれている。でも。
(当事者にしかわからない)
本人が意図的に声を出していないという勘違いも、心の問題だったらカウンセリングを受けさせたら良いという思考回路も、楽観的に感じられた。
(こちら側じゃない分際で、言えたもんじゃない)
目線を浦山にすると、彼はタッチパネルを操作していた。
「ぼんじりとちからこぶでいいよね?」
酒が運ばれてきて、お辞儀をし、そっと口に含む。プハァ、ではなく、ハァと声が出た。
「……彼の、話せないあれは、僕の勝手なあれですけど……、その、性格ではないと思います」
顔がカッと熱くなった。もちろん、酒のせいではない。今から何をしようとしている?先程、口を噤むのが最善だと思ったばかりなのに、自分は何を口走ろうとしているのか。
緊張だ。大嫌いな緊張が心身に襲いかかって核島のストレスを底上げする。HPはどんどん下がる。
(ダメだ、語彙力がダメだ)
酒の力を借りている。アルコール成分に背中を押され、言えないのに、言ってはいけないのに、噤んだはずの口が酒と共に回り始める。酒が言い訳にできる仕事じゃない。酒が入っていたって、本当に思っていないことは言わないし、言いたくないことは言わない。思っていて、実は言いたいのだ。自分は酒の力を利用して、自分の欲を満たすのである。恥晒しを代償にしていることには、酔いから醒めなきゃわからない。
(しっかりした日本語で話さなきゃ、このタイミングで伝えなきゃ)
(今しかない)
核島は、歴史オタクの社会教師の前で、日本語オタクじゃない国語教師である自分を恥ずかしく思った。内容より語彙に気を取られ始める。
脳内がうるさい核島は気づかなかったが、沈黙に耐えかねた浦山はさっさと結論を促した。
「そうなの?じゃあ何?」
ここまで来たら、やっぱりなんでもないと言えない。…嘘だ、言える。言いたいから、言うしかない状況なんだと洗脳させているのは俯瞰で気づいている。
四年前から先生をしている人間から、アドバイスを貰いたかった。精神的な何かを抱えた生徒を相手にした経験もあるかもしれない。先輩の意見を取り入れたい。もしかしたら自分にはない支援システムや処置が用意されているのではないか。救う手段があるのなら教えてほしい。
自分は当事者である。当事者は当事者にしかなれない。第三者の気持ちにはなれないし、当事者を目の前にしたのは初めてだ。わからない。第三者の佇まい。励ましたり慰める技術。どこまで踏み込んで干渉するべきか。昔観たGTOは今の時代やりすぎだろうし……。
「浦山さん、知ってますかね」
定年まで教師をするとして、今後もこういうことが何回あるのか。尚輝だけでなく、何かを抱える生徒への正しい寄り添い方を、先輩としてアドバイスしてほしいと核島は思った。
「精神的なものかなって思います。今は社交不安障害って呼び方をしますが、……そうですね、対人恐怖症って言うとわかりやすいかもしれません。昔は、昔というか、数年前?数十年前か、たぶん、たしかそうというか、そんなのどうでもいいか。じゃなくて、いいですよね、どうでも。人見知りの病気バージョンみたいな、病気?いや病気なんですけど。はい、目を見たり喋ったりするのが怖くて固まってしまうんです。社交不安障害は総称みたいな感じですけど、なんか僕もごっちゃになるんですけど、場面によって話せたり話せなかったりとか、そういうのは場面緘黙症とか言ったりしたりします。社交不安障害の中に場面緘黙症とか赤面症とか色んな恐怖症が入ってるみたいな?視線恐怖症、会食恐怖症、電話恐怖症……あとなんだ?……あっ、スピーチ恐怖症、あと字は出てるんですけど読み方が……国語教師失格とか、あっ、ダメだ教師って言っちゃった。……て、ね……」
核島はハッとした。一人で喋りすぎている。会話はラリーだ。キャッチボールだ。
深呼吸をする。酒を飲む。喉が痛かった。長文を喋ると喉が痛くなるのは筋肉が鍛えられていないからだろう。喉が弱いなんて、本当に先生として致命的な欠点な気がする。そういえば漢字がそれほど得意ではないと暴露してしまった、恥ずかしい。
書痙恐怖症。…ショケイ、だったか。あぁ、あの変な漢字はケイだ。思い出した。痙攣のケイ。レンのほうが変な字かもしれない。糸と糸で言うを挟んで手。意味が分からない。書くときに手が震えそうではあるけれど。…なんて、考えている場合ではない。
(あー、変なゾーンに入ってるかも)
核島の頭は騒がしかった。この癖は未だに治らないな、とまた自分を客観視して、心の声に耳を傾けそうになる。それより目の前の相手と会話のラリーをしないと。キャッチボール、今どっちがボールを持っているのだろう。はて、そもそも彼はグローブを持っていただろうか。
自分が一人で暴走していた気がしてきて、気持ち悪い汗が出る。
そっと浦山を見た。彼は両手を組んで肘を机に置き、俯いていた。何を考えているのか分からない。でもまだこちらの話を待っているように見えた。たしかに話は終わっていない。結局何が言いたいんですか?と言われる前に、話を続けてみる。
「その……、なので、彼もそうなんじゃないかなって思うんですよね。病気で話せないっていう……正直ほぼ確信してて。でも先生が『君は病気かもよ?』なんて言えないじゃないですか。でも言ってあげるのが、一番優しい気がするんです。学校が雇ってるカウンセラーと、なんか…謎の…リハビリ?するより、心療内科で薬を飲んだら一発だと、…いやまあ僕の勝手な意見ですよ?けど思うんです。それを教えたいなぁって。だから……、あっ、浦山先生は、どう思いますか?」
言いたいことは、とりあえず言えた。核島は安堵し、彼に期待の目を向ける。一体どんなアドバイスをくれるのだろう。自分の知識では思いつけない発想を教えてほしい。四年間で身につけたスキルを是非分けて頂きたい。
浦山は、ふぅ…と深呼吸に近い溜息を吐いた。
「核島さんは、その病気なの?」
「ぇ、……ぃ、いいえ」
危ない。それはバレてはならない。核島は苦笑いして誤魔化す。浦山は真顔のまま話した。
「俺はその病気知らないけどさ、核島さんがそうじゃないなら知ったかぶりすぎる。てか、勝手に病人扱いして、さすがにその子に失礼でしょ。彼が気の毒ですね。…みんな違ってみんないいじゃないけどさ、生徒の各々の個性を大切にするのが先生の務めじゃないの?精神病だろうなぁー、なんて、思ってても言っちゃダメなレベルのことだよ」
ここまで聞いて、初めて核島は自分が怒られていると気づく。予測していた返答と違いすぎて、脳内処理が追いついていなかった。
(もしかして俺、やらかした?)
浦山はまだ酒を飲まない。こんなに話してるのに喉が渇かないんだな、と頭の隅で思った。
「今の時代は特にさ、性別も多いし、発達とかもグレーゾーンとか、……あー、あとは何?とにかく本当に色々あるじゃん。自分にレッテル貼る風潮みたいなの?まあやりすぎな部分はあるよ、個人的には。でも自己紹介されたら、それを他人は絶対に認めなきゃいけない。今の時代、否定したら悪人扱いだから。で、この感じが良いのか悪いのか知らないけど」
ここで一旦、浦山は唾を飲み込んだ。セリフが続いていると伝わるけど、息継ぎの時間を作れる感じ。二十五メートルプールの折り返しに見えた。まだ半分、続きがあると思った。そしてこの人は絶対に泳ぎ切れる、誰もが信じて疑わないだろう空気があった。
「そのポリコレ……あー核島さん知ってるかな。まあだから、差別しないでいきましょうってやつ。それをするかしないかの意見すら、人それぞれって言葉でまとめなきゃいけない。けど生きるために最低限のことはしなきゃダメなわけ。この世界で生きれなくならないための、最低限の、差別しないでいきましょう運動ね。そんで俺らは生徒に、個性を認めるようにって教えなきゃならない。そういう立場なんですね。……でも、他人がレッテル貼るのは違うでしょ。生徒のこと、そうやってカテゴライズするなんて、ははっ、それ教員がやっちゃいますか」
核島は、スーッと食欲がなくなるのを感じた。焼き鳥を残すことになりそうだなと思う。昨夜は唐揚げを残した。食事が上手くできない。精神的な圧迫感で喉が閉じるのは、味覚が遠のくのは、生きる行為をやめたくなっているからなのだろうか。食事が楽しくない。苦しい。
薬が飲みたい。精神が不安定なのは言わずもがなだが、何錠飲んでも効かないくらい負荷が酷い。『最悪』の文字が浮かぶ。文字が埋め尽くされた脳が痛む。否。痒いのかもしれないし、重たいだけかもしれない。とにかくザワザワして、頭を割って中身を取り出したい気持ちになった。
トイレに逃げたら。そうしたら、きっと自分はここへ戻ってくる勇気はない。今から自分がなんと返すかが重要だ。彼と仲が悪くなるか否かの分岐点だ。謝るべきなのだろう。しかし、許してもらえる謝罪文が浮かばない。なんだろうか、このワナワナとする感じは。自分は本音をぶつけた。誓って自分の正義の言葉だった。
(それを完全否定された)
核島は現在、浦山に苛立ちを覚えていた。そもそも許される必要性はあるのか?と思い始めている。縁を切っても仕事は続けられるのに、今後の職場の空気感のために捻じ曲げていい思考なのか。自分が全て間違えていたと自分が認めて謝ってしまえば、他人に否定されたことに加えて、自己否定をすることになるのではなかろうか。
は?と思う。
(知ったかぶりはお前じゃね?病気のことなんも知らないくせに。性的マイノリティでも発達障がいでもない……かは知らないけど。俺は差別をしようとしたんじゃない。むしろ受け入れるための案だった。それを否定するのはポリコレ?の道理に従えているのか?)
核島は歯を強く噛み合わせ、心の中だけで言い返す。
(尚輝のダンマリ。あれは絶対に病気だ。何故どいつもこいつもそれを疑わない。『病人扱いするのは良くないことだから』『他人がレッテルを貼るのは良くないことだから』分からなくないけど、そんなのキレイゴトだ。レッテルを貼ってほしいかもしれないじゃないか。自分がレッテルを貼られる人間だって気づけていないだけで、貼ってもらえたら救われるかもしれないじゃないか)
声にできない自分が情け無かった。
(少なくとも俺は、病気だと気づけて世界が変わった。薬を飲んで、みんなこの程度の緊張で生きていたんだって驚いた。性格の問題じゃなかったのか、俺の努力不足じゃなかったのかって。自分が病気だと知って、とても嬉しかったんだ)
この沈黙の間、浦山は沈黙を破る気は一切なさそうだった。こっちが喋る番だと思っているらしいし、実際その通りである。居酒屋は騒がしいから、核島にも浦山にも気まずさを感じる余地はなかった。
核島は酒を一気に飲んだ。一口ごま油キャベツを食べるが、ごま油の風味を感じられない。シャキシャキとした食感だけが残って、やはりストレスで一時的に味覚もやられたのだと悟る。殺された、と思う。
「あの、カウンセリングの提案を、浦山さんはしたと思うんですけど、」
「あ、先生って言うのやめてる。さっきミスってたよ。校内以外での先生呼びは危険だからやめてね」
「?……えっ?あ、そうでしたか。すみません……」
「いいよ、続けて?」
途中で止めるのはやめてほしい。どこまで話したか分からなくなる。彼の全てに腹が立ってくる。真逆の人間は、面白いけれど分かり合えない。さっきから頭をフル回転させている人の気持ちを知らないらしい言葉ばかりだ。
彼は言葉が頭より先に口から出るタイプなのだろうか。それにしては適切な言葉選びをしている。羨ましくて、同時に、馬鹿にされている気になる。
こういう人が教師が天職の人なのかもしれない。ト書き通りにしか話せないのは、話し下手だからなのか生まれつきの思考パターンなのか。嫌になる。彼を嫌になるほど、自分が嫌になる。嫉妬心が募る。
「っとぉ……、えっと、カウンセリングの提案をするのは……その、レッテル貼りには、該当しないんですか?浦山せ、…さんこそ、カウンセリングが必要な子っていうカテゴライズ?をしている…みたいな感じ……?になってるんじゃないのかなと思って……」
浦山を見る。彼はまだ話す気はなさそうだった。「……思って」は文章の語末と認めていないのかもと思い、言い直してみる。
「……思いました」
「?……うん。でも、そうだなぁ……」
彼は考えている表情をした。思いましたと言ったから話してくれたのか、ただ少し間(ま)ができただけなのか。
同じ失敗を繰り返す奴とは思われたくない。一応、今後も文章の終わりらしく話し終わるよう心がければ失敗はないはずだ。そう決めてこの議題の思考は飛ばした。
彼を嫌っているのに、彼に嫌われたくないと思っている。何とも臆病者で狡い奴だ。でも嫌うのは簡単で、嫌われるのはいつだって怖い。
なんとなく、彼は自分の意見を考えているのではなく、こちらに伝わるように言うにはどうすればいいのかを考えている気がした。理解力がないと思われてる?と不安になる。
「だから……、どっちかと言えば、レッテルを貼る権利があるのはカウンセラーじゃないかなって話。病気の知識もあるだろうし、例えばカウンセラーから病気の疑いをかけられて病院を提案されたほうが、本人も納得するでしょ。もし担任に言われたら、そういう目で見られてたんだって落ち込むだろうし、…あと、親に言われたらマズいよ。先生に病人扱いされたんだけどって愚痴られたら、親御さんブチ切れ確定だろうし」
先生。高校の先生。
(そっか)
核島は、仕事に教師を選んだことを全否定された気分になった。しかしそうされて仕方ないと即座に納得し、彼への苛立ちも一気に冷めていった。
教職とは、そういう仕事だった。学校とは、そういう所だった。何を望んでいたんだと、馬鹿馬鹿しくて内心で憫笑する。
なんだか我に返った。映画シンデレラなんてザックリとしか観ていないけれど、主人公になった気になって、まるで映画のような人生設計をしていたのである。過去の不幸を現在から未来までの幸福で取り返そうなど、冷静に考えれば夢物語である。長いこと気が付かないでいたことが、もはや皮肉に褒め称えたくなるほど狂っていた。
スタートダッシュをミスった時点で既に皆に追いつけないのは決まっていた。自分は一生置いてけぼりの人生なのだ。
彼の発言。本当にその通りだと思う。自分は偶々当事者だから知ってるだけで、専門家でも医者でも保健の先生ですらない。何を仲間意識を持って、一人の生徒に同類だねと手を差し伸べて、特別扱いで守ろうとしていたのか。
自分は教師という仕事で、お金を稼ぐ為に就職した。青春を取り戻す為ではない。そんなの生温い。仕事に対してのモチベーションとしては舐めた態度だ。淡々と与えられた業務をこなせばいい。テストを作ったり、教科書を読み上げたり、要点を黒板に書いていればいい。親御様や校長の地雷を踏まず、丁寧に真面目にしていれば、安定した給料が貰える仕事。
教職を選ぶにあたって、子どもたちを育てたいという心は一切なかった。自分が楽しみたくて決めた進路だった。こんなの恥だ。仕事に私情を持ち込んではいけなかった。
得意な教科が一つ以上あって、人前に出ることに恥じらいがなくて、何気ない質問に当たり障りなく答えるのが得意。コミュ強。世渡り上手。「あぁ私は先生が天職だな」と思った人間が、先生になるべきなのである。
核島は頭を下げた。
「すみません、最低でした。浦山さんの言う通りです。本当にありがとうございます。僕、ものすごく失礼な発言してましたよね。知ってる枠に分類しようとして…、先生としてっていうか、人として恥ずかしいっていうか」
彼はジョッキを傾けていた。
「恥ずかしいと思いました」
核心に沁みましたという表情を最大限に浮かべ、焼き鳥を食べた。タレが美味しかった。満足げにキャベツを食べた。ごま油が美味しかった。
「核島さん、立派な教師になれますよ。誰でも最初は初心者ってやつです」
「はい、頑張ります」
多様性を認める。個々を大切にする。生徒みんなを平等に扱う。
そんな先生でいようと心に誓った。
次の日、尚輝がそうさせてくれなかった。
チーズを取りに行くネズミのようだ、と尚輝は思った。実物のそれを見たことはないけれど、海外アニメではこんな感じだった。
獲物を見つけ、ハッと目を輝かせて、驚きと喜び半々の表情で近づくが、もしかしたら自分の思っているものではないかもしれないと少しの躊躇いをみせ、だけど結局恐る恐る手を伸ばす。
「ネズミみたい」
そのまま伝えてみると、核島はビクッと肩を揺らし、薬を拾おうとした手を引っ込めた。怯え方も「仕掛けの可能性を忘れてた!」とドギマギするネズミみたいだった。
現実を受け入れたくないのか、渋々といったように振り返り、悔しそうな目で彼はこちらを見る。
「なんで、尚輝…?」
「……なんで、とは」
なんで尚輝がここにいるのか。なんで尚輝がこんなことをしたのか。なんで尚輝が薬を持っているのか。どれのことか分からなかったから、素直に聞いてみた。きっとどれについてでも良かったんだろうなと思いながら。
彼も尚輝の質問の意図を汲んだようで、言い換えてくれた。
「なんでここにいるの?」
尚輝は思った。一番気になるのはそれじゃないだろ、と。昼食の為に設けられた休憩時間なのに何故図書室にいるのか。今の彼にとって、どうでもいい質問だ。
(全部を順番に聞こうと思っている)
尚輝がここいるのは、今に始まったことではない。
「お昼食べないから、いつも図書室にいる」
お昼食べない。いつも図書室。
「お昼」は食べ物じゃないなと頭の片隅で考えていると、やっぱりどうでもよかったのか核島は相槌も打たず、すぐに「鍵を開けるのを待ってたの?」と別の質問をしてきた。ご飯を食べていないことも、毎日一人寂しく図書室にいることも、心配してくれないらしい。別にいいけれど、担任の先生として如何なものか。
「待っていたの?」と聞かれたことに関し、尚輝は首を傾げた。
確かに待っていたけれど、鍵が開くのを待っていたというよりは、昨日の帰りに元の場所に戻した薬を誰かが見つけて取る姿を見てみたかった。核島が図書室を開けないことには始まらなかったけれど、鍵が開けられたあとの展開を待っていたのであり、鍵が開くのを今か今かと待っていたわけではない。
質問が真意から遠いなぁと尚輝は感じた。
ネズミ駆除業者になって獲物を観察しようと思ったのは、もちろん持ち主を見つけられた嬉しいと思ったが、さすがに諦めただろうとあまり期待していなかった。持ち主以外が手に取って、自分以外に興味を示すのは誰なのか。それをどうするのか。自分を観察すると同時に、もし自分が拾わなかったら……という世界線を見てみようかな、なんて暇つぶし。尚輝にとっても、まさかな展開の状況なのだ。
(持ち主来ちゃったかぁ)
核島が薬の持ち主であると断言できるのは、彼が鍵を開け薬を視界に捉えると、「あれ、うそ」と言い、近寄って「あった!」と言ったから。なんとも分かりやすかった。廊下側から顔だけ出して、不審者よろしく一部始終を見ていたのを、きっと彼は知らない。
「何してたの?」
それは今回薬を置いたことについてか、普段の図書室での過ごし方なのか。国語教師なのに、さっきから言葉足らずだ。
何って、そちら様こそ。
(いつも図書室で何をしていたんですか?)
尚輝が色んな意味で首を傾げると、核島は質問を大きく変更した。
「この、くす……、ゴミを、ここに置いた、……捨てたのは尚輝?」
相当焦っているなぁと思う。まだ誤魔化そうと抗っている大人を、尚輝は余裕の表情で見つめた。もっと頑張っても、そろそろ諦めてもらっても、どちらでもいい。どっちも面白いからだ。
薬の中身が空っぽなことに気づいたからか、大切だろう薬を「ゴミ」と言った。そう、彼が飛びついたのは、押し出され済みの薬だ。ただの不燃ゴミである。
「置いた」
「……なんで?」
「誰か、拾うかなと思って」
きっとこの人は本当に聞きたいことが聞けていないだろう。尚輝は、絶妙に的外れな返答をしている自覚があった。わざとそうしているわけではないが、彼の質問に具体性がないから自然とこうなってしまう。抽象的な質問には雑な返事しかできない、当然のことだ。
核島は、はぁ…と溜め息をつき、床のゴミを見つめていた。彼の頭の回転によるモーター音が尚輝には聞こえる気がした。
「ごめん。びっくり……驚いちゃって。色々質問したいことがあるんだけど、全部答えてくれる?」
「!」
尚輝はコクコクと頷く。身振りは、声が出ない・出せない・出なかった際の保険や代用に過ぎないのに、意図せず声より先にジェスチャーが出た。声が出る奇跡を堪能したい、自慢したい。その欲望を超えるのは、一早く相手に肯定の気持ちを伝えたかったからであろう。
(人生が楽しい)
祭りだ!わっしょい!と脳内が騒ぎだしている。尚輝は興奮していた。顔に出さないよう努めた。
「っ大丈夫、です」
舞い上がってないです。まともな状態です。「大丈夫」にはその意味も込めた。舞い上がっていても、調子に乗ってはいけない。
チラッと掛け時計を見ると、休憩はあと七分であった。さて収まるだろうか?と顎に手をやる。せっかくの新しい人生の序章、短いのは嫌だ。刺激的で、面白くて、あっという間に感じる長時間がいい。
異色の物語の主人公で在りたい。そう考えていると、核島から奇跡の発言が放たれる。
「次の授業、サボる気とか…」
「……!えっ?」
まさかだった。尚輝は耳を疑うが、モジモジ目を泳がせる担任とは思えない彼の雰囲気で、聞き間違いではないなと思った。この映像が他の先生に見られたらどうするのか。どうなるのか。SNSに流れてバズったら、社会的に終わる可能性もゼロじゃない。そのくらい。
(すっごい発言…)
七分が約一時間七分になる、一歩手前に立たされている。序章の長さが決まる分岐点だ、と尚輝は思った。核島から出された提案だが、自分が彼を上手く誘導して一緒に一歩以上前に進まなければ、絶対に実現しない気配を感じる。
「っぁ、僕……あれ?先生が何言ってんだろ。いやいや、生徒にサボらせようとか、ごめん、違う…から、あの……」
だいぶパニクっているようだ。髪をくしゃくしゃと掻き、変な口角の上げ方をしながら、彼は自分の吐く二酸化炭素と喋っていた。
「大丈夫です、サボれます」
彼のセリフがいつ途切れるのかは知らないが、尚輝は食い気味に、比較的大きめの声で言ってみた。次の授業をサボる気は、大丈夫どころではない。めちゃくちゃサボりたい。土下座してお願いしたいくらいだ。そうしたら謎すぎるし立場がおかしくなるからしないけれど。
それにこちらがグイグイやる気を見せてしまえば、教師の理性が働いて反射的に「やっぱりサボりはダメだ」と言われかねない。
(声が出せる状態なのに口を噤む日が来るなんて)
こんな楽しそうな展開を逃せるものか。授業なんか集中したことないが、このあと教室に戻ってできるわけがない。授業をサボれて、担任の狼狽した姿を見続けられる。しかも自分がきっかけであり、そんな元凶の言葉を彼は求めているらしい。ノーデメリット、メニーメリット、シンプルハッピー。猿よりウッキウキーである。
(今の核島先生、僕の言葉が貴重なんだ)
尚輝は声を出さないことを揶揄われて生きてきた。「なんで出さねーんだよ」と小学生の頃は声で、中学生の頃は目つきで伝えられた。高校では「何か事情があるんだろうな」の目を向けられた。
本当の意味で発言を求められたのは初めてのことだった。結局求められていたのは「みんなも喋っているから貴方も喋りなさい」であり、尚輝の思考や発想を知りたいという心情は、そこになかった。自分の一言一句で相手が一喜一憂する経験などあるはずもない。
しかし今回はどうだ。学校の先生が、『皆と平等に尚輝の意見も聞いておく』と事務的な感情ではなく、『尚輝の発言内容によって自分の感情が変化する』と私情を持っている。
(残飯が、残飯じゃなくなる)
彼に言葉を食べてもらえる、と尚輝は思った。語彙が足りず、噛み砕かれたというより飲み込む前の状態に近い言葉を、彼は懸命に咀嚼してくれる。求められているのは、声ではなく言葉。頭の中にある文字たちを提示してほしいと訴えられているのが、この上なく嬉しかった。
尚輝は気づく。生み出した言葉を廃棄するのが辛かったのだ、と。確かに人と会話をしたかったが、声が出したいよりも意思表示がしたかったのだ。でも自分の力で知ってもらいたかったから、声が必要だった。
頭の中に溜まっている言葉を放出したい。尚輝の長年の願いであった。それを他人に、こんなに必死に要望されている。夢みたいだ。
「聞きたいことが、あるなら、全部、聞いてもらえたら、全部、答える」
この機会を手放すわけにいかない。まずは、今の彼が一番欲しいだろう言葉を提示してみる。尚輝は全部言う。尚輝は核島が質問すれば、必ず知りたいことを教えてくれる人なのだと伝える。
「絶対?……、……いやでも、」
「絶対。ちょっと、自分も、先生に、話したいこと、ある」
次に、授業をサボらせる理由を、核島だけのせいにしない。生徒の悩みを聞いてあげるのは担任の役目で、断るのは悪だ。彼を、生徒の為に時間を作ってあげる優しい先生に仕立て上げてやる。
五限の授業は社会。端の席から順に教科書を読み上げ、先生が赤色と黄色のチョークをたくさん使って、女子がノートを綺麗に書くことに全神経を使う授業。暗記教科は休んでも無問題。
絶対に授業をお休みさせるのが正解だ。社会の先生も、授業が不必要発言以外は同意見だろう。
「……そっか。じゃあ浦山先生には僕から言っておくね」
彼はこちらの気遣いのセリフを、本音と受け取ったフリをして乗っかってくれた。
「お願いします」
「…ん、じゃあここ座って」
核島は近くの椅子をポンと叩いた。尚輝は従って腰掛ける。
ちょうど昼休み終了のチャイムが鳴った。
彼は図書室を出て行った。後ろを振り返ると薬のゴミが落ちている。あんなにバレたくなさそうだったのに不用心だな、と尚輝は席を立ち、拾って、机に置いて座り直す。核島が座るだろう席と自分の席のちょうど真ん中になるように指で調整する。これについて話すことになるだろうから、この位置がベストだ。
しばらく待っていると、彼は「お待たせ」と言って中に入ってきた。ドアの鍵を閉め、予想通り尚輝の向かい側に着席する。
授業開始のチャイムが鳴った。
「今日は誰も図書室来なかったね」
「…ドアの前の札、クローズドになってる」
「……、…僕が裏返すの忘れてた…?」
尚輝は恍けた顔で、首を傾げてみせた。核島はニヒルな笑いを浮かべた。
「……まあいいや。…じゃあ……早速だけど。話したいことって何?」
そっちからか、とは思わなかった。そっちが本題である演技を互いにしなきゃならないことくらい分かっている。誰も聞いていなくとも、これからの自分たちが嘘つきにならないための儀式が、嘘のつけない自分たちには必要だった。
話したいこと。それは既に何度か練習していた。薬を飲んだ日から考えていたセリフが、一つだけあった。
「僕って、病気ですか?」
生きづらいと嘆くのはとても簡単なことである。嘆いているだけでは成長しない。嘆いた時点で成長を諦めた……と言うのは、さすがに軽率な思考かもしれない。しかし、認めて自分を大切にするほど、甘えなのかなと考えだしそうと危惧する自分がいる。
病気を自覚していない頃のほうが強かった。でも人生が色めき出したのは自覚してからだ。コンビニで感動した。世界に色がついたと表現する人間の気持ちが初めてわかった。
自覚する前と後。どちらも本当の自分であると分かっているはずなのに、薬を飲む前と後で人格が違うように思えた。
喋れる自分に、自分が引いてしまっている。
どちらの自分が好きか。もちろん薬を飲んだあとだ。望んだことが叶ってるのだから。
(じゃあ何を恐れてる?)
……恐れ?
別に恐れていない。むしろ人に対する恐怖心がなくなった。可哀想じゃなくなって良かった。
……可哀想?
そうか。自分は今まで可哀想だった。当時認められなかったが、現在は言える。薬を飲んでいない自分は可哀想だった。学校で一言も喋れないなんて、そりゃあ可哀想だろう。
(でも、可哀想な頃の自分も好きだった)
自己愛は強いほうだと思う。生きづらかったからこそ、多様性に無知じゃない自分がいる。そうやって自分の存在意義を見出す己の精神力が強くて好きだった。
(……)
尚輝は怯えた。
可哀想じゃなくなるのが怖い、と思ってしまった。可哀想な自分を好きになったせいで、可哀想でなくなったときの自分を愛せるのか不安になっている。
さすがに可哀想と思われたかったとは言えない。だけど尚輝を包むのは、その隣にある感情。『喋れないうちに同情してくれる人に出会ってみたかった』だった。
そんなの叶うはずない。恋に発展するなら少女漫画の展開だし、理解のある大親友ができたら少年漫画だ。現実の人間は基本的に他人に無関心だし、変な人には触れないようにするのが善意だと考える。『変な子』『不思議な子』『独特な子』いつ誰に言われたかも思い出せないそれらは、紛うことなき悪口だった。自分の立場は、間違いなく喜ばしい立場ではない。叶うはずない願いは、尚輝を突き放して青春から置いてけぼりにした。
そう。そこにいる自分を愛せたなら、どんな自分も愛せるはずなのだ。喋れる自分こそ、何と引き換えても手に入れたいと願った自分。正しい表し方は思いつかないが、きっと今、理想になれた。
薬という魔法を手に入れ、考えた結果の結論。答えを聞いたとして、それが正解で、嬉しくないわけがない。
「薬が効くってことは、僕は対象者ということでしょうか?」
「僕は通うべき場所がありますか?」
「僕が患っているものってなんですか?」
それらをまとめた。
「僕って、病気ですか?」
ずっと考えていた。薬は健康な人にとっては毒だ。ならば効いた自分は不健康、要するに病気を患っているのではないかという疑惑。疑惑と言っても、もう自分にはそれしか考えられない。
効いた。何に効いたか。
「まさか尚輝、これ飲んだの?」
会話ができる力が手に入った。長年夢見た魔法が使えるようになった。後悔など全くもってない。飲み込むだけで魔法使いになったのだから万々歳である。
「薬を二錠…?」
「一錠です」
「え、じゃあもう一個は?」
「…あっ、今さっき飲んだ」
「あ……」と彼は察した声を上げた。今、尚輝が話せているということは、今も飲んでいるに決まっているのである。
「ねぇ、ダメでしょ。落ちてる薬を飲んだら」
「でも、そのおかげで、僕は会話が出来ています…」
文句あるか?と思う。言いながら嬉し涙が出そうになり、慌てて唾を飲み込む。深呼吸。絶対に泣いてはダメなのだ。裏の主導権だけは渡さない。
「……そっか……」
核島は「そっかそっか……」と何度も言いながら頷いた。そうだそうだ、と尚輝も心の中て言い返す。
「先生、これなんて薬?」
「……!えっ、知らずに飲んだの?」
「はい」
だって、調べたら面白くない。何せ刺激を求めていたから。自分は学校に行くべきか、行けなくなる運命になるか、賭けに出たのだから当然だ。まだ尚輝は、この薬がどんな効果があるものなのか知らない。もちろん体感で推測できているけれど、どんな人が飲むべきで、何がどうなってどこが変わるのか。本質は知らないでいる。
核島が教師の顔をした。
「そんな危険なことして。もし危ない薬だったらどうするの?」
尚輝も悪事がバレた生徒の顔をする。
「危ない薬が、学校にあるわけないかなって……」
半分言い訳、半分本音。
「分からないでしょ。副作用とか強く出たら大変だよ?この薬、一ミリグラムから始めていく薬なの。飲んだのが一錠でも、これは五ミリグラムだから、一ミリグラムを五錠飲んだのと同じなんだよ?」
やけに詳しいですね、とは言わない。嫌な奴になりたいわけではないから。それに彼はこちらにバレた前提で話しているのか、伺っている最中なのか、バレたのは知ってるけど言質が取れなければ曖昧にできると思っているのか、分からない。互いに探っている最中で、答え合わせは今ではないと思った。
言質が一番大事なのは尚輝も思っている。「そうだよ、僕の薬だ」と言わせたい気持ちもある。けれど、わざわざ言わせなくてもいいとも思っていた。話が逸れてしまうし、逸らした人が責任を持って話し手にならなければならいけなくなる気がするから。今は質問される側で在りたい。興味を惹かれているのが心地良くて、この時間がいつまでも続けばいいと思ってしまう。
(とりあえずまだ核島先生に委ねよう)
それより、今の彼の説明は何なのか。
「ふふっ、数学?」
「!わらっ……、算数だよ」
国語教師が数字の話をしているのがジワジワきた。笑ったことを指摘しようとしてやめた彼は、「何もなかったなら良かったけどさあ」と発言を誤魔化すように呟く。
「何もなかったっていうか、世界が変わった」
本当に感じた。まあ大人になったら変わるかも?と楽観的には思っていたと同時に、一生ダメかもしれないと思っている自分もいた経験。『声を出す』『目を見る』。
あの日、コンビニで声を出したり、店員の顔を見た。電車で席を譲った。高校生のうちにできるとは夢にも思っていなかったこと。音量調整を間違えて大声が出てしまうんじゃないかと、逆に小さめの声を意識するほど喉に飴がなくて、全く心臓が速くならなくて、しっかり背筋を伸ばし顔を上げられる自分を、俯瞰で見る余裕もなく楽しんだ。
(あれを「何もなかった」とは言えないし、言わせられない)
彼はドキリとした表情をみせる。
「……そのエピソード聞かせてくれる……?」
興味本位です、と顔に書かれている。でも尚輝は全部答えると約束した。そして話したかった。もっと長文を試したかったから、機会を与えてくれて嬉しかった。そしてやはり興味を持たれているのが嬉しくて堪らない。
「コンビニで、いつもは一言も喋らず買うのに、飲んだ日……飲んだときは、喋って、買って……、買い物、して」
エピソードトークって難しいんだな、と尚輝は思う。セリフを脳内に書き起こすスピードが話すスピードに追いつかなくて、途切れてしまう。早く答えようとすると、語弊を招かないように言葉を変換する時間も、相手がどんな反応するかシュミレーションする時間もない。喋る言葉を喋りながら考えてる人は尊敬に値するかも、と自分の能力のなさを知り、思い当たる人の凄さを知る。
経験値の差か。もしかしたら生まれつき脳の構造が違うのかもしれない。でももしも多数派が出来ていることだとしたら、自分が置いてけぼり側であるのを痛感して、闇に引っ張られてしまいそうだ。「人それぞれ」「多様性」と心の中で呟く。つい縋ってしまい、簡単に救われる言葉。
目の前の彼は、興奮気味に「へぇ!」と言った。
「びっくりした?」
「……まぁ、はい……」
あたかも自分の手柄かのようにニヤつかれる。尚輝は不貞腐れた態度になった。さっきは薬を飲んだことを責めてたくせに。一貫性がないと感じられる。
彼は「うーん」と唸り、尚輝が随分と前にした質問に、どことなく自慢げに答える。
「あのね、この薬は、抗不安薬だよ。抗うっていう字に、ふあんぐすり。…そのまんまだね、不安や緊張を軽減してくれる薬。精神安定剤とも呼ばれる」
急に今度は国語教師らしいことを話し始めた核島だったが、尚輝は面白くなかった。さっきと違ってちゃんと国語の先生っぽいでしょ?と思ってそうな言い方が鼻についた。たぶん思っていないのも含めて。
知りたかった薬の正体は聞けたが、それならばここからが本題だ。尚輝は話を始めの頃に戻してみる。言質が必要だと思ったのは、この場で優位に立っていないと負けた感じがするからだ。あくまでも核島が尚輝の言葉を聞きたくて設けられた時間であるのだと、忘れさせてはならない。
「これは、先生のものってことで、合ってる、……?」
質問なのに、上手く語尾が上げられなかった。小さく首を傾げて、今のは問いであったと知らせる。せっかく声で話せるのに身振りを使わなければならない自分に、ちょっぴり腹が立った。首を動かすのが当たり前になっているし、語尾を上げなきゃクエスチョンにならないのに、抑揚のない平坦な喋り方になってしまう。
そんなことを考えている間、核島も何か考えていたのか、脳内から現実に戻ってもまだ沈黙が続いていた。先程までは彼の話し始めた声で我に返っていたのに、今回待たされている。
「ヴンッ」と聞こえて、力強く肯定されたのかと思い核島の顔を見る。しかし、まだ覚悟を決めている途中の顔をしていたので、ただの咳払いだと気づいた。頷きだと勘違いした自分に笑いそうになった。
誰しも緊張しているときは喉に飴玉ができるのかもしれない。『人の心に飴玉工場』CMみたいで語呂がいいなと考える。
「うん」
また咳払いか?と思って顔を見ると、彼は首を縦に動かしていた。今度こそ「イエス」と言ったらしい。話せるのに首を動かす人が、自分以外にもいた。
「……なんで」
それを踏まえて、一番気になった疑問を聞いた。彼のものだとは最初から察している。誘導したけれど、いざ言質が取れてしまうと、尚輝は焦った。興奮が一周まわって焦燥に変わる。
「なんで、とは?」
「……っ、なんで……っ、ほんとのこと、言ったの…っ、…?」
苛立ちと質問、半々だった。力(りき)んで発するハテナはどういうイントネーションなのか分からなかったから、意識しようと心に決めたばかりのに半端な言い方になってしまい、また首を傾げる。すると壊れかけのロボットになって、話し下手なのが恥ずかしかった。
核島はそんな尚輝よりも、質問の内容のほうが衝撃的だったようで、「え……」と言って固まってしまった。
図書室は図書館よりも静かだ。静かにしなきゃと思ってないからこそ、余計に妙な静けさを感じる。まるで温いソーダのように、空気が爽やかで重かった。
(…痛い…)
沈黙が痛い。自分より激痛なのは向こうだ。こちらを待たしている罪悪感を抱いている彼を、尚輝は可哀想だと思った。
だから沈黙を破ってやった。
「ぁ……、ど、どうして、本当のことを言ったんですか?…僕なら、このことを他の人にバラさない、っバラせないと、思ったから……ですか」
質問している途中で答えが分かってしまって、普通の質問からマルバツの二択質問に変更する。
(クソが。危うく信用してくれたと勘違いしそうになったじゃないか)
薬はコンビニと今日で二錠使い切っていると、彼は知っている。もう今後の尚輝には話す声がないと悟られたから話した。どうせ広まることはないだろうと思われた。悔しい。ナメられてる。
核島は自嘲的に笑って、「確かにそうだね」と言った。疑問に思うのは当然だよね、とでも言うように。「自分でもなんでだろって思うもん、ナメてるって伝えてるようなもんだよね、君がなんでって問うのは普通のことだよ」そんな言葉が含まれた納得を示すセリフに、知ったかぶりするなと思った。当たっているから、ムカついた。言葉足らずの相手の心を読んであげたと、いい気になってるとしたら、こいつを殴りたい。
「勘違いさせたね」
「……ん…?」
「僕は言いたかったんだよ、尚輝に」
尚輝の頭にはクエスチョンマークが大量に浮かぶ。知られてもいい、ではなく、知らせたかった、とは?意味不明にも程がある。尚輝は険しい顔で薬のゴミを見つめた。これを飲んでいることを、言いたいはずがない。先生がこれを飲まなきゃやってられないのは謎すぎるし、これを飲むこと自体、薬に頼っているという恥ずかしさがある気がする。恥ずかしいことではなくても、本当は自分の力ではなく人工物に頼った魔法使いは、魔法国では肩身が狭いのが相場だと思った。
尚輝は難しい顔をして固まる。考えても考えても答えが出ない。
核島が「あのね」と優しい声で言うので、尚輝はパチリと目を合わせた。
「先生は、社交不安障害なんだ」
転校生は気の毒だ。尚輝は夏服になった制服の首元をパタパタさせながら同情する。漫画やドラマの影響でビジュアルの期待値が高いらしく、「かわいかったら言えよ」と別のクラスの人に言われてる者が数人いた。どっちにしろ見に来るくせに、と内心で嘲笑する。「かわいい」は主観なんだから。浅野美香を美女だと断言したのは、……。
多様性は好きだが、『ルッキズム』と『セクシャリティ』にはドギマギしてしまう自分がいる。ちゃんと勉強して、多様性に疎い人を威厳できる側でいなきゃなと思う。少数派に寄り添える存在でいることが自分の存在意義だった頃を思うと、学ぶのは使命と思えた。
転校生に同情しているが、腐っても他人事の尚輝は、自分が転校生でない人生を歩めていることにホッとしていた。ドキドキしてるんだろ?この教室に入るの怖いだろ?と、転校生がすぐに教室に馴染めたとしても、初日だけは先輩風を吹かせさせる。視線が別に向くと決まっている状況に安心しているのかもしれない。
どんな子かな。クラスをかき乱してくれる子かな。自分以上の問題児かな。尚輝の期待は膨らむ。
今日から、うちのクラスに新しい生徒が加わる。女性だという情報だけ、一昨日から学年中に知れ渡っていた。誰が誰に話して噂されたのか分からないが、実際に現在、教壇に立たされているのは髪の長い女性だった。
「坂本音羽さんです」
第一声は女性の声だと思ったから、低い声が聞こえて驚いた。核島が名前を紹介していた。入学式では自分で言わされたのに、と嫌な記憶を回想した尚輝は「ズルい」と思う。
転校生は気まずそうに教卓を見つめていた。そして唇がゆっくりと開き、さすがに音は聞こえないが、スッと短く息を口から吸ったのが分かった。その空気は吸った分だけ出てきた。
「よろ……くお願いし……す」
彼女は、とても声が小さかった。
「緊張しますよね、大丈夫ですよ」
優しい声をかける核島に、尚輝は「は?」と思った。自分のときは、自己紹介を止めるのも遅ければ優しい言葉など微塵もくれなかったのに。
音羽は窓側の一番前の席に座った。隅っこズルい。尚輝は転校生であること以外、彼女を羨ましく感じた。あの対応が転校生であるが故の場合、『転校生なのが羨ましい』に変換されるが、どうなのだろう。女性だから、訳アリだから。
(尚輝じゃないから、なんてね)
それは逆に自惚れだ。
「分からないことがあれば僕に聞いてくださいね。心配ごととか些細なことでも全然。もし僕に言いづらいことなら、保健室とかでも大丈夫ですから。授業中に勝手に出て行っても大丈夫です」
探し物をしているふりで近づき、聞き耳を立てた。核島は必要以上に彼女を気にかけている。尚輝は不快感が生まれたのを喉の飴のサイズで感じた。
僅かな休憩時間に走って見に来た人たちは、あんなに期待していた割には顔面への感想はなく、「へぇ」「あの人ね」と確認作業をするだけだった。
「音羽ちゃん!よろしくね」
「……ん……」
「かわいい名前〜!ねぇどこから来たの?」
「ぉ、さか…」
「髪サラサラ〜、あっ、勝手に触ってごめんね!」
「……ぅん……」
尚輝はその光景を見つめていた。明るい女子たちに話しかけられる音羽はタジタジで、ぎこちない笑顔をしていた。そんな姿を見せられては、嫌でも仲間意識が芽生える。同類を見つける嗅覚は、人間も犬に負けていない。
尚輝の日常に、彼女の観察が加わった。学校に行かない生活はなかなか手に入らないが、学校生活の中の微々たる変化にワクワクできるようになった。先生の秘密を唯一自分だけ知っていること。転校生がオドオドしていること。
朱莉が学校を休みがちになっていること。
宿題未提出欄に『朱莉』がいつも書いてあって、明るい女子グループの灯りみたいな存在の彼女は、『朱莉』で『アカリ』だと最近知った。予想が外れたことに、尚輝は一ミクロだけ落胆した。
光がなくなったグループはその枠を音羽で埋めたがったが、性格は似ても似つかず、だんだんと彼女に話しかけなくなっていた。音羽は一匹狼だったが、それを自身で気にしている様子はなかった。
季節が変われば、教室も少しずつ変化が訪れる。漫画の考察系YouTubeを始めた子がいるとか、親が離婚して苗字が変わった子がいるとか、先輩がカラオケバトルに出場するとか。噂話に興味はないけれど、人生に変化を求め始める時期なのかなと傍観した。話せるようにならないと何も始まらない、と何も始めなかった自分にはない話だ。
(あっ、来た)
何となく気になっていることがある。色々な本を読むと自己紹介で言っていた美女、浅野美香が近頃図書室に通うようになっていた。昼食休みが始まって五分後くらいに来るから、早食いしているか、元々少食なのだろう。多分両方だと尚輝は踏んでいる。
最初は図書室も一年生にとっては知る人ぞ知るレベルの認知度で、読書が好きそうな二、三年生が、多くて五人来る程度だった。尚輝は最速で図書室を自分の居場所にしたが、一年生も見かけたとなると秘密基地と呼ぶには人数過多である。
尚輝は大人しく本を眺めることにした。ウロウロしていては悪目立ちして不審がられてしまう。ボーっとするにしても、読書してるフリが無難だ。
どうせなら多少は興味のあるジャンルを読みたいなと、メンタルヘルスコーナーへと足を向け、不安について書かれている本を手に取って椅子に座った。あの日もこの席だった。
(「僕は社交不安障害なんだ」)
まさかの告白だったなぁと思う。その衝撃というのは病気だった事実より、あっ僕に話しちゃうんだ、のほうで、でもその理由はすぐに判明した。気に入らない理由だった。
「社交不安障害って、聞いたことある?」
核島は、まるで「ねえねえあの噂聞いたぁ?」と言うときのように、知ってるよな?知らなければつまんない奴だな?という空気を漂わせてきた。試されているようなニュアンスに、そんなの聞いたことないとは言えなくて「なんとなく」と答えた。
「そっか、なんとなくは知ってるのか」
核島はつまらなそうな顔をする。知っていないテイのほうが盛り上がる質問だったのだろうか。でも無知だと思われるのは癪に触る。会話とは難しい。
尚輝は濁してみせる。
「……いや、存在を知ってるくらいで……」
すると、彼は笑った。
「初耳なんでしょ?もし偶然その言葉を見かけたんなら、君は深く調べようとするはずだよ」
傲慢だと思った。病名を知ったかぶりするのと、人の気持ちを知ったかぶりするのは、似ているけど違う。なぜ深く調べようとすると予想したのか。せめて説明しやがれと思う。
尚輝が苛ついている間に核島は席を立ち、「ちょっと待ってね」と部屋の奥へ行く。『心と身体』と書かれたシールが貼られている本棚から、二冊の本を持って戻ってきた。
「これに少し載ってるよ。社交不安障害っていうのは、昔は対人恐怖症とか言われてたかな?人の目を見たり人前で喋ったり、そういうのが緊張過多で出来なくなっちゃう病気。本人が自分の性格だと思いがちだから病気だって気づきにくいんだけど。……脳のね、ここ、ここに書いてあるでしょ?扁桃体のせいだから。気合いとか、そういうんじゃどうにもならないんだよ」
誰に何を言い訳しているのか。言い訳なのか、説明なのか。
彼は自分をどうしたいのか、自分にどうしてほしいのか、何を教えたくて急に何が始まったのか。唐突な保健の授業に頭がゴチャついたし、上に立たれている感じが納得できない。先程までのネズミはどこに行ったか。
意向が見えず話が入ってこない尚輝を見た核島は、「またやっちゃった」と頭を掻いた。
「余談だけど、喋り始めるとワーッと一方的に畳み掛けちゃう癖があってさ。こうなっちゃうの」
核島は顔の前で、小さく前ならえをした。視界が狭まっているのを表現したいらしい。
「それ、先生、向いてないんじゃ……」
つい言ってしまった本音に、尚輝は「あっ」と核島の顔を見た。悪態をつきたいところだったからちょうどいい、と自己肯定したいけれど、そのセリフは思っていても言ってはいけないんじゃないかと第六感が注意報を流した。
地雷の予感が尚輝の脳内を巡る。新米教師に生徒がそんなことを、まだ揉めてもないのに冷静に言ってしまえば。冗談の可能性が低くなるのに合わせて深く傷つく可能性が高くなる。
しかし、言葉は取り消せない。フォローの言葉を探すべく脳内辞書をペラペラとめくるが、慌ててめくりすぎて何の文字も見えなかった。その間、核島がどんな表情をしていたのか知ることはできない。でもそこまで時間は経っていないはずの沈黙を、彼は「うん」という言葉で破った。
「それは自分でも思う」
強がりには聞こえなかった。
「……え?」
自覚あるのになんで?と疑問が湧いて、でもそれを聞くのが今度こそ地雷な気がして言葉が出ない。言葉が溜まっていないのにパンクしそうだ。
沸騰しそうな尚輝に対し、核島は真剣な眼差しで話す。
「僕は……この病気のせいで、青春を一切楽しめなかった。この病気のせいって言いたいだけ……、んーん、いやでもほんとに、そうだと思ってる、思う。学生時代ずっと黙り込んで、ずっと下向いてた。先生にも同級生にも嫌われてたよ。何もしてないのにね、何もしないのは何かやらかすよりも重罪みたいで。……もう、暴言を吐くための口なら俺にくれよって、何度思ったことか。嫌われてたっていうか、面倒くさがられてたかな。学校に行かない選択は、…なんでかな、できなくて。きっと発想がなかったんだよね。うん、これが十代の運命なんだって、自分の人生は学校を卒業してからやっと始まるんだって。そう思ってたんだよ」
向いてないのに教師になったのは、十代の青春を奪った学校で、青春を取り戻すリベンジだと。一方的に話すのを悪癖と感じている言い方をした矢先、彼はペラペラと大胆に披露してくれた。
「リベンジ……」
「ん?」
「青春、取り戻せてますか?」
尚輝は直球に聞いてみた。取り戻せていないだろうなと思いながらも、どう答えるのか気になった。案の定、核島は苦笑いした。
「まだ先生を務めることに必死で、そこまでの余裕はないかな」
そうですか、と尚輝は何を言われても言おうと思っていた言葉を放つ。
「まだまだ先になりそうだなって思ったでしょ」
「……まぁ、だって先生、先生に向いてないから…」
「なんでもう一回言うの」
「自覚あったらしいから…」
核島はムスッとした顔をしたが、少し嬉しそうにも見えた。拗ねた大人の顔は面白いな、と尚輝は思った。
「話変わるけどさ、…いや、戻るのかな」
「はい」
「知らないよね、社交不安について」
素直に「初めて聞きました」と伝える。さっき嘘をついていたのを彼は分かりきっていたみたいで、馬鹿にする表情すらしてこなかった。
「他人が言うことではないと思う、正直な話ね。失礼っていうか……だいぶ非常識だから。でも、尚輝に僕みたいな高校生活を送ってほしくないって気持ちが強くて、この際、こういう機会がなきゃ言わなかったかもしれないけど、機会があっちゃったから、言えってことなんじゃないかって、思っちゃう。もう言わずにはいられない」
長い前置き。そんなにハードルを上げられたら、めちゃくちゃな失言でも「そんなことか」と思えてしまいそうだ。彼はそうさせたいのだろうけど。
「先生、本当にこうなるんですね」
尚輝は首の辺りで前ならえをしてみせた。顔まで腕を上げるほどには緊張がほぐれきっていない。ずっと膝の上にあった両手は汗で湿っていた。核島は笑って尚輝の真似っこをしていた。この人なんか子どもっぽいな、と尚輝は微笑する。筋肉が緩み、顔まで腕を上げられた。側から見たらどう思われるだろう、この二人。
可愛い、と思った。そのままの意味だ。手を回してガタンゴトンとでも言い出しそうな雰囲気に、イチゴやウサギと同じニュアンスで可愛いと思った。
青春を過ごしてこなかったから、思春期の心を使いきれていないのかもしれない。今、青春時代を取り戻すと同時に、十代・子どもをやり直しているのではないだろうか?と尚輝の中に疑念が生まれ、彼の生い立ちや性格を分析し始める。
頑張って背伸びして社会人をしているだけの子ども。青春できる子どもでいたいと愚図っている大人。
子どもに戻りたいと思っている時点で、大人になってしまっている?……否、ちゃんとした教師になりたいと努力している。人が怖いくせに、自立した社会人にならなきゃとコソコソ薬を飲んでまで家の外に出ている。
子どもで在りたい。
教師で在りたい。
この人、ほぼ同級生だ。尚輝は感じた。「僕ね、知ってるんだ!社交不安障害って病気が世の中にあること!その人は不本意な状況かもしれないって視点で人のことを見られるんだ!多様性を認められる、僕って立派な大人でしょ!えっへん!」と自慢されている。
「すごいねー、賢いねー」と言ってほしいのかもしれない。彼が尚輝に求めているのは、癒しや励ましの声。……とは到底思えないけれど、自分の薬を使われたのに知識でお返ししようとしてくれる。もしかして優しいのではないだろうか?いや評価しすぎか。
「まあ簡潔に言うと、尚輝は病気だと思うんだよ」
尚輝は核島の顔や見た。
そして、反射的に「死ねよ」と思った。
「……は?」
本当に他人に言うべきではない。言うべきじゃないとわかってるけど意を決して言います、と伝えられた上でも、許せなかった。
信じられなくて、尚輝は固まった。今まで嫌な思いはしてきている。声について憶測で語られ、否定も肯定もできない虚しさに、むしゃくしゃとやりきれない気持ちになった。意見がないのを感情がないとイコールにする馬鹿な人たちに何を言われようと黙り込むしかない悔しさ、ベッドに入ると思い出して落ち込み、眠れなくない夜を幾度も乗り越えた。
小学校、授業を受けずに優しい先生と塗り絵ができる『こころのおへや』に入るのが夢だった。学校を一時間サボった人が怒られているのを見たあと、二週間ぶりに学校へ来た人が褒められていた。あの子はすぐに保健室へ行ってしまってそれっきり会うことはなかった。
後者になりたい人生だったが、自分は後者どころか前者にすらなれなかった。無遅刻・無欠席で皆勤賞を取ったような気がする。逃げる勇気も逃げない勇気もない。
酸素が薄くなる中学校の正門前、笑顔で境界線を跨ぐ人々を羨ましく思いながら、毎度焦燥感にだけ背中を押されてやっと前へと進んだ。
あの頃はシューズの中に画鋲を入れるのが流行っていた。いつの時代にもある原始的なイジメ。自分のシューズにはラブレターが入っていた。もちろんフェイクのものだ。イジメのニューウェーブ『嘘告』。相手はクラスのおとなしい女子だったから、書いた人は二人同時に闇堕ちさせたかったのだろう。警戒心が強かった自分はそれをリュックの奥に入れ、何事もなかったように過ごした。一部生徒に興味深そうに見つめられたのち不満そうに睨まれたけれど、特段何も起こらなかった。我メンタルを誇りに思う。
辛かった。苦しかった。悲しかった。悔しかった。だけど、どれもこれも仕方ないと思うしかなかった。する側の気持ちも正直わかる。声があるのに喋らない奇妙な人間が怖いのだろうと、分かる。こうだからこうなんだよ、と理論化し結論づけると安心するのが人間だ。される側になるとする側の気持ちも分かる。する側はされる側の気持ちを学べないのになぁ、と自分もあっち側を結論づけて安心する。互いに決めつけ合う。
嘘告のような、画鋲のような、原始的なイジメでは経験済みの感情にしかならない。
新しい感情に、思わず「は?」と言った。これはイジメではないかもしれないが、傷つける言動であるのに変わりはない。他人に「病気だと思うんだよ」と言えてしまう精神が病気な気がする……と言ってしまったら同罪か。
でも、ドン引きしている。今までで聞いた何よりも酷い言葉だと思った。
こんなに怒りに身を預けたのは初めてだ。冷まさなければと思えない。目の前がボヤけ、頭がフワフワする。火照っている体が変な汗を出してくる。急に喉が渇いた。口が乾燥し、粘ついた唾を感じる。きっと口臭がキツいだろうなとカバンの中のタブレットを思い浮かべた。人と話さないのとストレスのダブルパンチで、唾液が上手く分泌されなくなってから何年も経つ。タブレットは特段好きでもないから、個人的には無駄な出費であるが辞めることは許されない。
突如。自分の手の指がピクピクと動く。驚いて、まじまじと指を観察してみると、動悸に合わせてかテキトーなリズムか、一定ではない動きに支配されていた。
勝手に動いた手だけでなく、その他の全部、自分の体でも自分の心でもない感覚がした。このまま震えが加速しておかしくなるのではないかと不安になる。
尚輝は自身を抱きしめるように縮こまり、俯く。
夢?と考えてしまうほど、気が遠くなった。魂だけが離れていく。死ねと思うし、死にたいとも思う。願わずとも死ぬかもしれないとも思う。現実感がない。でも襲いかかるのは、現実でしか味わえない身体症状だった。吐く可能性ゼロのくせに強く襲いかかる吐きそうな圧迫感。荒くなる呼吸を整えるため深呼吸を意識する。
「頭が…っおかしくなりそう」
つい声に出ていた。脳内に閉じ込めきれずに溢れ出る声こそ本物の独り言だと思う。
叫ぶ勇気はないけれど、叫びたい気分だ。「ゔがあーー!」と叫びたい。「ゔげがごがあがぎがだーー!」と言いたい。唇は震えて上手く機能しないから、喉を使う濁点を言いたい。この感情は狂った精神にしか生まれないだろう。やるせない気持ちと胸の圧迫感を持つ者にしか理解されないと思う。例えば犬のように吠えて暴れたら、胸がスッキリしそうである。でも人間が「ワン、ガルルルルッ」と言えば驚かれてしまうので、妥協の濁音を叫びたいと欲を表現したまでだ。
それが無理なら感情は現状維持。尚輝は、倒れてしまいそう、倒れてしまいたい。と、この感情を消したいというより、何も感じない状態になりたいという考えにシフトしていた。
こういうときに限って、ほら、飛行機が通る。こんなに臨場感のあるヒュゴーーという音は夢ならば聞こえない。カラスだって、現実でなければカーアカアカーーアーなんて不規則なカアを発さない。不規則だと今知ったから。
「……尚輝……?」
心配そうな声で名前を呼ばれる。気持ち悪い。なのに、喋らない疑問を含まずに心配されるのは初めてで、クラスメイトみんなの先生を独り占め出来ている支配感が気持ち良い。自分のためだけに時間を使ってくれているとは、寿命を分け与えてくれているに等しいと尚輝は思う。その罪悪感・背徳感が自分を不本意にも喜ばせてくるものだから、感情はぐちゃぐちゃだ。
「ちょっと尚輝?……山之内?ねぇ尚輝」
何で泣いてるの?と問われる。
知らない。核島に泣かされたことだけはわかる。キャパオーバーという言葉が正しいだろうか。でもそんな不明瞭な表現ではなく、もっと具体的に分からないと怖い。他人のような身体で、自分の感情すら分からなくなったら、乗っ取られてしまう気がする。
「すごく静かに泣くねぇ」
彼は褒める言い方をした。静かに泣くのはすごいことじゃない。本当は大声で泣き喚きたいのを抑えてるのを知っていての発言なら殴りたい。「うるせえ、黙れ、死ね、殺すぞ」誰かしら何かしらの受け売り。人生で一度も発したことのない悪口が高速で頭の中を駆け回る。
「な、っ泣いて、ない……っ」
バレバレな嘘で意地を張ったが、「自分の意思で」を付けたつもりでの発言である。泣くつもりなどなかった。泣きたいと思っていない。
核島は更に追い討ちをかけ、尚輝を憤慨させた。
「これは嬉し涙かなぁ?そうだったらいいな」
気づいたときには、机の上の薬のゴミを核島に投げつけていた。しかしゴミは軽くて飛ばず、彼の目の前にチャッと音を立てて落ちる。
彼にも自分と同じくらいに心を乱してほしい。本はさすがに怪我をさせてしまう。公共物だし。それに、投げて当たらなかったらダサい。八つ当たりみたいな怒りの発散法は向いていない、と脳の思考部分は冷静になる。
何をして傷をつけようか、と考える。考えて、これしかないと思った。簡単に決まった。一番、強く刺さり深い傷を残す方法。過去の時間を、現在での充実した生活で補充し満たそうとしている彼へ。
あまり相手を知らない身分で、悪口雑言は難しい。脅しが効くだろう。だんだん涙も引っ込んできた。
「…、……いける」
尚輝は、言葉の暴力を振るった。
「ぃ……っ、い、言ってやる!僕の親に言ってやる!っ、た、担任の先生に『お前は病気だ』って言われたって言ってやるから!そそ、そしたら、先生は先生として終わりだから!すっ、青春をやり直す夢も、大学で学んだ四年間の努力も、だから、…全部、なくなる!全部失う!時間もお金も無駄になる!仕事もない人になる!……あと、核島先生は精神安定剤を飲んでるって、その、学校で他人が拾って誤って飲んだら危ない薬を無断で持ち込んで飲んでるって、……その、噂を流すし……校長先生とかにも、言ってやるから……っ!病人が仕事しないほうがいい、から!そんな、人にそんな発言する頭、脳みそが、一番おかしい!病気だ!……しゃこ…、社交不安障害、じゃなくて、社会不適合者だ!」
人生でこんなにも校内で喋る日が来るとは思わなかった。こんなにも自分で考えた言葉で人を傷つける日が、傷つけようと思う日が来るとは思わなかった。
初めての罵詈雑言。息継ぎのタイミングが下手だったのか、心理的な問題なのか、とても疲れた。喉の飴玉はないけれど、胸の辺りのドロドロと粘着性のある重みはいつも以上に多く感じた。まだ喋りたい気もするし、もう声を出し尽くした気もする。気持ち悪い。嘔吐物でも言葉でも何でもいいから吐いてしまいたい。言いたいことを言ったはずなのに、全然スッキリしない。
せっかく話せる状態なのに、これか。薬を飲んで喋りたかったことは、こんな汚くて痛い言葉たちだっただろうか。人と会話ができるようになる魔法は数時間後に解けてしまう。有効な使い方はできているのか。
「もったいない、もったいないことした」
薬のゴミで人を釣る暇つぶし。そんなつまらないイベントのために使うなんて、無駄遣いだった。残り一錠の魔法を使う日は、今日じゃなかった。
尚輝が絶望していると、彼は俯いたまま、また自分の頭の中に前ならえ状態で喋り始めた。
「いいよ、言いなよ。……でも、何の病気を疑われたのかは、ちゃんと伝えてね。それで本当に親と相談して病院検討してみて。こっそり行ってもね、保険証でバレるから。親に言ったほうが堂々とできるよ。まあ僕は親に言えなくて扶養を抜けてからしか病院に行けなかったんだけど。……尚輝が、病院に行って、この薬を手に入れて、喋れるようになって、青春が過ごせるようになったら……そうだな、……僕の代わりに、人生を、青春を楽しんでよ。そしたら一人の高校生を守れたんだって、それだけで先生になるために努力した時間は無駄じゃなかったって思えるよ。誇りに思うもん。高校生活、これからでも間に合う。先生の青春、尚輝にあげるよ」
そう言って立ち上がった彼は、パシャっと何かをポケットから落として図書室を出て行った。「なんか落としましたけど?」と声をかけようとして、それが光ってることに気がつく。
何もなかったかのように白々しく去って行った背中を見送り、尚輝はそれをサッとポケットに仕舞った。防犯カメラは大丈夫なのか?と天井を見てみると、どう見ても火災報知器な火災報知器があった。
「あっ……」
だからといって便所飯を始めようという気にはならない。やられた。あーあ、やられた。負けた。
はぁ……と深くため息をつくと、五限終了のチャイムが鳴った。
本を読んでいるフリをしていたら、映像が頭の中で再生されていた。ボーっとしていたり、連想させる出来事があったり、あとは寝る前か。こういう症状を反芻思考と呼ぶらしい。主人公のはずなのに、第三者的に俯瞰で見られる当時の映像。頭の中に壊れたテレビがあって、記憶ビデオは前触れなく再生される。
自分の体に起こった現象や変化は、すぐに図書室の本やスマホで調べるようになった。病気か性格か、きちんと分類するための習慣で、趣味や癖と言っても過言ではないほど日常に入り込んでいる。
(これは発達障がいに多いのか)
五限開始五分前のチャイムが鳴る。昼休み終了の合図、あの日は試合開始のゴングの音だった。
顔を上げると、奥のほうの席で向かい合う形になっていた美香もハッと本から顔を出していた。同じ動きをしちゃったな、と思った。向こうも同じ感想を思ったのか、ぱちりと目が合う。逸らすタイミングを見失っていると、彼女は目を閉じて両腕を上に伸ばしてストレッチした。先に逸らしてくれたらしい。
彼女は美貌と天然発言により、クラスの多くの男性陣を虜にした。女性陣も彼女と仲良さそうにしている様子を周りに見せているが、昼食を一緒に食べたりはしない。図書室へ来ることが本意なら良いのだが、自分のように逃げ場としているのなら可哀想だな、と同情の準備だけしておく。単純にマイペースなだけかもしれないから。
美香は本が好きだと自己紹介で言っていた。図書室へ来る理由は本が好きだからなんだと考えるのが妥当だろう。ならば同情の準備は必要なかったか。
気落ちしていない彼女の表情が、尚輝をそう思わせた。
「……ぁ…っ」
次の授業が体育だったことを思い出す。着替えなければならないのに、やらかした。尚輝はダッシュで図書室を後にする。少し遅れたけれど、体育の先生は気にしておらず、怒られずに済んだ。彼女は見学だった。
「さようならー」と帰りのホームルームが終わったタイミングで、久しぶりに核島に話しかけられた。尚輝は不本意だが少し嬉しく思う。薬を飲んでいないにも関わらず笑みが溢れそうになり、慌てて表情筋に力を入れた。
「なんか久々だね、尚輝と話すの」
「…っ、…はぃ…」
「おっ、声出した。……っていざ声を出したときに指摘されるの、めっちゃ嫌でしょ」
自分がされたくないことを人にする神経が分からない。彼と関わっていると、高確率でこの文章が頭に浮かぶ。
「ごめんね、嫌なことして。共感してくれるかなぁと思って」
尚輝は、分かるけど、の意味と、そうですか、の意味の二つを込めて渋々と表現するように頷いてみせた。核島は「嬉しい」とそこまで嬉しそうじゃなく言い、本題に入る。
「尚輝と話したい先生がいるって。時間があれば今日これから…、もしなければ明日でも。時間作れない?」
尚輝は、いいですけど、の意味と、そうですか、の意味の二つを込めて鳩のようにコクッと頷いた。
彼はこっち側の人間のはずなのに、相手側になると悟るのが苦手らしい。尚輝も、自分の気持ちを汲んでもらうことを他人に望みながらも、他人の気持ちが分からない。人間そんなものだと言ってしまえばそれまでだが、自分たちは弾かれ者の少数派の多様性愛好家なので、他人への理解を雑に諦めてはいけない。
「いい?」
だから確認されても許せた。絶対に「はい」と言ってやるもんかと思いながら、頷く。
「職員室の隣の隣の教室ね」
左右どっちだよ、と聞けなかった。行ってみたら、職員室の右側にしか教室はなかった。
“教室”というより“密室”だと尚輝は思った。目の前には貼り付けたような笑顔の、四十歳前後のおじさんが座っている。中途半端な硬さのソファに向かい合って座うように言われ、従うしか選択肢が浮かばなくて腰掛ける。座り心地は悪くないけど居心地が悪い、と内心で呟いた。何用の教室なのかも謎で、ちょっぴり怖い。
核島は「先生」と言っていたが、彼の職業は「カウンセラー」だった。そもそも会いたがってる先生ってなんだよ、と今更ながら思い返す。会いたくなるようなことは何一つしていないのに、まるで「是非ご挨拶をしたい」と言われたシェフの気分になってここへ来ていた。自分が恥ずかしい。想像力の欠如、完全なる失態だ。
「山之内尚輝くんですね、よろしくお願いします。八木原と言います」
一応、ペコリとお辞儀をする。先程の笑顔が生理的に苦手で、彼の目を見ることができなかった。何も見透かしていないくせに、君のことわかってるよ?という顔。僕が寄り添いますと言いたげな柔らかい声質や口調も気に食わない。気色悪い。キッショ。
自分は高校生のはずだが、一気に園児になった気分だった。彼の言動一つ一つで、こちらのプライドをじわじわと傷つけてくれる。
「八木原はこの学校三年目くらいなんです」
一人称が苗字?キッショ。
「まあ俺の話はいっか」
最初だけなんかい。『俺』って、フレンドリー演じやがって。キッショ。
「尚輝くんの話を聞かないとですよね」
尚輝くんって呼ぶんじゃねぇ。キッショ。
意識しているんだろう一人称も二人称も気に入らない。とにかく気色悪くて、なぜか精神を削られる。
心にすぐに入り込もうとする図々しさが鼻につく。そちらが砕けるほど、こっちはそれを反面教師にして固くなるとも知らずに。ムカつく。帰りたい。キッショ。
「尚輝くんと話したいなって思ったのは、尚輝くんの担任の先生の核島先生に聞いたからなんです。人と話すのが苦手なんですか?あと、お昼ご飯を食べていない様子って聞いたんだけど、そうなんですか?」
尚輝は、は?と思ったが、何故クエスチョンマークとイカリマークが同時に頭の上に浮かぶのか、自分で答えが出せなくて戸惑った。この場の緊張や八木原の印象など、情報が多すぎて、考えなきゃという考えしか考えられない。明らかにストレス過多と情報過多だった。脳内には「キッショ」の文字しかないから語彙もない。
――今、核島先生と八木原先生のどちらに怒ってるんだろう。
情報を整理してるせいで脳が思考停止する。
(核島がこの人に僕のことを色々話したってことで合ってる?彼の秘密を誰にも話してないのに、不公平だ。プライバシーの侵害だ)
八木原の情報を一切知らないし、そもそも用件も知らされずにここに来させられた。なのにこっちの情報がバレてる。フェアじゃない。気に食わない。
(これが最低だって、核島は分かる人じゃなかったのかな。同類じゃなかったのかな)
さっきこっちが共感したら嬉しいって言ってたのに、おかしい。やっぱり嫌な奴。個人情報をこんな簡単に他人に話すのである。会いたがってる先生がいるって言って騙して、自分が会わせたいカウンセラーを出してきた。生徒を、自分のことを、病人扱いした。先生と同士だよって、レッテルをお揃いにしようとしてきた。失礼だし、気持ち悪い。
高校に行けるのは恵まれているから。恵まれていなければ学校に行かなくて済んだのだろうかとボヤけば、世の中に怒られる。恵まれた身分でそんなこと言っちゃいけない。知っている。
不幸自慢は自慢じゃない。喋れないことを認めてほしいのはそうなんだけれど、可哀想だと思ってもらうのは違う。情けをかけられたり、同情されたりしたら、尚輝はその人なしで生きられなくなるかもしれないのだ。「可哀想に、生きづらいんだね、よしよし」と言ってくれる人を望んでいた。望みが叶えば依存する。
黙り込んでいる尚輝を見つめていた八木原が言う。
「場面緘黙症って知ってますかね?」
一通り説明をされた。知っていることにしておけば良かった、と思った。
(病名は何だっていいんだよ)
彼は当事者ではないからネット情報か書籍で学んだ言葉を並べるだけだった。それならスマホでもできる。
「食事の時間はいつもどうしてるんですか?」
八木原の声が雑音に聞こえる。尚輝の脳内は「ねむい」で埋め尽くされていた。帰りたいと願うのも疲れる。ひとまず心身と脳内を休ませて欲しかった。
「お昼休み、何してる?」
ついに敬語も外れたか。黙り込んでいても帰らせてもらえないのならサクサク答えたほうが良いかもしれない、とこっそり集中し直した尚輝は、小声で答えていく。
「図書室」
「ん?……しょしつ…?」
「トショ」
「あっ!図書室ね!いいね!本好きなの?」
いや別に、と口パクしながら首を横に振る。ふーんそっかそっかと笑顔で言われた。好きだったらなんなんだ、嫌いだったらなんなんだ。……眠い。
喋らせたいだけで返答の内容はどうでもいい。この人はいつもの、今までとおんなじつまらない大人だ。山之内尚輝の事情など興味ないしどうでもいいのである。
彼は淡々と仕事をこなしてるだけ。尚輝とて、そんな人とは話したくない。こんなの話す練習にならないのだから、単なる時間の無駄だ。
なんでこんなことを、あの人は自分にさせたのだろう。これが尚輝の為になると本気で思ったわけじゃあるまい。
「尚輝くんは人と話したり人前でご飯を食べたりするのが苦手?僕ともあまり目が合わないね。直球に聞くけど、病院には通っていないんだっけ?心療内科とか精神科とか」
あっ、と気づく。もうこのセリフで怒りに燃えたりしない。経験済みの感情。病人扱い、どんと来い。
それより。そんなことより。尚輝は核島の真意に気づいてしまった。
(カウンセラーに言わせたらいいと思ったんだ)
専門的な人の意見なら信憑性があると思った。大人二人に言われたら多数決で勝ちだと思った。共犯者を作って生徒に病気と言った先生が自分だけにならないようにした。これらの理由だと推測する。
尚輝は核島を脅したかったけれど、彼の事情を外部に漏らすつもりは微塵もなかった。とっておきの薬をまた彼の件に使うのは嫌だから……とは後付け理由で、他人の人生を壊してしまおうと思うほど自分はグレていない。理性を使うまでもなく、冷静な感性での判断だった。
それなのに、低く見積もられたものだ。
彼はちゃんと対策をしている。自分が退職になるリスクからも、万が一の場合に自分の退職が無意味にならぬようにも、「尚輝は病気」を残そうとしている。
「もうこんな時間だ。じゃあ今日話したこと、言えそうなら親御さんにも相談してみてね。また来週くらいにお話ししましょう」
二度と来るもんか、と尚輝は心の中で悪態をつきながら、敢えて丁寧にお辞儀をした。一生のお別れになるだろうから、最後は印象良く終わりたい。
出て行くとき、入れ替わりに部屋に入ったのは音羽だった。
金曜日の夜。国民が映画を観始めてから見終わるまでの時間。
尚輝は寝る準備万端で、ベッドにうつ伏せになっていた。検索ボタンを押すたび、小さく歌う。発言にメロディーを付けてみただけだが、音に乗せると言葉がカジュアルになるのを知っている。
「そぉんなぁにゆーぅならぁー」
スマホを弄って二時間、検索ばかりしていた。ここ最近ずっとそうだ。
『社交不安 症状』『場面緘黙症 治し方』『病気 先生に言われた』『社交不安 市販薬』『抗不安薬 手に入れたい』『病院 保険証 バレる』『精神病 診断』『反芻思考 発達障害』『白黒思考 発達障害』『発達 診断』『発達 調べ方』『未成年同意書 ダウンロード』
そんなに言うなら。
尚輝は、診断を受けてやろうと思った。もちろん自費で。お金ならいくらでも……と思っていたが、いざとなると躊躇った。幾らでも支払えるというのは自分だけが手に入れられる魔法に対しての意見であり、現実世界の商品への想いではない。簡単に通常額の三割負担で薬を手に入れている人間がこの世にいると知ってしまえば、自分だけ全額自己負担なのは悔しい。
そんなに言うなら。
たどり着いた『QEEG検査』は、高度先端医療のため誰しも三割負担にならないそうだ。元々保険適応ではない方法で受けたほうが、全国民と同じ値段なのだから損した気分にはならないだろうと考えた。
(ふーん、そんなもんか)
一万五千円、それで答えが出るなら安いもんだと思う。脳検査だから完全に他人任せなのもありがたい。ネット上にあるセルフチェックサイトでは「友だちに〇〇とよく言われる。はい・いいえ」的な質問がある。友だちがいる前提で困った。
自分で自分を分析するのは、楽しいけれど難しい。だから周りの反応を問われているのだろうけれど、周りに人が寄らない自分は他人にどう思われているか知らない。それに、もし友だちがいたとして、彼らは果たして尚輝に対して相手がネガティブに感じる意見を言うのだろうか。
そんなに言うなら。
脳検査なら、主観が入る心配はない。普通の病院で診断を受けたら色々なテストをしなければならず、それもどんなものか気になるところだけれど。ネット上にある診断に似たこともやらされるだろう。これが最善。これなら損しない。
(これを受けてやろう)
まずは発達障がいかどうかを明らかにしたい。人間関係が上手くいかないのは、頭の中がうるさいのは、パーカーの色が昔から同じなのは、おやつは蒸しパンでなきゃ嫌なのは、音や臭いが気になるのは、触覚が過敏なのは、曖昧な表現や臨機応変が分からないのは。
ネットによると、全部、発達障がいだと言うじゃあないか。
尚輝は社交不安障害や場面緘黙症を認めていた。記事に書かれている何もかもが、悩み一つ一つだったから。
以前まで名前がついているなんて知らなかった、尚輝を恐怖に陥れてきた恐怖症の数々。その恐怖症たちを囲った丸い枠の頂点には、病名『社交不安障害』が書かれていた。恐怖症が全て当てはまる尚輝からすれば、その病名はイコール尚輝になる。まるで「これをまとめると貴方です」と言われたような。
コンビニから帰って、なんとなく調べて、認めざるを得ないと思った。否、認めたら気持ちが楽になった。検索をしたのは自分の意思で、認められに向かったのと同義である。
『性格と本人も勘違い。心の病気を知っていますか?』
無知は怖い。無知は知らないことすら知らない。そして有益な知識は、意図せず突然得られる。
『気持ちの問題ではありません。甘えでもありません。人前で緊張しやすい方は多くいますが、そこに対する苦痛が強く、生活に支障が及んでいる場合は【社交不安障害】の可能性が高いです。過敏に……』
性格ではない。
気の持ちようではない。
努力不足じゃない。
記事は尚輝のマイナス要素を、決してプラスにはならなかったが、全て『貴方のせいではない』と肯定してくれた。
病名はその証明だ。自分が病気なのは絶対的な事実。現在それが発達障がいの二次障害なのか、それだけ検証したい。自分が何者か、分かるのが楽しい。
心臓がドキドキしない。どれほど望んだことだろうか。叶えられる薬が存在していたと今まで知らなかった自分が悔しい。薬という発想に至らなかった無知な自分が不甲斐ない。
薬イコール病気と考えていたし、よもや自分が病気だなんて思わない。周りも病人扱いしてこなかった。なんで分からなかったのだろう。今となってはそちらのほうが不思議なくらいだが、本当に薬を飲むまで病気を疑ったことはなかったし、核島に言われるまでは認めていなかった。それが今では、取り憑かれたかのように検索と肩書き作りに励む。
高校の担任教師の不謹慎。他人に病気だと言うのはデリカシーがないにも程がある。しかしそれを理解した上で尚輝に教えてくれたのは、勇気と言い換えられるかもと思ったりする。自分の口で背中を一押し。カウンセラーを使って、もう一押し。何歩で辿り着くか分からない病院への前進の手助けをしてもらった。
大人っぽい字書けるかな、と思いながら、尚輝は未成年同意書をコピーするためコンビニへ向かった。買い物をしないでコンビニを出るのは、万引きを疑われそうで緊張する。薬があればそんなこと考えず堂々と出られるのか、と思うと、魔法が一生解けてほしくない気持ちが募った。
(薬が手に余るほど欲しい)
「ASDとぐるぐる思考です」
頭にたくさんの吸盤をつけられ、検査された。最新だなと思った。予約制だったからか、受付から検査までも、検査が終わってからの診察も、すぐに呼ばれた。個室で先生とワンツーマンで、とても丁寧に説明をされる。
部屋が綺麗で明るいから、学校のカウンセリングのような嫌悪感はなかった。小学生の頃に憧れた『こころのおへや』に似ている。小学生をやり直せている気分で、尚輝は嬉しくなった。
見せられた紙には、頭の形のイラストが並んでいた。大雨の地域の雨雲レーダー映像を連想させる、真っ青に少しの緑が混ざったカラーが印刷されていた。
この冷たい雨はASDを示すらしい。紫っぽい糸が絡まる脳もあった。これはぐるぐる思考を示すらしい。コンセントが絡まっている状態を想像してくださいと言われた。思考回路を電気回路に例えられても比喩でしかないなと尚輝は思ったが、変な専門用語を言われるよりは断然分かりやすかった。
説明を聞きながら、自身の脳があっさりと視覚化されたことに驚いた。知らない世界が、知らない場所で、進化し続けている。未来は診断テストなんか消えてなくなって、全て脳波で視えてしまう時代が来るのかなと考えた。
こんがらがったコンセントを解いてくれると言う。治せると言うのか。ならなぜ治らずに悩む人間が世の中に溢れているのか。
見せられたパンフレットには六十万以上の値段があった。なんとなく、分かった。この値段に、今後の人生が生まれ変わる価値を見出す人間が少ない。それが答えだ。ここに来る人のほとんどは自己愛が強いはずである。自分を知りたくて、自分を守りたくて、証明を求める人たちなのだから。
発達障がいの芸能人はたくさんいる。彼らは人と違う故に生まれる発想を手放すのが怖いのかもしれない。
自分も何者かになっていたくて、特別でいたくて。
(まさか可哀想でいたほうがいいと思っているのか?)
(変わることが嫌?どうして?)
ぐるぐる思考を治せる方法を目の前に、ぐるぐるした思考をふんだんに使う。
(……そっか……)
尚輝は気づく。自尊心を保つべく、もう今の自分を愛すると決めてしまっていたから怖いのだ、と。この自己愛が、病気の自分だからこそ存在しているものだったら。そんな可能性が僅かでもあれば、躊躇うのは当然であると言えた。『病気の自分』を『病気でなくなった自分』は思い出せなくなり、病気の人を理解してあげられない人間になってしまったらどうしよう。多様性を認められない馬鹿なマジョリティの仲間入りをしたらどうしよう。
病気じゃなくなった山之内尚輝は、山之内尚輝じゃないのではないか。
無理な勧誘はなかったけれど、尚輝は断れたのを誇りに思いながら、家で自己分析を始めた。症状に病名や障がいや恐怖症を当てはめれば、心がストンと落ち着き、スッキリする。まるで部屋の片付けのようだと尚輝は思った。
特性はASDで、病名は社交不安障害で、気質はHSPで、悩みは反芻思考で、学校では変わり者で、独りぼっちで、精神安定剤が必要な、色々と抱え込んだマイノリティな存在。
可哀想で生きづらい。
これが山之内尚輝なのである。
Xのダイレクトメッセージで見知らぬ人とやり取りをする。
『プロマゼパムを頂きたいです』
『ご連絡ありがとうございます。一枚あたり三千円です。お支払いは送金、発送はレターパックです。対応大丈夫でしょうか?』
あの核島の落とした抗不安薬があれば何も問題なく生活できる。それは検索ではなく実体験で学んだ。
『はい、問題ありません。三枚まとめての購入は可能ですか?』
どうすれば病院に行かずに処方箋を手に入れられるのか。尚輝が行き着いた方法は、SNS上の薬の売買だった。
『かしこまりました。では九千円お願い致します。振り込まれ次第、発送します』
『よろしくお願いします』
拾ったものを使用するのは罪らしい。きちんと調べた。個人間で薬の売買をするのも罪らしい。知っている。自分は既に罪人だと知ったから、重ねて罪を犯しても同じ、と思えたのは白黒思考か。善人か悪人か問われたら、尚輝は迷わず「悪人です」と今なら答えられる。拾った薬を飲んだだけじゃ、自信満々には言えない。黒くなるなら真っ黒じゃないと嫌だ。
薬が欲しい。手に入れるには犯罪をしなければならない。選択肢がそれしかないのなら、それをやるしかない。学校に行く選択しかないように、そうするしか仕方がない。視野が狭まるのは、いつだって人生に傷をつけるときである。
「尚輝、何してるの?」
カチャリと音がして、振り返る。部屋に母が入ってきていた。真っ黒の我が子を優しい目で見つめてくれる。こんな息子でごめん。母に申し訳ないと思ってしまう。
「ねぇお母さん、僕のこと好き?」
尚輝は問いかける。自分の次に大切な母へ。愛してくれていますか?と聞いてみたかった。
「何、甘えん坊さんねぇ。大好きよ。お母さんの大事な息子だもの」
「息子だから好きなの?」
「……ん?どうしたの」
「いや別に、自分の子どもだから好きなのか僕の中身が好きなのか、どっちかなって思っただけじゃん」
吐き捨てるように言ってみるが、本当はどんな返事がくるかドキドキしていた。
「えー、どっちもよ」
母はいつも当たり障りない。でも、期待はずれだけれど、安堵している自分もいた。息子であり、この性格なら、母に好きでいてもらえるらしい。
「僕がもしも悪い子だったら、嫌いになんの?」
「尚輝がお母さんのこと嫌いになったらお母さんも……、いや、お母さんは尚輝のこと嫌いになれないよ。大好きだもん」
「おやすみ、良い子の尚輝」なんて高校生の息子に言う母親は珍しいと思う。「良い子の」と言うことによって悪いことをさせない作戦なのか、真意は読めぬが、“キレイにご利用ありがとうシステム”を使われたなと感じた。ならばこちらは「良い子は入らないでね」の立ち入り禁止区域に、「僕は悪い子だからオーケー」と言いながら入る、“へそ曲がり小僧”をやるまでだ。母には反発したくないのに、世界に挑発するには家族も裏切るしかないらしい。
自分がどんな人生を選択しても好きでいてくれる。試してみなきゃわからないけれど、実際そうなのだと思う。母は優しい。ずっと味方してくれるし、とことん甘やかしてくれる。
本当は、もし自分が不登校になったって、今まで通り接してくれるのも知っている。学校に行くのを両親のせいにしているのは、悲しませたくない自分のエゴ。強い息子だと思われたい、弱みを見せるのが恥ずかしい、ただのワガママだ。父母がどんな自分を望んでいるのか、自分が一番知らない。
本音を語る勇気があれば、尚輝が苦しむくらいなら行かなくていいよと言ってくれるかもと、たまに思ったりもする。「尚輝の幸せが一番だよ」と言われたら、少なく見積もって六リットルは泣く。でも、「学校は行かないと」と言われたら二リットル泣いて両親を嫌いになる。
臆病者。チャレンジする勇気がない。あんなに優しい母を信じていないのか。説得できる技量がないと自分を判断しているのか。
(もう何もかも嫌だな)
キュッと胸が痛み、目に涙が浮かんだ。「病気だと思う」と言うのが怖い。「学校を辞めたい」と言うのが怖い。「犯罪に手を染めたかもしれない」と言うのが怖い。
一人で生きていけないくせに独りぼっち。尚輝を表すのに適切な言葉だった。寂しい。だけど、『どうせ誰も本当の僕を知らない』と腐ることが、尚輝の心を保つのに繋がっているのも事実だった。
ハブられる前に自ら孤独になれる場所へ逃げるのも、明らかに自分に話しかけられていても『そんなわけない』と一旦無視するのも、個人情報は渡した分だけ返して欲しいし、返してくれないなら何も教えたくないと思うのも、全部全部。
「僕は可哀想で生きづらい人間だ」と言える立場で在りたいから。そんな自分が嫌い。
『寂しい』『悲しい』『苦しい』『ツラい』『助けて』誰にも言えない。だって、どうせ誰も手を差し伸べてくれない。可哀想でしょって。僕ってとっても可哀想だよねって。神様、来世は可哀想じゃなくしてくれる?って。いじけてなきゃやってられないのだから、馬鹿みたいな生き方を選ぼうと侮辱しないで欲しい。
誰かの『緊張してる』が自分にとっての『死ぬほど緊張してる』ならば被害者ヅラできる。ずっとそう考えていた。病名は証拠になる。みんなと違う、みんなより大変なんだと、明らかにできる。
(『可哀想』と思ってもらえる)
あんなに可哀想だと思われたくなかったのに、『心配させてやりたい』『心配してくれたら嬉しい』と尚輝の感情に変化が訪れた。
なんて、ああなんて、生きづらいのだろう――。
マイノリティの弱さを知っているから、多様性を理解できる人間に成れる。病気である事実が、尚輝の自尊心になっていった。
核島がワザとらしく落としてくれなくても、尚輝は薬を非合法的に手に入れられるようになった。ハッシュタグは『#お薬もぐもぐ』である。
だって僕、とってもツラい精神疾患なんだよ。と心の中で唱えれば、罪悪感は薄れていく。
守ってよ、助けてよ、求めなくても手を差し伸べてよ。嫌なこと、いっぱいされた。こっちだって、悪いことしたい。
少しの悪事は見逃して欲しいと、願う先は裏切り者の神様仏様だ。
「音羽ちゃん歌い手だったの⁈」
「すごーい!喋らないのに歌は上手いって、なんかさぁ、漫画みたいじゃない?」
「あーね。ギャップ萌え的な?」
帰り際に女子グループは音羽を囲って騒いでいた。朱莉が完全に来なくなり落ち着いたものだから、こんなはしゃぎっぷりは懐かしさすら覚える。
歌い手であることがギャップになるとは、遠回しに少し悪口めいている気もしたが、尚輝も同様に驚いた。転校生の坂本音羽は歌い手らしい。
尚輝は即帰宅することで自分の中で有名なのだが、今回ばかりはゆっくりと支度をする。スマホを取り出し、まさか本名ではないだろうと思いながらも、『音羽 歌ってみた』で動画検索をする。
「え、なんて名前でやってるの?チャンネル登録するよ?」
横目で見ると、苦笑いした音羽は首を横に振っていた。拒否を示している。
登録者は一人でも多いほうがいいだろうに、と尚輝は盗み聞きの身分であるのを忘れ、小さく首を傾げた。
「聴きたいよぉ〜。じゃあ何歌ってるかだけ!」
「特定しようとしてるじゃん」
「そうだよ?」
「だったら」
(直接聞いたほうがいいでしょ)
尚輝の心の声とと一人の女子の声が重なる。そしてきっと、音羽も内心で声を重ねていた。
聴きたいと喚く彼女は、きっと音羽の歌声が聴きたいのではなく、自分と同じ高校の同い年の人生を覗き込みたいと思っている。言いづらいが、カーストが高いとは思えない音羽。自分より学校で目立たない人が、学校外でどの程度の存在感を示しているのか。気になっているのは歌ではなく、登録者数と再生回数だろう。
彼女本人もそれをわかって教えたくないのかもしれない、と尚輝は考え直す。
「……メロウ」
「ん?メロン?」
「メロウって名前でやってる」
あ、言うんだ。と思ったと同時に、すかさず尚輝も検索する。
「メロウ?カタカナ?」
「老いた目」
ひらがなで検索しても出てきたが、漢字は『目老』だった。
変な名前だが、そんなことどうでもよくなるほど、尚輝は驚いた。
『39万人』。
自分も彼女らと同類だ。歌い手としてのランクを、チャンネル登録者数で計ってしまった。
マジかよ、と思う。意図せず口元に手をやる。有名人だ!とミーハーな感想が浮かんだ。
チャンネルの説明を見ると、『メロディーウイングの略です。音に羽が生えた声を目指します(何言ってんだ…)』と書かれていた。歌ってみた系も多いが、自分で作詞作曲したボーカロイド曲、それを自身でカバーした曲が並んでいた。自身でカバーしている動画のほうが視聴回数が多かった。
迷わずチャンネル登録をする。絶対に帰りの電車で聴くと決めた。
匿名でやっているSNSで、彼女のXのフォローもしておいた。『十六歳、歌い手してます。元引きこもり。現在は高校に通ってます。配信は土曜日20時。歌は不定期で投稿』
尚輝が引っかかったのは当然。
(元引きこもり?)
そして合点がいく。転校、核島の過干渉、カウンセリング、人見知り。引きこもっていた者が学校へ行き始めたのなら、合点がいく。
元引きこもりで、有名な歌い手で、作詞作曲の才能がある。尚輝がつまらない学校へ通っている間に、家で曲作りの技術を学び、歌の練習をしていたのだ。学校へ行って、何も学べず、何も磨かれず、何も持っていない自分。不登校だったのに、有名人の彼女。
尚輝にとっての贅沢を手に入れていて、才能を持っている。さらに彼女は、不登校を武器にしているのだ。学校へ行っていなかった人の共感を得て評価され、どん底から努力で這い上がったと世間から讃えられ、ファンからの好感を得ている。逃げていいよ、逃げられるのは強いよ。
そんなメッセージを聞くたび、逃げられない自分は弱いのか?と思う。胸がザワザワした。
不登校だった人も入れる高校に入学したのは、勉強しなかった自分の落ち度。けれど、死にたくなるほどツラくて牢屋と肩を並べるほど大嫌いな学校に頑張って通い、なんとか乗り越えた尚輝の三年間を「無駄な努力」と否定された気がした。不登校の天才は、登校しているだけの凡人に、「学校なんか人生に不必要だ」と見せつけてくる。
逃げる勇気が苦手だ。学校へ行けなくて苦しんでいる人へ、どうか自分の思考を許してほしい、と尚輝は思う。行きたくないのに行っているのも、行きたいのに行けないのと同じくらいに苦しいんだと、知ってほしいと思う。行けているなら大丈夫、なわけではない。体調不良が目に見えないだけで、視覚化できない心はちゃんと壊れる。脳も弱っているから、逃げる発想が生まれない。
メンタルは筋トレとは違う。追い込めば追い込むほど、脆くなる。鍛えられるのは耐える力だけで、心は痩せ細っていく。
拒食もツラけりゃ過食もツラい。不眠もツラけりゃ過眠もツラい。不登校もツラけりゃ登校も――。
トートロジーは一生言い続けられるが、つまるところ、学校が好きな人以外は、学校がある世界で「生きやすい」と言えることはないのだ。
頑張れない人のことを怠けてるなんて言わないから、頑張っている人を羨ましいと思わないでほしい。それが尚輝の願いだった。……でも。
頑張れるのが不本意と言ったら、きっと世界から怒られてしまう。
恵まれた身分。本当に、恵まれていて、疲れた。頑張れてしまう自分に、呆れた。なんて僕は幸せ者なのだろう。なんて不謹慎なんだろう。
ところで、彼女はなぜ学校へ行かなかったのだろう。精神疾患の当事者なのだろうか?
学校を休む理由が自分にはない、と思っていたが、『社交不安障害』は学校へ行かない理由になったのかもしれない。
学校へ行かない理由。不謹慎な自分は、学校へ行けなくなるきっかけを探していた。でも、精神疾患を自覚している現在、尚輝は学校へ行けない理由を抱えたまま学校へ行くという奇行をしていると言える。
命懸けで薬を飲んだり、イジメを受けないのかなぁなんて最低な感情を生んでは罪悪感に苛まれたり。そんなの、本当は何も必要なくて、病院へ行って「社交不安障害ですね」って診断されたらそれだけで尚輝は。
(不登校になれた)
そうとは限らないとしても、可能性だけで、尚輝は吐きそうなほど悔しくなった。音羽が羨ましい。
寿命を売ってでも戻りたくなった。これからの時間を使ってつまらない過去を塗り替えたい、とか誰かさんみたいな思考がよぎる。大学の四年間をかけて学校生活をやり直そう、などという異常なほど青春へ執着する気持ちが、分からなくもない。薬を手に入れた身体で青春を取り返したい。
モヤモヤを晴らすべく、今や簡単に手に入る薬を押し出し、飲み込んだ。
音羽のことを思い出し、ハッとイヤホンを耳に挿し込む。貢献してやろうと上から目線で、YouTubeではなくミュージックアプリからダウンロードした。
歌詞を追いながら聴く。実際に弾くと相当難しそうなピアノ音が印象的だった。その名の通り、羽根を吹き飛ばすように息を使っているが、ちゃんと歌詞が聞き取れる強さがあり、その中に弱々しくて優しい声も含んで感情に波を作っていた。好きな歌声と磨かれた技術に、ムカついた。
他人の人生に嫉妬するなんてダサい。しかし、この歌声のため努力する時間が彼女にはあったのだと思うと、何もない自分に嫌気がさすし、どうしても羨ましかった。自分は全くアーティストを目指していないのに、彼女の活躍に対して『悔しい』と思った。
『お人形さん』
人にはそれぞれ苦手があるのに
得意じゃなきゃ生きづらい
君らの仰る普通には
期待がこもっているのです
何が多様性だと心で嘆いても
声に出さなきゃ思ってないのと同義でしょ、って
(頂戴頂戴!)
コミュショーナンデスって言ってみたいから
僕に声を与えてください
(ギブミー!)
いちにのさん
言い訳できない僕は誤解を解く方法がなく
勘違いされたまま他人の推測で
出来上がる
dollは嫌われていく、苦、苦
「口開けてみて」
「『あ』って言ってみて」
何度も言われたコトバ
「言わなきゃ分からないよ」
もう聞き飽きたのです
悪口を聞き取る耳だけはいいんだ
人を傷つける声ならいらないでしょ、って
(頂戴頂戴!)
優しい言葉吐いてみせるから
僕に声を与えてください
(ギブミー!)
いちにのさん
アイデアを伝えることも席を譲ることもできず
面白くない優しくない意見がなく
dollと扱われていく、苦、区々
わざと話さないわけじゃない
望んで壁を作ってんじゃない
頭の中は言い返したいコトバで埋め尽くされてるのに
閉じ込められたままの文字
なんで喋らないの?
僕が1番聞きたいよ?
静かに涙を流しています
どうか誰かに気づいてほしい
「ありがとう」って言えないけど
心から感謝すると誓います
伝えたい伝えたい伝えたい
伝えられない僕は
喋りたい喋りたい喋りたい
喋らない人形だ、駄、駄々
彼女の音楽は、尚輝に刺さるものがあった。まるで社交不安障害の当事者が作詞したみたいだ、と思う。
コメント欄は自分語りで溢れていて、同類がこんなにいるのかと、マイノリティが群れようとする習性に共感した。したとて、尚輝は一匹狼の自分が好きだったし、ここに集まって「わかる」と返信が来たからといって、せいぜいそこまでの感覚だ。嬉しくない。
何度もリピートし、『僕は僕のマリオネットだ』とコメントした。『イタい』とリプが来たのを無視していたが、『上手いこと言おうとしてるのがつまらん』と意外にも返信が続いたので、速攻コメントを削除した。
芸術鑑賞の授業で、一流のミュージカルを観に行く。さすがは私立だ。劇場へ現地集合だと聞かされ、みんなは友だち同士で行くんだろうなぁと、尚輝は慣れた感情にため息をつく。
早めに行って遊ぶ人、現地解散だから終わってから遊ぶ人もいるはず。どれだけ、何を言い聞かせても、羨ましい気持ちは生まれてしまう。
口が渇き、まるで錠剤のようにタブレットを放り込むと、メントールの効果で口内は潤った。口臭予防と口渇予防の長年の必需品も、近々いらなくなるかもしれない。
嫉妬が終わると矛先は自分に向き、悔しくなる。考えるから悔しくなる、それでも考えてしまうのは時間があるからだ。友だちのいない高校生には、暇だと嘆く時間だけは幾らでもある。
(行事なんかお金の無駄)
課外授業、文化祭、修学旅行が消えればいい。思っているのは世の中で尚輝だけではない。学校のイベントごとに関する悲しきスレッドは古くから立てられ、掲示板まとめで多く目にする。
でも、サボる勇気はない。
ミュージカル代も払っているわけだし、と休む選択は尚輝の度胸では出来なかった。これをサボる勇気があるなら、学校だってサボれる。
お金がもったいないし、こうやって強制的な機会がなければミュージカルを見に行くことはないだろうから経験値が上がるはずだとプラスに考え、なんでも前向きに変換できる自分を褒めた。
駅のホーム内。現地集合で電車に乗り慣れてない人は迷わないのかな、電車が苦手な人はいないのかな、そういう人はタクシーだとしたら料金がエグそうだな、迷子になったらどうするんだろ…などと考えていた尚輝だったが、実際に迷子になったのは自分自身だった。
「ここはどこ?」
思わず声を出した。迷子になるのは一人で行動しているからか、シンプルに方向音痴だからか。
(発達障がいだからか)
検索してみなければ、と尚輝は思った。道に迷うのは特性に関係あるのかどうか。
(一人で生きていけないくせに独りぼっち)
せめて一人で生きられる技量は欲しかったなぁと思う。『ちゃんと目的地に辿り着ける』くらいのレベルでいい。さほど贅沢ではないはずだ。
でも自分は人と違う、どうやら多くのレッテルを抱える生きづらい子らしいので、こんなのは日常茶飯事。きっと一生この先の人生、可哀想で大変で個性的な不思議な子なのである。
それでいいと思えている自分が好きだ。
このおかげで、多様性が身近になり、マイノリティに優しくなれる心が手に入った。多様性を認めながら「どうせ認めてる自分が気持ちいいだけだろ」と浅い気持ちで語っている常人を批判できるし、「当事者の気持ちは分からないだろ」と言われたとしても、「えっ?僕自身も当事者なんですけど…?」と被害者ヅラできる。
この自分が、自分の正義を支持するにあたって一番良い立ち位置だ、と思ってしまった。病気である人とない人では、訴えたときの説得力に雲泥の差が出る。
(…ほんと、僕って僕だよね)
呆れた。だから自分を卑下するように言ってみた。自分らしい。ダメな部分を見つけると、そう思う。
南口と西口の矢印が同じ方向を指している看板を見て、完全に諦めを決意した。せっかく知らない駅に来たし、駅の中だけでも暇は潰せそうだった。電車賃分くらいは楽しんで帰りたいなとこの後の計画をする。
「あれ、あいつ…」
つい、あいつ呼ばわりをしてしまい、しかも独り言を言っている自分に引いて、固まる。相手はこちらを見て、似たように固まった。人が行き来しているホームだが、お互いの視界には相手しか映っていない。
相手は「おっ」という口をし、無理な笑顔を作ったが、近づいてこない。尚輝は暇だったからという理由で、自分から声をかけてみた。こんなんじゃなかったのに。逃げ出すやつだったのに。
薬がなかった頃の感覚が、今は思い出せない。まるで子どもの頃に自転車に乗れなかったのが不思議だと思う大人だ。
「…ぁ、あか、…あなた…、きみ…、あ、朱莉さん、は、なんでここにいる……ですか?…ミュージカル、ですか?」
話しかける勇気が出たからといって、コミュニケーション能力が人並みになるにはまだ時間がかかる。咄嗟だと特にカタコトになりがちだ。
彼女はこちらのパニックに動じず、苦笑いをして首を横に振った。
「そんなわけないじゃん。学校サボってるのに」
「…勉強じゃ、ないから…」
「勉強が嫌でサボってるわけじゃないよ」
学校内じゃないから、の意味を含んだつもりだったが、伝え方が悪かったようだ。彼女は「今日は校外学習なのか」と呟いた。
「行く?」
二人は劇場の反対に向かって歩いて行く。彼女は暇つぶしに来ていただけで、目的地はなかったらしい。劇場の方向を知っているだろう彼女が何も言わずに横を歩いていたから、尚輝は劇場はこっち方面なんだろうなと思って歩いていた。彼女が行くなら自分も行くか、と予定変更の変更を脳内で整えていたところだ。
「山之内くんは、どうして学校で喋れないの?」
ふと、朱莉はド直球に質問をする。
「話せない……なんか、こんなこと言ったらアレだけど、過去に声に関する酷いトラウマがあるとか、コンプレックスとか、そんな感じかと思っちゃってた。話せるんじゃん」
尚輝は、全く嫌な気分にならなかった。「喋らない」ではなく「喋れない」と言ってくれたのが嬉しかったからかもしれない。
「学校、来ない…ですか?なんで、来ないのかなと思った…、…ので…」
キャピピッと彼女は笑う。ギャルでもヤンキーでも引きこもりでもない。外見も喋り方も、楽しくJ Kをしているようにしか見えない。『元気』と『不登校』は不釣り合いなカップルなのだ。組み合わせてみると真新しさ故に変わって目に映る。まるでセクシャルマイノリティーのようだ、と尚輝は感じた。
「山之内さん、タメ口でいいよ。あと、質問に答えてから質問して欲しいかも」
「え、…ぁ」
正論すぎて、何も言えない。でも沈黙を長くするほど飴の生産スピードが速くなるのを知っているから、勢いで喋るよう心がける。
「病気で、あってる。薬飲んだから、今日は喋れる日」
いきなり饒舌になったら驚かせてしまうかも、という躊躇い。先程から、意図せず喋りが下手になる。
でも、こんなにカタコトで大丈夫だろうかと考え込む前に、彼女は納得したように「へー」と言った。わかりやすいセリフを言ったあとの間で、逆に違和感を覚える。基本、相手がワンテンポ遅く相槌を打つしかないような文章しか言えないから、スムーズなキャッチボールができている状況に尚輝が一番困惑した。
「そうだったんだ。学校では飲まないってこと?」
彼女はなんだか、自分の描くイメージや予想を崩してくる。
「…飲んでも、いきなり喋れるようになってたら、…気持ち、悪いし、…友だち、ぃ…いないから、喋る必要なくて、だから特別なとき、だけ」
『気持ち悪い』とか『友だちいない』とか。自分を卑下するのは気が引けた。自分だって、認められていい人間なのに。加えて、他人に可哀想アピールをするのにも慣れず、むず痒い気持ちになる。
不幸自慢は自慢じゃない――。
ふーん、と彼女は言った。そして、「僕は」と言った。尚輝はあまり聞いておらず、キョトンとした顔のまま固まって彼女の顔をガン見しまう。
彼女は引かれたと勘違いしたらしい。
「あー、僕って言っちゃった。まっ、いっか。…僕、これから映画観に行くんだよね。お喋りしたかったけど予約もしてないから、ごめん」
学校のみんなは前々から予約しなきゃならないミュージカルを観に行くというのに、彼女は当日券で映画を観に行くという。予約していないなら。お喋りしたかったのなら。今日じゃなくてもいいのに、と尚輝は思った。
距離を置くための優しい言い訳で、本当は映画館にすら行かないかもしれない。そう解釈して落胆しかけていると、彼女は真顔で問いかけてきた。
「映画一緒に行く?」
「……は?…ぁ…え?」
「今『は?』って言った?山之内くん、BLは嫌い?男同士のラブストーリーなんだけど」
そういうのって、人に言えちゃうんだ。と、尚輝は驚く。言える時代なのか、この人にとって隠すことではないのか。驚いたリアクションをしなかった自分に自惚れた。人の嗜好に理解がある自分が好きだ。
「…朱莉さんは、好きなんですか…?」
「もちろん。腐女子だよ。こんなこと、山之内くんにしか言わないんだから。内緒にしてね」
(言うわけないのに)
クラス中にバラす声があると思ってもらえていることが、嬉しかった。
ミュージカルをサボって映画に来た。同じクラスの女性と、学校をサボった。
恋愛感情とは何か未だわからない尚輝は、異性と二人きりだからといって別に舞い上がったりはしない。今まで人を好きにならなかったのは、人の目を見ることも人と喋ることもなかったからか。それとも彼女と同じく、
「僕、恋愛感情ないんだよね」
そういうセクシャリティなのか。
相手に他の人には話していないだろう暴露をしてもらったときは、平然とした返事をするように心がけている。リアクションが大きいと、偏見があると思われるかもしれないから。
「そうなんだ」
「アロマンティック・アセクシャルで、恋愛感情もないし、せ…、…セイコウイ?も嫌なんだよね。何が楽しいのかわからなくて」
「そっか」
ポップコーンの列がなかなか進まない。キャラメルがいいけれど、彼女はどうだろうか。
「興味ないでしょ」
「……いや、そんなことない。何が楽しいかは、僕も知らないから、議論できなかったっていうか」
「議論て。あれ?まさかの同類?」
「知らない。好きな人、いたことないから、わからない」
彼女になら、童貞であることをバレてもいいと思った。察されているだろうし、彼女も色々と秘密を明かしてくれるから平等だ。
「わからないのかぁ」
「知らないものは、わからない」
「そうだよねー、わかる。まあ慌てて自認しなくてもいいもんね」
「……ジニン?」
キャラメルの香りが強くなったとき、彼女は「Lセットの塩味で紅茶」と言った。
「尚輝くんはどうする?」
「…ぇ、あ、僕はキャラメル味…と、リアルゴールド」
「僕が誘ったから奢ったげる。チケット代は悪いけど自分でね」
えっ、と思っている間に会計は済ませていた。リーダーシップとはこういうことかと思った。優柔不断だし、人に指示などしたことない自分にとって、サクサクと物事を決められる人は憧れる。
いつだってクラスのカースト上位のグループの中心に立つリーダーだったでしょうに。全てを仕切り、でも周りが嫌な思いをしない案だから口を挟ませない。そういう子なんでしょうに。
(なんで来なくなったんだろ…)
不思議だ。まともで優秀な子だと思ったけど、いくら普通を並べられても、学校へ行っていない事実だけで、イメージが反転する。誰よりも変わり者な気がしてくる。
正直、興味深い。
「変わった人が好き」と言うのは、生きづらさを抱える人に恨まれそうで、公言するのは憚られる。しかしマイノリティを魅力的に感じるのは、好きなタイプというより性癖に近くて、本性は変えられなかった。尚輝は朱莉を好意的に思った。恋とは違うが、性癖に刺さったと言えよう。
まるで、海外で日本人を見つけた、みたいな感覚である。同士を見つけた高揚感なのだろう。自己分析する。尚輝にとって、学校は海外のようなもの。言葉が通じない場所だ。そこに、同じように仲間がいなくて、居場所をなくしたらしい女性。
シンパシーを感じた。その正体はたぶん、以前まで不本意だったが、今なら何の躊躇いもなく受け入れてもいい『可哀想』だった。
◯居酒屋
テーブル席で向き合って座
っている男二人、空気が重
い。
男A「俺、知ってるよ」
首を傾げるB。
男B「なんですか?」
A、Bの腕を掴む。
男A「お前、宇宙人だろ」
B、目を見開く。
それを見たA、ハハッと笑
う。
男A「見ちゃったんだよ。この世界で言うサプリメント的なもの?飲んでたでしょ。こっちの薬局にはないから、宇宙にしかないやつだ」
男B「(慌てながら)違う、そんなもの、飲んでません。見間違いでしょ」
A、食い気味、しんみり語
る。
男A「いいよ。俺の前では隠さなくて。ちょっと周りとズレてるなって思ってた。無理に皆に合わせることないよ。君の個性が死んじゃうだろ? (苦笑いして)先生なんて仕事よく選んだよね。びっくりするほど向いてない。
落ち込んだ様子のB。
男A「でも、……それでも、人間になろうとするお前見てたら、守りたいって思っちゃって。人間に近づくための魔法の薬?……それ、生徒が渡してくれたよ。お前のだと思うって」
男B「あいつ……」
悔しそうにするB、気にす
る様子のないA。
男A「調べたら、薬局にあるもんじゃなかった。宇宙でしか手に入らないんじゃない?」
男B「っ僕は宇宙人じゃない……です」
男A「俺と付き合ってよ。人間への道、サポートしてあげる」
カフェに入り、コーヒーより高いメロンソーダを飲む朱莉を見ながら、今ここに他のクラスメイトが入ってきたら、その人たちの目にはどんな関係に映るのだろう?と尚輝は妄想した。
(メロンソーダ、甘ったるそうだ。ソーダだけに。甘ったるソーダ)
彼女は宇宙人だって気づいた上で、しかも同性で、もうキュンキュンするー!と一人で喋っていた。相槌も不必要かと放っておいていたら、「嬉しいな」とトーンを変えて呟くものだから、さすがに尚輝も反応する。
「…う、…ん?」
「尚輝くんってボーっとしてるよね。はーあ、なんか自分のことを僕って言えるの、すごく嬉しい」
「あぁ…。……ねぇ、なんで僕って言うの?」
聞かないほうがいい。そんな予感がする。『ジェンダーレス』の文字がよぎる。でも気になった。なんてことないように聞けば、聞いてもいい気がした。
「ダメ?」
大袈裟に首を傾げ、唇を尖らせる彼女を見る。見て、自身をフォローしておきたくなった。
「ダメじゃないけど、おん…、じょ、女性の相場は『私』だから。…ぁ、あと僕、見たことある。学校で私って言ってる朱莉さん」
彼女はハハハと笑った。ワザといじけて見せたのかも知れない。どうやら試された。
「尚輝くんって変な人だから、人と違うことに関して寛容だと思ってた。女だから私じゃなきゃおかしいって思っちゃうタイプ?」
グッと身が引き締まる。本来、理由なんてなくていいはずなのに、理由を求めた。多様性を認める行為は、自己愛を保つ最も重要な材料なのに。ふーん、あっそ、と言っていたいはずが、質問してしまった。
恥ずかしい。なんというか、階級で言うとまだまだビギナー級である気がする。白帯の多様性理解者。もはやそれは理解者では――。
「ごめん」
「変な子。謝るのも違うと思うけど」
先程からの「変な子」に関しては何も思わない。嘘。むしろ少し嬉しい気持ちだ。よくわかってるじゃん、とニヤつきそうになる。
「…あの、思ってないよ。おかしいとかは思わないけど、意識の問題で変えられるものを、わざわざマイノリティにする理由…っていうか。ぁ、…あと、使い分けてるってこと?なら、なんでかなって…」
失礼になっていないだろうか、と探り探りの言葉選びになる。失礼承知で問うていると伝わっているからだろう、今度は意地悪せず普通の質問に答えるように喋ってくれた。
「なんだろ、僕って言ってない自分は偽りの自分な気がしちゃうっていうか。難しいね、そうだな、しっくりこないからかな。この世にある一人称で、別に『僕』が一番好きってわけじゃないけど、『私』が一番好きじゃないかも」
まとまらない言葉を伝わりやすいよう発してくれている。セリフを決めてから放つのではなく、考えながら言える朱莉を、尚輝は羨ましく感じる。
「これ甘過ぎ。あっ、そうだ」
「ソーダ」
「ん?」
「なんでもない」
「それじゃあ尚輝くんはなんで『僕』なの?敬語じゃないときは『俺』って言う男の人のほうが多いよね」
彼女は良いディベートができているだろうと言いたげな顔をする。相応しいのは感謝だな、と尚輝は自分の力でこの場が楽しいわけではないと気づき、思う。
「同じような理由なんじゃないの?」
「…子どもの頃に、親に『僕』って教わってて、…で、言ってて、俺に変えるタイミングがわからなかっただけ」
「最初に教わったのが『俺』だったら俺だったってこと?」
「そうなんじゃない?」
男女二人の間に『僕』が飛び交う。『ぼ』にアクセントを付けたそれは、セリフのイントネーションが平均で右肩下がりになっていた。
「そっか。僕みたいに場所によって変えたりしてないんだね」
「その、学校では私なのは、『なんで僕なの?』って聞かれるのが嫌だからとかだった…かな、ぁ、あの、僕も聞いちゃったけど」
朱莉は少し食い気味で否定する。
「んーん、そうかもしれないけど、そうじゃない。変わってると思われないようにしてるだけだよ。学校は人と違うの嫌いな場所だって知ってるし、特別だと思われたくてワザと変えてるって思われたら最悪だし。だから…それこそ、意識の問題で変えられるから変えてる。変えられないものは変えられないけど、変えられるから変えてる」
彼女は、学校では私、家族の前では朱莉(なまえ)、独り言と心の中では僕。と、分け方を教えてくれた。どうしても「私」が喉に詰まってしまう場合は「自分」にしているそうだ。彼女曰く「無難」らしい。「でも関西だと二人称になっちゃうかも」らしい。
「尚輝くんは僕のほうが似合うよ」
「…そう…かな?朱莉さんも、…、…あ、でも、好きなのを使えてるのは、いいと思う」
「うん、ありがと」
今なぜ独り言用の一人称なのか気になるけれど、なんとなく、聞けなかった。
「どれが本当の自分かなって思ったことあるけど、やっぱり僕って言ってるときだ。今そう思った」
「へぇ」
彼女との雑談の主導権は、彼女に持たせていたい。話し手を朱莉、聞き手が自分、その構図で更に彼女からの質問を望んだ。自分に興味を持ってもらえたのが嬉しくて堪らず、もっと知ってほしいと欲が膨れる。
「学校って、行ったほうがいいと思う?」
「…?え?…いや、別にそうは思わない」
「親はね、何も言わないの。『行きたくなったら行けばいい』って言ってくれる。世間は羨ましいって言ってくるかなぁ」
「さあ」
(僕は、羨ましい)
「学校好きなんだけどね」
(マジかよ、この人)
「…その気持ちは…わかりかねる」
「言い回しウケる」
朱莉はストローの抜き差しを繰り返し、大きな氷を避けながらアイスを沈めていた。体に悪そうな緑色がライム色に変わってゆく。
「学校でも喋ったらいいのに、って言ったら怒られる?」
ん?と尚輝は実際に言われる妄想をしてみる。「喋れるなら喋ったらいいのに」これは薬がない状態でも言われたことがある。声が出ないわけではないだろう?と。いや学校では出ないんだよ、と返す声は出ない。
うん、腹が立つ。
「怒られる」
実際には怒らないけれど、怒りたい気分になるのは間違いないので伝えた。そっか、と朱莉は言った。謝らないんだなと思った。
「じゃあもう一つ。喋れる尚輝くんが本当の尚輝くん?」
「…え?」
それは、そうだろう。喋れる尚輝が本当の尚輝でなければ、理想から離れていることになる。薬を飲んでやっと本来の自分が発揮できるのだ。以前までの自分はおかしかったと、まともになった今なら言える。まだまだ本当の姿での経験が短く、自分自身が信用し切れていないのも事実であるが、これが尚輝のあるべき姿だ。
そうでなければ困る。今やっていることが間違いになるから。
でも、あれ?と思う。本来と異なっているから理想なのではないか?理想は『喋れる自分』で、自分の頭の中を人に知ってもらえたら幸せで、だから今幸せで――。
電車で「座りますか?」と席を譲って、コンビニでの会計後は店員さんへ「ありがとうございます」と伝えて、駅のホームで人とぶつかりそうになったら「すみません」と頭を下げて、街でハトが突然現れたら「わあびっくりした」と言う。喉の開いた状態を生きている。声が出るようになった。
学校で話さないのは、いきなり喋り始めたら驚かせてしまうからだ。第一印象を変えたら引かれる。もしかしたら、尚輝が急に話し始めても、彼らは全く何も思わないかもしれない。彼女のように「なんだ、話せるんじゃん」と温かく迎え入れてもらえて、友だちができたりなんかするかもしれない。
コミュニケーション英語が地獄でなくなり、教科書を忘れたら誰かに借りられて忘れ物ゼロになり、突然の教室変更の知らせがすぐに耳に入り、体育の時間に一緒に教室外へ走り、昼食の時間が昼ご飯を食べる時間になれば。
(…幸せ…)
それが欲しい、となると、己の理想は喋ることじゃない。喋ったことで得られる結果だ。喋れる身体だからできる自分の言動で、他人に言動をしてもらう。承認欲求を満たすことによって自己顕示欲を満たし、それを材料に自己愛を保ちたい。本当は面白くて優しい奴って知ってもらって、でも苦しんでるんだね、それなのに学校に来て、すごいね頑張ってるねって。努力を評価されたい。
(学校で喋らなきゃ、薬を飲んでる意味ないってこと…?)
尚輝はぐるぐると頭の中で考える。ズゾッと音が鳴り我に返ると、朱莉が飲み物を飲み切っていた。
「あっ…」
彼女は怒っても呆れてもいなかったが、退屈そうだった。
「考え込みすぎだろ」
苦笑いしながらツッコまれる。
「…うん」
事実なので肯定する。
「考えた結果は?」
尚輝はコーヒーを一気に飲み干した。さっきまでは熱くて口をつけられなかったが、今度はぬるくなっていて残念な感じだった。
「…その、喋ってるほうが本当に、ほんとの自分に決まってるって、言いたかった…けど。…まだ、過去の自分に慣れ過ぎてて…っていうか…。…今の自分が、」
少し怖い。
言葉にして初めて、自分は自分に怯えているのだと認める。
「どうして怖いの?」
今自覚したはずなのに、前から思っていたかのように自己分析ができていた。
「自分の発言が怖い。喋れるからって何を言い出すのか。喋ってから後悔するのが怖くて喋りたくない。だけど、黙り込む自分はもっと嫌い。でも、出しゃばりな自分も嫌い…だから…。だから、薬を飲んでいるときの自分と飲んでいないときの自分が真逆すぎて怖いん、だよ。どちらが本当の自分かと問われれば、飲んでいる時と答えたい、そちらの自分のほうが好きだから。でもそちらの自分の言動は、調子に乗っているとも思う。家に帰ってから反省するのは、飲んだ状態で過ごした日で…」
長文は息継ぎのタイミングがわからないから苦しい。水泳が苦手なのは関係しているのだろうか。していないだろうな。……疲れた。同じ内容を何度も言っただけのような気がする。どんなにジタバタしても進まない。
彼女に視線を合わせると、背もたれにダラリとしていた。自分とは真逆で、とても寛いでいる。
「尚輝くん、コーヒー飲むタイミング変だったよ」
「…あっ、そう…」
今度は僕と会話のキャッチボールをしよう。彼女の提案に、尚輝はコクリと首を縦に動かす。
「尚輝くんみたいに大変な人、初めて見た。僕はね、私って言うことで、それだけで学校に適応できるんだよね。適応する術。おまじない的なね」
「朱莉さん、みたいに、学校が好きになるには、…適応…するには、僕とかは、どうしたらいいの?」
「『みんなと同じ』が嫌いになったら、学校なんて好きでいられないよ。学校が嫌いな自分が好きなんでしょ?じゃあ学校は好きになれない」
真剣な質問に、彼女は何言ってんだというニュアンスを含ませながら笑ってくる。
「…たしかに、『学校』の対義語が『山之内尚輝』だとは思ってる」
ウケる、と彼女は言う。
「でも、みんなと違うって思いすぎるのも良くないんじゃない?隠せるところまで表明し始めそう」
「えっ」
一瞬。たった一瞬。カチンときた。
しかしすぐに収まったのは、自分自身でも、そこは気をつけなきゃなと思っている部分だったから。
「隠してもバレるんだよ。核島先生にも言われたんだ、『病気だと思う』って」
朱莉は目を見開いた。
「は⁈何それ、えっぐ!グロい!きしょい!最低!」
ドン引きと怒りに満ちる彼女の様子に、尚輝はハハッと笑った。
「言い過ぎだよ」
「…えっ、尚輝くん怒らなかったの?」
「……えー、っと…怒った。自分の中では人生で一番くらいに…怒鳴った、かな」
朱莉は「えっ、怒鳴れるの?」と言って「いやでも怒るのは当然でしょ、あいつマジか…」と呆れていた。
他人からしてもそこまでのことなのか。初めて他人に話したエピソードだったから、尚輝は反応を観察して楽しんだ。
楽しませてもらった代わりに、一応彼のフォローもしておく。このままでは、彼女は一生学校へ来たくなくなってしまうかもしれない。変な担任だから、との理由で。
「でも今では、感謝してて。僕…は、その、他人に可哀想な子だって思われるの、嫌だったんだ。恵まれてるくせにそんな目で見られちゃうと、本当に不幸…、…こんなこと言ったら良くないけど、もっとツラい人たち?に、恨まれるんじゃないかって」
彼女は「うん」と怒りを沈めて頷いた。
「だけど、先生に『病気』って言われて、あとカウンセリングも行っ…、…行かされた?騙されて、…んー、まあ色々あって、やらされて。当然のように病名を口にしてて…。…思うんだよ。病気で喋れなくて、カウンセリング受けてて、学校に友だちいなくて。…僕って、ちゃんと可哀想だなって」
「…、…うん…」
「堂々と可哀想な子ヅラしててもいい身分なんだって思って…、思ったら…、気が、楽になったんだ。だから気づかせてくれた先生には、ありがたいと思ってる。…、…それから、わかるよ。エスカレートしてる自覚はある。自費で検査に行った。やっぱり、は…、はっ…発達…障がい、だって」
「言わなくてもいいよ」
言葉に詰まると、彼女は無理しないでと言ってくれる。でも、尚輝は言いたかったのだ。噛んだのは、躊躇ったのではなく緊張しているから。初めて、他人に自分の障がいを晒している。
「…気質は、HSPってさ、繊細で敏感で、あとは、やっぱり先生たちに言われた社交不安障害がベースで、…、だからつまり、僕は結構だいぶ生きづらい」
言ってみると、やはりスッキリする。気持ちがいい。快感を追うように言葉を続ける。
「あとさっき思ったけど、僕も恋愛感情がわからないんだよね。もしかしたらアロ、」
「ッちょっと黙って!」
吠えるように彼女は言った。賑やかな店内は、目の前の一人に向けた叫び声くらいでは響かない。
「………なに…」
そんな言い方する必要あるのだろうか。尚輝の繊細な心には、針が強く刺さるというのに。もっと丁寧に扱ってほしいものだ。
「さっきから何?僕に何を求めてるの?」
「…えっ、別に何も…」
「そんなに色々と口に出す必要ある?それが、尚輝くんが他人に薬を飲んでまで伝えたい言葉なの?可哀想って言われたがってるじゃん、それでいいの?」
そのセリフに、尚輝は首を傾げる。
「言われたがったらダメなの?」
彼女はため息をつくだけだった。今のうちに、もっと言葉を足しておかなければと尚輝は思う。
「可哀想なのは事実じゃん。そりゃあ言いたいよ。伝えたい言葉…ってほどじゃないけど」
「言いたくないことのはずだよ?僕が自分に恋愛感情がないって話、言うの、すごく怖かった。尚輝くんは平気で色んなレッテルを、しかも自己診断とか自費で診断されにいって。堂々と被害者ヅラ?当事者ヅラ?可哀想アピール暴露して、なんか自己紹介してる気になってるけど」
言い過ぎだ。自己防衛で無意識のうちに聞き流してしまう。めちゃくちゃ怒られていることだけわかる。
「尚輝くんは病名とか障がいとかでしか表せない人間なの?それってどうなの?さっきアセクシャルかも的なこと言いかけてたけど、デリケートなものだって、わかるよね?テキトーに使って欲しくない」
「テキトーじゃない。本当にそう思った。マイノリティ抱えすぎだろって、自分自身に引いたけど」
彼女は頭を抱えていた。俯いている姿を見つめていると鼻を啜る音がして、嘘だろ⁈と思う。だが、机に大きな雫が落ちるのが見える。
女性は面倒だというのは本当だろうか、と考えてしまう。カテゴライズして差別する自分に、腹が立つ。でも生物学的に、脳科学的に、だってだってと言い訳する。女の涙だ。ダルいヤツだ。
彼女は震えた声で言う。
「ずっと、心に留めて苦しんでたのはわかるけど、…、はぁ、言われたって困るよ、言われた側は手の差し伸べようがないんだから」
誰も、助けてくれとは言っていない。そりゃ助けてくれるなら助けてほしいけど、そんな願いはさすがに傲慢過ぎる。そんなことで泣くんじゃない。
「放っておいていいんだよ…?」
優しく言ってみるが、彼女は更にヒステリックになった。
「ほんとに⁈ほっといてほしいなら、わざわざ言わなくてよくない⁈なんで言うの?」
尚輝は、朱莉はとても良い人だと思った。だからもっと良い人になってほしいと考えた。
「……多様性。互いが互いを認め合うと、生きやすくなる。…別に、何かしてほしいとか、思ってないよ。共感してくれるだけで救われる。だから言ったんだ」
尚輝だって、先程の自己紹介に勇気が一ミリも必要なかったわけではない。そういえば彼女だって、なぜアセクシャルを告白したんだって話だ。
(僕に好きになられたら困るか ら?…いや、認めてほしかったんだろ?)
自分だけが不幸だと思うな。尚輝は、対抗心で己について話していたかもしれないと思い返す。傷の舐め合いをする時間にしたら、有意義な時間になると思った。
「僕、多様性って言葉、嫌い」
朱莉の涙はなくなっていて、ただ不満げな表情だけが残されていた。
「…え?」
「認めて、共感して、それだけで本当に救われてくれるの?当事者じゃないくせにとか、どうせ完璧にはわからないだろって、貴方も私も腐るじゃん。尚輝くんも、多様性って言葉が好きなだけじゃないの?キレイゴトだよ、この世にある全てのマイノリティを理解できる人なんかいないよ?幸せも不幸も主観なんだからね、『可哀想に』なんて私は易々と言わないよ」
尚輝は思った。早口で長文で、何言ってるのかわからない、と。
「自分が何かを抱えてる人で在りたいだけでしょ。…あの、私もそれはあるよ。一人称なんて悩みってほどじゃないし、正直どうでもいい。学校に行かないのも重たくて暗い理由なんか一つもなくて。ずっと優等生だなって自惚れて、グレてみたくなっただけなの」
「…ふーん…」
どうして『私』になったのか、尚輝にはわからなかった。でも壁ができたような気がして、外向け用の朱莉になったのだとは理解できる。
「…私、色々喋った。…、…そうだね、喋ってたね。マイノリティ自慢?してたわ。尚輝くんを責める資格ないや」
マイノリティは自慢じゃない。僕だって!と張り合ったのは、なんか、支え合える仲になれるかなって感じたからだ。提示し合って秘密を共有したら、かけがえのない関係に――。
(例えば親友とか)
仲良くなれるかなって、思った。それだけ。健常者に手を差し伸べてほしいんじゃない。生きづらいを抱えてる人と、手を握り合いたい。
なんてそんな文学的な感じで言っても、きっと恥ずかしさしか残らない。彼女は親友候補から消えてしまったし、永遠に続けばいいと思うほどの夢のような時間も、もうこの状況から逃れたいと彼女に怯えている自分がいる。
尚輝は、薬を飲んでいないときのように小さく頷くしかなかった。喋れるからって、調子に乗り過ぎたのかもしれない。やはり自分が怖い。他人も怖いけど、自分のことも同じくらい怖い。
「…、…資格ない」
「あは、正直者だ。…まあ、わかるよ。例えばマイノリティな人に対して失言して『知らないくせに』って言われても、『当事者ですけど?』って言い返せば相手は何も言えない。マイノリティの当事者であることは、マイノリティを語る上での説得力に繋がるもん」
「…僕は、そんなつもりは…」
「病名を貰うメリット。多様性を認めるのが尚輝くんの正義なら、病名を貰うことはその為の武器になると思う。だから言ったんだよね。了解だよ」
彼女の言うことはわかる。六十五パーセントくらい。理解しても、納得しきれなくて、機嫌が悪くなっている自覚症状がある。
朱莉は立ち上がって、言った。
「こんなの言ったらアレだけど、学校で喋れないなんてすごくツラいだろうし、そんなに苦しいのに、行きたくないのに、ちゃんと通ってるの。偉いし、でも、とっても可哀想」
ご褒美。易々と言わないと言った矢先のこれだ。求めているものを意識してプレゼントしてくれたのだろう。
しかし尚輝は、ちっとも嬉しくなかった。
(思ってないくせに。助けてくれないくせに。共感してます、わかってますって雰囲気出しやがって)
あのカウンセラーが浮かぶ。
可哀想だと思われたいのに、可哀想な目で見られると腹が立つ。あの時の心情。
(なんなんだ、一体、何を求めてる)
迷走している。ゴールが『喋れるようになること』じゃないのは、忘れていた事実なのか、薬を飲んでから生まれた欲なのか。
(…頭痛い…)
喋れないのを言い訳に諦めてきた数々の青春は、喋れないだけが原因ではない、と。そんなことを言われてしまえば尚輝は絶望のどん底に落ちるしかなく、つまり現在、尚輝は泥沼を迷走している。
学校で喋らずして、何の意味があるんだろうか。喋れたことに喜び過ぎたり怖気付いたりしているうちに忘れていた目的。
(青春)
現在の自分は不幸を言いふらして救われてると。信じて疑わなかった。けれど、果たしてそうだろうか。自分を知ってもらうための自己紹介ではなく、ハキハキと教壇でありきたりな自己紹介をするのが夢ではないのか。
「…わからないよ…」
彼女は自分の頼んだ金額より高いお金を置いて去っていった。払いたかったのに、と尚輝は思った。
朱莉は、校外学習から一週間後に学校へ来た。「家庭の事情で私もしばらく休まなきゃでさ」とそれ以上追及しにくい理由を述べると、「待ってたよ」と属していたグループのみんなに迎え入れられていた。一瞬八木原が声をかけに来たが、数分で会話を終えた。自分と音羽だけが「あっ、カウンセラーのあいつ」の表情をしていた。
音羽は相変わらず核島に甘やかされ、美香は相変わらず男女問わず視線を奪っていた。自分が気にかけている人物はこのくらいだから、あとはどんな変化があろうと知らない。
そういえば最近は、社会の先生の浦山と核島が仲良しだ。この前通りがかりに会話を盗み聞きしたけれど、なんというか、朱莉と観た映画と似ていた。
学校は本当に色々ある。それに気づけたのは、何てったって顔を上げられるようになったからだろう。学校が好きになることはないが、人間観察ができるようになっただけでも有意義で、ボーっとしているだけだったあの頃よりは遥かに生産性のある時間だと錯覚できる。
果たして学校へ向かうまでの電車内で掲示板を読むのは生産性があると言えるのか。しかし、まとめサイトと比べれば現在進行形が上になる気がする。書き込むのは、あと薬十錠早い。
自分の文章で場を白けさせるのは、自分の発言もしくは自分の無言で場を白けさせるよりもキツい。アドリブ力を言い訳にしていたのに、『考える時間があってそれか』と思われるからだ。
名無し1・無口な男の人って何考えてるの?
名無し2・なんも考えてない
名無し3・>3むしろ逆だろ
頭の中でスパイと戦ってるんだぜ
名無し4・イッチはなんで知りたいの?
名無し1・好きになった
名無し3・ファッ⁈
名無し2・詳しく
名無し1・私、高一、女。相手は同じクラスの男。喋れないわけじゃなさそうだけど声を聞いた人はいないと思う
名無し5・どうやって学校入ったんだよ。面接ないの?
名無し1・あった。めちゃくちゃ頑張ったんじゃない?
名無し3・それ場面緘黙症じゃないの?知らんけど
名無し1・>3調べとく
名無し6・告白すればいい。以上。
名無し1・そのやり方を教えろくださいと言っている
名無し7・どこを好きになったの?
名無し1・自分の世界を持ってる感じ?昼ご飯食べずに図書室で本読んでる
名無し8・それはただのぼっち……
名無し1・>8そうだと思うよ。そういう人への告白方法教えて。
名無し3・なぜ俺たちに……
名無し1・>3同類でしょ?
名無し7・相手のスペック
名無し1・ぼーっとした顔してる。目と口が大きい。色白。
名無し2・似てる芸能人とかいないの?キャラクターとか
名無し1・なめこ栽培キットのマサルとか?
名無し7・wwwwwww
名無し8・調べなくてもわかるやつ言えよwわかったけどw
名無し9・懐かしいな
名無し10・全部枯れなめこにした記憶しかないわ
まさか自分なわけがない。と、言い切れないのが現在の尚輝である。
読み進めていたのは、『無口』に引っかかった掲示板。何となしに読み進めていたが、自己分析にだけ異常なほどの自信がある尚輝は、例えられたキャラクターにスマホを落としそうになった。ここは電車内、電車でスマホを落とすとどれほどうるさいか、どれほど視線が集まるか、知っているからそれだけは気をつけるようにしている。
(マサル)
それは核島をなめこ栽培キットのなめこに例えた場合の自分を指していたのだが、その縛りにしなくともキャラクターで例えるならば自分はマサルだと思うようにしていた。聞かれることもないのだけれど、聞かれたときに答えるのは『マサル』と決めている。
(他人からもそう見えているのか…?)
まだ自分のことである可能性は半分くらいだ。自惚れるなと内心で唱える。だってクラスに自分へ恋愛的好意を持つ者がいるわけが――。
(以前までの僕なら)
あり得なかった。しかし今の自分なららそんなことも、大イベントにするほど特段動揺する日常ではないかもしれない。青春のほんのひとつ。少しずつ取り戻している青春の、たった一部分。だって今も、無言の男のどこが魅力的に映り、どんな告白を受ける運命になるのか、見届けようと掲示板をタップしたではないか。相手を自分に重ねて。
(告白されるのか…?)
朝から空き部屋へ行くことになるとは思わない。ここはカウンセリングに使われている部屋だった。屋上とか体育館裏じゃないの?なんて浮かれたツッコミもできない。
目の前にいるのは核島で、隣にいるのは音羽なのだから当然だ。
「何で呼び出されたか、心当たりはある?」
「……」
「山之内は今日は薬は飲んでる?」
「…は?」
(そんなの、音羽の前で言うな)
「まあどっちでもいいけど、薬は持ってるね?」
その薬はどこで手に入れた?と問われ、困惑するどころではなかった。校内でここまで心臓を高速で動かすのは久々だった。
「坂本から買ったね?」
「…?…え、違います…」
予想しない仮説に、尚輝は戸惑った。見当違い甚だしい。彼女とは一切関わっていない。ファンでないと言えば嘘になるけれど、勇気の有無は関係なく、推しとは一定の距離を置きたいタイプだ。
音羽が何か誤解をしているのか。作戦があってわざとこんな騒ぎを起こしているのか。核島が謎の推測をしているのか…。
「…すみませ…」
小さな小さな声が隣から聞こえた。歌声ばかり聴いて過ごしていたが、そういえば地声はこんなんだったな、と思い出す。歌ではあんなに技術を使っているのに、生まれて初めて声を出したみたいな細い声。
「坂本さん、裏アカで薬の売買をしてたんだってね。病院で貰った頓服薬のプロゼパムを、一枚三千円で。……で、それを買ってたのが山之内。…なんか、世間は狭いね」
それは最初の感想で合っているのだろうか?と思いながらも、尚輝は渦巻く様々な心境の中、核島の感想に深く共感した。そしてイッツァスモールワールドを頭の中で流したあと、ハッと自分の置かれた状況に驚き、面白そうなハプニングにワクワクして、音羽の通院の事実に嬉しくなり、いや喜んでいる場合ではないと落ち着くと、核島の真剣な眼差しと目が合い、焦る。
(音羽さんが病院)
冷静になって考え、尚輝は納得した。音羽の作詞は、精神的な何かを抱えていなければ書けない詩だった。例えば『お人形さん』の歌詞は社交不安障害を抱えた人の気持ちを題材にしているとしか思えない。他にも憂鬱や不眠を匂わせる歌詞の曲もあった。
「薬を販売するのは犯罪なんですよ。ね?わかっててやってると思うけど。それに買うほうもダメ」
わかってると思うけど、と再び呟く。
(まあ、わかってるよ)
そして彼は、ふぅ…と深呼吸にも思えるため息をついた。尚輝も合わせて呼吸を整え、先程より更に落ち着いた心境で核島の一挙一動を観察する。
「坂本さん……の仕事については、山之内に話していいんだっけ?てか一部の人たちにはバレてるのか」
深刻な表情をしている核島に、首を傾げながら頷く音羽。尚輝はこのリアクションを知っている。「話していい」という肯定と共に「バレてるのかな?」と疑問をぶつけている。彼女はほんの数人にしか話していない。一部の人にバレているとはどこ情報だよ?と尚輝が内心で問う。
あのメンバーからどの程度広まっているのか知らぬが、とりあえず自分は、彼女の仕事について承知済みである。それが本人にバレていないことにホッとした。
「この事件については、彼女のネットニュースで知ったんだよ。投稿するアカウントを間違えたんだってね、やっちゃったねぇ」
グッと俯く彼女の姿が目の端に映った。
(あっ、これは泣くなぁ…)
まだ癒えていない傷に塩を塗るな、もしくは、まだ炎上中のネットを想像すると、火に油を注ぐなと言いたい。尚輝は核島のデリカシーのなさを再確認する。この性格だから尚輝に病気だと言えたのだと思い出して、ムカつき、そういえば核島との会話は久しいなと考える。
「そういう…なんだろ、事務所の対応とかは介入しないから。ただ学校の問題としては、SNSの使い方とか薬物の危険性について指導しないといけないってことで、二人を呼んだのね」
逮捕より指導って感じの案件だから、と独り言なのかわからない声量で呟く核島。牢屋行きではないことに、ひとまず安心した。この説教が終われば日常が戻ってくるらしい。
時が解決してくれる問題は気楽で良い。自分は何度も時間に救われた。何も言わずにいれば、いつか相手は諦める。無言を一生待つ人なんていないのだから。時間が、寿命が、もったいないだけ。寿命を削っても手に入らないものは、寿命を削ってでも手に入れたいものだけだ。
「親にはね…、坂本さんはバレちゃってるかもしれないけど。山之内は言わないでおいてあげようか…、…それとも、これを機に病院に行くきっかけにするか。選んでもらおうと思ってる」
尚輝は、どっちにしようかな…と一応脳内で唱えてみる。だが、答えは『言わないでもらう』に決まっていた。それは、まだ薬の残りがあるからかもしれない。薬は残り二枚以上、つまり二十錠は確実にあった。それを大切に大切にしようと決心するほうが、親へ話すよりも精神への負荷が少ない。
「まだ薬は残ってる?」
間髪入れずに首を横に振った。核島は「そっか、じゃあいいや」と言った。どっちでも良かったんだろうなと思う。彼も音羽に似たような罪を一度犯しているくらいだし、いくら叱る立場であろうと当事者なりの同情はあるはずだ。
「気持ちはわかるよ。二人のことは、一応知ってるから。でも違法なものは違法だし、結構大きい問題として最近はテレビでも取り上げられてる。目的はオーバードーズが多いんだけどね。薬の過剰摂取をするために買う人が多いらしくて、尚輝に関しては違うみたいだったからそれは良かったよ」
「うぃっす…」の意でゆっくりと頷く自分たちが、シンクロしていて面白かった。
「坂本さんは、いらないから売ってたの?」
彼女は首を傾げてから、考えているのか一時停止し、その後小さく頷いた。
(いらないわけじゃないけど、自分ではいらないと判断したから、いらないと言えばいらない。いや本当はいるものなんだけど…)
尚輝の予想は、核島の予想とも同じだったと思う。
「学校で話したいとは思わないの?」
ナイス!と尚輝は思った。興味深い質問だ。まさか彼も私情で質問したのではないだろうかと疑うが、彼女は必要だから聞かれていると信じている様子だし、核島が優位に立っている現在、逃げるのは困難だ。尚輝は口角が上がらないよう、下唇の内側を前歯で軽く噛む。
敢えて音羽を見ないようにしていたが、つい表情が気になって見てしまった。彼女は「え…」と口を半開きにして、自分の髪の毛を撫でて首を傾げていた。目が上下左右に不規則だが平等に泳いでいる。
やがて沈黙に背中を押されたのか、彼女はまるで操られているかのように首を何度も縦に動かした。頭の中で色々考え、我に返って、時間が経っていることに気づき、焦った。手に取るようにわかる同類の気持ち。
首を動かし終わったあと、唇が「別に」と言ったのを尚輝は見逃さなかった。
(話したい願望はないんだ…)
薬を持っているにも関わらず、飲まない選択をするということ。理由は「別に学校で話したいと思っていないから」と。尚輝にとって訳がわからない。その根性がわからなくて、尚輝の目には強い人であると映って、腹が立った。
(キャラ作り?)
喋りと歌声のギャップ、学校でぼっちなのに日本の若者の多くに知られている有名人というミステリアスな感じ、元引きこもりなのに学校へ通うようになった感動ヒストリー。芸能人オーラを纏っている。逆転劇。ノンフィクション映画にしやすそうなストーリー。芸能人を目指しているわけでもないのに、ただの病人とは違うと見せつけられたような気がした。
「…っあ、あの…っ!」
急に音羽が叫ぶ。本人的には大声だったはずの声は常人の話し声より小さいが、核島と自分の視線を瞬時に集める威力があった。
核島がなんでもないように問う。
「どうしましたか?」
声量や声を出した勇気を指摘しない気遣いだけは評価したい。彼女も同じように彼を評価しただろうか。なんとも思っていないだろうか。
「私、彼…、えっと、山之内…さんが、買ってるって、わかってました…。住所も、名前も…、送ってもらってたから……」
尚輝は驚愕する。そうだ、彼女にはDMで個人情報を送っている。
最悪。と思うが、何が最悪なのかはわからない。バレていた上で何度も送ってくれていた。バレているぞと教えてくれなかった。いやそれは彼女の自白にもなるからそうか。なぜ彼女の手のひらの上にいる感覚になるのだ。なぜそれを嫌がり、ムカついているのか。
最悪。悶々と脳をフル回転させて考え、理由を突き止める。そしてはたと気づいた。彼女は、“山之内尚輝は抗不安薬を必要としている精神状態だが病院に行けない状況である”と知っていたのだ。こちらは坂本音羽が、目老が、通院しているなんて知らなかった。病名は今現在も知らない。…そう、不平等だ。個人情報のバランスが合っていない、自分が嫌いな状態だから苛つくのだろう。
「それが何か?」
核島の声に驚いたのは、彼女も自分も同じだった。
「…えっ、だから、…もっと早く白状してたら、良かったかなって…」
「『私は山之内に薬を売っています』って?」
強く頷く音羽。
核島は首を傾げる。
「そうかな。バレない可能性が大きいのに、自らバラすなんて相当勇気のいることだよ。それに、もし自分の罪悪感が原動力なら、『私は薬を他人に売っています』って山之内のことは伏せてあげてもいいんじゃない?」
尚輝は、たしかにそうだな…と心の中で呟く。彼女の勇気を出したであろう発言の意図も、核島の質問攻めも、必要性がわからない。ただ、置いてけぼりにされているのが気に食わなかった。慣れっこの感覚だけれど、この二人は自分と同類であるため、会話に混ざれずにハブられる寂しさは誰よりも理解している。
尚輝は初めて音羽に顔を向けた。
「なんで言いたかったの?」
「……」
黙り込む。なんだこいつ、と今まで周りが自分に対して思っていたであろう感情が湧き出て、ヒュッと息が詰まる。自分が話せるようになったからといって、話せない人の理解を怠るつもりはない。どれだけ尚輝が成長して常人に近づこうと、仲間はコミュ障の陰キャでなければ納得できない。喋れない尚輝が本来の自分でないと、過去の自分が馬鹿みたいで可哀想だ。あの屈辱の日々をなかったことにさせるものか。
「喋るの上手だよ」「全然コミュ障じゃないと思うよ」「これは尚輝の努力だよ」…ふざけるな。全て薬のおかげだし、そんなことを言う奴らは僕の何を、いや僕のことを何も知らない。
核島は「憶測だけど」と前置きして話した。
「坂本さんは、山之内が病気を抱えていることを僕に言いたかったんじゃない?」
優しいね、と微笑む彼を見て、尚輝は苦虫を噛み潰した表情になる。優しさを感じているのは核島お前だけだ。人に病気だと言えてしまう頭の人間にしかない思考だ。音羽が頷いたのを横目で感じる。
自分がいないところで「あいつは病気だ」と言われる、思われる苛立ちを知らない。病気や障がいのせいって知ってもらえて良かったね、生きづらいって察してもらえて助かったね。頭お花畑か。
特別な人間で在りたいけれど、決して、特殊な人間で在りたいのではない。常人らしく振る舞いつつ、例えば才能などで、こっそり常人と差つけていきたいのだ。「不思議」「独特」「個性的」を、悪口ではなく褒め言葉として言われる人生になりたい。
病気は才能じゃない。障がいは個性じゃない。もうポリコレにはウンザリだ。多様性は大変良い心がけだけれど、多様性に収まりたい心と、多様性に勝手にカテゴライズされる不快感はトントンで、あくまでレッテルを貼るのは自称してからにしてほしい。当事者代表で声を挙げるほど尚輝は強い思想を抱いていないが、イッツァスーパースモールなこの教室のスケールなら、なんとかならないものだろうか。
「山之内さん、ごめんなさい」
「……なんの、謝罪…?」
「知ってて、黙って罪を重ね続けたこと。…その…、先生の前で言うのも変だけど、SNS使わずに取引する手段もあったなぁとか。同じ病気を抱えてるなら相談とか、求めてないかもしれないけど、同じ教室に仲間がいるんだって教えるだけでも嬉しいんじゃないかなとか、」
「僕、音羽さんの病気知らないけど」
ツラツラ言葉を並べる彼女を遮り、尚輝は質問した。逃したくなかった。知りたかった。今だ!と思った故に、早口で強い口調になったのはミス。
「……社交不安障害、うつ病、ASD、ADHD、…んー、あー、自傷癖、中学まで不登校で引きこもり、あと…、母子家庭、とか…?」
尚輝が同情したのはほんの数秒のことだった。知ったこっちゃない内容が半分くらい聞こえたから。
「ADHDより先は、診断されるものじゃないよね。そんなの別に聞きたくない」
「…診断されるものじゃないけど、前半のものの理由とか前半のもののせいでなったものだから…一応と思ったんだけど…。私の人生を物語のに…、私という人間が作られるのに必要な成分というか、」
すると、核島が割り込んできた。
「山之内を語るのに『社交不安障害』が外せないように…、…もしかしたら、もっと何か見つけてる?山之内は自己分析好きそうだと思ってたんだよ。自分をいつも俯瞰で見て、客観視した発言しがちだからさ。坂本さんが抱えてるものは、坂本さんを語るのに外せないんだ」
ワナワナと、指先が意図せず震える。怒りや不安が頂点に達したときの症状だ。軽いパニック発作とも言える。頭の中がぐちゃぐちゃする。叫びたい。思い切り叫んで身軽になりたい。
その欲は、彼女から割高で購入した薬によって、実行できるのである。尚輝はグァンッと大型犬のような咳払いをして、放った。
「不幸自慢って、大っ嫌いなんだよっ!!!」
沈黙。予想通りだから何も感じない。アホヅラだ、と思った。
気色悪い、キッモ、弱者はそうやって慰め合ってろよクソが。
ボヤきながら部屋を出ると、『学校の空気』で澱み、酸素が薄くなっていた。でも、さっきまでいたこの教室が心地いいなんて、絶対に思うものか。保健室登校が羨ましいと思う心も、カウンセリングを受けたい心も、馬鹿馬鹿しい。引きこもっていたからなんだ、自分を傷つけたからなんだ、母親しかいないからなんだ。
可哀想な自分が、そんなに可愛いか。
尚輝は青春に対して「死ね」と思った。勝てない、追いつけない。でもそれを公言するのはシャバい。
(僕は幸せ者。恵まれた身分)
「マジでバカじゃねぇの」
吐き出してみると、まるで卵の殻を割ったように解放された気分になった。
お気に入りの場所がある。学校と自分の家の間の駅。降りて、コンビニがあって、そこはたまご蒸しパンが必ず売っている。さらに土日夕方のシフトの店員は気怠げな外国人で、例えば尚輝が酒をレジに置いても年齢確認は一切されず、スムーズに購入できる。これは中学生の頃の話だ。そして高校生になった今、自身では顔に変化があったとは思えないが大人びたであろう、もっと堂々とレジに置けた。どちらにせよ、やっぱり余裕で買えた。
「ありがとうございます」
でも今は感謝だって言える。中学生の逃げるように購入していた自分は、もしかしたら店員も「子どもっぽいな」と思っていたかもしれない。
数メートル行ったところには、昔ながらの文房具屋がある。その先にはケーキ屋がある。その隣には書店がある。
橋の下。緑と緑で川を挟んでいる。あまり人はいない。草の上に座り、プシュッとチューハイを開けると、「おーい」と叫ぶ声が聞こえた。橋の上に人がいるのが見えたが、ここから見たら一センチほどのサイズで、誰かわからない。
「おーい、ヒヨコみたいな格好してどうしたー?」
酒を飲む罪悪感でフードを被っていた。黄色いパーカーで丸いフォルム。ヒヨコは自分のことだろうな、と看破できるのは客観視の癖か。たまご蒸しパンを開け、食べる。しっとり食感が上顎に張り付いて甘ったるい。鼻に抜ける砂糖の香りがセロトニンを呼び起こす。やっぱり、美味い。
自分から近づいてしまっているのはどうしてだろう。答えがわかるのが怖くて、薬を飲んでいるのに視線恐怖みたいに床しか見られない。
「……なんで、こんなところにいるんですか」
何故キレたみたいな声質になってしまったのか、わからない。自己分析できないと、不安が募ってイライラしてしまう。イラつかせてくるのは大抵同じ理由で、同じ人だ。
対照的な楽しげで間延びした声が返ってくる。
「お気に入りの場所なんだよねー。山之内こそ、こんなところで何してるのぉ?」
「……お気に入りの場所なんです。……酒くさっ」
核島先生。
顔を見て、やっと認める。
ここは尚輝の秘密基地のようなもので、グレてしまいたいときに酒を飲む場所だ。そこに同じように酒を……たぶん自分の十倍は飲んでいるだろう教師がいるなんて、誰が信じられる。
「酒飲んでんのぉ?大人になったねぇ。ここのコンビニがやる気のない外国人だから?賢いねー。薬もSNSで買ったりなんかして、ほんとに賢いなー、尚輝は」
「皮肉ですか」
「へぇ、そう思ったんだ?」
「そんな簡単な皮肉、いくらASDでもわかります」
さりげなく隣に並ぶ彼から、ムッと顔を逸らす。誰かに見られたらどうするんだ。と心配するのは、本来なら教師のほうだろうよ。
「僕、それは聞いてなかったけど。山之内もそうなんだ。じゃあ余計に坂本の言ったことにはムカついたよなぁ。『俺だって同じもの抱えてるけどそれを言いふらしたことなんかないし、ずっと苦しんでるのに。自分だけ生きづらいと思うなよぉ?あぁん?』的な」
(なんなんだこいつ)
尚輝は酒をグイッと煽る。
「あっ、担任の前で堂々と飲んでる。挑発的だなぁー」
「先生、酒臭い」
「飲んでる量が違うからね。自分の生徒が悪事働いて、ヤケ酒ってところ?」
核島の顔は明らかに酔っ払いのそれで、呂律も怪しくなっているし声量も大きくなってきた。姦しい。核島、姦しい。
「……すみません」
「今のは冗談だよ、時系列おかしいじゃん。たまにやるんだぁ。唐揚げと十缶の酒を飲み切るまで帰れませんゲーーーム!」
変な人だ、と思う。でも、理性が飛んで面白いことを漏らさないかなと、尚輝はワクワクとこの時間を楽しみ始めた。酔いも少しずつ回ってきて気持ちがいい。一人で飲むより、酒のツマミになる会話をしていたほうが楽しい。彼の場合は独壇場だから肴になってくれているといった表現が正しいか。いや、人間に対して肴とは失礼か。
「むしろ飲み切ったら帰れなくなりそう」
「帰れるよ。何回やってると思ってんのぉ」
「……んー……二十回くらい?」
「えー、数えてないよ。あと今のは質問じゃなくてツッコみだからね、勉強になりましたねぇ」
「ぅ……」
ウザい、という言葉を酒と共に飲み込む。
「やぁー、気分いい。どうにでもなれって思っちゃうなぁーー」
末期だな、と尚輝は思う。今は目の前で自傷らしきヤケ酒を見せられている。見てしまった、のだろうか。しかし話しかけてきたのは彼のほうだ。
「鳥になりたいなぁーー」
言えたことじゃないが、クラスに問題児が多くて悩んでいるのだろう。音羽が言った様々な負荷に、彼も何個か当てはまっているはずだ。
「どういう意味ですか?比喩ですか、ガチですか、とりあえず哺乳類を辞めたいという意味ですか?」
「……相変わらずだね」
「何が?」
「飛びたいってことだよ。翼を広げ〜〜飛んでぇ行きたぁーいーよぉ〜」
「酔ってますね。どこに飛びたい……、あっ、質問変ですか?」
「んーん、大丈夫」
「大丈夫ってことは妥協してるじゃないですか」
彼は笑って誤魔化すだけだった。この酔い方だと、半分くらい聞こえていないかもしれない。
「ここから飛ばないでくださいね」
「……ん?そこまで病んでないよ。心配させたね」
「少しは病んでるんですか」
缶を傾けて酒を少し飲み、困ったように彼は苦笑いした。尚輝も習って一口飲む。心理学ではミラーリングと呼ぶんだったっけ。
「ハートはチキンだからね。ニワトリには成れたみたいだ」
ウケる、と呟くと嬉しそうにしてくれた。自分も何か上手いことを言ってみたい。これでもお笑いファンなのだから。
「そういえば美香が尚輝のこと好きらしいじゃん」
「……どこ情報ですか?」
「おっ、自覚あるんだ」
殺してやろうかと思わなくもない。彼は同類、だとすればあの掲示板を見ただけにすぎない。そこまであのキャラクターにそっくりなのか。イッツァスモールワールドなだけなのか。
「尚輝はポリコレ好き?」
唐突な質問に、瞬発的に首を傾げる。長年の癖は抜けない。
考える。聞くということは語りたいのだ。自分の答えはどうでもいいんだろうと思う。
尚輝は、「先生は?」と問う。
「そうだなぁ。先生、多様性は好きだけどポリコレはあんまり」
質問を質問で返すなと言われなかったから、やはり予想は当たっていた。
「多様性は好きだけどポリコレはあんまりって、変なこと言ってませんか?」
「そうかなぁ?でもポリコレさんは味方してくれないんだよ。俺がヤケ酒しなきゃいけない世界しか創れない」
自分勝手。そして幼稚だ。主観主義なのは自分も変わらないけれど、大人げない。自分は大人になったらもう少しマシになろうと心に誓う。
「山之内は嫌いなものある?」
急に聞かれて、色々考えようと脳内に集中……する前に、パッと思い浮かんだ。思い浮かんでしまうと他の選択肢が浮かばなくて、それを言ってみる。
「……アドラー心理学」
彼は笑った。
「ははっ。でも心理学好きでしょ」
「アドラーさんは広場恐怖の味方をしてくれないんです」
真似っこをしてみると、真似っこを返された。
「変なこと言ってるよ」
意図せず、二人同時に缶を傾ける。まるで兄弟みたいだと、尚輝は俯瞰で見て、思った。
「深く知らないくせに、」
「知ったかぶりして会話するのは良くないよね」
自分がこの不毛な会話にオチをつけようと喋り始めると、彼は被せてこちらの脳内の台本を読み上げた。この人は本当にムカつく大人。ニヤニヤと笑えてくる。
「……」
「以心伝心だね」
「イ……シ……?」
「喋らなくても通じたよ」
彼は、「皆まで言うなってやつだよ」と言い「違うかも……?」と即座に訂正していた。これが国語教師で大丈夫なのだろうか。
ヤケ酒をやめない核島を見て、尚輝は思う。きっと大丈夫なのだろう、と。だってこの人が国語教師なのは紛れもない事実で、その世界に自分も彼の教え子として生きている。どんなに生きづらくて、息がしづらくて、行き詰まっても。
「生きてるよなぁ」
彼は遠くを見て呟いた。
「以心伝心ですね」
生きているなぁと思った。喋れる自分たちは、大事なことは喋らずに通じ合っている。あんなに喋りたくて堪らない日々を過ごし、喋れない日々に絶望していたのに、喋らなくても通じてどうするよ。
人生そんなもんだ。神も仏も信じないけれど、彼らに弄ばれるのが人間の運命かもしれぬ。それなら。
(受けて立とうじゃないか)
脇道に逸れて、神様もビックリな邪道を進むのもアリかもしれない。数年後に自分が自分みたいな人を助けてみても面白そうだ。
「かくしまっち」
そう言って顔を見ると、彼は鳩が豆鉄砲を食ったような表情をして、でもすぐに「ふははっ」と嬉しそうに笑った。
「なぁーに?山之内、何か用?」
「もう一度、八木原先生に会いたいんです」
彼は今度こそ本格的に驚いた。
「……へぇ、どういう心変わり?」
尚輝は酒を飲み干し、缶を核島へ渡した。彼は反射的に受け取ってくれた。
尚輝は背を向ける。
「学校のカウンセラーって、どうやってなるのか。聞こうかなと」
えっ、と小さく聞こえた。
「……へぇー、山之内って面白いから芸人にでもなると思ってたよ」
「あははっ。いや、一番向いてないでしょ」
殻を破ったヒヨコは、夕日に向かって歩いた。逆光で服の色が白っぽくなる。太陽がちょうど尚輝の頭の上にあって、まるで飛べない鳥みたいに見えた。
未来へ羽ばたく鳥ではあるけれど……。……なんてね。
山之内尚輝は今日も、脳内で多弁になり、現実で黙り込んでいる。
人と会話がしてみたい。どんな感じなんだろう。声を出して、声が返ってきて、意思を表明し合う。その行為は一体どれほど楽しいのか。その行為に抵抗がないのは一体どれほど生きやすいのか。考えない日はない。
緊張しない心を手に入れるためなら、払えるだけのお金を払う。十年くらいなら寿命を削ってもいいかなと思う。お金が少なくなっても命が短くなっても、人と会話ができる充実した人生を手に入れたほうが良いに決まっているのだ。
生んでも仕方ないにも関わらず、心緒の存在を主張するように言葉は常に溢れ出てきた。声として外に放たれず閉じ込められた言葉は、誰にも伝わることなく、やがて脳内で腐敗する。まるで誰にも食べてもらえなかった残飯みたいに、届かなかった言葉はゴミと化し脳をぐちゃぐちゃに汚す。
「どうして喋らないの?」「口があるのにもったいないよね」「本当に声が出ない人に失礼じゃない?」「なんで普通学級なんだろ」「口開けてみて〜。あっ、意外と大きいウケる」「試しに『あ』って言ってみてよ」言われ飽きたセリフは、脳内のゴミ箱に入ったまま。やらないのではなく無理なんだと伝えるまでは、きっとこのゴミを捨てることはできない。
尚輝は、会話の経験がないわけではない。家族や親戚とは普通に話せるし、そのとき会話は楽しい。
楽しいと知っているから余計に悔しかった。会話が楽しいって知らないんじゃないか?と周りに思われるのが癪なのだ。彼らはこちらが黙り込むと、『自分の意思で喋らない選択をした』と思いやがるから。言葉を発さないのを、キャントなのかドントなのか気にしないで、安易に可哀想という目を向けてきたし、時には聞こえてきた。
人間のできる一番のエンタメ、『会話』。何かを犠牲にしてでも話したい。きっと、みんなこそ、言葉の素晴らしさや必要性なんか考えたことがないだろう。恵まれてることを知らない。しかしそれは『可哀想』にはならず、恵まれている証拠でしかない。なんなんだよ、と思う。
この世界は言葉から逃げられない。話せないからこそ、それを知った。当然のように娯楽を手にしている者には、喉から手が出るほど話せる喉を欲しがっている人の気持ちは到底理解できない。
(馬鹿ばっかり)
身内以外もしくは家から一歩外に出ると人と話せないのはどうして?玄関に境界線があるかのように家と外で性格がすっかり変わってしまう。なぜ?
分からない。小学四年生くらいからのはずだが、突然のことだったかグラデーションだったかの記憶は曖昧。話せていた頃の感覚も、もう尚輝には思い出せなかった。
「教師歴一年目になりますので、皆さんよろしくお願いします。核島典幸です。…えーっと、血液型はB型、好きな食べ物は唐揚げ、んーと、担当科目は現代文です。そ、うーだなぁ…、…やっぱり個性を大切にしたクラスにしていけたらいいなと思います」
人と話せない。でも尚輝は自己愛を失うことはなかった。それは、多様性を認められる今の自分がいるのは人より劣っている部分を自覚しているからで、その自覚は優しさに直結すると考えられるためである。
声に出さなきゃ思ってないのと同じ。口に出さなきゃ伝わらない。意思を発さないと、自分の意見はちゃんと主張しないとダメ。人形じゃなくて人間なんだから。
分かってる。尚輝が一番分かっている。分かっていたとて、出せないものは出せない。『人形が喋らない』のは『人形は喋れないから』で、それで納得できるならば、自分も同じ理由で納得していただきたい。
体内の現象を例えるならば、喉の奥に大きな飴玉がつっかえているような感覚だ。緊張すればするほど、飴はどんどん大きくなる。顎から下、臍から上。その場所では溶けた飴がドロドロともつれあっている。黒いモヤが胸の辺りをぼんやりと渦巻き、不快感で吐きそうになる。
緊張した時の自分の胸元は、『飴玉工場』と表現できよう。
「僕も新米教師なので。支え合って、楽しい一年間にしましょうね」
学校が嫌いな人の気持ちは、先生になった人にはわからないだろうと思う。クラスはチームじゃない。人生は個人戦であり、それは学校だけが例外なわけはなく、楽しい一年間になるかは絶対に自分次第だ。
(あー、うるさい)
脳内“だけ”がお喋りすぎる。
「先生の好きな言葉は『多様性』です」
唐突に彼は言う。我に返った尚輝はギョッとした。しかし皆が驚いていないところを見ると、さほど唐突ではなかった可能性もある。彼はずっとダラダラと自己紹介を続けていて、自分が現実に集中していなかっただけかもしれない。もしくは、発言内容に引っ掛かりを覚えたのが自分だけだったのかもしれない。
多様性。反芻させてみて、そんなことわざわざいう時点でお察しだなと思う。でもそれは確かに、自分みたいな人を救おうとした人が作ったか、流行らせた言葉であるのは間違いない。加えて、自分みたいな人が縋りつきたい言葉だ。人と話せないけれど、こんな自分も地球に生まれ落ちた尊い人間であるから。許されたい。責めないでほしい。人と違うのは悪いことじゃないと理解、否、評価されたい。
多様性。人とズレた部分を持つ者に対して、尚輝は『認める』という感覚を持つようになった。理由は自分がズレているからだ。皮肉だなと思うが紛れもない事実で、他者の個性を認めようと心がけるのは、自身が抱えるものを認めてほしい、個性として扱われたい、己の欲望の産物だ。
『特別扱いしてほしくないけれど特別な存在であると思われたい』と思う人間が乱用する単語。嫌いなわけではない。ただ豪語するなと思っているだけだ。例えば好きな言葉にするとか。
尚輝は、「好きな言葉は多様性」だなんて善人ぶる先生よりは確実に多様性を理解し、遥かに大切にできるだろうなと自負した。「困ったことがあれば、なんでも聞いてください」聞けたら困らない。「相談事があれば、声をかけてください」声がかけられないから悩んでいるのだ。
みんなにデクノボウと呼ばれたいのかとツッコみたくなる担任の提言に、尚輝は心底ウンザリしていた。
人にしてもらいたいことはしてあげる。人にされたくないことはしない。そんな考え方で生きるようになったのは話せなくなってからだったなと、「一人ずつ前に出て自己紹介しましょう」と言い「自己紹介とか苦手なんですけどね」と前置きしてから話し始めた担任を見つめる。絶対に自分とは真逆の人間だろう。
教室内では、皆『会話』というものを当たり前にしていた。入学日では、さすがに友だちがいない人も自分以外に数名おり、席に座ってスマホを眺めていた。地元の中学の人が行きがちな学校ではなく何かしらの事情で遠くの高校を選んだのだろう。もしくは高校デビューでクールを気取っている。廊下で会話しているのは、唯一の友だちとクラスが離れた人か。
(なんか、学校だな)
まずまず騒がしい室内だが、先程までの自分の脳内と比べれば幾分マシだ。会話が出来ない自分を恨んでいたはずが、視野が広い自分が好きだという結論で我に返るくらい、たくさんの文字が脳で暴れていたのだから。
どれもこれも全て、入学式後のホームルームで核島と名乗るヤツから放たれたセリフのせいである。聞きたくなかった提案に、尚輝の心臓はズキンッと跳ねた。跳ねた衝撃でじわじわと痛むと、今度は酷く失望した。やっぱりダメか、と。やっぱり所詮は学校か、と。それはそれは、尚輝が地の底まで落ち込むのに最も的確と言っても過言ではない事案だった。
「自己紹介をしましょう」
ちょっぴり期待していた。新しい学校で自分のキャラを変えられるかな、なんて。そのためにわざわざ遠くの高校を選んだ。でも。
(この学校…、先生じゃダメだ)
あくまで他人への期待なのは、自分が変われないと分かっているからだ。変わりたいと思うだけで変われるのなら、とっくに変わっている。
喋れない人への配慮のある先生が担任だった、みたいな。そういう展開を求めていたが、彼は少数派に寄り添わない人間のようだ。何が「好きな言葉は多様性です」なんだろうか。全く反吐が出る。豪語するだけならまだしも。
(アホだ、あいつ)
単純に自己紹介をやりたくないだけで、彼は悪人ではない。けれども、このクラスでなければ自己紹介をやらなくて済んだ可能性が一パーセントでもある限り、尚輝を残念に思わせ核島の好感度を下げさせた。
核島の第一印象は最悪だった。まるで窓の外を見ながら「今日の天気は晴れですね」と独りごちるみたいに発せられたセリフに、尚輝の心は大荒れ模様である。
(今日は晴れてたっけ?)
そんなことを思い、外を見ようと顔を窓側へ向ける。すると、視線を感じたのか真横の人がスマホから顔をサッと上げた。黒目は動いていないが、横目で見られているのが感じられる。
尚輝は、相手がこちらに首を向ける前に別に貴方を見たつもりはありませんとアピールするため教室中を見渡し、最後に自分の机に目線を落とした。
心臓がトクトクと動く。
そして、ハッと気づく。横から視線を感じる。当の本人はこちらの動きをボケーっと眺めているのだと察する。こっちがその視線に気づいていることも知らなければ、気づかれることを恐れてもいないのだ。
(腹立たしい…っ)
自分が見られた時はあんなに警戒心を剥き出したくせに、他人には堂々とやるらしい。自分がされたくないことを人にする。図太く、いやらしい神経が、理解できない。
何見てんだ?というニュアンスで睨んだら、彼はどう誤魔化すのだろうか。試したかったが、今後の学校生活で気まずくなるかもしれないと考えると己の勇気・根性では行動できない。ただでさえ面倒な奴だと嫌われるのは確定なのに、嫌な性格の奴だと思われたら終わりだ。穏やかに過ごしたい。小ニと小四のときに学んだが、イジメはツラい。ツラいのは嫌だ。
さっき教室中を見渡している時に、廊下の窓から青空が見えた。わざわざ室内の窓を見て確認する必要はなかったらしい。無駄な労力を使ってしまった。頑張ったのに。嫌だ。
尚輝は既にグッタリと疲れた体を机に伏せて脱力させる。心拍数は未だ必要以上に速く、こうやって人は寿命が縮まるのかなと思うと、やれやれ、絶望してしまう。どうせ話せないなら長生きしたいのに、寿命すら手に入らないらしい。
「廊下で喋ってる人たちも戻ってくださいね。僕が自己紹介してるだけだったから呼ばなかったけど、ホームルームとっくに始まってますよ」
核島の声掛けで、廊下の女子たちの会話が駆け足になり、止まる。泣いている演技で「じゃあまたあとでね」「アカリが終わったら連絡して」と言い合っているのが聞こえた。戻ってきた一人の女子は最寄りの席、廊下側の一番前に着席した。
(アカリ。一人名前を覚えた)
核島が目立たせたことにより、クラスの半分くらいが彼女の一挙一動を傍観していた。だから尚輝がアカリを見ているのは何の違和感もない。同様、罪悪感もなかった。加えて彼女は自身が目立つことに対して、特に関心が無さそうだった。自分がされたくないことはしないにしても、あまりにも彼女にとってはされたくないことに当てはまらない。それならば堂々とやってしまえた。
自分とは真逆の人。ああいう人が先生になるから学校が変わらないのだろうか。いや偏見は良くない。ごめんなさい。でも実際そうなんだと思う。だってそうだろ?
尚輝の脳内は、緊張と焦りで普段より忙しく回転する。『帰りたい』の文字が頭を重くした。
明か灯か、さぞかし性格に合った漢字を使った名前なのだろうなと考えていると、核島が「さて!」と合掌し教卓に両手をついた。先生っぽい動きだ。これをやりたくて教師になったのかなと考えたら実直で、ついニヤけてしまい、さりげなく制服の袖で口元を隠す。まだ袖丈にゆとりがあり、新品の匂いがした。
「さっきも言いましたが、僕は核島と言います。好きな食べ物の話とかは…もういっか。えー、かっしーとか、かくしまっちとか、そう呼ばれることが多いですね。今はあだ名禁止とか言う学校もありますけど…、もしかしたらこの学校もそろそろそうなるかもしれないですけど。一応、先生は大丈夫です。本人がいいって言ってれば、ね、わかんないですけど。…あっ、でも核島先生でいいですよ全然。別に敢えて変な言い方とか、そんなのしなくていいですからね?」
彼がおちゃらけて言うと、「かっしーのが言いやすいよね」「かくしまっちは幼稚じゃね?」と自然に二択にされていた。本人が核島先生でいいって言っているのだから核島先生でいいだろうに、と尚輝は唇を突き出す。退屈だった。
「時間も限られてるから、さっそく自己紹介しましょうか。一人につき、今の僕くらいの時間でいいので」
核島は自分の腕時計を見て、教室の掛け時計を見た。
(アップルウォッチ)
(授業中にメールできるのか?)
今どのくらい彼が話したか、知らない。尚輝は「今の僕くらい」というセリフに、「臨機応変」とか「適当に」などの無責任で他人任せな言葉と同じ匂いを感じた。もっと具体的に言えよと、何秒だとしても話せないくせにイラついた。
抽象的な表現は嫌いだ。口外の意味を感じ取る能力を試されているみたいだし、だいたいこうだろうという世間の固定概念を認知しているか確認されている感じがしてムカつく。
(さすがにバレた時がマズいからメールはしないか)
そもそも見るのは腕時計か教室の時計かどちらか一つで良いだろう。どちらかを信用していないのか、腕時計のほうは癖だったか。
「えー、マジかよお!!」
一人の男子生徒が叫ぶ。尚輝は鼻で笑う。「出たよ」と内心で大きく声に出した。不満の声を上げられる時点で、おそらく彼は自己紹介にそこまで抵抗はない。心の底から嫌がっている人の声は届かない、典型的な例が見られた。
数人から自己紹介を嫌がる声が核島に投げられると、彼は「まあまあみんな」と全体に目配せし、何事もなかったかのように自己紹介をする順番を言う。そうすれば「まあまあみんな」に含まれていた人も含まれていなかった人も、黙って受け入れた。
「はい、じゃあさっそくどうぞ」
朱莉から順に教卓の後ろに立って話していく。尚輝の席は真ん中の列の一番後ろだ。
良かった、と尚輝は思った。最後だと記憶に残りやすいし、最初だと皆を澱んだ空気の中でやらせてしまうことになる。真ん中くらいが誰にとってもちょうどいいはずである。
名前順だったら最後の確率も高かったが、この学校のルールなのか、すぐに席替えをする予定なのか、特に規則性のない並びになっている。進路をここにして良かった理由がやっと一つ見つかったかもしれない。ハナから進学しなければ自己紹介をしなくて済んだだろうなんてツッコミには耳を貸さないし、どんな順番だろうと良くはないだろうという声も知らない。じゃあ中卒でも就職しやすい世の中を創っておいてくれという話であり、高校に行く以外の選択肢を大量に用意してくれないからこんなことで「良かった」と思わなきゃいけない人生になったと反論させてもらう。
「俺、人見知りなんで緊張します」
「手ぇ震えちゃってます」
「ホントに話すの苦手なんですけど頑張ります」
各々の前置きは、尚輝には演技にしか見えなかった。だけど、発言している本人がそれを事実だと思って言っているから、ちゃんと事実らしく聞こえた。
たとえどんなに言葉がまとまっていなくても、人前で声が出せるだけで大したもの。みんなそれを分かってない。話したくないのなら自己紹介のハードルを下げるためだけの言葉なんかわざわざ吐かなければいい。その文字数分、話す量を減らせるじゃないか。
尚輝は同級生に「嘘つけ」と内心で悪態をつくが、正直なところ賢いなと感心もしていた。最初に発言力のハードルを下げておく手法は、良いアイデアだと思う。自分も喋れたら言うのだろう。
(話すの苦手ですが頑張ります)
もしかすると、一度でいいから言ってみたいセリフナンバーワンかもしれない。
頑張れない尚輝は、謙遜するセリフすら吐けない。今、教壇上で話している彼が『頑張っている』のか、知る術はない。
緊張しないで話せる人が羨ましい。ただ、ひたすらに。
声を分けてくれないだろうか。売ってくれたら高値で買うから。
(…なんてね)
現実味のないことを考えて、現実逃避をする。早く終わってほしいけど、自分の番は一生回って来て欲しくない。迫り来る順番を気の抜けた表情で眺めた。あと八人だ。八は五タス三だから分かりやすい。四の二倍でもある。好き。
「コミュショーで全然自分から話せないと思うんですけど、よかったら仲良くしてください」
一人の男子生徒が言う。ハキハキと聞き取りやすくて、大嘘つきなのは明らかだが、誰もツッコまない。理由は単純で、「コミュショー」や「人前が苦手」などのセリフが、何かを話す時の前置きとして浸透しているからだ。テクニックを使える奴、として認識されて、何故か「話すのが苦手です」と言うことによって、話すのが得意なんだなと見受けられる不可思議な状況が出来上がっている。
だるいな、と尚輝は頬杖をつく。尚輝が余裕を取り繕う素振りを校内で行えるのも、残り僅かな時間だ。今後はビクビクしている子を演じなければならない。意識するまでもなく本能的に演じてしまうだろう。喋りかけたら怯えるような子が態度だけ横柄だったら嫌われてしまう。人は自分の思い描いたイメージと実際の差が大きいほど、その人を嫌うようにできている。
尚輝は一旦頬杖を解き、反対の腕に変えて再び肘を置く。まだ余裕があると判断した脳は、言葉を探すべくグルグルと回転していた。
コミュショーのショーって、漢字は何だっけ?元来、普通に使っていい言葉だっけ?『症』か『障』だと思うのだけれど、後者なら良くないのではないのか。
答えは、インキャのインが「隠」なのか「陰」なのか問題と同じく、よく分からない。こんなのはただの言葉遊びに過ぎないが、言葉遊びが好きなのが日本語の尊いところで、日本のうざいところなのだ。
(日本語、喋りたい)
思い当たるものといえば、小学生の頃に「シンショー」と発言して怒られている子を見た。その類なのではないかと思っていたが、「コミュショー」は怒られる様子がないから、やっぱり違うのかもしれない。これだけ普通に使われ、核島も怒らない。
(学校は神様はいないってのを証明してくれるよなぁ)
誰かが変な発言をして、学級崩壊しないだろうか。悪人が侵入してきたり、サプライズの避難訓練でもいい。こんなことをしている場合ではないような事件が起こって、危機に侵されても、自分だけは救われたと万歳をするだろう。だって、これから変な発言すらできずに『教室の空気崩壊事件』を起こすのは紛れもなく自分であるから。
「浅野美香です。私はまだ友だちが一人もいないので、ぜひ声かけてください」
腐敗する声が止んだタイミングで浅野の声が発せられたため、自己紹介の声が唐突に耳に入る。現実世界に引き戻された尚輝は、自分が思っているより現実が静かなことに、毎度のことながら驚いた。我に返ると騒がしい世界が待っている映画などで観る演出はファンタジーだと理解していない脳が混乱を示してくる。
彼女は「友だちが一人もいない」と言った。一緒だ。「まだ」と付けたところは、今後友だちができる自信があると取れる。そこは自分とは違った。でも現時点では共通点がある人だと尚輝は認知する。
「えっと……趣味は読書です」
「僕も最近やっと本が好きになって。浅野さんはどういうの読むの?」
核島の質問タイムもあるらしく、彼は社会人の表情の作り方を覚えたばかりの大学生の顔をして質問をしていた。そもそも作り笑顔が似合ってない。というか、下手だ。先生という立場でなければ、新宿駅で女の子に絡むも無視されたらすぐ諦めるナンパ師と変わらない。
高校生が、大学生だの社会人だの、何を言っているんだという話であるが、自分は己の運命(さだめ)のせいで早めに達観してしまったから、観察眼は人並よりは上な自負がある。彼の無知な感じもピュアな新社会人と思えば「これから多様性を学んでくれるのならまあ…」と期待と受容の心を持てる。切り捨てて嫌悪するつもりはないのだ。
あの、ごげ茶色のふんわりマッシュな髪は、優しい人間であると主張していた。目はある程度大きめでタレ目。口は一時期大ブームになったアヒル口。さっきから何かに似てるなと思っていたが、なめこを栽培するアプリゲームのあいつらだ。なめこを擬人化したら多分この人で、自分はそこに出てくる謎キャラのマサルといったところかもしれない。心は枯れなめこだが…。
「色々?」
浅野さんという人が、小首を傾げて答えていた。尚輝は、えっ?と思う。自分が核島の顔を菌類に例えている間、彼女はずっとどういう本を読むか考えていた。そして答えは「色々」と、なんとも大雑把なのである。
「へえー、色んなジャンルを読むのいいですね。じゃあ拍手!」
沈黙の痛みを感じない様子の彼女に、尚輝は呆気に取られ、拍手などする気にならなかった。机の上で両手の指先を合わせ、格好だけ周りと揃える。そもそも一人ずつ自己紹介終わりに拍手をしていたことを今知った。頭の中に集中しがちなくせに、つい集中ゾーンに入り、周りの音が聞こえなくなってしまう。困りものだ。現実から置いていかれていくのが、まるで意図的な行為に感じそう。
なぜ見られるのが恥ずかしくないのかを考えようとして、答えは顔を見て即座にわかった。浅野という女性は、顔がとても整っていた。自分は恋愛が出来る気がしないのでするつもりもないが、恋愛で一喜一憂したいお年頃の皆はこの子を狙いたいだろうと思う。いくらルッキズムの時代であろうと、美貌レベルがスカウターで言うところの桁違いだった。
(ああ、なるほどね。顔面で間(ま)が持つのか)
鼻で笑いたい気分になった。自分がイケメンだったら『無口』は『クール』と前向きに映るのかなと考えたことが何度も何度もあるからだ。
早く帰りたい。迫っているタイムリミットに手が震え始め、慌てて机の下に隠す。
あぁ、消えたい。それは決して死にたいわけではないし、生きたくないわけじゃない。切実に透明人間になりたい。
「次は山之内尚輝」
スンッ――。
音が無くなる。あんなに騒がしかった頭の中に、刹那、名前を呼ばれただけで静寂が生まれた。
ショックで思考が停止している。トキガトマッタ。トキガ。トトトトトトト……。
核島がこちらを見ていた。今日初めて人と目が合ったな、と思った。思う余裕があるのがおかしいと思った、その余裕もあった。
静かなのも束の間、カクカクロボットが教壇に向かうまでの短い距離で、猛スピードで溢れ出す記憶。これは走馬灯に近いのかもしれない。
中学までの同級生が一人も行かない高校に入学したのも、只今この瞬間から意味がなくなる。これから晒す中学までと何も変わらない自分の印象を、三年間維持して生きていくんだ。人生を三年捨てる。もったいない。もう既に何年も捨ててきたけれど、どんなに無駄にしてきていても、もったいないなと毎回思う。
絶望。お金を払って時間を捨てる。時間は有限なのに、お金を払って寿命を削っている。こんな行為に一体何の意味があるのだろうか。
「緊張してますか?」
あー、はい。貴方の問いに答える余裕がないくらいに緊張しています。それは質問ですか?分かることを聞かないでください。
みんながこちらを見ている。…のだろう。確認はできないけど、刺すような視線が痛くて、頭がクラクラして、視界がぼやけてきて、心臓がドクドクと跳ねる。足は左右交互に動いているらしいが、歩いている感覚はない。
(怖い、怖い、怖い、…)
いつの間にか辿り着いた教壇の上。視界には、目を覆う水の膜のせいで歪んだ教卓。
油性ペンだろうか、丸いシミが二つ付いていた。人の目みたいだ。少し顔を上げれば、これが三十個以上ある。そう思うと、また体が恐怖で震えた。この振動で雫を落としてはいけない。絶対に。
「……」
(シーーーン)
尚輝は心の中で呟いた。
何を言うんだったか。名前と性格と趣味…だったはず。
自分の性格を言うなら、当たり障りのないことなら「無口」だ。しかしそれは、「l can’t speak English」に似ている。無口は「自分は無口」と言える口があってはならない。「英語が話せない」と英語で言えてはいけない。
だから性格については現在進行形で自己紹介中なんだけどな…なんて屁理屈を考えるも、薄ら寒いだけであった。
趣味。趣味なんてない。あったって、どうせ言えない。一つ挙げるなら、自分みたいな境遇の人の掲示板まとめを眺めるのは好きだ。今日も「ぼっちだけど質問ある?」のスレッドを電車で読んで、仲間がいると安心してから門を潜ったこと。
ネットサーフィン。趣味はサーフィンって言ったら面白いだろうか。つまらない自己紹介が続く中で「趣味はサーフィンです。あっ、ネットサーフィンなんすけどね」と言ったら、爆笑が取れてクラスの人気者になれるのだろうか。
――まあ、考えるだけ無駄だ。
(シーーーン)
尚輝は再び呟く。
本当はシーンなんて音は聞こえない。皆、今お腹が鳴ったら恥ずかしいな、とか考えているんじゃなかろうか。図書館や試験中の気まずさではなく、あいつがやらかすのを見届ける時間だから自分に注目を集めてしまうのはお門違いだと、視線を奪ってしまわないように気を使われているとすら思う。伝わってくる。
「……」
尚輝は核島の「もういいよ」待ちで、下を見たまま直立不動だ。
静寂が耳障り。うるさいカラスや低空飛行の飛行機が近くを通らないかなぁと考えたりする。人間は頼りにならないから、鳥や機械に閑散の誤魔化しを願い、委ねる。
(長いなぁ…)
早く止めてほしい。さすがに遅い。尚輝は「どうしたの?」と逆に核島に対して首を傾げたくなった。これだけ生徒が固まっており、教室も重い空気に包まれている。提案した彼自身も気まずいはずで、不思議だった。この状況は自業自得だが、先生は先生でなんなんだよと思う。
「……ぁ……、……」
あまりにも暇だと、ちょっと挑戦してみようかという気が湧き上がってしまうではないか。だがやってみたって声なんか出るはずもない。
こんなに喉が締め付けられているんだから。尚輝は胸の圧迫感に押しつぶされて、心臓がはち切れそうだった。いっそドカンと爆発したい。
「……」
『多様性の時代』なんて言われているが、学校はその時代についていけていないなと、つくづく思う。学校なんて、別名『個性潰し同調圧力施設」である。対義語だ。多様性↔︎学校だ。
しかし自分は高校生の身分。学校のシステムが変わったらなぁと、週に二、三回考えてみるだけ。何も行動しない。生徒や先生が何もしなければ学校は変わらないのに。己は何もやらない。もちろん国は何もしない。国のトップに立つ人は、きっと優等生だから。学級委員みたいな人だから。学校を楽しめるから。さっきの…、…アカリさんとか。
「…っ…、ぇ……と……」
じんわりと頭が痛くなった。スポットライトが当たっているのは分かるが、現実逃避のために関係ない文字が暴走している。文字が重たい。いたい。くるしい。つらい。くやしい。助けて。
核島先生――。
「山之内さん…?」
やっと、核島が言う。
教室内が微小ながらザワザワとし始める。まだみんなが仲良くなる前で良かったと思う。友だち同士が少ない分、ザワザワ音が小さめだった。
「……」
尚輝はチラッと核島の顔を見て、また教卓に視線を戻す。ボヤけて表情がわからなかった。あの人、一体これから何を言うのか。確かめたいけど知りたくない。もう帰りたい。消えたい。
学校は最悪だ。小学生の頃から思っている。しかし、尚輝に学校へ行かない選択肢はなかった。両親を不登校児の親にしたくない、それだけが尚輝の学校に通う意味だ。両親のことは好きだし、困らせたくない。心配させたくない。加えて、自分自身も心配されたくない。
恵まれた身分。その通り。家も食事も毎月のお小遣いも、当たり前にある。人に心配されるような子ではないと自覚しているから、心配なんてかけられてもどんな顔をすればいいのか困る。
浅ましい姿を晒すのが最善の人生ではないなんて、さすがに分かっている。そこまで自傷的に人生を諦めてはいない。それでも桜が咲いたら花見をして、クリスマスにケーキを食べる家庭に生まれている分際で、学校に行かないなんてこの上ない贅沢を手にする度胸はなかった。さらにそれを不憫だと考える者に憐れみの心を向けてもらおうだなんて烏滸がましい。
「山之内尚輝って名前なんだよね。もう席に戻っていいよ」
「…?……ぇ……」
考え事をしていたせいで、尚輝は核島のセリフを聞き逃す。また腐敗の言葉に過集中してしまった。グルグルと言葉が頭の中を巡っていて、その言葉は今考えるべきことではなくて、やっぱり吐き出す声はない。
……あぁ、爆発しそうだ。
尚輝は、何を言ったのか探るために先生の顔を見た。時間をかけてピントが合う。困った顔なら最悪だと思ったが、彼は真顔だった。
「戻っていいよ」
核島の目と人差し指は、尚輝の席に向けられていた。
「あ……」
小さく頷き、床を見ながら感覚で席を目指す。椅子に戻るときの皆からの視線は痛くなかった。不思議ちゃんを見る目は痛くないと気づいたのも、たしか話せなくなった頃だ。興味はあるが、ぜひ関わりたいという意の興味ではないから、目力に強さがない。自分には関係ないからどんな人間でもいいや、と期待がこもっていないのが伝わってくる。
刺激がないのならば、見られていてもいなくても、こっちこそどうでもいい。尚輝だって彼らと友だちになれないことなんて知っている。それに、誰かと友だちになりたいなんて欲望は、入学前に捨ててきた。好んで一人でいると思われたほうが、『可哀想』から遠くなる。憐れむな。
(僕は恵まれてるんだぞ)
ゆっくりと席に座ると、核島は柔らかい声で言った。
「緊張しますよね。先生も自己紹介苦手でした」
それは一ミクロもこちらへの励ましにならない。彼が“フォローしてあげる先生”として株を上げただけ。自分はいい人アピールに利用されただけ。
こいつ、マジで――。
イラついたけれど、その憤りは瞬時に悲嘆へ変わった。尚輝は何もかもが悲しくなって、ゆるゆると俯く。顎と首がくっつきそうでくっつかない。鼻がつんとして、顔がボッと熱くなるのを感じる。人前で醜態を晒すのは慣れたものだから、この有様自体は恥ずかしくなんかない。今さらこんな自分を恨んだりもしない。
(違う)
涙をグッと堪え、尚輝は唇を噛み締めた。ここで泣いたら周りは「話せなかった自分を責めて泣いている」と思うだろう。そう思われるのは耐えられない。思われたら、それが真実になる。真実を知っている唯一の人間には、否定する声がない。
(違う。僕が泣きたくなるのは、どうして話せないのか、わからないからなんだ)
母はよく言っていた。
「青春がもったいないわ」
もっと発信すればいいのに、と。言われる度、尚輝は「できたらやってるわ!」と思った。でも言わないのは「なんでできないの?」と理由を問われるのが怖いから。具体的に説明できるならまだしも、「わからない」と言うのは、とても心配させそうで。自分のことが自分で分からないと言う勇気はない。本当の理由を言いたくないから、はぐらかしていると思われる可能性もあり、それが一番面倒だ。親に隠し事をする子だと結論づけられたら、まず部屋の中の捜索から始まって、別に見られたくないものもないが、怪しいものがなければないで、最終的に辿り着くのは自分の目の届かない学校。担任に「うちの子、学校で大丈夫ですか?」なんて聞かれたら、自己紹介の失敗をバラされる。それは終わりだ。
「もったいない」なんて、自己肯定感の高い尚輝が一番感じている。自分の意思を、発想を、どこにも発表できなくて、もったいない。ネットサーフィンネタを思いついたのに披露できなくてもったいなかった。
「おとなしい性格なのは知ってるよ?お母さんも恥ずかしがり屋さんだったから遺伝かしらね。でも尚輝はお笑いファンじゃん」
「自分語り聞いてたら気を抜いてる隙に僕がお笑いファンって話になってる」
「ふふっ。喋ったら面白いのになぁって。もうちょっと頑張ってみたら?」
「僕を面白いと思ってるんだ?」
「よくツッコんでくるじゃない」
「お母さんがボケるからだよ。……やっぱ喋らなきゃ面白くない?」
「そりゃそうでしょ。喋らなきゃ面白いかどうかわからないじゃない。何言ってるの?あと、お母さんはボケてないけど?」
「天然かよ。それは遺伝してなくて良かった」
本当はセンスがあるのに。
喋ったら面白いのに。
お笑いファンなんでしょ。
芸人さんに憧れてるんでしょ。
(雛壇で無言の芸人はいない)
(ピンマイクをして無言の芸人はいない)
どんなに面白い人だったとしても、表現して初めて『面白い人』になるわけで、無言のままでは凡人以下。親だけが「持て余してる」と言ってくれる凡人以下の面白くない芸人。それはもはや芸人ではない。自分は芸人になれない。
喋れない。たったそれだけなのに、たったそれだけで、自分が何もできない人間に思える。みんなもそういう扱いをしてくる。人間に生まれたのに、行動しなければ、伝えなければ、能力や発想、思考や感情がないのと同義だなんて。夢を見ることも許されない。
……そんなのあんまりだ。
(もったいない)
命がもったいない。
スマホを持ち始めた頃、思ったことがある。自分が人前で喋れない天命を引き受けていて良かった、と。SNSを眺めていると、若者が病んでいるらしい呟きが嫌でも目に入る。もし神様が割り振りを間違えて自己否定的な人間にこの性格を与えていたのなら、そいつは心を閉ざしていた可能性が著しく高い。
尚輝とて、こんな十代は過ごしたくなかった。会話ができなくてウンザリする現状に対して、当然だろう自己嫌悪に陥ることもある。だが、自分だからこんな生活に耐えられているんだという自負は、自分のナルシシズムを作り上げる一番の原料になっている。
この経験なしで大人になってしまったらどうなっていただろうか。例えば学校に行かなかったなら、社会に出て急激な重みに耐えられなくなる可能性がある。強いメンタルを持たないまま大人になるのも怖い。トレーニングで崩壊ギリギリまで鍛えられ続けるメンタルは、現在の自信喪失に繋がり、将来の唯我独尊に繋がるのだ。
弱さを知っているから強くなる的な言葉は有名な曲の歌詞にありがちな気がするけれど、何の曲かと聞かれたら尚輝は一曲も答えられない。刺さらなかったのだと思う。
自分が喋れないのが元凶であるが、わざと喋らなかったのではないため、申し訳ないとは思わなかった。喋らない子も騒がしい子も、同じく問題児扱いされる世界。喋れる人が声を上げてくれたら喋れない人が救われるのに。でも自分は騒がしい人を救えないから、まぁそりゃそうだ。
尚輝は想像した。核島は職員会議で言うのだろう、「クラスに喋らない子がいるんです」。
ただの被害妄想ではあるが、近い未来にしか見えなかった。「クソが」と思った。喋らないのではない。喋れないんだ。何も知らないくせに――。
話せなくても、最初の一週間は優しい同級生が声をかけてきた。裏で核島に指示されたのか?と疑ったが、話しかけ方に演技っぽさはなかったため、単に気の毒に思ってくれたのだろう。ありがたいが、こちらは自分のされたくないことをしない、つまり相手の自己紹介を聞いていないし顔を見ないようにしていた。そのため「あなた誰?」と心の中で呟きながら、相手の発言に対して『頷くか・首を横に振るか・首を傾げるか』三択で答えていた。こちらが本当に喋れないのを知らない相手は「はい」でも「いいえ」でもない質問ばかりしてきて、ずっと首を傾げていたら、やがて話しかけてこなくなった。
中学までと、何も変わらない。
世の中には、○と×以外の答えが多すぎる。人は質問をされたとき、大半が白黒はっきり答えていないのを尚輝は知っている。グレーに濁していても、その作り方は白と黒を混ぜるだけではない。グレーにもたくさんの種類がある。彼らの答えには、ちゃんと色がついていた。
言葉はカラフルなのだ。絵の具で様々な色を混ぜていくように、複数のカラーの単語を組み合わせて相手に伝える。いっぱい混ぜるから、ほとんどグレーになる。互いのグレーをぶつけ合う、それが会話。人の発言はカラフルで、色を多用しているほど面白い。
尚輝には、白と黒の絵の具しか持たされていない。同じ分量を出すことしか許されていない。白・黒・均等なグレー、それだけでの会話はとても難しい。圧倒的に首傾げ(グレー)を多用するのだが、「聞こえなかった」「わからなかった」「どちらでもない」に違う色味を付けられないから、察してもらうしかない。そして大抵は察してもらえない。最悪の場合は、「首を傾げた」で終わり、濁したとすら伝わらない。
全てに違うジェスチャーがあったらいいのに、と昔から思っている。それだけで助かっただろう場面は幾度もあった。人と話さないくせに、誤解を与えた回数は人並みより多かった。
高校からは給食がなく、昼食には母の作った弁当を持たされていた。しかし、一人で食べているところを見られるのは、どうしても恥ずかしかった。他人にどう思われてもいいと言い聞かせても耐えられなかったのは、「可哀想」の象徴だと自身で感じていたからである。ぼっち飯という言葉が存在するくらいなのだ。その言葉は、尚輝の人生ゲームにいらない手札であった。
元々、食事をする姿を見られるのも苦手だ。声は出せないのに咀嚼はするのかと。口が機能してないわけじゃないんだなと。誰にも言われてないのに、そう思われることが怖かった。人のいる空間で飯を食うのは、何も満たされない、むしろ神経を削る行為で、最悪のミッションだった。
ぼっち定番の便所飯に挑戦しようとしたこともある。しかし尚輝はそこで、母の遺伝の天然を炸裂させてしまった。トイレの天井に設置された火災警報器を、防犯カメラだと思った。個室でこっそり弁当を食べているのを職員室の先生たちに見られてしまう、そう思った。それは果たして防犯なのか、変態行動だと冷静になって考えればわかるのだが、尚輝は逃げ場を失った犯罪者のように彷徨い、降参の白旗を掲げた。母には「購買で買う」と嘘をつき、食事から釈放された。
その結果、昼食の時間は尚輝にとって長い長い休み時間となった。読書は好きではなかったが、滅多に人が来ないという理由で図書室を暇つぶし場所に選んだ。用を足さないのにトイレにいるのは気が引けるが、読書をしないのに図書室にいるのはなんとも思わない。この差はなんだ。
本を読まないと何もすることがないので、尚輝は図書室の中を耳の下のリンパマッサージをしながら歩いていた。ウォーキングと言えば聞こえがいい。みんなが食べて太っていく中、自分は歩いて痩せていくのだ。更にリンパを流したおかげで小顔になるのだ。
「ん?」
たぶんこの日、尚輝は高校に入学して初めて声を出した。周りを見渡す。スズメの鳴き声だけが聞こえた。スズメのほうが声が大きかった。
(誰にも聞かれなかった)
声が出たのは、床に何か落ちていたから。別にゴミが落ちているだけで声が出ることもないのだが、それがキラリと光ったものだから、思いがけず声が飛び出した。キラキラしたものには幾つになっても感情が動く。
下を向いていることが多いから、こういうのをすぐ見つけるなぁと苦笑いした。四葉のクローバーを見つけるのも特技と言えるほどだ。最近探していないから、たまには探してみるか。
(なんじゃこりゃ)
蛍光灯に反射するそれは、青いPTP包装の錠剤であった。二錠。受付の下に、ポツンと、まるで置いてあるみたいに落ちている。
(…薬?)
こんなところに、何故こんなものがあるのだろう。尚輝は頭を掻いた。平凡な日々に、微小ではあるがいつもと違う展開が舞い込む。自分がこの学校のモブキャラではなくなった気がして、息が上がる。興奮していた。
トットット。胸が弾む音。
パチパチパチ。瞬きが速くなる。
自分次第で新しい物語が始まりそうな予感に、すぐに手を伸ばしたくなった。
だが、躊躇う。
これを見なかったことにしようかな、と考える。ワクワクする光が差し込んでいるのは確かだが、果たしてそれがハッピーなストーリーとは限らない。スタートしたとしても、途中で変化を恐れて終わらせようと素行するんじゃないか?と自分を信用できない。
今自分が人生を楽しめないのは声が出る人ばかりが集まる施設に滞在させられているからで、尚輝は期待も、厳密には選択もしていない。しかし、新たな物語をスタートさせる選択を自ら取り、つまらない展開を作ってしまえば、“自分自身の選択で人生を楽しめなかった”という悔恨に押しつぶされ、立ち直れなくなる。
(考えよう)
他の誰かが拾ったら、その人はこれをどうするのか。検討もつかない。でも、他人の思考は分からずとも、確実にわかることがある。自分の思考だ。
自分なら、自分がされたくないことはしないであげられる。それは絶対なのだ。
そういう思想がない、例えば、もし核島が拾ったら?「これ落とし物、違いますかー?」なんて教室で言ったら?もし生徒の中に薬に詳しい人がいたら?「それ違法のじゃね?」と大事件になったりするかもしれない。または、「それを飲むってことは〇〇病だよ。えっ、誰?」と誰かのプライバシーに土足で踏み入ったりするかもしれない。
吐きそう、と尚輝は思った。ヘルプマークを知らない人と同じくらいに気色悪い。
薬。持ち主には大事なものだろう。誰かにとっては毒で、誰かにとっては必需品。先程までゴミが落ちていると思っていた自分を恥じ、尚輝は薬を丁寧に持ち上げる。
落とし主に届けたい。
純粋にそう思った。何の薬であろうと、飲まなきゃいけないことが本人にとって不本意であるなら尚更、誰にもバレずにその人の手元に戻ってくることが一番だと思った。一人にバレているが、そいつにはチクる声がないから安心してほしい。
何を考慮しても、やはり自分がヒーローになるべきなんじゃないかという結論に行き着く。
さて、何の薬だろう?と顎に手をやる。振ってみると、微音であるがシャッと鳴った。長方形の長辺に点々があって短編がツルッとしていることから、二錠ずつ切れ目が入っているタイプのものだと推測する。
落とし物は職員室に持っていくべきだろうなとこれからの動きを決定しかけたとき、ふと胸がザワザワするのを感じた。喉の締め付け感は慣れっこで、なるほど緊張しているのかと自認する。職員室に行って「落とし物がありました」と先生に言うのを、どうやら自分はやりたくないらしい。
ヒーローになりたい。自分以外の人間にはヒーローが務まらない。でも体が動かない。
尚輝は自問自答する。「自分の為に生きるんだ?誰の人生なんだ?」
(心を削って徳を積むって、幸福レベルプラマイゼロかもな)
自分は、自分の人生を、自分の為に生きなければ。ただでさえ他人や環境に傷つけられているんだから、自分だけでも自分を大切にしなければ。それが義務感に近いのは、命がもったいないなんて本来思ってること自体が不謹慎であり、不毛であり、無駄な時間だからだ。
人生、楽しみたい。
薬を見つめる。一番自分の為になる有効な使い方。実は最速で思いついていたけれど、モラルで真っ先に捨てた候補。
(これ、飲んでやろうかな)
それは、決して自傷的な感情ではなかった。一番自分がワクワクするのはこれだと思った。つまらないルーティンの日々から逃げたい。新しい人生に出会いたい。
学校に行かない理由が欲しくて、もしそれらが手に入るなら寿命を削る覚悟がある。よって生まれた選択肢だ。
(これで死んでも悔いなし、か…)
そう問われると首を傾げてしまうが、薬を一錠誤飲したくらいで命を落とすわけがないと心のどこかで思っているから、大きな恐怖心は生まれない。「お腹が空いていて、拾ったラムネを食べただけで、…ま、まさか危ない薬だなんて!だって学校にあるわけないですし、そんなこと思わなかったんです!」喋ることすらできないのに、演技付きでシュミレーションする。妄想の尚輝は、別に理想の尚輝ではない。最善の尚輝だ。
これで捕まらないはずだ、と理性が飛びIQがゼロに近い知識で思考していく。万が一捕まっても、牢屋と学校どちらの地獄を生きるかに関して尚輝は僅差で学校を選んでいる。まあ牢屋もありだろう。その人生は、つらいだろうけれど、きっと今より刺激的だ。同じ『つらい』なら、どうせなら皆が体験しない特別なことがいい。お金を払って寿命を削るより、タダで削るほうがお得なのではないか。
そこまで考えると、ヒーローになろう作戦はどこへやら、罪人になる人生を視野に入れていた。むしろそちらに傾いている。
(ヒーローか罪人か、白か黒か)
最高で体調不良、良くて入院、悪くて牢屋、最悪で何も起こらない。思い浮かぶ展開は、黒を選んだあとのことばかり。
……できる。尚輝は思った。
つるんとコーティングされていると思ったが、どうにか粉を丸い形状に保った、といった程度の軽い口当たり。唾液に触れると表面が柔らかくなり、少しだけ苦味を感じた。口内で形が崩れてしまう前に、レモンを搾る映像を思い浮かべ、出てきた唾で飲み込んだ。
もしも声を持たずに生まれたなら。不謹慎であるのは承知でも、考えずにはいられなかった。『喋りたい』という願いが『自分の努力次第で叶うもの』である事実が、尚輝を苦しめる燃料の最多の成分だから。
眠気は多くの薬にある副作用である。帰りのホームルーム、まどろみの中、どうやらこれは違法薬物ではないなぁと思う。もし危険な薬なら、ハイになったりキマったりするのではないだろうか。牢屋の可能性は消えただろうと安堵する。やっぱり逮捕は怖い。身内にも迷惑をかける。尚輝は「よしよし」と頷いた。
しかし、はたと気づく。尚輝は一瞬固まり、口を覆って絶望した。まるで違法行為をしたかのようだった。
(最悪な結果になった)
明日からも普通に登校している自分が見えたのだ。薬を飲んだ結果は、『眠くなった』だけなのだと気づき、ガックリと肩を落とす。
嘘だ、嫌だ、やめてくれ、それじゃ薬を拾わなかったのと同じではないか。それだけは神様仏様――。存在しない存在に祈る。そんなに自分は悪い子だろうか。少しくらい同情でアクションを起こしてくれてもいいんじゃなかろうか。
「はいじゃあまた明日!さようならー」
自分は人生を変えることを、己の命を賭けてもできないと言うのか世界よ。覚悟を決めて勇気を出しても、現実は何一つ変わらない。その事実を突きつけられて、生きた心地がしなかった。
怯えながら最寄駅までの道を歩いた。ここを歩くのが今日が最後だったらいいのに。そういう予定だったのに。そうじゃない可能性があると思うと、明日が来るのが怖かった。
「冗談じゃねぇよ…」
吐き捨てるように呟く。この気持ちを抱えたまま家に帰るのは嫌だ。電車は苦手だ、と言いたいけれど、学校へ到着するのも学校で受けた嫌な感情も電車にいる間は忘れられるので、一生乗っていたいとも思う。
退勤ラッシュ時間だというのに、椅子が一席だけ空いていた。珍しいな、と思う。定位置の車両の隅っこに向かおうとした尚輝だが、他に誰かが座る気配がないので、試しに座ってみた。座ってみようと思えた。
無駄に重たい学校のリュックが、電車で肩から外される。この経験は初だ。座る時にチラッと左側の人がこちらを見て少し距離を取った。邪魔かな、とか。体臭が不快だったのかな、とか。よぎったけれど、ネガティブに考えても良いことないかと思い直し、優しさだったと解釈して小さくお辞儀をする。右側の人はガタイが良かったので肩が当たった。他人の体が自分に触れるのはいつぶりだったか、そんなの考えなきゃ思い出せないほどだ。触れている箇所を意識するとムズムズするので、気にしないように心がけた。相手はとっくに気にしていなかった。大人になるとは電車での他人との接触に慣れることまで含まれるのだろうか。ならば、ますます子どもでありたい。人肌がここまで苦手なのは自分だけなのだろうか。
「すみません、すみません」
次の駅に着くと、杖をついたお婆さんが入り口の隅を陣取っていた人に道を開けてもらいながら、電車内に入ってきた。
皆は「そんな申し訳なさそうにしなくていいのに」という表情で彼女を見つめていた。
そして。
尚輝は偶然、周りよりも早くその感想を脳内で呟くのをやめられた。
腐敗するのが早い。自分だったら申し訳なさそうにするもんな、とすぐに納得したからかもしれない。やっぱり主観主義の思考はラクだ。電車で座れたときと同じくらい。人にしてもらいたいことはしてあげる。人にされたくないことはしない。
我儘で傲慢な正義だとしても、判断基準に軸があるのは生きやすい。自分勝手だと思われたって、ブレないのは長所と仮定し、愛する材料にしてしまえば、間違っていても落ち込まないで済む。
「座りますか?」
気づけば立ち上がって声をかけていた。
「え?いいのかね?」
「あ、はい」
「ありがとう、優しいねぇ」
「いえい…え、……」
やり終えてから、自分が何をしたのか脳内ビデオで再放送する。
(知らない人と喋った)
我ながら優しい奴だと自覚していた。でも、視覚化するのは初めてだった。
己の言動なのに、自分の姿がまるで自分じゃない人物から見えているような感覚に陥る。動揺を悟られないよう堂々と立ち、定位置の隅に向かった。座ってたのは一駅だけかと苦笑いしたくなったが、気分は晴れやかで清々しかった。
ヒーローだったな、と思う。
関心か感心かわからぬ目を向けられながら、駅に着くのを待つ。背筋が、意識しなくともシャンと伸びた。
普段なら妄想で終わることを現実に持ってきた。長年望んでいた夢である。叶えたいというか、叶えられる人間だったらなと夢見ていた。席を譲るだなんて、山之内尚輝の人生にはないと思っていた。
優しさには勇気がいる。思っているだけでは意味がない。行動しなければ何も思わなかった人と同じなのが世の中だ。「席を代わってあげたいなぁ」「席を代わりたくないなぁ」「お婆さんがいるなぁ」と各々の感想。お婆さんが乗ったことに気づいておらず、感想すら持たなかった者もいるだろう。しかし、全て、側から見たら同じである。
優しさは目視するしかない。脳内が覗けないから人間は話すし、そうして優しさを見せつけることで優しくしてもらう。頼り頼られ、支え合う。尚輝が「本当は僕は優しいのに」といじけた数は、尚輝が脳内を覗いてほしいと願った数とほぼ同数だった。
「座りますか?」と席を譲って初めて、その人は「席を代わってあげたいなぁ」と思った人だと分かる。優しい人なんだと周りは知れる。
尚輝は、首傾げに似てるなと思った。声に出さなきゃ、行動に移さなきゃ、何も意思がないと思われる。そんなわけないのに、意外と人は頭を使って生きていなくて、シンプルに表現してあげなければ解釈してもらえない。内面を見てやろうと相手から歩み寄ることはない。
首を傾げているだけでは首を傾げているだけ。それに感情を当てはめて、稀に伝わったり当然伝わらなかったりする結果に、自分は一喜一憂していた。
馬鹿だった。
コンビニにが目に入り、行ってみるかと思う。反省と自惚れを同時に行ないながら、ちゃっかりご褒美は買うことにした。
たまご蒸しパンを一袋と、口臭タブレットを一つ、ジンジャーエールを一本持ってレジへ向かう。
「いらっしゃいませー」
普段、人の目を見ることはない。その日会った人の顔を思い出そうとしてもぼんやりと霧がかったようにしか浮かばないくらい、ピントを合わせることができない。クラスの人すら、学校以外で会ったら気づく可能はゼロだ。男子はベルトの位置と脚の太さ、女子は靴下の長さとふくらはぎの形で覚えている。
「袋はお付けいたしますか?」
お姉さんの声は可愛いアニメ声だった。尚輝は、彼女がどんな顔をしているのか気になった。
『顔を見られる』自分がされたくないこと。でも今の尚輝は特段されたくないとは思わなかった。それに、彼女はこちらの顔を見ている。
前髪を遠心力で振り払うフリをして、チラリと顔を見てみた。ふむふむ可愛い顔だなと思ったが、好みの顔ではなかった。芸能人ではない赤の他人のビジュアルを評価したのは初めてで、ビジュアルを主観で語るのは良いことではないと気づくと複雑な感情になる。
「レジ袋お付けしますか?」
「ぇ…と、カバンに入れる…から…、えっと…」
「大丈夫ですか?」
「え、あ、はいっ」
首振り以外で袋を断ったのはこれまた初めてのことで、なんと言えばいいか迷い、吃ってしまった。「大丈夫です」と言えば良かったのかと、彼女の質問に教えられる。顔について考えていたから、セリフを台本に起こすのも、シュミレーションをするのも、すっかり忘れていた。
(会計が終わるまで会計以外について考えちゃダメだな)
「四百十六円です」
「え?」
反省会をするのも早すぎたらしい。考えちゃダメということを考えていたせいで、早くお金を払わなければならないのにカバンから財布を取り出すのが遅れた。
(そういえば財布入ってたっけな。…なかったら終わりだ)
冷や汗がこめかみを伝う。嘘だ、神様、と数十分前に唱えた言葉がまた脳内を走り始める。彼らの創った世界で、彼らに自分の幸運を祈り、見事に裏切られたばかりなのに。
カバンの中を掻き回しながら、財布を忘れるという地獄の展開を想像していると、後ろに人が並んだ。早くしなければ。
(ゆかいーなナオーキさんっ)
(……じゃないんだよっ)
本格的にマズい。現実逃避が始まっている。俯瞰で見ている場合でも脳内に集中する場合でもない。早く。待たせたくない。会計に集中しないと。
焦燥感が汗の油分を増やす。明日も学校だ、このシャツを着る予定なのに汗臭くなってしまう。
(明日も学校?…、…は?)
尚輝の脳内は荒々しい。
(スマホはポケット。そうだ!)
「…ぁ、あ、あの…っ」
「はい」
「て、定期……あっ、交通、えーっと…アイシー?…交通、系…で」
支払い方法の一覧表を見て、書いてある通りに読み上げる。
「交通ICでお支払いですね。少々お待ちください」
店員さんが画面に何か打ち込み始めた。その間にカバンのチャックを閉める。PASMOは交通ICと言うらしい。普段「定期」と呼んでいるから混乱してしまった。
自分のせいで店員と後ろの人を待たせている時間が終わり、気が休まる。「こちらにタッチをお願いします」と言われ、カバンにぶら下がったカードをかざした。電子払いも、もちろん初めての経験だった。
「ありがとうございました」
「…っす」
先程閉じたばかりのカバンのチャックを再び開け、商品を詰め込む。お辞儀をして逃げるようにコンビニを立ち去った。
店から出たのに、入店音が鳴る。そこを超えたいつもの外の景色は、先程よりも明るく見えた。
空が青いこと、意外と並木道だったこと、葉っぱがほとんど緑色になっていること。
今、知った。
(日本って、きれいだな)
不思議なことにスキップをしたい気分だった。高校に入学してからの思い出で、今のコンビニの時間が一番濃い時間だと思えた。
制服からお気に入りのクリーム色のパーカーに着替え、カバンを持って自分の部屋に向かった。まだ両親は帰ってきていなかったが、部屋のベッドが一番落ち着くから、どんなときもリビングに居ようとは思わない。
ドアを閉めて鍵をかける。これで、ここは自分だけの空間。たまご蒸しパンとジンジャーエールを取り出し、ベッドに寝転がる。
ゴホッとワザと咳をした。
「…っあ、あーーーーーーーー」
発散するように声を出す。
「あーーがっこーつかれたあーー」
「あーーさいこーーぉーー」
「いえーがいちばあーーん」
習慣の声出しをすると、いつもより声が大きい気がした。朝の「いってきます」ぶりの発声になるから、いきなり話そうとすると出だしが掠れてしまうのだ。スムーズに出るようになるまでは意味のある言葉を発したなくて、帰宅後はテキトーに叫んでいる。
(あぁ、コンビニで喋ったからか)
喉が閉まりきっていない。
「うん、うまい」
昼食をとっていないから腹が減っており、あっという間に食べ終える。ジュースを飲んで怪獣のようにゲップをした。ここだけが、尚輝の全てを解放できる場所。
やっぱり学校は嫌いだ。
初めて山之内尚輝を見たのは、彼を教壇に立たせるため呼びかけたときだった。それまでも生徒みんなを眺めていたから、視界に入っていただろうけれど、一人一人に焦点を当ててはいなかった。
(生徒が寝てても気づかないんだろうな、起こす気もないけど)
「眠くなる授業をする先生が悪いでしょ、ってね」
あ、独り言しちゃった。と核島はさらに独り言を重ねる。
自分が前に立ったとき、生徒たちの顔は完全にボヤけている。ピントを合わせなければ、見られていると気づかないでいられる。
(早く呼ばれないかなあ)
病院の待合室で口元を覆ってあくびをする。全ての会話は小声で行われていて、精神の安定を計ってか空間を縫うようにクラシックピアノが流れている。眠くなるのも仕方ない場所だ。コロナの風潮が残っているのか、本や雑誌も置いていないから暇つぶしはできない。
(今夜は何食べよう)
せっかく薬を飲んでいるし、帰りに食事でも行こうかと考えながら、つま先をゆらゆらさせて時間が過ぎるのを待つ。
「診察券番号532番の方、診察室へお越しください」
やっぱり早く帰りたいから何か買って帰ろうと決め、核島はそそくさと診察室へ向かった。座っている人たちを避けながら歩くが、他の患者は誰もこちらを見ない。学校とは真逆だ。
「最近はどうですか?」
二十年以上会話とともに生きてきたが、「どうしたの?」には「どうもしてない」しかないし、「どうですか?」には「どう、とは?」しかない。
でも自分は国語の先生であり、普通に立派な大人なので、万能な言葉を知っている。彼が最初の質問を決めているように、核島も返事は決めていた。
「大丈夫です」
「お変わりないですか?」
はい、と口パクしながら、核島はコクリと頷いてみせた。病院だけは、薬を飲んでいても、飲んでいないときのような態度になってしまう。個人的な分析では、病院では病人でいなければならないと脳が決めつけ、条件反射的に言動しているんだろうと感じる。
「人が怖い気持ちはありますか?」
「…、まぁ…」
「気分が落ち込んだりしますか?」
「…んー、…たまに…?」
同じ薬をくれればいいから早く帰らせてほしい。パソコンに何かを打ち込んでいる先生の手元を見る。カチャカチャカチャ。一体何を書いているのだろうか。明らかに自分の返事より長文を書いている。
(今の俺、まるで尚輝みたいだな…)
暇つぶしに自分を俯瞰で見てみると、自己紹介をしている尚輝の姿が浮かび、自分と重なった。あのとき早く席に戻らせてあげれば良かったと、三日に一回は後悔している。早くしてと思っているのは伝わってきたし、脳内でグルグルと言葉を混ぜたあと緊張でショートし思考停止していた脳の忙しなさが、全て己のことのように分かった。苦しいとかツラいとか考える余裕もない、あの感覚。
言い訳をするなら、動揺したから。当時の自分を見ている気分になり、すぐに声をかけられなかった。わかるわかると共感しながら、つい観察してしまったが、彼からすれば酷く迷惑だったろう。
彼は自身が病気だと気づいていないようだし、よもや担任が「お前は病人だ」なんて言えない。過去に戻って、あの頃の自分に「病院に行って薬を飲んで話せるようになれたら友だちができるかもしれないし、青春を捨てなくて済むかもしれないんだよ」とめちゃくちゃ言いたくても、彼が折り合いをつけている可能性が捨てきれないなら、それはするべきではない。
他の教員に相談してみても、「カウンセリング受けさせたら?」と軽率な提案しかしてこなかった。『そういう性格』『ちょっと気にかけなきゃいけない生徒』と、言ってしまえば不思議くん、言い過ぎてしまえば問題児という括りだ。そこに手を煩わすのは教員の仕事ではなくカウンセラーの役割だから投げてしまえばいいと言いたげなアドバイスに、核島は心底呆れた。
(だから、尚輝は俺が守ろうと心に決めた)
「お仕事は順調ですか?事務職員でしたっけ」
「え、あぁ…はい」
質問を二つされた。どちらへの返事かわからなかったが、どちらも「はい」だから良かった。
医者には、自分が教員ということは伏せている。社交不安障害を抱えている奴が、まさか複数人の前に立ち、話し、書き、勉学を教えているなんて、意味不明にも程があるからだ。意味不明。でも自分にとっては大義だ。
(呼ばれ方『先生』同士ですね。あっ、俺は『かくしまっち』って一部の生徒には呼ばれてるっスけど。同じ『先生』でも敬われ方が違いますねー。まあ俺は堅苦しいのが嫌なんで、むしろ嬉しいことなんスけどね。てか自分で仕向けたし)
…なんて仲には一生なれない。なる必要もないが。
「ではいつもと同じお薬をお出しますね。お大事になさってください」
「…っス…」
優しさが沁みる。通院歴四年、二十二歳、残春。
結局、いや予定通り、処方箋を受け取るため家の近くの薬局へ行き、その隣のスーパーで酒と惣菜を買った。
アパートを見上げる。自分が先生として生きると決めた日に不動産アプリで選び、大学生の頃から住んでいる八畳の部屋。鍵を開け、入って、鍵を閉める。短い廊下を通ってリビングのテレビをつけた。アナウンサーの声に、まだニュース番組がやっている時間だと知る。
核島は、まずエコバッグから唐揚げとチューハイを机に並べた。今度はカバンから領収書、処方箋、ポーチを取り出し、ポーチを机に置く。そして処方箋の中身を出し、袋と領収書をミックスペーパー用のゴミ箱に入れ、薬を机に置いた。
「よっこらしょっと」
椅子の形をした座布団は座り心地が良いとは言えなくて、そろそろソファにしたいなと考えながらあぐらをかいた。大きい買い物をする時間が新米教師にはない。
内服薬のパキシルをポイっとベッドの枕元へ投げ、頓服薬のレキソタンをパキパキとニコイチに割っていく。十四日分、小さな長方形をポーチに仕舞う。
「[若者に流行]オーバードーズとは」
真剣に語るアナウンサーの声に、核島はテレビに目を向けた。
救急車で運ばれる地雷系コーデの女性の映像。派手髪の若者たちに囲まれている。飲んだのはあの女性だけなのだろうか。次に、担架で病院に運ばれている中学生男子と、「助けてください」と泣きながら訴える加工された声、母親だろう。そして、どうしてそんなことをするのか、カメラマンのインタビューを受ける中学生や高校生の音声。
市販薬をたくさん飲んで、錯乱状態になるのがストレス発散になるらしい。「不安な感情から逃れたかった」「ハイになってみたかった」「友だちに勧められた」スタジオに戻ると様々な意見がパネルに文字起こしされており、コメンテーターたちは深刻な表情をしていた。
(こんなのが流行ってるのか)
そんな快楽も束の間だろうに。核島は、薬の強さも弱さも知っているからこそ、ひとときの解放感の自傷に使うには、オーバードーズは効率が悪いと思った。
「かわいそうに」
泣いている母親に同情した。「私の内臓使っていいですから、どうかこの子だけは」
反省の色のないギャル二人の街頭インタビューも映る。
「ウチらの友だち全員ブロってる。舌もみんなマジかき氷のあと」
「それ、ハワイ味な。青かったら仲間って感じする」
「睡眠薬でやると、こーなるのぉ〜」
映った舌は、人間の舌とは思えなかった。彼女は青のシロップを直飲みくらいの青さだ。
「怖すぎだろ」
それに薬の無駄遣いだ、と核島は思った。自分は薬を大切に大切に使っている。無くしたら終わるし、切らしたら終わる。命とお金と家族とスマホ。その次に、抗不安薬は自分にとって必要不可欠で大事なものだ。数もマメに数えているくらい。
(…ん?)
は?ん、あ、え?と色んな一文字が出た。二日早く病院に行ったのに、薬を入れるため開けたポーチが空っぽだったのである。
「なんで?は?」
人生終わった?と心が喋る。
心臓がキュッと締まる感覚を覚え、慌ててポーチを逆さまにした。振ってみるが意味がない。叩いてみるがビスケットすら出ない。変な汗が出る。「マジかよ…あぁ?」と謎に喧嘩腰で言ったきり、開いた口が塞がらない。
(二錠、足りない…?)
自分が頓服薬を飲むのは、家を出る前と昼食の時間。校内で飲むには、皆が食事をしている人気のない図書室が都合良かった。たまに人が来ることもあるけれど、食べ終わってから来るのがマストだから飲む瞬間を見られる心配はない。
正直、国語の先生だからといって読書が好きなわけではないのだが、当たり前の如く図書室の鍵を管理させられている。ポーチをポケットに忍ばせ鍵を持ち、図書室へ向かい鍵を開ける。中に入って、薬を口に放り込んで、職員室へ戻る。毎日の完璧なルーティンだ。
(落とした?ポーチから抜け落ちたのか?)
モヤモヤ考え出すと、食欲がなくなってくる。終わったのだろうか。自分は、人生オワタなのだろうか。
もう唐揚げは食べられない。胸がザワザワして、理由も不明瞭なまま自棄になりそうだった。
「お薬もぐもぐというハッシュタグを知っていますか?」
広がった薬を手で払い、机から一気に落とす。
「知るかっ!薬なんか嫌いだ!ほんと、だいっきらい!!!」
最悪。最悪じゃないかもしれないけれど、最悪かもしれないことが最悪。
大好きな薬を罵る。罵る、というか、忌み嫌う素振りを薬に見せつける。俺はお前らが好きなんじゃない。利用してるだけだと。
酔うために酒を煽り、「あははは」と笑う。思考を飛ばし狂ってしまう方法は酒だ。みんなオーバードーズなんかしないで、度数の高い酒を一気飲みすればいいのに。あぁでも若者は買えないのか。なるほど、気持ちはわからなくもない。大人は酒が買えてズルいのだなと思う。
(あーもうクソがよ、)
核島はクッションに顔を埋め、
「心すり減らしてんじゃねぇよ!」
と叫んだ。これは自分への明らかな罵倒だった。
目覚めて最初に思ったのは、「内服薬飲み忘れた」だった。セロトニンを増やしてくれるらしいそれを飲まなかった。今のところ25mgで止めているが、一応少しずつ増薬予定である。途中でやめたら始めからやり直しだし、そんなことより離脱症状があるかもと思うと心配だ。
(今から飲んでもいいのかな…)
怖かった。薬を飲んでいない状態で学校へ行くのが、恐ろしく、悍ましいと感じた。頓服薬だけで補えるかもしれなくても、今日は内服薬の成分が自分の血液に流れていない、と思うと不安になる。
何もない。結果から言えば、危惧する必要など全くなかった。何一つ変わらなかった。薬の耐久性がついたのか。
何もない。図書室に薬はなかった。学校内で落とすならあそこしかないと踏んでいたが、落としていなかったのだろうか。酔っ払っていたし、数えミスだったのだろうか。嘘、数えたら違ったから酔うまで飲んだのである。
誰かに拾われた可能性。考えたくもない。誰のものか特定するのは難しいだろうから、そこは良い。だが噂にはなるだろう。今時、スマホで調べたら一発だ。『精神安定剤』の文字が表示される。高校生にとって衝撃的な文字だろう。“精神”を“安定”だなんて。
常人が己の力でやるべきことを、薬に頼らないとできない。そんな奴が校内にいる。そんなの興味を持つに決まっていた。犯人探しをし始める陽キャグループが誕生する蓋然性は、個人的な分析では九十パーセントを超える。
彼らの調査は単純で、きっと導き出す犯人は当たり障りのない疑いやすい人。証拠がなくても皆が納得してしまう人物。
(尚輝だと思われるんじゃないか?)
失礼だが、核島は思う。彼は、正直に言うと当然、変わり者のレッテルを周りから貼られている。黙り込んで、ずっと斜め下を向いて、陰キャという肩書きでは収まらない暗さを纏う。自分の感じるまま換言すれば、陰鬱を放っている。
性根は明るいかもしれない。本来はセンス溢れる天才かもしれない。喋れなくても学校に通う選択ができる、根性のある強い奴であるのは確実だ。
それでも、シンプルに考えたら、犯人にしやすいのは尚輝だ。そして一番の問題点は、彼は「違う」と否定できないこと。
グループならこの結果であるが、一個人が拾った場合、ヤンチャな生徒に拾われたら面白いネタとして探偵ゲーム扱いされるかもしれない。科学が好きな生徒なら危ない実験に使うかもしれない。勉強や人間関係で心が不安定な生徒もいるだろう、そんな子は好奇心で飲んでしまうかもしれない。
(誰が拾ったか、それが問題だ)
何がどうなるかわからないが、何か起これば落とした自分に責任があるのは絶対的事実である。
(尚輝を守るのは俺なんだ!)
「核島せーんせっ!」
職員室で項垂れながらの脳内会議が終わると、本物の会議から戻ってきた浦山勝也に両肩を掴まれた。別名、体育教師に見せかけた社会科教師。隣のクラスの担任で、教師歴は四年目だそだ。
「浦山先生、急になんですか」
「夜ご飯、どう?」
夜ご飯と言いながら、彼のジェスチャーは酒を飲んでいた。
「一緒にですか?」
「うん、別々なわけないでしょ。貴方って天然でしたっけ」
「違うと思ってますけど」
核島は荷物をまとめた。もう一度図書室に行きたかったが、何度探しても同じだろうと行かない言い訳を作り、諦める。
「どうする?誰か誘う?」
「どちらでも大丈夫ですよ。僕、浦山先生としか飲んだことないので」
「だろうね、話しかけづらい空気出ちゃってますよ」
「あは、ほんとですか。学生時代の癖ですかねぇ。クラスの隅にいた人間なんで」
「えー!そういう人が教職選ぶことあるんだ!学校大好きで、もっと居たくてなる人か、勉強が好きか、大体どっちかですよ」
あはははと笑い合い、自分は後者なんで同類かもね、と自嘲する浦山。実際は隅どころか空気だった核島は、たぶん彼とは全く違う。空気と言うのも烏滸がましいくらい、誰にも必要のない存在だった。あと、勉強が好きな人は学校も好きだろう。
(味わえなかった青春を、薬を手に入れた身体で取り戻してやろうと思って、先生になった)
そんなのは、口が裂けても言えない。馬鹿だなと自分でも思うからだ。研修の頃から薄々気づきながらも後戻りできなかったが、やはり向いてなさすぎる。毎日疲労困憊で、抑うつ状態が悪化しているのも自覚している。
「歴史オタクなのもあるけどね」
「そうなんですね」
人と会話をしない十代を過ごしたため、国語を教えてるくせに語彙力がない。言えない。これまた、自然に身につけられなかった語彙を勉強という形で取り戻すために文学部を選んだなんて、言えない。
大学で勉強して知識は追いついたが、日本語の学修イコール会話のスキル上達ではないのは承知している。ソースは自分だ。
「まあでも、核島先生すごいなぁ」
肩をトンッと叩かれる。彼はフレンドリーな人だった。学生時代からそうなんだろうなと思う。そんな態度に、自分は助けられてる。聞き手に回らせてくれるから、会話しやすかった。
意外と勘違いされがちで、会話が下手だと相手もこちらのレベルにワザと合わせてきたりする。けれど、喋り下手は喋り上手な人と相性がいいのである。相手任せで悪いが、会話の道筋を案内してほしい。回数を重ねるうち、こちらも地図を見なくても歩けるようになるのだ。
置かれたままの手。自分が女性だったらセクハラになるんだろうな、と思いながら、自分は男性なのでその手を握ってポイっと元の位置に返してやった。
「何もすごくないですよ」
彼も本気で褒め称えたわけではないはずで、真摯に言わなくていいのは理解していた。しかし本当にすごくないので、謙遜じゃないニュアンスで否定の言葉を言わずにはいられなかった。
彼はあまり聞いていない様子だった。ありがたい。こちらが言いたいだけだったことも、もしかしたら分かっているのかもしれない。
(すごいなぁ…)
「でも、そんな先生で安心する生徒もいると思うよ」
「?…あぁ、だといいですね」
「そんな」に当てはまらない人ほどそんなことを言うのだ。嫌な気持ちになると言いたいのではない。励まそうとしてくれる心に救われた。
核島は「よいしょー!」とテンション高く立ち上がった。気弱を放って気合いを取り入れる。
「食事、どこ行くんです?」
「まあ二人でいっか。んーと…またトリキにしようか」
話題は早速、尚輝のことになった。どのクラスにも困ったさんがいるのは、一つのクラスに偏らないよう満遍なく配置しているからだとか。そういう裏話は、教師になってから知った。流れで、今クラスに困ったさんはいるか?となり、罪悪感はあったが彼の名前を挙げた。今のところ、彼しかいなかった。
尚輝がそうであるのは、最初からではなく現状を見て把握した。だから今回うちのクラスに来たのは分散ではなく、多分、彼は来年から配慮枠に収まる。じゃあ今年は誰かと思ったが、なるほど自分は新米だったから自分が配慮してもらった側だ。
「同じ担任が受け持つことが多いんだよ。把握してるから引き継ぎが必要ないし」
「へぇー、そうなんですね。じゃあ僕が三年間同じ担任だったのもそのせいか」
茶化して話した。
「えっ、核島さん問題児だったの?」
「知りませんよ。先生の主観なんですから」
「嫌われてたんかな。それか逆に、その担任にめちゃくちゃ好かれてたか」
「いやまあ偶然の可能性もありますからね?」
「そっか」「そうですよ」ビールがなくなったので、男梅サワーを注文した。
タッチパネルから目を離し向かいを見ると、彼は何か考え込むような表情をしていた。テーブルを挟んでいるだけなのに手招きされ、核島は首を傾げた。そして、あぁ内緒話かと悟る。まさか生徒はいないだろうが、親がいて聞かれたら非常に良くない。それを気にしているのだろう。物理的には難しいが、耳を傾け、集中して聞く体制に入った。
彼は声を落として言った。
「山之内尚輝くん、カウンセリングは受けさせた?」
ズキッ――。チクチクチクッ。
心が振盪し、傷つく言葉ではないのに細かい針が刺さったみたいに痛んだ。カウンセリングを受けさせたかどうかが、小声で言わなきゃならない内容であることに、どうやら自分は強くショックを受けているらしい。
動揺がバレぬように答える。
「あー、それはまだなんですよね。……浦山さんは、受けさせた方がいいと思いますか?」
「緊張で喋れないわけでしょ?心の…なんか、専門的な人に任せるのが一番なんじゃないかと俺は思うかな。彼のことを考えるなら、できることはやってあげたいでしょ」
「……まぁ、そうですよね……」
そりゃあそうなのだ。
しかし核島はカウンセリングに乗り気にはなれなかった。
当時、トラウマと言うと大袈裟だが、カウンセリングなるもののメリットを感じなかった。おじさんと雑談したり、絵しりとりをしたり、折り紙をしたり。心底楽しくなかった。喋る練習になったとは到底思えなくて、すぐに行くのをやめた。
アレにはそんな思い出しかない。芸術を創れなかったのではなく、声が出なかっただけなんだから、やるべきはボイトレだろう。できないけど。黙り込むけれど。やらせるべきはそれなのだ。何故おじさんと……いや別にお姉さんでも同じ感想である。時間の無駄だった。スクールカウンセラーは、なんというか、退屈だ。
「あの子って、病気ってわけじゃないよね?」
「…っ、……え?」
「ん?」
「あ、いや、…わかりません」
病気だと思います、とは自分の口から言えない。先生として、人として。他人の心の……確定ならまだしも、予測でそれはさすがに言ってはいけない。なんとなく。
「喋るのが苦手な…性格?っていうか、単に内気な子なんだろ?喉の病気とかだったらカウンセリング関係ないし、うちの高校に入ってるし…、…その、手話的な必要性は、ない子なんだよね?」
あっ、と思った。
浦山が理解者だと、勘違いし続けるところだった。核島はキュッと口を噤む。彼も、尚輝の為を、そして初めてクラスを受け持つ新米教師の自分の為を思い、協力しようとしてくれている。でも。
(当事者にしかわからない)
本人が意図的に声を出していないという勘違いも、心の問題だったらカウンセリングを受けさせたら良いという思考回路も、楽観的に感じられた。
(こちら側じゃない分際で、言えたもんじゃない)
目線を浦山にすると、彼はタッチパネルを操作していた。
「ぼんじりとちからこぶでいいよね?」
酒が運ばれてきて、お辞儀をし、そっと口に含む。プハァ、ではなく、ハァと声が出た。
「……彼の、話せないあれは、僕の勝手なあれですけど……、その、性格ではないと思います」
顔がカッと熱くなった。もちろん、酒のせいではない。今から何をしようとしている?先程、口を噤むのが最善だと思ったばかりなのに、自分は何を口走ろうとしているのか。
緊張だ。大嫌いな緊張が心身に襲いかかって核島のストレスを底上げする。HPはどんどん下がる。
(ダメだ、語彙力がダメだ)
酒の力を借りている。アルコール成分に背中を押され、言えないのに、言ってはいけないのに、噤んだはずの口が酒と共に回り始める。酒が言い訳にできる仕事じゃない。酒が入っていたって、本当に思っていないことは言わないし、言いたくないことは言わない。思っていて、実は言いたいのだ。自分は酒の力を利用して、自分の欲を満たすのである。恥晒しを代償にしていることには、酔いから醒めなきゃわからない。
(しっかりした日本語で話さなきゃ、このタイミングで伝えなきゃ)
(今しかない)
核島は、歴史オタクの社会教師の前で、日本語オタクじゃない国語教師である自分を恥ずかしく思った。内容より語彙に気を取られ始める。
脳内がうるさい核島は気づかなかったが、沈黙に耐えかねた浦山はさっさと結論を促した。
「そうなの?じゃあ何?」
ここまで来たら、やっぱりなんでもないと言えない。…嘘だ、言える。言いたいから、言うしかない状況なんだと洗脳させているのは俯瞰で気づいている。
四年前から先生をしている人間から、アドバイスを貰いたかった。精神的な何かを抱えた生徒を相手にした経験もあるかもしれない。先輩の意見を取り入れたい。もしかしたら自分にはない支援システムや処置が用意されているのではないか。救う手段があるのなら教えてほしい。
自分は当事者である。当事者は当事者にしかなれない。第三者の気持ちにはなれないし、当事者を目の前にしたのは初めてだ。わからない。第三者の佇まい。励ましたり慰める技術。どこまで踏み込んで干渉するべきか。昔観たGTOは今の時代やりすぎだろうし……。
「浦山さん、知ってますかね」
定年まで教師をするとして、今後もこういうことが何回あるのか。尚輝だけでなく、何かを抱える生徒への正しい寄り添い方を、先輩としてアドバイスしてほしいと核島は思った。
「精神的なものかなって思います。今は社交不安障害って呼び方をしますが、……そうですね、対人恐怖症って言うとわかりやすいかもしれません。昔は、昔というか、数年前?数十年前か、たぶん、たしかそうというか、そんなのどうでもいいか。じゃなくて、いいですよね、どうでも。人見知りの病気バージョンみたいな、病気?いや病気なんですけど。はい、目を見たり喋ったりするのが怖くて固まってしまうんです。社交不安障害は総称みたいな感じですけど、なんか僕もごっちゃになるんですけど、場面によって話せたり話せなかったりとか、そういうのは場面緘黙症とか言ったりしたりします。社交不安障害の中に場面緘黙症とか赤面症とか色んな恐怖症が入ってるみたいな?視線恐怖症、会食恐怖症、電話恐怖症……あとなんだ?……あっ、スピーチ恐怖症、あと字は出てるんですけど読み方が……国語教師失格とか、あっ、ダメだ教師って言っちゃった。……て、ね……」
核島はハッとした。一人で喋りすぎている。会話はラリーだ。キャッチボールだ。
深呼吸をする。酒を飲む。喉が痛かった。長文を喋ると喉が痛くなるのは筋肉が鍛えられていないからだろう。喉が弱いなんて、本当に先生として致命的な欠点な気がする。そういえば漢字がそれほど得意ではないと暴露してしまった、恥ずかしい。
書痙恐怖症。…ショケイ、だったか。あぁ、あの変な漢字はケイだ。思い出した。痙攣のケイ。レンのほうが変な字かもしれない。糸と糸で言うを挟んで手。意味が分からない。書くときに手が震えそうではあるけれど。…なんて、考えている場合ではない。
(あー、変なゾーンに入ってるかも)
核島の頭は騒がしかった。この癖は未だに治らないな、とまた自分を客観視して、心の声に耳を傾けそうになる。それより目の前の相手と会話のラリーをしないと。キャッチボール、今どっちがボールを持っているのだろう。はて、そもそも彼はグローブを持っていただろうか。
自分が一人で暴走していた気がしてきて、気持ち悪い汗が出る。
そっと浦山を見た。彼は両手を組んで肘を机に置き、俯いていた。何を考えているのか分からない。でもまだこちらの話を待っているように見えた。たしかに話は終わっていない。結局何が言いたいんですか?と言われる前に、話を続けてみる。
「その……、なので、彼もそうなんじゃないかなって思うんですよね。病気で話せないっていう……正直ほぼ確信してて。でも先生が『君は病気かもよ?』なんて言えないじゃないですか。でも言ってあげるのが、一番優しい気がするんです。学校が雇ってるカウンセラーと、なんか…謎の…リハビリ?するより、心療内科で薬を飲んだら一発だと、…いやまあ僕の勝手な意見ですよ?けど思うんです。それを教えたいなぁって。だから……、あっ、浦山先生は、どう思いますか?」
言いたいことは、とりあえず言えた。核島は安堵し、彼に期待の目を向ける。一体どんなアドバイスをくれるのだろう。自分の知識では思いつけない発想を教えてほしい。四年間で身につけたスキルを是非分けて頂きたい。
浦山は、ふぅ…と深呼吸に近い溜息を吐いた。
「核島さんは、その病気なの?」
「ぇ、……ぃ、いいえ」
危ない。それはバレてはならない。核島は苦笑いして誤魔化す。浦山は真顔のまま話した。
「俺はその病気知らないけどさ、核島さんがそうじゃないなら知ったかぶりすぎる。てか、勝手に病人扱いして、さすがにその子に失礼でしょ。彼が気の毒ですね。…みんな違ってみんないいじゃないけどさ、生徒の各々の個性を大切にするのが先生の務めじゃないの?精神病だろうなぁー、なんて、思ってても言っちゃダメなレベルのことだよ」
ここまで聞いて、初めて核島は自分が怒られていると気づく。予測していた返答と違いすぎて、脳内処理が追いついていなかった。
(もしかして俺、やらかした?)
浦山はまだ酒を飲まない。こんなに話してるのに喉が渇かないんだな、と頭の隅で思った。
「今の時代は特にさ、性別も多いし、発達とかもグレーゾーンとか、……あー、あとは何?とにかく本当に色々あるじゃん。自分にレッテル貼る風潮みたいなの?まあやりすぎな部分はあるよ、個人的には。でも自己紹介されたら、それを他人は絶対に認めなきゃいけない。今の時代、否定したら悪人扱いだから。で、この感じが良いのか悪いのか知らないけど」
ここで一旦、浦山は唾を飲み込んだ。セリフが続いていると伝わるけど、息継ぎの時間を作れる感じ。二十五メートルプールの折り返しに見えた。まだ半分、続きがあると思った。そしてこの人は絶対に泳ぎ切れる、誰もが信じて疑わないだろう空気があった。
「そのポリコレ……あー核島さん知ってるかな。まあだから、差別しないでいきましょうってやつ。それをするかしないかの意見すら、人それぞれって言葉でまとめなきゃいけない。けど生きるために最低限のことはしなきゃダメなわけ。この世界で生きれなくならないための、最低限の、差別しないでいきましょう運動ね。そんで俺らは生徒に、個性を認めるようにって教えなきゃならない。そういう立場なんですね。……でも、他人がレッテル貼るのは違うでしょ。生徒のこと、そうやってカテゴライズするなんて、ははっ、それ教員がやっちゃいますか」
核島は、スーッと食欲がなくなるのを感じた。焼き鳥を残すことになりそうだなと思う。昨夜は唐揚げを残した。食事が上手くできない。精神的な圧迫感で喉が閉じるのは、味覚が遠のくのは、生きる行為をやめたくなっているからなのだろうか。食事が楽しくない。苦しい。
薬が飲みたい。精神が不安定なのは言わずもがなだが、何錠飲んでも効かないくらい負荷が酷い。『最悪』の文字が浮かぶ。文字が埋め尽くされた脳が痛む。否。痒いのかもしれないし、重たいだけかもしれない。とにかくザワザワして、頭を割って中身を取り出したい気持ちになった。
トイレに逃げたら。そうしたら、きっと自分はここへ戻ってくる勇気はない。今から自分がなんと返すかが重要だ。彼と仲が悪くなるか否かの分岐点だ。謝るべきなのだろう。しかし、許してもらえる謝罪文が浮かばない。なんだろうか、このワナワナとする感じは。自分は本音をぶつけた。誓って自分の正義の言葉だった。
(それを完全否定された)
核島は現在、浦山に苛立ちを覚えていた。そもそも許される必要性はあるのか?と思い始めている。縁を切っても仕事は続けられるのに、今後の職場の空気感のために捻じ曲げていい思考なのか。自分が全て間違えていたと自分が認めて謝ってしまえば、他人に否定されたことに加えて、自己否定をすることになるのではなかろうか。
は?と思う。
(知ったかぶりはお前じゃね?病気のことなんも知らないくせに。性的マイノリティでも発達障がいでもない……かは知らないけど。俺は差別をしようとしたんじゃない。むしろ受け入れるための案だった。それを否定するのはポリコレ?の道理に従えているのか?)
核島は歯を強く噛み合わせ、心の中だけで言い返す。
(尚輝のダンマリ。あれは絶対に病気だ。何故どいつもこいつもそれを疑わない。『病人扱いするのは良くないことだから』『他人がレッテルを貼るのは良くないことだから』分からなくないけど、そんなのキレイゴトだ。レッテルを貼ってほしいかもしれないじゃないか。自分がレッテルを貼られる人間だって気づけていないだけで、貼ってもらえたら救われるかもしれないじゃないか)
声にできない自分が情け無かった。
(少なくとも俺は、病気だと気づけて世界が変わった。薬を飲んで、みんなこの程度の緊張で生きていたんだって驚いた。性格の問題じゃなかったのか、俺の努力不足じゃなかったのかって。自分が病気だと知って、とても嬉しかったんだ)
この沈黙の間、浦山は沈黙を破る気は一切なさそうだった。こっちが喋る番だと思っているらしいし、実際その通りである。居酒屋は騒がしいから、核島にも浦山にも気まずさを感じる余地はなかった。
核島は酒を一気に飲んだ。一口ごま油キャベツを食べるが、ごま油の風味を感じられない。シャキシャキとした食感だけが残って、やはりストレスで一時的に味覚もやられたのだと悟る。殺された、と思う。
「あの、カウンセリングの提案を、浦山さんはしたと思うんですけど、」
「あ、先生って言うのやめてる。さっきミスってたよ。校内以外での先生呼びは危険だからやめてね」
「?……えっ?あ、そうでしたか。すみません……」
「いいよ、続けて?」
途中で止めるのはやめてほしい。どこまで話したか分からなくなる。彼の全てに腹が立ってくる。真逆の人間は、面白いけれど分かり合えない。さっきから頭をフル回転させている人の気持ちを知らないらしい言葉ばかりだ。
彼は言葉が頭より先に口から出るタイプなのだろうか。それにしては適切な言葉選びをしている。羨ましくて、同時に、馬鹿にされている気になる。
こういう人が教師が天職の人なのかもしれない。ト書き通りにしか話せないのは、話し下手だからなのか生まれつきの思考パターンなのか。嫌になる。彼を嫌になるほど、自分が嫌になる。嫉妬心が募る。
「っとぉ……、えっと、カウンセリングの提案をするのは……その、レッテル貼りには、該当しないんですか?浦山せ、…さんこそ、カウンセリングが必要な子っていうカテゴライズ?をしている…みたいな感じ……?になってるんじゃないのかなと思って……」
浦山を見る。彼はまだ話す気はなさそうだった。「……思って」は文章の語末と認めていないのかもと思い、言い直してみる。
「……思いました」
「?……うん。でも、そうだなぁ……」
彼は考えている表情をした。思いましたと言ったから話してくれたのか、ただ少し間(ま)ができただけなのか。
同じ失敗を繰り返す奴とは思われたくない。一応、今後も文章の終わりらしく話し終わるよう心がければ失敗はないはずだ。そう決めてこの議題の思考は飛ばした。
彼を嫌っているのに、彼に嫌われたくないと思っている。何とも臆病者で狡い奴だ。でも嫌うのは簡単で、嫌われるのはいつだって怖い。
なんとなく、彼は自分の意見を考えているのではなく、こちらに伝わるように言うにはどうすればいいのかを考えている気がした。理解力がないと思われてる?と不安になる。
「だから……、どっちかと言えば、レッテルを貼る権利があるのはカウンセラーじゃないかなって話。病気の知識もあるだろうし、例えばカウンセラーから病気の疑いをかけられて病院を提案されたほうが、本人も納得するでしょ。もし担任に言われたら、そういう目で見られてたんだって落ち込むだろうし、…あと、親に言われたらマズいよ。先生に病人扱いされたんだけどって愚痴られたら、親御さんブチ切れ確定だろうし」
先生。高校の先生。
(そっか)
核島は、仕事に教師を選んだことを全否定された気分になった。しかしそうされて仕方ないと即座に納得し、彼への苛立ちも一気に冷めていった。
教職とは、そういう仕事だった。学校とは、そういう所だった。何を望んでいたんだと、馬鹿馬鹿しくて内心で憫笑する。
なんだか我に返った。映画シンデレラなんてザックリとしか観ていないけれど、主人公になった気になって、まるで映画のような人生設計をしていたのである。過去の不幸を現在から未来までの幸福で取り返そうなど、冷静に考えれば夢物語である。長いこと気が付かないでいたことが、もはや皮肉に褒め称えたくなるほど狂っていた。
スタートダッシュをミスった時点で既に皆に追いつけないのは決まっていた。自分は一生置いてけぼりの人生なのだ。
彼の発言。本当にその通りだと思う。自分は偶々当事者だから知ってるだけで、専門家でも医者でも保健の先生ですらない。何を仲間意識を持って、一人の生徒に同類だねと手を差し伸べて、特別扱いで守ろうとしていたのか。
自分は教師という仕事で、お金を稼ぐ為に就職した。青春を取り戻す為ではない。そんなの生温い。仕事に対してのモチベーションとしては舐めた態度だ。淡々と与えられた業務をこなせばいい。テストを作ったり、教科書を読み上げたり、要点を黒板に書いていればいい。親御様や校長の地雷を踏まず、丁寧に真面目にしていれば、安定した給料が貰える仕事。
教職を選ぶにあたって、子どもたちを育てたいという心は一切なかった。自分が楽しみたくて決めた進路だった。こんなの恥だ。仕事に私情を持ち込んではいけなかった。
得意な教科が一つ以上あって、人前に出ることに恥じらいがなくて、何気ない質問に当たり障りなく答えるのが得意。コミュ強。世渡り上手。「あぁ私は先生が天職だな」と思った人間が、先生になるべきなのである。
核島は頭を下げた。
「すみません、最低でした。浦山さんの言う通りです。本当にありがとうございます。僕、ものすごく失礼な発言してましたよね。知ってる枠に分類しようとして…、先生としてっていうか、人として恥ずかしいっていうか」
彼はジョッキを傾けていた。
「恥ずかしいと思いました」
核心に沁みましたという表情を最大限に浮かべ、焼き鳥を食べた。タレが美味しかった。満足げにキャベツを食べた。ごま油が美味しかった。
「核島さん、立派な教師になれますよ。誰でも最初は初心者ってやつです」
「はい、頑張ります」
多様性を認める。個々を大切にする。生徒みんなを平等に扱う。
そんな先生でいようと心に誓った。
次の日、尚輝がそうさせてくれなかった。
チーズを取りに行くネズミのようだ、と尚輝は思った。実物のそれを見たことはないけれど、海外アニメではこんな感じだった。
獲物を見つけ、ハッと目を輝かせて、驚きと喜び半々の表情で近づくが、もしかしたら自分の思っているものではないかもしれないと少しの躊躇いをみせ、だけど結局恐る恐る手を伸ばす。
「ネズミみたい」
そのまま伝えてみると、核島はビクッと肩を揺らし、薬を拾おうとした手を引っ込めた。怯え方も「仕掛けの可能性を忘れてた!」とドギマギするネズミみたいだった。
現実を受け入れたくないのか、渋々といったように振り返り、悔しそうな目で彼はこちらを見る。
「なんで、尚輝…?」
「……なんで、とは」
なんで尚輝がここにいるのか。なんで尚輝がこんなことをしたのか。なんで尚輝が薬を持っているのか。どれのことか分からなかったから、素直に聞いてみた。きっとどれについてでも良かったんだろうなと思いながら。
彼も尚輝の質問の意図を汲んだようで、言い換えてくれた。
「なんでここにいるの?」
尚輝は思った。一番気になるのはそれじゃないだろ、と。昼食の為に設けられた休憩時間なのに何故図書室にいるのか。今の彼にとって、どうでもいい質問だ。
(全部を順番に聞こうと思っている)
尚輝がここいるのは、今に始まったことではない。
「お昼食べないから、いつも図書室にいる」
お昼食べない。いつも図書室。
「お昼」は食べ物じゃないなと頭の片隅で考えていると、やっぱりどうでもよかったのか核島は相槌も打たず、すぐに「鍵を開けるのを待ってたの?」と別の質問をしてきた。ご飯を食べていないことも、毎日一人寂しく図書室にいることも、心配してくれないらしい。別にいいけれど、担任の先生として如何なものか。
「待っていたの?」と聞かれたことに関し、尚輝は首を傾げた。
確かに待っていたけれど、鍵が開くのを待っていたというよりは、昨日の帰りに元の場所に戻した薬を誰かが見つけて取る姿を見てみたかった。核島が図書室を開けないことには始まらなかったけれど、鍵が開けられたあとの展開を待っていたのであり、鍵が開くのを今か今かと待っていたわけではない。
質問が真意から遠いなぁと尚輝は感じた。
ネズミ駆除業者になって獲物を観察しようと思ったのは、もちろん持ち主を見つけられた嬉しいと思ったが、さすがに諦めただろうとあまり期待していなかった。持ち主以外が手に取って、自分以外に興味を示すのは誰なのか。それをどうするのか。自分を観察すると同時に、もし自分が拾わなかったら……という世界線を見てみようかな、なんて暇つぶし。尚輝にとっても、まさかな展開の状況なのだ。
(持ち主来ちゃったかぁ)
核島が薬の持ち主であると断言できるのは、彼が鍵を開け薬を視界に捉えると、「あれ、うそ」と言い、近寄って「あった!」と言ったから。なんとも分かりやすかった。廊下側から顔だけ出して、不審者よろしく一部始終を見ていたのを、きっと彼は知らない。
「何してたの?」
それは今回薬を置いたことについてか、普段の図書室での過ごし方なのか。国語教師なのに、さっきから言葉足らずだ。
何って、そちら様こそ。
(いつも図書室で何をしていたんですか?)
尚輝が色んな意味で首を傾げると、核島は質問を大きく変更した。
「この、くす……、ゴミを、ここに置いた、……捨てたのは尚輝?」
相当焦っているなぁと思う。まだ誤魔化そうと抗っている大人を、尚輝は余裕の表情で見つめた。もっと頑張っても、そろそろ諦めてもらっても、どちらでもいい。どっちも面白いからだ。
薬の中身が空っぽなことに気づいたからか、大切だろう薬を「ゴミ」と言った。そう、彼が飛びついたのは、押し出され済みの薬だ。ただの不燃ゴミである。
「置いた」
「……なんで?」
「誰か、拾うかなと思って」
きっとこの人は本当に聞きたいことが聞けていないだろう。尚輝は、絶妙に的外れな返答をしている自覚があった。わざとそうしているわけではないが、彼の質問に具体性がないから自然とこうなってしまう。抽象的な質問には雑な返事しかできない、当然のことだ。
核島は、はぁ…と溜め息をつき、床のゴミを見つめていた。彼の頭の回転によるモーター音が尚輝には聞こえる気がした。
「ごめん。びっくり……驚いちゃって。色々質問したいことがあるんだけど、全部答えてくれる?」
「!」
尚輝はコクコクと頷く。身振りは、声が出ない・出せない・出なかった際の保険や代用に過ぎないのに、意図せず声より先にジェスチャーが出た。声が出る奇跡を堪能したい、自慢したい。その欲望を超えるのは、一早く相手に肯定の気持ちを伝えたかったからであろう。
(人生が楽しい)
祭りだ!わっしょい!と脳内が騒ぎだしている。尚輝は興奮していた。顔に出さないよう努めた。
「っ大丈夫、です」
舞い上がってないです。まともな状態です。「大丈夫」にはその意味も込めた。舞い上がっていても、調子に乗ってはいけない。
チラッと掛け時計を見ると、休憩はあと七分であった。さて収まるだろうか?と顎に手をやる。せっかくの新しい人生の序章、短いのは嫌だ。刺激的で、面白くて、あっという間に感じる長時間がいい。
異色の物語の主人公で在りたい。そう考えていると、核島から奇跡の発言が放たれる。
「次の授業、サボる気とか…」
「……!えっ?」
まさかだった。尚輝は耳を疑うが、モジモジ目を泳がせる担任とは思えない彼の雰囲気で、聞き間違いではないなと思った。この映像が他の先生に見られたらどうするのか。どうなるのか。SNSに流れてバズったら、社会的に終わる可能性もゼロじゃない。そのくらい。
(すっごい発言…)
七分が約一時間七分になる、一歩手前に立たされている。序章の長さが決まる分岐点だ、と尚輝は思った。核島から出された提案だが、自分が彼を上手く誘導して一緒に一歩以上前に進まなければ、絶対に実現しない気配を感じる。
「っぁ、僕……あれ?先生が何言ってんだろ。いやいや、生徒にサボらせようとか、ごめん、違う…から、あの……」
だいぶパニクっているようだ。髪をくしゃくしゃと掻き、変な口角の上げ方をしながら、彼は自分の吐く二酸化炭素と喋っていた。
「大丈夫です、サボれます」
彼のセリフがいつ途切れるのかは知らないが、尚輝は食い気味に、比較的大きめの声で言ってみた。次の授業をサボる気は、大丈夫どころではない。めちゃくちゃサボりたい。土下座してお願いしたいくらいだ。そうしたら謎すぎるし立場がおかしくなるからしないけれど。
それにこちらがグイグイやる気を見せてしまえば、教師の理性が働いて反射的に「やっぱりサボりはダメだ」と言われかねない。
(声が出せる状態なのに口を噤む日が来るなんて)
こんな楽しそうな展開を逃せるものか。授業なんか集中したことないが、このあと教室に戻ってできるわけがない。授業をサボれて、担任の狼狽した姿を見続けられる。しかも自分がきっかけであり、そんな元凶の言葉を彼は求めているらしい。ノーデメリット、メニーメリット、シンプルハッピー。猿よりウッキウキーである。
(今の核島先生、僕の言葉が貴重なんだ)
尚輝は声を出さないことを揶揄われて生きてきた。「なんで出さねーんだよ」と小学生の頃は声で、中学生の頃は目つきで伝えられた。高校では「何か事情があるんだろうな」の目を向けられた。
本当の意味で発言を求められたのは初めてのことだった。結局求められていたのは「みんなも喋っているから貴方も喋りなさい」であり、尚輝の思考や発想を知りたいという心情は、そこになかった。自分の一言一句で相手が一喜一憂する経験などあるはずもない。
しかし今回はどうだ。学校の先生が、『皆と平等に尚輝の意見も聞いておく』と事務的な感情ではなく、『尚輝の発言内容によって自分の感情が変化する』と私情を持っている。
(残飯が、残飯じゃなくなる)
彼に言葉を食べてもらえる、と尚輝は思った。語彙が足りず、噛み砕かれたというより飲み込む前の状態に近い言葉を、彼は懸命に咀嚼してくれる。求められているのは、声ではなく言葉。頭の中にある文字たちを提示してほしいと訴えられているのが、この上なく嬉しかった。
尚輝は気づく。生み出した言葉を廃棄するのが辛かったのだ、と。確かに人と会話をしたかったが、声が出したいよりも意思表示がしたかったのだ。でも自分の力で知ってもらいたかったから、声が必要だった。
頭の中に溜まっている言葉を放出したい。尚輝の長年の願いであった。それを他人に、こんなに必死に要望されている。夢みたいだ。
「聞きたいことが、あるなら、全部、聞いてもらえたら、全部、答える」
この機会を手放すわけにいかない。まずは、今の彼が一番欲しいだろう言葉を提示してみる。尚輝は全部言う。尚輝は核島が質問すれば、必ず知りたいことを教えてくれる人なのだと伝える。
「絶対?……、……いやでも、」
「絶対。ちょっと、自分も、先生に、話したいこと、ある」
次に、授業をサボらせる理由を、核島だけのせいにしない。生徒の悩みを聞いてあげるのは担任の役目で、断るのは悪だ。彼を、生徒の為に時間を作ってあげる優しい先生に仕立て上げてやる。
五限の授業は社会。端の席から順に教科書を読み上げ、先生が赤色と黄色のチョークをたくさん使って、女子がノートを綺麗に書くことに全神経を使う授業。暗記教科は休んでも無問題。
絶対に授業をお休みさせるのが正解だ。社会の先生も、授業が不必要発言以外は同意見だろう。
「……そっか。じゃあ浦山先生には僕から言っておくね」
彼はこちらの気遣いのセリフを、本音と受け取ったフリをして乗っかってくれた。
「お願いします」
「…ん、じゃあここ座って」
核島は近くの椅子をポンと叩いた。尚輝は従って腰掛ける。
ちょうど昼休み終了のチャイムが鳴った。
彼は図書室を出て行った。後ろを振り返ると薬のゴミが落ちている。あんなにバレたくなさそうだったのに不用心だな、と尚輝は席を立ち、拾って、机に置いて座り直す。核島が座るだろう席と自分の席のちょうど真ん中になるように指で調整する。これについて話すことになるだろうから、この位置がベストだ。
しばらく待っていると、彼は「お待たせ」と言って中に入ってきた。ドアの鍵を閉め、予想通り尚輝の向かい側に着席する。
授業開始のチャイムが鳴った。
「今日は誰も図書室来なかったね」
「…ドアの前の札、クローズドになってる」
「……、…僕が裏返すの忘れてた…?」
尚輝は恍けた顔で、首を傾げてみせた。核島はニヒルな笑いを浮かべた。
「……まあいいや。…じゃあ……早速だけど。話したいことって何?」
そっちからか、とは思わなかった。そっちが本題である演技を互いにしなきゃならないことくらい分かっている。誰も聞いていなくとも、これからの自分たちが嘘つきにならないための儀式が、嘘のつけない自分たちには必要だった。
話したいこと。それは既に何度か練習していた。薬を飲んだ日から考えていたセリフが、一つだけあった。
「僕って、病気ですか?」
生きづらいと嘆くのはとても簡単なことである。嘆いているだけでは成長しない。嘆いた時点で成長を諦めた……と言うのは、さすがに軽率な思考かもしれない。しかし、認めて自分を大切にするほど、甘えなのかなと考えだしそうと危惧する自分がいる。
病気を自覚していない頃のほうが強かった。でも人生が色めき出したのは自覚してからだ。コンビニで感動した。世界に色がついたと表現する人間の気持ちが初めてわかった。
自覚する前と後。どちらも本当の自分であると分かっているはずなのに、薬を飲む前と後で人格が違うように思えた。
喋れる自分に、自分が引いてしまっている。
どちらの自分が好きか。もちろん薬を飲んだあとだ。望んだことが叶ってるのだから。
(じゃあ何を恐れてる?)
……恐れ?
別に恐れていない。むしろ人に対する恐怖心がなくなった。可哀想じゃなくなって良かった。
……可哀想?
そうか。自分は今まで可哀想だった。当時認められなかったが、現在は言える。薬を飲んでいない自分は可哀想だった。学校で一言も喋れないなんて、そりゃあ可哀想だろう。
(でも、可哀想な頃の自分も好きだった)
自己愛は強いほうだと思う。生きづらかったからこそ、多様性に無知じゃない自分がいる。そうやって自分の存在意義を見出す己の精神力が強くて好きだった。
(……)
尚輝は怯えた。
可哀想じゃなくなるのが怖い、と思ってしまった。可哀想な自分を好きになったせいで、可哀想でなくなったときの自分を愛せるのか不安になっている。
さすがに可哀想と思われたかったとは言えない。だけど尚輝を包むのは、その隣にある感情。『喋れないうちに同情してくれる人に出会ってみたかった』だった。
そんなの叶うはずない。恋に発展するなら少女漫画の展開だし、理解のある大親友ができたら少年漫画だ。現実の人間は基本的に他人に無関心だし、変な人には触れないようにするのが善意だと考える。『変な子』『不思議な子』『独特な子』いつ誰に言われたかも思い出せないそれらは、紛うことなき悪口だった。自分の立場は、間違いなく喜ばしい立場ではない。叶うはずない願いは、尚輝を突き放して青春から置いてけぼりにした。
そう。そこにいる自分を愛せたなら、どんな自分も愛せるはずなのだ。喋れる自分こそ、何と引き換えても手に入れたいと願った自分。正しい表し方は思いつかないが、きっと今、理想になれた。
薬という魔法を手に入れ、考えた結果の結論。答えを聞いたとして、それが正解で、嬉しくないわけがない。
「薬が効くってことは、僕は対象者ということでしょうか?」
「僕は通うべき場所がありますか?」
「僕が患っているものってなんですか?」
それらをまとめた。
「僕って、病気ですか?」
ずっと考えていた。薬は健康な人にとっては毒だ。ならば効いた自分は不健康、要するに病気を患っているのではないかという疑惑。疑惑と言っても、もう自分にはそれしか考えられない。
効いた。何に効いたか。
「まさか尚輝、これ飲んだの?」
会話ができる力が手に入った。長年夢見た魔法が使えるようになった。後悔など全くもってない。飲み込むだけで魔法使いになったのだから万々歳である。
「薬を二錠…?」
「一錠です」
「え、じゃあもう一個は?」
「…あっ、今さっき飲んだ」
「あ……」と彼は察した声を上げた。今、尚輝が話せているということは、今も飲んでいるに決まっているのである。
「ねぇ、ダメでしょ。落ちてる薬を飲んだら」
「でも、そのおかげで、僕は会話が出来ています…」
文句あるか?と思う。言いながら嬉し涙が出そうになり、慌てて唾を飲み込む。深呼吸。絶対に泣いてはダメなのだ。裏の主導権だけは渡さない。
「……そっか……」
核島は「そっかそっか……」と何度も言いながら頷いた。そうだそうだ、と尚輝も心の中て言い返す。
「先生、これなんて薬?」
「……!えっ、知らずに飲んだの?」
「はい」
だって、調べたら面白くない。何せ刺激を求めていたから。自分は学校に行くべきか、行けなくなる運命になるか、賭けに出たのだから当然だ。まだ尚輝は、この薬がどんな効果があるものなのか知らない。もちろん体感で推測できているけれど、どんな人が飲むべきで、何がどうなってどこが変わるのか。本質は知らないでいる。
核島が教師の顔をした。
「そんな危険なことして。もし危ない薬だったらどうするの?」
尚輝も悪事がバレた生徒の顔をする。
「危ない薬が、学校にあるわけないかなって……」
半分言い訳、半分本音。
「分からないでしょ。副作用とか強く出たら大変だよ?この薬、一ミリグラムから始めていく薬なの。飲んだのが一錠でも、これは五ミリグラムだから、一ミリグラムを五錠飲んだのと同じなんだよ?」
やけに詳しいですね、とは言わない。嫌な奴になりたいわけではないから。それに彼はこちらにバレた前提で話しているのか、伺っている最中なのか、バレたのは知ってるけど言質が取れなければ曖昧にできると思っているのか、分からない。互いに探っている最中で、答え合わせは今ではないと思った。
言質が一番大事なのは尚輝も思っている。「そうだよ、僕の薬だ」と言わせたい気持ちもある。けれど、わざわざ言わせなくてもいいとも思っていた。話が逸れてしまうし、逸らした人が責任を持って話し手にならなければならいけなくなる気がするから。今は質問される側で在りたい。興味を惹かれているのが心地良くて、この時間がいつまでも続けばいいと思ってしまう。
(とりあえずまだ核島先生に委ねよう)
それより、今の彼の説明は何なのか。
「ふふっ、数学?」
「!わらっ……、算数だよ」
国語教師が数字の話をしているのがジワジワきた。笑ったことを指摘しようとしてやめた彼は、「何もなかったなら良かったけどさあ」と発言を誤魔化すように呟く。
「何もなかったっていうか、世界が変わった」
本当に感じた。まあ大人になったら変わるかも?と楽観的には思っていたと同時に、一生ダメかもしれないと思っている自分もいた経験。『声を出す』『目を見る』。
あの日、コンビニで声を出したり、店員の顔を見た。電車で席を譲った。高校生のうちにできるとは夢にも思っていなかったこと。音量調整を間違えて大声が出てしまうんじゃないかと、逆に小さめの声を意識するほど喉に飴がなくて、全く心臓が速くならなくて、しっかり背筋を伸ばし顔を上げられる自分を、俯瞰で見る余裕もなく楽しんだ。
(あれを「何もなかった」とは言えないし、言わせられない)
彼はドキリとした表情をみせる。
「……そのエピソード聞かせてくれる……?」
興味本位です、と顔に書かれている。でも尚輝は全部答えると約束した。そして話したかった。もっと長文を試したかったから、機会を与えてくれて嬉しかった。そしてやはり興味を持たれているのが嬉しくて堪らない。
「コンビニで、いつもは一言も喋らず買うのに、飲んだ日……飲んだときは、喋って、買って……、買い物、して」
エピソードトークって難しいんだな、と尚輝は思う。セリフを脳内に書き起こすスピードが話すスピードに追いつかなくて、途切れてしまう。早く答えようとすると、語弊を招かないように言葉を変換する時間も、相手がどんな反応するかシュミレーションする時間もない。喋る言葉を喋りながら考えてる人は尊敬に値するかも、と自分の能力のなさを知り、思い当たる人の凄さを知る。
経験値の差か。もしかしたら生まれつき脳の構造が違うのかもしれない。でももしも多数派が出来ていることだとしたら、自分が置いてけぼり側であるのを痛感して、闇に引っ張られてしまいそうだ。「人それぞれ」「多様性」と心の中で呟く。つい縋ってしまい、簡単に救われる言葉。
目の前の彼は、興奮気味に「へぇ!」と言った。
「びっくりした?」
「……まぁ、はい……」
あたかも自分の手柄かのようにニヤつかれる。尚輝は不貞腐れた態度になった。さっきは薬を飲んだことを責めてたくせに。一貫性がないと感じられる。
彼は「うーん」と唸り、尚輝が随分と前にした質問に、どことなく自慢げに答える。
「あのね、この薬は、抗不安薬だよ。抗うっていう字に、ふあんぐすり。…そのまんまだね、不安や緊張を軽減してくれる薬。精神安定剤とも呼ばれる」
急に今度は国語教師らしいことを話し始めた核島だったが、尚輝は面白くなかった。さっきと違ってちゃんと国語の先生っぽいでしょ?と思ってそうな言い方が鼻についた。たぶん思っていないのも含めて。
知りたかった薬の正体は聞けたが、それならばここからが本題だ。尚輝は話を始めの頃に戻してみる。言質が必要だと思ったのは、この場で優位に立っていないと負けた感じがするからだ。あくまでも核島が尚輝の言葉を聞きたくて設けられた時間であるのだと、忘れさせてはならない。
「これは、先生のものってことで、合ってる、……?」
質問なのに、上手く語尾が上げられなかった。小さく首を傾げて、今のは問いであったと知らせる。せっかく声で話せるのに身振りを使わなければならない自分に、ちょっぴり腹が立った。首を動かすのが当たり前になっているし、語尾を上げなきゃクエスチョンにならないのに、抑揚のない平坦な喋り方になってしまう。
そんなことを考えている間、核島も何か考えていたのか、脳内から現実に戻ってもまだ沈黙が続いていた。先程までは彼の話し始めた声で我に返っていたのに、今回待たされている。
「ヴンッ」と聞こえて、力強く肯定されたのかと思い核島の顔を見る。しかし、まだ覚悟を決めている途中の顔をしていたので、ただの咳払いだと気づいた。頷きだと勘違いした自分に笑いそうになった。
誰しも緊張しているときは喉に飴玉ができるのかもしれない。『人の心に飴玉工場』CMみたいで語呂がいいなと考える。
「うん」
また咳払いか?と思って顔を見ると、彼は首を縦に動かしていた。今度こそ「イエス」と言ったらしい。話せるのに首を動かす人が、自分以外にもいた。
「……なんで」
それを踏まえて、一番気になった疑問を聞いた。彼のものだとは最初から察している。誘導したけれど、いざ言質が取れてしまうと、尚輝は焦った。興奮が一周まわって焦燥に変わる。
「なんで、とは?」
「……っ、なんで……っ、ほんとのこと、言ったの…っ、…?」
苛立ちと質問、半々だった。力(りき)んで発するハテナはどういうイントネーションなのか分からなかったから、意識しようと心に決めたばかりのに半端な言い方になってしまい、また首を傾げる。すると壊れかけのロボットになって、話し下手なのが恥ずかしかった。
核島はそんな尚輝よりも、質問の内容のほうが衝撃的だったようで、「え……」と言って固まってしまった。
図書室は図書館よりも静かだ。静かにしなきゃと思ってないからこそ、余計に妙な静けさを感じる。まるで温いソーダのように、空気が爽やかで重かった。
(…痛い…)
沈黙が痛い。自分より激痛なのは向こうだ。こちらを待たしている罪悪感を抱いている彼を、尚輝は可哀想だと思った。
だから沈黙を破ってやった。
「ぁ……、ど、どうして、本当のことを言ったんですか?…僕なら、このことを他の人にバラさない、っバラせないと、思ったから……ですか」
質問している途中で答えが分かってしまって、普通の質問からマルバツの二択質問に変更する。
(クソが。危うく信用してくれたと勘違いしそうになったじゃないか)
薬はコンビニと今日で二錠使い切っていると、彼は知っている。もう今後の尚輝には話す声がないと悟られたから話した。どうせ広まることはないだろうと思われた。悔しい。ナメられてる。
核島は自嘲的に笑って、「確かにそうだね」と言った。疑問に思うのは当然だよね、とでも言うように。「自分でもなんでだろって思うもん、ナメてるって伝えてるようなもんだよね、君がなんでって問うのは普通のことだよ」そんな言葉が含まれた納得を示すセリフに、知ったかぶりするなと思った。当たっているから、ムカついた。言葉足らずの相手の心を読んであげたと、いい気になってるとしたら、こいつを殴りたい。
「勘違いさせたね」
「……ん…?」
「僕は言いたかったんだよ、尚輝に」
尚輝の頭にはクエスチョンマークが大量に浮かぶ。知られてもいい、ではなく、知らせたかった、とは?意味不明にも程がある。尚輝は険しい顔で薬のゴミを見つめた。これを飲んでいることを、言いたいはずがない。先生がこれを飲まなきゃやってられないのは謎すぎるし、これを飲むこと自体、薬に頼っているという恥ずかしさがある気がする。恥ずかしいことではなくても、本当は自分の力ではなく人工物に頼った魔法使いは、魔法国では肩身が狭いのが相場だと思った。
尚輝は難しい顔をして固まる。考えても考えても答えが出ない。
核島が「あのね」と優しい声で言うので、尚輝はパチリと目を合わせた。
「先生は、社交不安障害なんだ」
転校生は気の毒だ。尚輝は夏服になった制服の首元をパタパタさせながら同情する。漫画やドラマの影響でビジュアルの期待値が高いらしく、「かわいかったら言えよ」と別のクラスの人に言われてる者が数人いた。どっちにしろ見に来るくせに、と内心で嘲笑する。「かわいい」は主観なんだから。浅野美香を美女だと断言したのは、……。
多様性は好きだが、『ルッキズム』と『セクシャリティ』にはドギマギしてしまう自分がいる。ちゃんと勉強して、多様性に疎い人を威厳できる側でいなきゃなと思う。少数派に寄り添える存在でいることが自分の存在意義だった頃を思うと、学ぶのは使命と思えた。
転校生に同情しているが、腐っても他人事の尚輝は、自分が転校生でない人生を歩めていることにホッとしていた。ドキドキしてるんだろ?この教室に入るの怖いだろ?と、転校生がすぐに教室に馴染めたとしても、初日だけは先輩風を吹かせさせる。視線が別に向くと決まっている状況に安心しているのかもしれない。
どんな子かな。クラスをかき乱してくれる子かな。自分以上の問題児かな。尚輝の期待は膨らむ。
今日から、うちのクラスに新しい生徒が加わる。女性だという情報だけ、一昨日から学年中に知れ渡っていた。誰が誰に話して噂されたのか分からないが、実際に現在、教壇に立たされているのは髪の長い女性だった。
「坂本音羽さんです」
第一声は女性の声だと思ったから、低い声が聞こえて驚いた。核島が名前を紹介していた。入学式では自分で言わされたのに、と嫌な記憶を回想した尚輝は「ズルい」と思う。
転校生は気まずそうに教卓を見つめていた。そして唇がゆっくりと開き、さすがに音は聞こえないが、スッと短く息を口から吸ったのが分かった。その空気は吸った分だけ出てきた。
「よろ……くお願いし……す」
彼女は、とても声が小さかった。
「緊張しますよね、大丈夫ですよ」
優しい声をかける核島に、尚輝は「は?」と思った。自分のときは、自己紹介を止めるのも遅ければ優しい言葉など微塵もくれなかったのに。
音羽は窓側の一番前の席に座った。隅っこズルい。尚輝は転校生であること以外、彼女を羨ましく感じた。あの対応が転校生であるが故の場合、『転校生なのが羨ましい』に変換されるが、どうなのだろう。女性だから、訳アリだから。
(尚輝じゃないから、なんてね)
それは逆に自惚れだ。
「分からないことがあれば僕に聞いてくださいね。心配ごととか些細なことでも全然。もし僕に言いづらいことなら、保健室とかでも大丈夫ですから。授業中に勝手に出て行っても大丈夫です」
探し物をしているふりで近づき、聞き耳を立てた。核島は必要以上に彼女を気にかけている。尚輝は不快感が生まれたのを喉の飴のサイズで感じた。
僅かな休憩時間に走って見に来た人たちは、あんなに期待していた割には顔面への感想はなく、「へぇ」「あの人ね」と確認作業をするだけだった。
「音羽ちゃん!よろしくね」
「……ん……」
「かわいい名前〜!ねぇどこから来たの?」
「ぉ、さか…」
「髪サラサラ〜、あっ、勝手に触ってごめんね!」
「……ぅん……」
尚輝はその光景を見つめていた。明るい女子たちに話しかけられる音羽はタジタジで、ぎこちない笑顔をしていた。そんな姿を見せられては、嫌でも仲間意識が芽生える。同類を見つける嗅覚は、人間も犬に負けていない。
尚輝の日常に、彼女の観察が加わった。学校に行かない生活はなかなか手に入らないが、学校生活の中の微々たる変化にワクワクできるようになった。先生の秘密を唯一自分だけ知っていること。転校生がオドオドしていること。
朱莉が学校を休みがちになっていること。
宿題未提出欄に『朱莉』がいつも書いてあって、明るい女子グループの灯りみたいな存在の彼女は、『朱莉』で『アカリ』だと最近知った。予想が外れたことに、尚輝は一ミクロだけ落胆した。
光がなくなったグループはその枠を音羽で埋めたがったが、性格は似ても似つかず、だんだんと彼女に話しかけなくなっていた。音羽は一匹狼だったが、それを自身で気にしている様子はなかった。
季節が変われば、教室も少しずつ変化が訪れる。漫画の考察系YouTubeを始めた子がいるとか、親が離婚して苗字が変わった子がいるとか、先輩がカラオケバトルに出場するとか。噂話に興味はないけれど、人生に変化を求め始める時期なのかなと傍観した。話せるようにならないと何も始まらない、と何も始めなかった自分にはない話だ。
(あっ、来た)
何となく気になっていることがある。色々な本を読むと自己紹介で言っていた美女、浅野美香が近頃図書室に通うようになっていた。昼食休みが始まって五分後くらいに来るから、早食いしているか、元々少食なのだろう。多分両方だと尚輝は踏んでいる。
最初は図書室も一年生にとっては知る人ぞ知るレベルの認知度で、読書が好きそうな二、三年生が、多くて五人来る程度だった。尚輝は最速で図書室を自分の居場所にしたが、一年生も見かけたとなると秘密基地と呼ぶには人数過多である。
尚輝は大人しく本を眺めることにした。ウロウロしていては悪目立ちして不審がられてしまう。ボーっとするにしても、読書してるフリが無難だ。
どうせなら多少は興味のあるジャンルを読みたいなと、メンタルヘルスコーナーへと足を向け、不安について書かれている本を手に取って椅子に座った。あの日もこの席だった。
(「僕は社交不安障害なんだ」)
まさかの告白だったなぁと思う。その衝撃というのは病気だった事実より、あっ僕に話しちゃうんだ、のほうで、でもその理由はすぐに判明した。気に入らない理由だった。
「社交不安障害って、聞いたことある?」
核島は、まるで「ねえねえあの噂聞いたぁ?」と言うときのように、知ってるよな?知らなければつまんない奴だな?という空気を漂わせてきた。試されているようなニュアンスに、そんなの聞いたことないとは言えなくて「なんとなく」と答えた。
「そっか、なんとなくは知ってるのか」
核島はつまらなそうな顔をする。知っていないテイのほうが盛り上がる質問だったのだろうか。でも無知だと思われるのは癪に触る。会話とは難しい。
尚輝は濁してみせる。
「……いや、存在を知ってるくらいで……」
すると、彼は笑った。
「初耳なんでしょ?もし偶然その言葉を見かけたんなら、君は深く調べようとするはずだよ」
傲慢だと思った。病名を知ったかぶりするのと、人の気持ちを知ったかぶりするのは、似ているけど違う。なぜ深く調べようとすると予想したのか。せめて説明しやがれと思う。
尚輝が苛ついている間に核島は席を立ち、「ちょっと待ってね」と部屋の奥へ行く。『心と身体』と書かれたシールが貼られている本棚から、二冊の本を持って戻ってきた。
「これに少し載ってるよ。社交不安障害っていうのは、昔は対人恐怖症とか言われてたかな?人の目を見たり人前で喋ったり、そういうのが緊張過多で出来なくなっちゃう病気。本人が自分の性格だと思いがちだから病気だって気づきにくいんだけど。……脳のね、ここ、ここに書いてあるでしょ?扁桃体のせいだから。気合いとか、そういうんじゃどうにもならないんだよ」
誰に何を言い訳しているのか。言い訳なのか、説明なのか。
彼は自分をどうしたいのか、自分にどうしてほしいのか、何を教えたくて急に何が始まったのか。唐突な保健の授業に頭がゴチャついたし、上に立たれている感じが納得できない。先程までのネズミはどこに行ったか。
意向が見えず話が入ってこない尚輝を見た核島は、「またやっちゃった」と頭を掻いた。
「余談だけど、喋り始めるとワーッと一方的に畳み掛けちゃう癖があってさ。こうなっちゃうの」
核島は顔の前で、小さく前ならえをした。視界が狭まっているのを表現したいらしい。
「それ、先生、向いてないんじゃ……」
つい言ってしまった本音に、尚輝は「あっ」と核島の顔を見た。悪態をつきたいところだったからちょうどいい、と自己肯定したいけれど、そのセリフは思っていても言ってはいけないんじゃないかと第六感が注意報を流した。
地雷の予感が尚輝の脳内を巡る。新米教師に生徒がそんなことを、まだ揉めてもないのに冷静に言ってしまえば。冗談の可能性が低くなるのに合わせて深く傷つく可能性が高くなる。
しかし、言葉は取り消せない。フォローの言葉を探すべく脳内辞書をペラペラとめくるが、慌ててめくりすぎて何の文字も見えなかった。その間、核島がどんな表情をしていたのか知ることはできない。でもそこまで時間は経っていないはずの沈黙を、彼は「うん」という言葉で破った。
「それは自分でも思う」
強がりには聞こえなかった。
「……え?」
自覚あるのになんで?と疑問が湧いて、でもそれを聞くのが今度こそ地雷な気がして言葉が出ない。言葉が溜まっていないのにパンクしそうだ。
沸騰しそうな尚輝に対し、核島は真剣な眼差しで話す。
「僕は……この病気のせいで、青春を一切楽しめなかった。この病気のせいって言いたいだけ……、んーん、いやでもほんとに、そうだと思ってる、思う。学生時代ずっと黙り込んで、ずっと下向いてた。先生にも同級生にも嫌われてたよ。何もしてないのにね、何もしないのは何かやらかすよりも重罪みたいで。……もう、暴言を吐くための口なら俺にくれよって、何度思ったことか。嫌われてたっていうか、面倒くさがられてたかな。学校に行かない選択は、…なんでかな、できなくて。きっと発想がなかったんだよね。うん、これが十代の運命なんだって、自分の人生は学校を卒業してからやっと始まるんだって。そう思ってたんだよ」
向いてないのに教師になったのは、十代の青春を奪った学校で、青春を取り戻すリベンジだと。一方的に話すのを悪癖と感じている言い方をした矢先、彼はペラペラと大胆に披露してくれた。
「リベンジ……」
「ん?」
「青春、取り戻せてますか?」
尚輝は直球に聞いてみた。取り戻せていないだろうなと思いながらも、どう答えるのか気になった。案の定、核島は苦笑いした。
「まだ先生を務めることに必死で、そこまでの余裕はないかな」
そうですか、と尚輝は何を言われても言おうと思っていた言葉を放つ。
「まだまだ先になりそうだなって思ったでしょ」
「……まぁ、だって先生、先生に向いてないから…」
「なんでもう一回言うの」
「自覚あったらしいから…」
核島はムスッとした顔をしたが、少し嬉しそうにも見えた。拗ねた大人の顔は面白いな、と尚輝は思った。
「話変わるけどさ、…いや、戻るのかな」
「はい」
「知らないよね、社交不安について」
素直に「初めて聞きました」と伝える。さっき嘘をついていたのを彼は分かりきっていたみたいで、馬鹿にする表情すらしてこなかった。
「他人が言うことではないと思う、正直な話ね。失礼っていうか……だいぶ非常識だから。でも、尚輝に僕みたいな高校生活を送ってほしくないって気持ちが強くて、この際、こういう機会がなきゃ言わなかったかもしれないけど、機会があっちゃったから、言えってことなんじゃないかって、思っちゃう。もう言わずにはいられない」
長い前置き。そんなにハードルを上げられたら、めちゃくちゃな失言でも「そんなことか」と思えてしまいそうだ。彼はそうさせたいのだろうけど。
「先生、本当にこうなるんですね」
尚輝は首の辺りで前ならえをしてみせた。顔まで腕を上げるほどには緊張がほぐれきっていない。ずっと膝の上にあった両手は汗で湿っていた。核島は笑って尚輝の真似っこをしていた。この人なんか子どもっぽいな、と尚輝は微笑する。筋肉が緩み、顔まで腕を上げられた。側から見たらどう思われるだろう、この二人。
可愛い、と思った。そのままの意味だ。手を回してガタンゴトンとでも言い出しそうな雰囲気に、イチゴやウサギと同じニュアンスで可愛いと思った。
青春を過ごしてこなかったから、思春期の心を使いきれていないのかもしれない。今、青春時代を取り戻すと同時に、十代・子どもをやり直しているのではないだろうか?と尚輝の中に疑念が生まれ、彼の生い立ちや性格を分析し始める。
頑張って背伸びして社会人をしているだけの子ども。青春できる子どもでいたいと愚図っている大人。
子どもに戻りたいと思っている時点で、大人になってしまっている?……否、ちゃんとした教師になりたいと努力している。人が怖いくせに、自立した社会人にならなきゃとコソコソ薬を飲んでまで家の外に出ている。
子どもで在りたい。
教師で在りたい。
この人、ほぼ同級生だ。尚輝は感じた。「僕ね、知ってるんだ!社交不安障害って病気が世の中にあること!その人は不本意な状況かもしれないって視点で人のことを見られるんだ!多様性を認められる、僕って立派な大人でしょ!えっへん!」と自慢されている。
「すごいねー、賢いねー」と言ってほしいのかもしれない。彼が尚輝に求めているのは、癒しや励ましの声。……とは到底思えないけれど、自分の薬を使われたのに知識でお返ししようとしてくれる。もしかして優しいのではないだろうか?いや評価しすぎか。
「まあ簡潔に言うと、尚輝は病気だと思うんだよ」
尚輝は核島の顔や見た。
そして、反射的に「死ねよ」と思った。
「……は?」
本当に他人に言うべきではない。言うべきじゃないとわかってるけど意を決して言います、と伝えられた上でも、許せなかった。
信じられなくて、尚輝は固まった。今まで嫌な思いはしてきている。声について憶測で語られ、否定も肯定もできない虚しさに、むしゃくしゃとやりきれない気持ちになった。意見がないのを感情がないとイコールにする馬鹿な人たちに何を言われようと黙り込むしかない悔しさ、ベッドに入ると思い出して落ち込み、眠れなくない夜を幾度も乗り越えた。
小学校、授業を受けずに優しい先生と塗り絵ができる『こころのおへや』に入るのが夢だった。学校を一時間サボった人が怒られているのを見たあと、二週間ぶりに学校へ来た人が褒められていた。あの子はすぐに保健室へ行ってしまってそれっきり会うことはなかった。
後者になりたい人生だったが、自分は後者どころか前者にすらなれなかった。無遅刻・無欠席で皆勤賞を取ったような気がする。逃げる勇気も逃げない勇気もない。
酸素が薄くなる中学校の正門前、笑顔で境界線を跨ぐ人々を羨ましく思いながら、毎度焦燥感にだけ背中を押されてやっと前へと進んだ。
あの頃はシューズの中に画鋲を入れるのが流行っていた。いつの時代にもある原始的なイジメ。自分のシューズにはラブレターが入っていた。もちろんフェイクのものだ。イジメのニューウェーブ『嘘告』。相手はクラスのおとなしい女子だったから、書いた人は二人同時に闇堕ちさせたかったのだろう。警戒心が強かった自分はそれをリュックの奥に入れ、何事もなかったように過ごした。一部生徒に興味深そうに見つめられたのち不満そうに睨まれたけれど、特段何も起こらなかった。我メンタルを誇りに思う。
辛かった。苦しかった。悲しかった。悔しかった。だけど、どれもこれも仕方ないと思うしかなかった。する側の気持ちも正直わかる。声があるのに喋らない奇妙な人間が怖いのだろうと、分かる。こうだからこうなんだよ、と理論化し結論づけると安心するのが人間だ。される側になるとする側の気持ちも分かる。する側はされる側の気持ちを学べないのになぁ、と自分もあっち側を結論づけて安心する。互いに決めつけ合う。
嘘告のような、画鋲のような、原始的なイジメでは経験済みの感情にしかならない。
新しい感情に、思わず「は?」と言った。これはイジメではないかもしれないが、傷つける言動であるのに変わりはない。他人に「病気だと思うんだよ」と言えてしまう精神が病気な気がする……と言ってしまったら同罪か。
でも、ドン引きしている。今までで聞いた何よりも酷い言葉だと思った。
こんなに怒りに身を預けたのは初めてだ。冷まさなければと思えない。目の前がボヤけ、頭がフワフワする。火照っている体が変な汗を出してくる。急に喉が渇いた。口が乾燥し、粘ついた唾を感じる。きっと口臭がキツいだろうなとカバンの中のタブレットを思い浮かべた。人と話さないのとストレスのダブルパンチで、唾液が上手く分泌されなくなってから何年も経つ。タブレットは特段好きでもないから、個人的には無駄な出費であるが辞めることは許されない。
突如。自分の手の指がピクピクと動く。驚いて、まじまじと指を観察してみると、動悸に合わせてかテキトーなリズムか、一定ではない動きに支配されていた。
勝手に動いた手だけでなく、その他の全部、自分の体でも自分の心でもない感覚がした。このまま震えが加速しておかしくなるのではないかと不安になる。
尚輝は自身を抱きしめるように縮こまり、俯く。
夢?と考えてしまうほど、気が遠くなった。魂だけが離れていく。死ねと思うし、死にたいとも思う。願わずとも死ぬかもしれないとも思う。現実感がない。でも襲いかかるのは、現実でしか味わえない身体症状だった。吐く可能性ゼロのくせに強く襲いかかる吐きそうな圧迫感。荒くなる呼吸を整えるため深呼吸を意識する。
「頭が…っおかしくなりそう」
つい声に出ていた。脳内に閉じ込めきれずに溢れ出る声こそ本物の独り言だと思う。
叫ぶ勇気はないけれど、叫びたい気分だ。「ゔがあーー!」と叫びたい。「ゔげがごがあがぎがだーー!」と言いたい。唇は震えて上手く機能しないから、喉を使う濁点を言いたい。この感情は狂った精神にしか生まれないだろう。やるせない気持ちと胸の圧迫感を持つ者にしか理解されないと思う。例えば犬のように吠えて暴れたら、胸がスッキリしそうである。でも人間が「ワン、ガルルルルッ」と言えば驚かれてしまうので、妥協の濁音を叫びたいと欲を表現したまでだ。
それが無理なら感情は現状維持。尚輝は、倒れてしまいそう、倒れてしまいたい。と、この感情を消したいというより、何も感じない状態になりたいという考えにシフトしていた。
こういうときに限って、ほら、飛行機が通る。こんなに臨場感のあるヒュゴーーという音は夢ならば聞こえない。カラスだって、現実でなければカーアカアカーーアーなんて不規則なカアを発さない。不規則だと今知ったから。
「……尚輝……?」
心配そうな声で名前を呼ばれる。気持ち悪い。なのに、喋らない疑問を含まずに心配されるのは初めてで、クラスメイトみんなの先生を独り占め出来ている支配感が気持ち良い。自分のためだけに時間を使ってくれているとは、寿命を分け与えてくれているに等しいと尚輝は思う。その罪悪感・背徳感が自分を不本意にも喜ばせてくるものだから、感情はぐちゃぐちゃだ。
「ちょっと尚輝?……山之内?ねぇ尚輝」
何で泣いてるの?と問われる。
知らない。核島に泣かされたことだけはわかる。キャパオーバーという言葉が正しいだろうか。でもそんな不明瞭な表現ではなく、もっと具体的に分からないと怖い。他人のような身体で、自分の感情すら分からなくなったら、乗っ取られてしまう気がする。
「すごく静かに泣くねぇ」
彼は褒める言い方をした。静かに泣くのはすごいことじゃない。本当は大声で泣き喚きたいのを抑えてるのを知っていての発言なら殴りたい。「うるせえ、黙れ、死ね、殺すぞ」誰かしら何かしらの受け売り。人生で一度も発したことのない悪口が高速で頭の中を駆け回る。
「な、っ泣いて、ない……っ」
バレバレな嘘で意地を張ったが、「自分の意思で」を付けたつもりでの発言である。泣くつもりなどなかった。泣きたいと思っていない。
核島は更に追い討ちをかけ、尚輝を憤慨させた。
「これは嬉し涙かなぁ?そうだったらいいな」
気づいたときには、机の上の薬のゴミを核島に投げつけていた。しかしゴミは軽くて飛ばず、彼の目の前にチャッと音を立てて落ちる。
彼にも自分と同じくらいに心を乱してほしい。本はさすがに怪我をさせてしまう。公共物だし。それに、投げて当たらなかったらダサい。八つ当たりみたいな怒りの発散法は向いていない、と脳の思考部分は冷静になる。
何をして傷をつけようか、と考える。考えて、これしかないと思った。簡単に決まった。一番、強く刺さり深い傷を残す方法。過去の時間を、現在での充実した生活で補充し満たそうとしている彼へ。
あまり相手を知らない身分で、悪口雑言は難しい。脅しが効くだろう。だんだん涙も引っ込んできた。
「…、……いける」
尚輝は、言葉の暴力を振るった。
「ぃ……っ、い、言ってやる!僕の親に言ってやる!っ、た、担任の先生に『お前は病気だ』って言われたって言ってやるから!そそ、そしたら、先生は先生として終わりだから!すっ、青春をやり直す夢も、大学で学んだ四年間の努力も、だから、…全部、なくなる!全部失う!時間もお金も無駄になる!仕事もない人になる!……あと、核島先生は精神安定剤を飲んでるって、その、学校で他人が拾って誤って飲んだら危ない薬を無断で持ち込んで飲んでるって、……その、噂を流すし……校長先生とかにも、言ってやるから……っ!病人が仕事しないほうがいい、から!そんな、人にそんな発言する頭、脳みそが、一番おかしい!病気だ!……しゃこ…、社交不安障害、じゃなくて、社会不適合者だ!」
人生でこんなにも校内で喋る日が来るとは思わなかった。こんなにも自分で考えた言葉で人を傷つける日が、傷つけようと思う日が来るとは思わなかった。
初めての罵詈雑言。息継ぎのタイミングが下手だったのか、心理的な問題なのか、とても疲れた。喉の飴玉はないけれど、胸の辺りのドロドロと粘着性のある重みはいつも以上に多く感じた。まだ喋りたい気もするし、もう声を出し尽くした気もする。気持ち悪い。嘔吐物でも言葉でも何でもいいから吐いてしまいたい。言いたいことを言ったはずなのに、全然スッキリしない。
せっかく話せる状態なのに、これか。薬を飲んで喋りたかったことは、こんな汚くて痛い言葉たちだっただろうか。人と会話ができるようになる魔法は数時間後に解けてしまう。有効な使い方はできているのか。
「もったいない、もったいないことした」
薬のゴミで人を釣る暇つぶし。そんなつまらないイベントのために使うなんて、無駄遣いだった。残り一錠の魔法を使う日は、今日じゃなかった。
尚輝が絶望していると、彼は俯いたまま、また自分の頭の中に前ならえ状態で喋り始めた。
「いいよ、言いなよ。……でも、何の病気を疑われたのかは、ちゃんと伝えてね。それで本当に親と相談して病院検討してみて。こっそり行ってもね、保険証でバレるから。親に言ったほうが堂々とできるよ。まあ僕は親に言えなくて扶養を抜けてからしか病院に行けなかったんだけど。……尚輝が、病院に行って、この薬を手に入れて、喋れるようになって、青春が過ごせるようになったら……そうだな、……僕の代わりに、人生を、青春を楽しんでよ。そしたら一人の高校生を守れたんだって、それだけで先生になるために努力した時間は無駄じゃなかったって思えるよ。誇りに思うもん。高校生活、これからでも間に合う。先生の青春、尚輝にあげるよ」
そう言って立ち上がった彼は、パシャっと何かをポケットから落として図書室を出て行った。「なんか落としましたけど?」と声をかけようとして、それが光ってることに気がつく。
何もなかったかのように白々しく去って行った背中を見送り、尚輝はそれをサッとポケットに仕舞った。防犯カメラは大丈夫なのか?と天井を見てみると、どう見ても火災報知器な火災報知器があった。
「あっ……」
だからといって便所飯を始めようという気にはならない。やられた。あーあ、やられた。負けた。
はぁ……と深くため息をつくと、五限終了のチャイムが鳴った。
本を読んでいるフリをしていたら、映像が頭の中で再生されていた。ボーっとしていたり、連想させる出来事があったり、あとは寝る前か。こういう症状を反芻思考と呼ぶらしい。主人公のはずなのに、第三者的に俯瞰で見られる当時の映像。頭の中に壊れたテレビがあって、記憶ビデオは前触れなく再生される。
自分の体に起こった現象や変化は、すぐに図書室の本やスマホで調べるようになった。病気か性格か、きちんと分類するための習慣で、趣味や癖と言っても過言ではないほど日常に入り込んでいる。
(これは発達障がいに多いのか)
五限開始五分前のチャイムが鳴る。昼休み終了の合図、あの日は試合開始のゴングの音だった。
顔を上げると、奥のほうの席で向かい合う形になっていた美香もハッと本から顔を出していた。同じ動きをしちゃったな、と思った。向こうも同じ感想を思ったのか、ぱちりと目が合う。逸らすタイミングを見失っていると、彼女は目を閉じて両腕を上に伸ばしてストレッチした。先に逸らしてくれたらしい。
彼女は美貌と天然発言により、クラスの多くの男性陣を虜にした。女性陣も彼女と仲良さそうにしている様子を周りに見せているが、昼食を一緒に食べたりはしない。図書室へ来ることが本意なら良いのだが、自分のように逃げ場としているのなら可哀想だな、と同情の準備だけしておく。単純にマイペースなだけかもしれないから。
美香は本が好きだと自己紹介で言っていた。図書室へ来る理由は本が好きだからなんだと考えるのが妥当だろう。ならば同情の準備は必要なかったか。
気落ちしていない彼女の表情が、尚輝をそう思わせた。
「……ぁ…っ」
次の授業が体育だったことを思い出す。着替えなければならないのに、やらかした。尚輝はダッシュで図書室を後にする。少し遅れたけれど、体育の先生は気にしておらず、怒られずに済んだ。彼女は見学だった。
「さようならー」と帰りのホームルームが終わったタイミングで、久しぶりに核島に話しかけられた。尚輝は不本意だが少し嬉しく思う。薬を飲んでいないにも関わらず笑みが溢れそうになり、慌てて表情筋に力を入れた。
「なんか久々だね、尚輝と話すの」
「…っ、…はぃ…」
「おっ、声出した。……っていざ声を出したときに指摘されるの、めっちゃ嫌でしょ」
自分がされたくないことを人にする神経が分からない。彼と関わっていると、高確率でこの文章が頭に浮かぶ。
「ごめんね、嫌なことして。共感してくれるかなぁと思って」
尚輝は、分かるけど、の意味と、そうですか、の意味の二つを込めて渋々と表現するように頷いてみせた。核島は「嬉しい」とそこまで嬉しそうじゃなく言い、本題に入る。
「尚輝と話したい先生がいるって。時間があれば今日これから…、もしなければ明日でも。時間作れない?」
尚輝は、いいですけど、の意味と、そうですか、の意味の二つを込めて鳩のようにコクッと頷いた。
彼はこっち側の人間のはずなのに、相手側になると悟るのが苦手らしい。尚輝も、自分の気持ちを汲んでもらうことを他人に望みながらも、他人の気持ちが分からない。人間そんなものだと言ってしまえばそれまでだが、自分たちは弾かれ者の少数派の多様性愛好家なので、他人への理解を雑に諦めてはいけない。
「いい?」
だから確認されても許せた。絶対に「はい」と言ってやるもんかと思いながら、頷く。
「職員室の隣の隣の教室ね」
左右どっちだよ、と聞けなかった。行ってみたら、職員室の右側にしか教室はなかった。
“教室”というより“密室”だと尚輝は思った。目の前には貼り付けたような笑顔の、四十歳前後のおじさんが座っている。中途半端な硬さのソファに向かい合って座うように言われ、従うしか選択肢が浮かばなくて腰掛ける。座り心地は悪くないけど居心地が悪い、と内心で呟いた。何用の教室なのかも謎で、ちょっぴり怖い。
核島は「先生」と言っていたが、彼の職業は「カウンセラー」だった。そもそも会いたがってる先生ってなんだよ、と今更ながら思い返す。会いたくなるようなことは何一つしていないのに、まるで「是非ご挨拶をしたい」と言われたシェフの気分になってここへ来ていた。自分が恥ずかしい。想像力の欠如、完全なる失態だ。
「山之内尚輝くんですね、よろしくお願いします。八木原と言います」
一応、ペコリとお辞儀をする。先程の笑顔が生理的に苦手で、彼の目を見ることができなかった。何も見透かしていないくせに、君のことわかってるよ?という顔。僕が寄り添いますと言いたげな柔らかい声質や口調も気に食わない。気色悪い。キッショ。
自分は高校生のはずだが、一気に園児になった気分だった。彼の言動一つ一つで、こちらのプライドをじわじわと傷つけてくれる。
「八木原はこの学校三年目くらいなんです」
一人称が苗字?キッショ。
「まあ俺の話はいっか」
最初だけなんかい。『俺』って、フレンドリー演じやがって。キッショ。
「尚輝くんの話を聞かないとですよね」
尚輝くんって呼ぶんじゃねぇ。キッショ。
意識しているんだろう一人称も二人称も気に入らない。とにかく気色悪くて、なぜか精神を削られる。
心にすぐに入り込もうとする図々しさが鼻につく。そちらが砕けるほど、こっちはそれを反面教師にして固くなるとも知らずに。ムカつく。帰りたい。キッショ。
「尚輝くんと話したいなって思ったのは、尚輝くんの担任の先生の核島先生に聞いたからなんです。人と話すのが苦手なんですか?あと、お昼ご飯を食べていない様子って聞いたんだけど、そうなんですか?」
尚輝は、は?と思ったが、何故クエスチョンマークとイカリマークが同時に頭の上に浮かぶのか、自分で答えが出せなくて戸惑った。この場の緊張や八木原の印象など、情報が多すぎて、考えなきゃという考えしか考えられない。明らかにストレス過多と情報過多だった。脳内には「キッショ」の文字しかないから語彙もない。
――今、核島先生と八木原先生のどちらに怒ってるんだろう。
情報を整理してるせいで脳が思考停止する。
(核島がこの人に僕のことを色々話したってことで合ってる?彼の秘密を誰にも話してないのに、不公平だ。プライバシーの侵害だ)
八木原の情報を一切知らないし、そもそも用件も知らされずにここに来させられた。なのにこっちの情報がバレてる。フェアじゃない。気に食わない。
(これが最低だって、核島は分かる人じゃなかったのかな。同類じゃなかったのかな)
さっきこっちが共感したら嬉しいって言ってたのに、おかしい。やっぱり嫌な奴。個人情報をこんな簡単に他人に話すのである。会いたがってる先生がいるって言って騙して、自分が会わせたいカウンセラーを出してきた。生徒を、自分のことを、病人扱いした。先生と同士だよって、レッテルをお揃いにしようとしてきた。失礼だし、気持ち悪い。
高校に行けるのは恵まれているから。恵まれていなければ学校に行かなくて済んだのだろうかとボヤけば、世の中に怒られる。恵まれた身分でそんなこと言っちゃいけない。知っている。
不幸自慢は自慢じゃない。喋れないことを認めてほしいのはそうなんだけれど、可哀想だと思ってもらうのは違う。情けをかけられたり、同情されたりしたら、尚輝はその人なしで生きられなくなるかもしれないのだ。「可哀想に、生きづらいんだね、よしよし」と言ってくれる人を望んでいた。望みが叶えば依存する。
黙り込んでいる尚輝を見つめていた八木原が言う。
「場面緘黙症って知ってますかね?」
一通り説明をされた。知っていることにしておけば良かった、と思った。
(病名は何だっていいんだよ)
彼は当事者ではないからネット情報か書籍で学んだ言葉を並べるだけだった。それならスマホでもできる。
「食事の時間はいつもどうしてるんですか?」
八木原の声が雑音に聞こえる。尚輝の脳内は「ねむい」で埋め尽くされていた。帰りたいと願うのも疲れる。ひとまず心身と脳内を休ませて欲しかった。
「お昼休み、何してる?」
ついに敬語も外れたか。黙り込んでいても帰らせてもらえないのならサクサク答えたほうが良いかもしれない、とこっそり集中し直した尚輝は、小声で答えていく。
「図書室」
「ん?……しょしつ…?」
「トショ」
「あっ!図書室ね!いいね!本好きなの?」
いや別に、と口パクしながら首を横に振る。ふーんそっかそっかと笑顔で言われた。好きだったらなんなんだ、嫌いだったらなんなんだ。……眠い。
喋らせたいだけで返答の内容はどうでもいい。この人はいつもの、今までとおんなじつまらない大人だ。山之内尚輝の事情など興味ないしどうでもいいのである。
彼は淡々と仕事をこなしてるだけ。尚輝とて、そんな人とは話したくない。こんなの話す練習にならないのだから、単なる時間の無駄だ。
なんでこんなことを、あの人は自分にさせたのだろう。これが尚輝の為になると本気で思ったわけじゃあるまい。
「尚輝くんは人と話したり人前でご飯を食べたりするのが苦手?僕ともあまり目が合わないね。直球に聞くけど、病院には通っていないんだっけ?心療内科とか精神科とか」
あっ、と気づく。もうこのセリフで怒りに燃えたりしない。経験済みの感情。病人扱い、どんと来い。
それより。そんなことより。尚輝は核島の真意に気づいてしまった。
(カウンセラーに言わせたらいいと思ったんだ)
専門的な人の意見なら信憑性があると思った。大人二人に言われたら多数決で勝ちだと思った。共犯者を作って生徒に病気と言った先生が自分だけにならないようにした。これらの理由だと推測する。
尚輝は核島を脅したかったけれど、彼の事情を外部に漏らすつもりは微塵もなかった。とっておきの薬をまた彼の件に使うのは嫌だから……とは後付け理由で、他人の人生を壊してしまおうと思うほど自分はグレていない。理性を使うまでもなく、冷静な感性での判断だった。
それなのに、低く見積もられたものだ。
彼はちゃんと対策をしている。自分が退職になるリスクからも、万が一の場合に自分の退職が無意味にならぬようにも、「尚輝は病気」を残そうとしている。
「もうこんな時間だ。じゃあ今日話したこと、言えそうなら親御さんにも相談してみてね。また来週くらいにお話ししましょう」
二度と来るもんか、と尚輝は心の中で悪態をつきながら、敢えて丁寧にお辞儀をした。一生のお別れになるだろうから、最後は印象良く終わりたい。
出て行くとき、入れ替わりに部屋に入ったのは音羽だった。
金曜日の夜。国民が映画を観始めてから見終わるまでの時間。
尚輝は寝る準備万端で、ベッドにうつ伏せになっていた。検索ボタンを押すたび、小さく歌う。発言にメロディーを付けてみただけだが、音に乗せると言葉がカジュアルになるのを知っている。
「そぉんなぁにゆーぅならぁー」
スマホを弄って二時間、検索ばかりしていた。ここ最近ずっとそうだ。
『社交不安 症状』『場面緘黙症 治し方』『病気 先生に言われた』『社交不安 市販薬』『抗不安薬 手に入れたい』『病院 保険証 バレる』『精神病 診断』『反芻思考 発達障害』『白黒思考 発達障害』『発達 診断』『発達 調べ方』『未成年同意書 ダウンロード』
そんなに言うなら。
尚輝は、診断を受けてやろうと思った。もちろん自費で。お金ならいくらでも……と思っていたが、いざとなると躊躇った。幾らでも支払えるというのは自分だけが手に入れられる魔法に対しての意見であり、現実世界の商品への想いではない。簡単に通常額の三割負担で薬を手に入れている人間がこの世にいると知ってしまえば、自分だけ全額自己負担なのは悔しい。
そんなに言うなら。
たどり着いた『QEEG検査』は、高度先端医療のため誰しも三割負担にならないそうだ。元々保険適応ではない方法で受けたほうが、全国民と同じ値段なのだから損した気分にはならないだろうと考えた。
(ふーん、そんなもんか)
一万五千円、それで答えが出るなら安いもんだと思う。脳検査だから完全に他人任せなのもありがたい。ネット上にあるセルフチェックサイトでは「友だちに〇〇とよく言われる。はい・いいえ」的な質問がある。友だちがいる前提で困った。
自分で自分を分析するのは、楽しいけれど難しい。だから周りの反応を問われているのだろうけれど、周りに人が寄らない自分は他人にどう思われているか知らない。それに、もし友だちがいたとして、彼らは果たして尚輝に対して相手がネガティブに感じる意見を言うのだろうか。
そんなに言うなら。
脳検査なら、主観が入る心配はない。普通の病院で診断を受けたら色々なテストをしなければならず、それもどんなものか気になるところだけれど。ネット上にある診断に似たこともやらされるだろう。これが最善。これなら損しない。
(これを受けてやろう)
まずは発達障がいかどうかを明らかにしたい。人間関係が上手くいかないのは、頭の中がうるさいのは、パーカーの色が昔から同じなのは、おやつは蒸しパンでなきゃ嫌なのは、音や臭いが気になるのは、触覚が過敏なのは、曖昧な表現や臨機応変が分からないのは。
ネットによると、全部、発達障がいだと言うじゃあないか。
尚輝は社交不安障害や場面緘黙症を認めていた。記事に書かれている何もかもが、悩み一つ一つだったから。
以前まで名前がついているなんて知らなかった、尚輝を恐怖に陥れてきた恐怖症の数々。その恐怖症たちを囲った丸い枠の頂点には、病名『社交不安障害』が書かれていた。恐怖症が全て当てはまる尚輝からすれば、その病名はイコール尚輝になる。まるで「これをまとめると貴方です」と言われたような。
コンビニから帰って、なんとなく調べて、認めざるを得ないと思った。否、認めたら気持ちが楽になった。検索をしたのは自分の意思で、認められに向かったのと同義である。
『性格と本人も勘違い。心の病気を知っていますか?』
無知は怖い。無知は知らないことすら知らない。そして有益な知識は、意図せず突然得られる。
『気持ちの問題ではありません。甘えでもありません。人前で緊張しやすい方は多くいますが、そこに対する苦痛が強く、生活に支障が及んでいる場合は【社交不安障害】の可能性が高いです。過敏に……』
性格ではない。
気の持ちようではない。
努力不足じゃない。
記事は尚輝のマイナス要素を、決してプラスにはならなかったが、全て『貴方のせいではない』と肯定してくれた。
病名はその証明だ。自分が病気なのは絶対的な事実。現在それが発達障がいの二次障害なのか、それだけ検証したい。自分が何者か、分かるのが楽しい。
心臓がドキドキしない。どれほど望んだことだろうか。叶えられる薬が存在していたと今まで知らなかった自分が悔しい。薬という発想に至らなかった無知な自分が不甲斐ない。
薬イコール病気と考えていたし、よもや自分が病気だなんて思わない。周りも病人扱いしてこなかった。なんで分からなかったのだろう。今となってはそちらのほうが不思議なくらいだが、本当に薬を飲むまで病気を疑ったことはなかったし、核島に言われるまでは認めていなかった。それが今では、取り憑かれたかのように検索と肩書き作りに励む。
高校の担任教師の不謹慎。他人に病気だと言うのはデリカシーがないにも程がある。しかしそれを理解した上で尚輝に教えてくれたのは、勇気と言い換えられるかもと思ったりする。自分の口で背中を一押し。カウンセラーを使って、もう一押し。何歩で辿り着くか分からない病院への前進の手助けをしてもらった。
大人っぽい字書けるかな、と思いながら、尚輝は未成年同意書をコピーするためコンビニへ向かった。買い物をしないでコンビニを出るのは、万引きを疑われそうで緊張する。薬があればそんなこと考えず堂々と出られるのか、と思うと、魔法が一生解けてほしくない気持ちが募った。
(薬が手に余るほど欲しい)
「ASDとぐるぐる思考です」
頭にたくさんの吸盤をつけられ、検査された。最新だなと思った。予約制だったからか、受付から検査までも、検査が終わってからの診察も、すぐに呼ばれた。個室で先生とワンツーマンで、とても丁寧に説明をされる。
部屋が綺麗で明るいから、学校のカウンセリングのような嫌悪感はなかった。小学生の頃に憧れた『こころのおへや』に似ている。小学生をやり直せている気分で、尚輝は嬉しくなった。
見せられた紙には、頭の形のイラストが並んでいた。大雨の地域の雨雲レーダー映像を連想させる、真っ青に少しの緑が混ざったカラーが印刷されていた。
この冷たい雨はASDを示すらしい。紫っぽい糸が絡まる脳もあった。これはぐるぐる思考を示すらしい。コンセントが絡まっている状態を想像してくださいと言われた。思考回路を電気回路に例えられても比喩でしかないなと尚輝は思ったが、変な専門用語を言われるよりは断然分かりやすかった。
説明を聞きながら、自身の脳があっさりと視覚化されたことに驚いた。知らない世界が、知らない場所で、進化し続けている。未来は診断テストなんか消えてなくなって、全て脳波で視えてしまう時代が来るのかなと考えた。
こんがらがったコンセントを解いてくれると言う。治せると言うのか。ならなぜ治らずに悩む人間が世の中に溢れているのか。
見せられたパンフレットには六十万以上の値段があった。なんとなく、分かった。この値段に、今後の人生が生まれ変わる価値を見出す人間が少ない。それが答えだ。ここに来る人のほとんどは自己愛が強いはずである。自分を知りたくて、自分を守りたくて、証明を求める人たちなのだから。
発達障がいの芸能人はたくさんいる。彼らは人と違う故に生まれる発想を手放すのが怖いのかもしれない。
自分も何者かになっていたくて、特別でいたくて。
(まさか可哀想でいたほうがいいと思っているのか?)
(変わることが嫌?どうして?)
ぐるぐる思考を治せる方法を目の前に、ぐるぐるした思考をふんだんに使う。
(……そっか……)
尚輝は気づく。自尊心を保つべく、もう今の自分を愛すると決めてしまっていたから怖いのだ、と。この自己愛が、病気の自分だからこそ存在しているものだったら。そんな可能性が僅かでもあれば、躊躇うのは当然であると言えた。『病気の自分』を『病気でなくなった自分』は思い出せなくなり、病気の人を理解してあげられない人間になってしまったらどうしよう。多様性を認められない馬鹿なマジョリティの仲間入りをしたらどうしよう。
病気じゃなくなった山之内尚輝は、山之内尚輝じゃないのではないか。
無理な勧誘はなかったけれど、尚輝は断れたのを誇りに思いながら、家で自己分析を始めた。症状に病名や障がいや恐怖症を当てはめれば、心がストンと落ち着き、スッキリする。まるで部屋の片付けのようだと尚輝は思った。
特性はASDで、病名は社交不安障害で、気質はHSPで、悩みは反芻思考で、学校では変わり者で、独りぼっちで、精神安定剤が必要な、色々と抱え込んだマイノリティな存在。
可哀想で生きづらい。
これが山之内尚輝なのである。
Xのダイレクトメッセージで見知らぬ人とやり取りをする。
『プロマゼパムを頂きたいです』
『ご連絡ありがとうございます。一枚あたり三千円です。お支払いは送金、発送はレターパックです。対応大丈夫でしょうか?』
あの核島の落とした抗不安薬があれば何も問題なく生活できる。それは検索ではなく実体験で学んだ。
『はい、問題ありません。三枚まとめての購入は可能ですか?』
どうすれば病院に行かずに処方箋を手に入れられるのか。尚輝が行き着いた方法は、SNS上の薬の売買だった。
『かしこまりました。では九千円お願い致します。振り込まれ次第、発送します』
『よろしくお願いします』
拾ったものを使用するのは罪らしい。きちんと調べた。個人間で薬の売買をするのも罪らしい。知っている。自分は既に罪人だと知ったから、重ねて罪を犯しても同じ、と思えたのは白黒思考か。善人か悪人か問われたら、尚輝は迷わず「悪人です」と今なら答えられる。拾った薬を飲んだだけじゃ、自信満々には言えない。黒くなるなら真っ黒じゃないと嫌だ。
薬が欲しい。手に入れるには犯罪をしなければならない。選択肢がそれしかないのなら、それをやるしかない。学校に行く選択しかないように、そうするしか仕方がない。視野が狭まるのは、いつだって人生に傷をつけるときである。
「尚輝、何してるの?」
カチャリと音がして、振り返る。部屋に母が入ってきていた。真っ黒の我が子を優しい目で見つめてくれる。こんな息子でごめん。母に申し訳ないと思ってしまう。
「ねぇお母さん、僕のこと好き?」
尚輝は問いかける。自分の次に大切な母へ。愛してくれていますか?と聞いてみたかった。
「何、甘えん坊さんねぇ。大好きよ。お母さんの大事な息子だもの」
「息子だから好きなの?」
「……ん?どうしたの」
「いや別に、自分の子どもだから好きなのか僕の中身が好きなのか、どっちかなって思っただけじゃん」
吐き捨てるように言ってみるが、本当はどんな返事がくるかドキドキしていた。
「えー、どっちもよ」
母はいつも当たり障りない。でも、期待はずれだけれど、安堵している自分もいた。息子であり、この性格なら、母に好きでいてもらえるらしい。
「僕がもしも悪い子だったら、嫌いになんの?」
「尚輝がお母さんのこと嫌いになったらお母さんも……、いや、お母さんは尚輝のこと嫌いになれないよ。大好きだもん」
「おやすみ、良い子の尚輝」なんて高校生の息子に言う母親は珍しいと思う。「良い子の」と言うことによって悪いことをさせない作戦なのか、真意は読めぬが、“キレイにご利用ありがとうシステム”を使われたなと感じた。ならばこちらは「良い子は入らないでね」の立ち入り禁止区域に、「僕は悪い子だからオーケー」と言いながら入る、“へそ曲がり小僧”をやるまでだ。母には反発したくないのに、世界に挑発するには家族も裏切るしかないらしい。
自分がどんな人生を選択しても好きでいてくれる。試してみなきゃわからないけれど、実際そうなのだと思う。母は優しい。ずっと味方してくれるし、とことん甘やかしてくれる。
本当は、もし自分が不登校になったって、今まで通り接してくれるのも知っている。学校に行くのを両親のせいにしているのは、悲しませたくない自分のエゴ。強い息子だと思われたい、弱みを見せるのが恥ずかしい、ただのワガママだ。父母がどんな自分を望んでいるのか、自分が一番知らない。
本音を語る勇気があれば、尚輝が苦しむくらいなら行かなくていいよと言ってくれるかもと、たまに思ったりもする。「尚輝の幸せが一番だよ」と言われたら、少なく見積もって六リットルは泣く。でも、「学校は行かないと」と言われたら二リットル泣いて両親を嫌いになる。
臆病者。チャレンジする勇気がない。あんなに優しい母を信じていないのか。説得できる技量がないと自分を判断しているのか。
(もう何もかも嫌だな)
キュッと胸が痛み、目に涙が浮かんだ。「病気だと思う」と言うのが怖い。「学校を辞めたい」と言うのが怖い。「犯罪に手を染めたかもしれない」と言うのが怖い。
一人で生きていけないくせに独りぼっち。尚輝を表すのに適切な言葉だった。寂しい。だけど、『どうせ誰も本当の僕を知らない』と腐ることが、尚輝の心を保つのに繋がっているのも事実だった。
ハブられる前に自ら孤独になれる場所へ逃げるのも、明らかに自分に話しかけられていても『そんなわけない』と一旦無視するのも、個人情報は渡した分だけ返して欲しいし、返してくれないなら何も教えたくないと思うのも、全部全部。
「僕は可哀想で生きづらい人間だ」と言える立場で在りたいから。そんな自分が嫌い。
『寂しい』『悲しい』『苦しい』『ツラい』『助けて』誰にも言えない。だって、どうせ誰も手を差し伸べてくれない。可哀想でしょって。僕ってとっても可哀想だよねって。神様、来世は可哀想じゃなくしてくれる?って。いじけてなきゃやってられないのだから、馬鹿みたいな生き方を選ぼうと侮辱しないで欲しい。
誰かの『緊張してる』が自分にとっての『死ぬほど緊張してる』ならば被害者ヅラできる。ずっとそう考えていた。病名は証拠になる。みんなと違う、みんなより大変なんだと、明らかにできる。
(『可哀想』と思ってもらえる)
あんなに可哀想だと思われたくなかったのに、『心配させてやりたい』『心配してくれたら嬉しい』と尚輝の感情に変化が訪れた。
なんて、ああなんて、生きづらいのだろう――。
マイノリティの弱さを知っているから、多様性を理解できる人間に成れる。病気である事実が、尚輝の自尊心になっていった。
核島がワザとらしく落としてくれなくても、尚輝は薬を非合法的に手に入れられるようになった。ハッシュタグは『#お薬もぐもぐ』である。
だって僕、とってもツラい精神疾患なんだよ。と心の中で唱えれば、罪悪感は薄れていく。
守ってよ、助けてよ、求めなくても手を差し伸べてよ。嫌なこと、いっぱいされた。こっちだって、悪いことしたい。
少しの悪事は見逃して欲しいと、願う先は裏切り者の神様仏様だ。
「音羽ちゃん歌い手だったの⁈」
「すごーい!喋らないのに歌は上手いって、なんかさぁ、漫画みたいじゃない?」
「あーね。ギャップ萌え的な?」
帰り際に女子グループは音羽を囲って騒いでいた。朱莉が完全に来なくなり落ち着いたものだから、こんなはしゃぎっぷりは懐かしさすら覚える。
歌い手であることがギャップになるとは、遠回しに少し悪口めいている気もしたが、尚輝も同様に驚いた。転校生の坂本音羽は歌い手らしい。
尚輝は即帰宅することで自分の中で有名なのだが、今回ばかりはゆっくりと支度をする。スマホを取り出し、まさか本名ではないだろうと思いながらも、『音羽 歌ってみた』で動画検索をする。
「え、なんて名前でやってるの?チャンネル登録するよ?」
横目で見ると、苦笑いした音羽は首を横に振っていた。拒否を示している。
登録者は一人でも多いほうがいいだろうに、と尚輝は盗み聞きの身分であるのを忘れ、小さく首を傾げた。
「聴きたいよぉ〜。じゃあ何歌ってるかだけ!」
「特定しようとしてるじゃん」
「そうだよ?」
「だったら」
(直接聞いたほうがいいでしょ)
尚輝の心の声とと一人の女子の声が重なる。そしてきっと、音羽も内心で声を重ねていた。
聴きたいと喚く彼女は、きっと音羽の歌声が聴きたいのではなく、自分と同じ高校の同い年の人生を覗き込みたいと思っている。言いづらいが、カーストが高いとは思えない音羽。自分より学校で目立たない人が、学校外でどの程度の存在感を示しているのか。気になっているのは歌ではなく、登録者数と再生回数だろう。
彼女本人もそれをわかって教えたくないのかもしれない、と尚輝は考え直す。
「……メロウ」
「ん?メロン?」
「メロウって名前でやってる」
あ、言うんだ。と思ったと同時に、すかさず尚輝も検索する。
「メロウ?カタカナ?」
「老いた目」
ひらがなで検索しても出てきたが、漢字は『目老』だった。
変な名前だが、そんなことどうでもよくなるほど、尚輝は驚いた。
『39万人』。
自分も彼女らと同類だ。歌い手としてのランクを、チャンネル登録者数で計ってしまった。
マジかよ、と思う。意図せず口元に手をやる。有名人だ!とミーハーな感想が浮かんだ。
チャンネルの説明を見ると、『メロディーウイングの略です。音に羽が生えた声を目指します(何言ってんだ…)』と書かれていた。歌ってみた系も多いが、自分で作詞作曲したボーカロイド曲、それを自身でカバーした曲が並んでいた。自身でカバーしている動画のほうが視聴回数が多かった。
迷わずチャンネル登録をする。絶対に帰りの電車で聴くと決めた。
匿名でやっているSNSで、彼女のXのフォローもしておいた。『十六歳、歌い手してます。元引きこもり。現在は高校に通ってます。配信は土曜日20時。歌は不定期で投稿』
尚輝が引っかかったのは当然。
(元引きこもり?)
そして合点がいく。転校、核島の過干渉、カウンセリング、人見知り。引きこもっていた者が学校へ行き始めたのなら、合点がいく。
元引きこもりで、有名な歌い手で、作詞作曲の才能がある。尚輝がつまらない学校へ通っている間に、家で曲作りの技術を学び、歌の練習をしていたのだ。学校へ行って、何も学べず、何も磨かれず、何も持っていない自分。不登校だったのに、有名人の彼女。
尚輝にとっての贅沢を手に入れていて、才能を持っている。さらに彼女は、不登校を武器にしているのだ。学校へ行っていなかった人の共感を得て評価され、どん底から努力で這い上がったと世間から讃えられ、ファンからの好感を得ている。逃げていいよ、逃げられるのは強いよ。
そんなメッセージを聞くたび、逃げられない自分は弱いのか?と思う。胸がザワザワした。
不登校だった人も入れる高校に入学したのは、勉強しなかった自分の落ち度。けれど、死にたくなるほどツラくて牢屋と肩を並べるほど大嫌いな学校に頑張って通い、なんとか乗り越えた尚輝の三年間を「無駄な努力」と否定された気がした。不登校の天才は、登校しているだけの凡人に、「学校なんか人生に不必要だ」と見せつけてくる。
逃げる勇気が苦手だ。学校へ行けなくて苦しんでいる人へ、どうか自分の思考を許してほしい、と尚輝は思う。行きたくないのに行っているのも、行きたいのに行けないのと同じくらいに苦しいんだと、知ってほしいと思う。行けているなら大丈夫、なわけではない。体調不良が目に見えないだけで、視覚化できない心はちゃんと壊れる。脳も弱っているから、逃げる発想が生まれない。
メンタルは筋トレとは違う。追い込めば追い込むほど、脆くなる。鍛えられるのは耐える力だけで、心は痩せ細っていく。
拒食もツラけりゃ過食もツラい。不眠もツラけりゃ過眠もツラい。不登校もツラけりゃ登校も――。
トートロジーは一生言い続けられるが、つまるところ、学校が好きな人以外は、学校がある世界で「生きやすい」と言えることはないのだ。
頑張れない人のことを怠けてるなんて言わないから、頑張っている人を羨ましいと思わないでほしい。それが尚輝の願いだった。……でも。
頑張れるのが不本意と言ったら、きっと世界から怒られてしまう。
恵まれた身分。本当に、恵まれていて、疲れた。頑張れてしまう自分に、呆れた。なんて僕は幸せ者なのだろう。なんて不謹慎なんだろう。
ところで、彼女はなぜ学校へ行かなかったのだろう。精神疾患の当事者なのだろうか?
学校を休む理由が自分にはない、と思っていたが、『社交不安障害』は学校へ行かない理由になったのかもしれない。
学校へ行かない理由。不謹慎な自分は、学校へ行けなくなるきっかけを探していた。でも、精神疾患を自覚している現在、尚輝は学校へ行けない理由を抱えたまま学校へ行くという奇行をしていると言える。
命懸けで薬を飲んだり、イジメを受けないのかなぁなんて最低な感情を生んでは罪悪感に苛まれたり。そんなの、本当は何も必要なくて、病院へ行って「社交不安障害ですね」って診断されたらそれだけで尚輝は。
(不登校になれた)
そうとは限らないとしても、可能性だけで、尚輝は吐きそうなほど悔しくなった。音羽が羨ましい。
寿命を売ってでも戻りたくなった。これからの時間を使ってつまらない過去を塗り替えたい、とか誰かさんみたいな思考がよぎる。大学の四年間をかけて学校生活をやり直そう、などという異常なほど青春へ執着する気持ちが、分からなくもない。薬を手に入れた身体で青春を取り返したい。
モヤモヤを晴らすべく、今や簡単に手に入る薬を押し出し、飲み込んだ。
音羽のことを思い出し、ハッとイヤホンを耳に挿し込む。貢献してやろうと上から目線で、YouTubeではなくミュージックアプリからダウンロードした。
歌詞を追いながら聴く。実際に弾くと相当難しそうなピアノ音が印象的だった。その名の通り、羽根を吹き飛ばすように息を使っているが、ちゃんと歌詞が聞き取れる強さがあり、その中に弱々しくて優しい声も含んで感情に波を作っていた。好きな歌声と磨かれた技術に、ムカついた。
他人の人生に嫉妬するなんてダサい。しかし、この歌声のため努力する時間が彼女にはあったのだと思うと、何もない自分に嫌気がさすし、どうしても羨ましかった。自分は全くアーティストを目指していないのに、彼女の活躍に対して『悔しい』と思った。
『お人形さん』
人にはそれぞれ苦手があるのに
得意じゃなきゃ生きづらい
君らの仰る普通には
期待がこもっているのです
何が多様性だと心で嘆いても
声に出さなきゃ思ってないのと同義でしょ、って
(頂戴頂戴!)
コミュショーナンデスって言ってみたいから
僕に声を与えてください
(ギブミー!)
いちにのさん
言い訳できない僕は誤解を解く方法がなく
勘違いされたまま他人の推測で
出来上がる
dollは嫌われていく、苦、苦
「口開けてみて」
「『あ』って言ってみて」
何度も言われたコトバ
「言わなきゃ分からないよ」
もう聞き飽きたのです
悪口を聞き取る耳だけはいいんだ
人を傷つける声ならいらないでしょ、って
(頂戴頂戴!)
優しい言葉吐いてみせるから
僕に声を与えてください
(ギブミー!)
いちにのさん
アイデアを伝えることも席を譲ることもできず
面白くない優しくない意見がなく
dollと扱われていく、苦、区々
わざと話さないわけじゃない
望んで壁を作ってんじゃない
頭の中は言い返したいコトバで埋め尽くされてるのに
閉じ込められたままの文字
なんで喋らないの?
僕が1番聞きたいよ?
静かに涙を流しています
どうか誰かに気づいてほしい
「ありがとう」って言えないけど
心から感謝すると誓います
伝えたい伝えたい伝えたい
伝えられない僕は
喋りたい喋りたい喋りたい
喋らない人形だ、駄、駄々
彼女の音楽は、尚輝に刺さるものがあった。まるで社交不安障害の当事者が作詞したみたいだ、と思う。
コメント欄は自分語りで溢れていて、同類がこんなにいるのかと、マイノリティが群れようとする習性に共感した。したとて、尚輝は一匹狼の自分が好きだったし、ここに集まって「わかる」と返信が来たからといって、せいぜいそこまでの感覚だ。嬉しくない。
何度もリピートし、『僕は僕のマリオネットだ』とコメントした。『イタい』とリプが来たのを無視していたが、『上手いこと言おうとしてるのがつまらん』と意外にも返信が続いたので、速攻コメントを削除した。
芸術鑑賞の授業で、一流のミュージカルを観に行く。さすがは私立だ。劇場へ現地集合だと聞かされ、みんなは友だち同士で行くんだろうなぁと、尚輝は慣れた感情にため息をつく。
早めに行って遊ぶ人、現地解散だから終わってから遊ぶ人もいるはず。どれだけ、何を言い聞かせても、羨ましい気持ちは生まれてしまう。
口が渇き、まるで錠剤のようにタブレットを放り込むと、メントールの効果で口内は潤った。口臭予防と口渇予防の長年の必需品も、近々いらなくなるかもしれない。
嫉妬が終わると矛先は自分に向き、悔しくなる。考えるから悔しくなる、それでも考えてしまうのは時間があるからだ。友だちのいない高校生には、暇だと嘆く時間だけは幾らでもある。
(行事なんかお金の無駄)
課外授業、文化祭、修学旅行が消えればいい。思っているのは世の中で尚輝だけではない。学校のイベントごとに関する悲しきスレッドは古くから立てられ、掲示板まとめで多く目にする。
でも、サボる勇気はない。
ミュージカル代も払っているわけだし、と休む選択は尚輝の度胸では出来なかった。これをサボる勇気があるなら、学校だってサボれる。
お金がもったいないし、こうやって強制的な機会がなければミュージカルを見に行くことはないだろうから経験値が上がるはずだとプラスに考え、なんでも前向きに変換できる自分を褒めた。
駅のホーム内。現地集合で電車に乗り慣れてない人は迷わないのかな、電車が苦手な人はいないのかな、そういう人はタクシーだとしたら料金がエグそうだな、迷子になったらどうするんだろ…などと考えていた尚輝だったが、実際に迷子になったのは自分自身だった。
「ここはどこ?」
思わず声を出した。迷子になるのは一人で行動しているからか、シンプルに方向音痴だからか。
(発達障がいだからか)
検索してみなければ、と尚輝は思った。道に迷うのは特性に関係あるのかどうか。
(一人で生きていけないくせに独りぼっち)
せめて一人で生きられる技量は欲しかったなぁと思う。『ちゃんと目的地に辿り着ける』くらいのレベルでいい。さほど贅沢ではないはずだ。
でも自分は人と違う、どうやら多くのレッテルを抱える生きづらい子らしいので、こんなのは日常茶飯事。きっと一生この先の人生、可哀想で大変で個性的な不思議な子なのである。
それでいいと思えている自分が好きだ。
このおかげで、多様性が身近になり、マイノリティに優しくなれる心が手に入った。多様性を認めながら「どうせ認めてる自分が気持ちいいだけだろ」と浅い気持ちで語っている常人を批判できるし、「当事者の気持ちは分からないだろ」と言われたとしても、「えっ?僕自身も当事者なんですけど…?」と被害者ヅラできる。
この自分が、自分の正義を支持するにあたって一番良い立ち位置だ、と思ってしまった。病気である人とない人では、訴えたときの説得力に雲泥の差が出る。
(…ほんと、僕って僕だよね)
呆れた。だから自分を卑下するように言ってみた。自分らしい。ダメな部分を見つけると、そう思う。
南口と西口の矢印が同じ方向を指している看板を見て、完全に諦めを決意した。せっかく知らない駅に来たし、駅の中だけでも暇は潰せそうだった。電車賃分くらいは楽しんで帰りたいなとこの後の計画をする。
「あれ、あいつ…」
つい、あいつ呼ばわりをしてしまい、しかも独り言を言っている自分に引いて、固まる。相手はこちらを見て、似たように固まった。人が行き来しているホームだが、お互いの視界には相手しか映っていない。
相手は「おっ」という口をし、無理な笑顔を作ったが、近づいてこない。尚輝は暇だったからという理由で、自分から声をかけてみた。こんなんじゃなかったのに。逃げ出すやつだったのに。
薬がなかった頃の感覚が、今は思い出せない。まるで子どもの頃に自転車に乗れなかったのが不思議だと思う大人だ。
「…ぁ、あか、…あなた…、きみ…、あ、朱莉さん、は、なんでここにいる……ですか?…ミュージカル、ですか?」
話しかける勇気が出たからといって、コミュニケーション能力が人並みになるにはまだ時間がかかる。咄嗟だと特にカタコトになりがちだ。
彼女はこちらのパニックに動じず、苦笑いをして首を横に振った。
「そんなわけないじゃん。学校サボってるのに」
「…勉強じゃ、ないから…」
「勉強が嫌でサボってるわけじゃないよ」
学校内じゃないから、の意味を含んだつもりだったが、伝え方が悪かったようだ。彼女は「今日は校外学習なのか」と呟いた。
「行く?」
二人は劇場の反対に向かって歩いて行く。彼女は暇つぶしに来ていただけで、目的地はなかったらしい。劇場の方向を知っているだろう彼女が何も言わずに横を歩いていたから、尚輝は劇場はこっち方面なんだろうなと思って歩いていた。彼女が行くなら自分も行くか、と予定変更の変更を脳内で整えていたところだ。
「山之内くんは、どうして学校で喋れないの?」
ふと、朱莉はド直球に質問をする。
「話せない……なんか、こんなこと言ったらアレだけど、過去に声に関する酷いトラウマがあるとか、コンプレックスとか、そんな感じかと思っちゃってた。話せるんじゃん」
尚輝は、全く嫌な気分にならなかった。「喋らない」ではなく「喋れない」と言ってくれたのが嬉しかったからかもしれない。
「学校、来ない…ですか?なんで、来ないのかなと思った…、…ので…」
キャピピッと彼女は笑う。ギャルでもヤンキーでも引きこもりでもない。外見も喋り方も、楽しくJ Kをしているようにしか見えない。『元気』と『不登校』は不釣り合いなカップルなのだ。組み合わせてみると真新しさ故に変わって目に映る。まるでセクシャルマイノリティーのようだ、と尚輝は感じた。
「山之内さん、タメ口でいいよ。あと、質問に答えてから質問して欲しいかも」
「え、…ぁ」
正論すぎて、何も言えない。でも沈黙を長くするほど飴の生産スピードが速くなるのを知っているから、勢いで喋るよう心がける。
「病気で、あってる。薬飲んだから、今日は喋れる日」
いきなり饒舌になったら驚かせてしまうかも、という躊躇い。先程から、意図せず喋りが下手になる。
でも、こんなにカタコトで大丈夫だろうかと考え込む前に、彼女は納得したように「へー」と言った。わかりやすいセリフを言ったあとの間で、逆に違和感を覚える。基本、相手がワンテンポ遅く相槌を打つしかないような文章しか言えないから、スムーズなキャッチボールができている状況に尚輝が一番困惑した。
「そうだったんだ。学校では飲まないってこと?」
彼女はなんだか、自分の描くイメージや予想を崩してくる。
「…飲んでも、いきなり喋れるようになってたら、…気持ち、悪いし、…友だち、ぃ…いないから、喋る必要なくて、だから特別なとき、だけ」
『気持ち悪い』とか『友だちいない』とか。自分を卑下するのは気が引けた。自分だって、認められていい人間なのに。加えて、他人に可哀想アピールをするのにも慣れず、むず痒い気持ちになる。
不幸自慢は自慢じゃない――。
ふーん、と彼女は言った。そして、「僕は」と言った。尚輝はあまり聞いておらず、キョトンとした顔のまま固まって彼女の顔をガン見しまう。
彼女は引かれたと勘違いしたらしい。
「あー、僕って言っちゃった。まっ、いっか。…僕、これから映画観に行くんだよね。お喋りしたかったけど予約もしてないから、ごめん」
学校のみんなは前々から予約しなきゃならないミュージカルを観に行くというのに、彼女は当日券で映画を観に行くという。予約していないなら。お喋りしたかったのなら。今日じゃなくてもいいのに、と尚輝は思った。
距離を置くための優しい言い訳で、本当は映画館にすら行かないかもしれない。そう解釈して落胆しかけていると、彼女は真顔で問いかけてきた。
「映画一緒に行く?」
「……は?…ぁ…え?」
「今『は?』って言った?山之内くん、BLは嫌い?男同士のラブストーリーなんだけど」
そういうのって、人に言えちゃうんだ。と、尚輝は驚く。言える時代なのか、この人にとって隠すことではないのか。驚いたリアクションをしなかった自分に自惚れた。人の嗜好に理解がある自分が好きだ。
「…朱莉さんは、好きなんですか…?」
「もちろん。腐女子だよ。こんなこと、山之内くんにしか言わないんだから。内緒にしてね」
(言うわけないのに)
クラス中にバラす声があると思ってもらえていることが、嬉しかった。
ミュージカルをサボって映画に来た。同じクラスの女性と、学校をサボった。
恋愛感情とは何か未だわからない尚輝は、異性と二人きりだからといって別に舞い上がったりはしない。今まで人を好きにならなかったのは、人の目を見ることも人と喋ることもなかったからか。それとも彼女と同じく、
「僕、恋愛感情ないんだよね」
そういうセクシャリティなのか。
相手に他の人には話していないだろう暴露をしてもらったときは、平然とした返事をするように心がけている。リアクションが大きいと、偏見があると思われるかもしれないから。
「そうなんだ」
「アロマンティック・アセクシャルで、恋愛感情もないし、せ…、…セイコウイ?も嫌なんだよね。何が楽しいのかわからなくて」
「そっか」
ポップコーンの列がなかなか進まない。キャラメルがいいけれど、彼女はどうだろうか。
「興味ないでしょ」
「……いや、そんなことない。何が楽しいかは、僕も知らないから、議論できなかったっていうか」
「議論て。あれ?まさかの同類?」
「知らない。好きな人、いたことないから、わからない」
彼女になら、童貞であることをバレてもいいと思った。察されているだろうし、彼女も色々と秘密を明かしてくれるから平等だ。
「わからないのかぁ」
「知らないものは、わからない」
「そうだよねー、わかる。まあ慌てて自認しなくてもいいもんね」
「……ジニン?」
キャラメルの香りが強くなったとき、彼女は「Lセットの塩味で紅茶」と言った。
「尚輝くんはどうする?」
「…ぇ、あ、僕はキャラメル味…と、リアルゴールド」
「僕が誘ったから奢ったげる。チケット代は悪いけど自分でね」
えっ、と思っている間に会計は済ませていた。リーダーシップとはこういうことかと思った。優柔不断だし、人に指示などしたことない自分にとって、サクサクと物事を決められる人は憧れる。
いつだってクラスのカースト上位のグループの中心に立つリーダーだったでしょうに。全てを仕切り、でも周りが嫌な思いをしない案だから口を挟ませない。そういう子なんでしょうに。
(なんで来なくなったんだろ…)
不思議だ。まともで優秀な子だと思ったけど、いくら普通を並べられても、学校へ行っていない事実だけで、イメージが反転する。誰よりも変わり者な気がしてくる。
正直、興味深い。
「変わった人が好き」と言うのは、生きづらさを抱える人に恨まれそうで、公言するのは憚られる。しかしマイノリティを魅力的に感じるのは、好きなタイプというより性癖に近くて、本性は変えられなかった。尚輝は朱莉を好意的に思った。恋とは違うが、性癖に刺さったと言えよう。
まるで、海外で日本人を見つけた、みたいな感覚である。同士を見つけた高揚感なのだろう。自己分析する。尚輝にとって、学校は海外のようなもの。言葉が通じない場所だ。そこに、同じように仲間がいなくて、居場所をなくしたらしい女性。
シンパシーを感じた。その正体はたぶん、以前まで不本意だったが、今なら何の躊躇いもなく受け入れてもいい『可哀想』だった。
◯居酒屋
テーブル席で向き合って座
っている男二人、空気が重
い。
男A「俺、知ってるよ」
首を傾げるB。
男B「なんですか?」
A、Bの腕を掴む。
男A「お前、宇宙人だろ」
B、目を見開く。
それを見たA、ハハッと笑
う。
男A「見ちゃったんだよ。この世界で言うサプリメント的なもの?飲んでたでしょ。こっちの薬局にはないから、宇宙にしかないやつだ」
男B「(慌てながら)違う、そんなもの、飲んでません。見間違いでしょ」
A、食い気味、しんみり語
る。
男A「いいよ。俺の前では隠さなくて。ちょっと周りとズレてるなって思ってた。無理に皆に合わせることないよ。君の個性が死んじゃうだろ? (苦笑いして)先生なんて仕事よく選んだよね。びっくりするほど向いてない。
落ち込んだ様子のB。
男A「でも、……それでも、人間になろうとするお前見てたら、守りたいって思っちゃって。人間に近づくための魔法の薬?……それ、生徒が渡してくれたよ。お前のだと思うって」
男B「あいつ……」
悔しそうにするB、気にす
る様子のないA。
男A「調べたら、薬局にあるもんじゃなかった。宇宙でしか手に入らないんじゃない?」
男B「っ僕は宇宙人じゃない……です」
男A「俺と付き合ってよ。人間への道、サポートしてあげる」
カフェに入り、コーヒーより高いメロンソーダを飲む朱莉を見ながら、今ここに他のクラスメイトが入ってきたら、その人たちの目にはどんな関係に映るのだろう?と尚輝は妄想した。
(メロンソーダ、甘ったるそうだ。ソーダだけに。甘ったるソーダ)
彼女は宇宙人だって気づいた上で、しかも同性で、もうキュンキュンするー!と一人で喋っていた。相槌も不必要かと放っておいていたら、「嬉しいな」とトーンを変えて呟くものだから、さすがに尚輝も反応する。
「…う、…ん?」
「尚輝くんってボーっとしてるよね。はーあ、なんか自分のことを僕って言えるの、すごく嬉しい」
「あぁ…。……ねぇ、なんで僕って言うの?」
聞かないほうがいい。そんな予感がする。『ジェンダーレス』の文字がよぎる。でも気になった。なんてことないように聞けば、聞いてもいい気がした。
「ダメ?」
大袈裟に首を傾げ、唇を尖らせる彼女を見る。見て、自身をフォローしておきたくなった。
「ダメじゃないけど、おん…、じょ、女性の相場は『私』だから。…ぁ、あと僕、見たことある。学校で私って言ってる朱莉さん」
彼女はハハハと笑った。ワザといじけて見せたのかも知れない。どうやら試された。
「尚輝くんって変な人だから、人と違うことに関して寛容だと思ってた。女だから私じゃなきゃおかしいって思っちゃうタイプ?」
グッと身が引き締まる。本来、理由なんてなくていいはずなのに、理由を求めた。多様性を認める行為は、自己愛を保つ最も重要な材料なのに。ふーん、あっそ、と言っていたいはずが、質問してしまった。
恥ずかしい。なんというか、階級で言うとまだまだビギナー級である気がする。白帯の多様性理解者。もはやそれは理解者では――。
「ごめん」
「変な子。謝るのも違うと思うけど」
先程からの「変な子」に関しては何も思わない。嘘。むしろ少し嬉しい気持ちだ。よくわかってるじゃん、とニヤつきそうになる。
「…あの、思ってないよ。おかしいとかは思わないけど、意識の問題で変えられるものを、わざわざマイノリティにする理由…っていうか。ぁ、…あと、使い分けてるってこと?なら、なんでかなって…」
失礼になっていないだろうか、と探り探りの言葉選びになる。失礼承知で問うていると伝わっているからだろう、今度は意地悪せず普通の質問に答えるように喋ってくれた。
「なんだろ、僕って言ってない自分は偽りの自分な気がしちゃうっていうか。難しいね、そうだな、しっくりこないからかな。この世にある一人称で、別に『僕』が一番好きってわけじゃないけど、『私』が一番好きじゃないかも」
まとまらない言葉を伝わりやすいよう発してくれている。セリフを決めてから放つのではなく、考えながら言える朱莉を、尚輝は羨ましく感じる。
「これ甘過ぎ。あっ、そうだ」
「ソーダ」
「ん?」
「なんでもない」
「それじゃあ尚輝くんはなんで『僕』なの?敬語じゃないときは『俺』って言う男の人のほうが多いよね」
彼女は良いディベートができているだろうと言いたげな顔をする。相応しいのは感謝だな、と尚輝は自分の力でこの場が楽しいわけではないと気づき、思う。
「同じような理由なんじゃないの?」
「…子どもの頃に、親に『僕』って教わってて、…で、言ってて、俺に変えるタイミングがわからなかっただけ」
「最初に教わったのが『俺』だったら俺だったってこと?」
「そうなんじゃない?」
男女二人の間に『僕』が飛び交う。『ぼ』にアクセントを付けたそれは、セリフのイントネーションが平均で右肩下がりになっていた。
「そっか。僕みたいに場所によって変えたりしてないんだね」
「その、学校では私なのは、『なんで僕なの?』って聞かれるのが嫌だからとかだった…かな、ぁ、あの、僕も聞いちゃったけど」
朱莉は少し食い気味で否定する。
「んーん、そうかもしれないけど、そうじゃない。変わってると思われないようにしてるだけだよ。学校は人と違うの嫌いな場所だって知ってるし、特別だと思われたくてワザと変えてるって思われたら最悪だし。だから…それこそ、意識の問題で変えられるから変えてる。変えられないものは変えられないけど、変えられるから変えてる」
彼女は、学校では私、家族の前では朱莉(なまえ)、独り言と心の中では僕。と、分け方を教えてくれた。どうしても「私」が喉に詰まってしまう場合は「自分」にしているそうだ。彼女曰く「無難」らしい。「でも関西だと二人称になっちゃうかも」らしい。
「尚輝くんは僕のほうが似合うよ」
「…そう…かな?朱莉さんも、…、…あ、でも、好きなのを使えてるのは、いいと思う」
「うん、ありがと」
今なぜ独り言用の一人称なのか気になるけれど、なんとなく、聞けなかった。
「どれが本当の自分かなって思ったことあるけど、やっぱり僕って言ってるときだ。今そう思った」
「へぇ」
彼女との雑談の主導権は、彼女に持たせていたい。話し手を朱莉、聞き手が自分、その構図で更に彼女からの質問を望んだ。自分に興味を持ってもらえたのが嬉しくて堪らず、もっと知ってほしいと欲が膨れる。
「学校って、行ったほうがいいと思う?」
「…?え?…いや、別にそうは思わない」
「親はね、何も言わないの。『行きたくなったら行けばいい』って言ってくれる。世間は羨ましいって言ってくるかなぁ」
「さあ」
(僕は、羨ましい)
「学校好きなんだけどね」
(マジかよ、この人)
「…その気持ちは…わかりかねる」
「言い回しウケる」
朱莉はストローの抜き差しを繰り返し、大きな氷を避けながらアイスを沈めていた。体に悪そうな緑色がライム色に変わってゆく。
「学校でも喋ったらいいのに、って言ったら怒られる?」
ん?と尚輝は実際に言われる妄想をしてみる。「喋れるなら喋ったらいいのに」これは薬がない状態でも言われたことがある。声が出ないわけではないだろう?と。いや学校では出ないんだよ、と返す声は出ない。
うん、腹が立つ。
「怒られる」
実際には怒らないけれど、怒りたい気分になるのは間違いないので伝えた。そっか、と朱莉は言った。謝らないんだなと思った。
「じゃあもう一つ。喋れる尚輝くんが本当の尚輝くん?」
「…え?」
それは、そうだろう。喋れる尚輝が本当の尚輝でなければ、理想から離れていることになる。薬を飲んでやっと本来の自分が発揮できるのだ。以前までの自分はおかしかったと、まともになった今なら言える。まだまだ本当の姿での経験が短く、自分自身が信用し切れていないのも事実であるが、これが尚輝のあるべき姿だ。
そうでなければ困る。今やっていることが間違いになるから。
でも、あれ?と思う。本来と異なっているから理想なのではないか?理想は『喋れる自分』で、自分の頭の中を人に知ってもらえたら幸せで、だから今幸せで――。
電車で「座りますか?」と席を譲って、コンビニでの会計後は店員さんへ「ありがとうございます」と伝えて、駅のホームで人とぶつかりそうになったら「すみません」と頭を下げて、街でハトが突然現れたら「わあびっくりした」と言う。喉の開いた状態を生きている。声が出るようになった。
学校で話さないのは、いきなり喋り始めたら驚かせてしまうからだ。第一印象を変えたら引かれる。もしかしたら、尚輝が急に話し始めても、彼らは全く何も思わないかもしれない。彼女のように「なんだ、話せるんじゃん」と温かく迎え入れてもらえて、友だちができたりなんかするかもしれない。
コミュニケーション英語が地獄でなくなり、教科書を忘れたら誰かに借りられて忘れ物ゼロになり、突然の教室変更の知らせがすぐに耳に入り、体育の時間に一緒に教室外へ走り、昼食の時間が昼ご飯を食べる時間になれば。
(…幸せ…)
それが欲しい、となると、己の理想は喋ることじゃない。喋ったことで得られる結果だ。喋れる身体だからできる自分の言動で、他人に言動をしてもらう。承認欲求を満たすことによって自己顕示欲を満たし、それを材料に自己愛を保ちたい。本当は面白くて優しい奴って知ってもらって、でも苦しんでるんだね、それなのに学校に来て、すごいね頑張ってるねって。努力を評価されたい。
(学校で喋らなきゃ、薬を飲んでる意味ないってこと…?)
尚輝はぐるぐると頭の中で考える。ズゾッと音が鳴り我に返ると、朱莉が飲み物を飲み切っていた。
「あっ…」
彼女は怒っても呆れてもいなかったが、退屈そうだった。
「考え込みすぎだろ」
苦笑いしながらツッコまれる。
「…うん」
事実なので肯定する。
「考えた結果は?」
尚輝はコーヒーを一気に飲み干した。さっきまでは熱くて口をつけられなかったが、今度はぬるくなっていて残念な感じだった。
「…その、喋ってるほうが本当に、ほんとの自分に決まってるって、言いたかった…けど。…まだ、過去の自分に慣れ過ぎてて…っていうか…。…今の自分が、」
少し怖い。
言葉にして初めて、自分は自分に怯えているのだと認める。
「どうして怖いの?」
今自覚したはずなのに、前から思っていたかのように自己分析ができていた。
「自分の発言が怖い。喋れるからって何を言い出すのか。喋ってから後悔するのが怖くて喋りたくない。だけど、黙り込む自分はもっと嫌い。でも、出しゃばりな自分も嫌い…だから…。だから、薬を飲んでいるときの自分と飲んでいないときの自分が真逆すぎて怖いん、だよ。どちらが本当の自分かと問われれば、飲んでいる時と答えたい、そちらの自分のほうが好きだから。でもそちらの自分の言動は、調子に乗っているとも思う。家に帰ってから反省するのは、飲んだ状態で過ごした日で…」
長文は息継ぎのタイミングがわからないから苦しい。水泳が苦手なのは関係しているのだろうか。していないだろうな。……疲れた。同じ内容を何度も言っただけのような気がする。どんなにジタバタしても進まない。
彼女に視線を合わせると、背もたれにダラリとしていた。自分とは真逆で、とても寛いでいる。
「尚輝くん、コーヒー飲むタイミング変だったよ」
「…あっ、そう…」
今度は僕と会話のキャッチボールをしよう。彼女の提案に、尚輝はコクリと首を縦に動かす。
「尚輝くんみたいに大変な人、初めて見た。僕はね、私って言うことで、それだけで学校に適応できるんだよね。適応する術。おまじない的なね」
「朱莉さん、みたいに、学校が好きになるには、…適応…するには、僕とかは、どうしたらいいの?」
「『みんなと同じ』が嫌いになったら、学校なんて好きでいられないよ。学校が嫌いな自分が好きなんでしょ?じゃあ学校は好きになれない」
真剣な質問に、彼女は何言ってんだというニュアンスを含ませながら笑ってくる。
「…たしかに、『学校』の対義語が『山之内尚輝』だとは思ってる」
ウケる、と彼女は言う。
「でも、みんなと違うって思いすぎるのも良くないんじゃない?隠せるところまで表明し始めそう」
「えっ」
一瞬。たった一瞬。カチンときた。
しかしすぐに収まったのは、自分自身でも、そこは気をつけなきゃなと思っている部分だったから。
「隠してもバレるんだよ。核島先生にも言われたんだ、『病気だと思う』って」
朱莉は目を見開いた。
「は⁈何それ、えっぐ!グロい!きしょい!最低!」
ドン引きと怒りに満ちる彼女の様子に、尚輝はハハッと笑った。
「言い過ぎだよ」
「…えっ、尚輝くん怒らなかったの?」
「……えー、っと…怒った。自分の中では人生で一番くらいに…怒鳴った、かな」
朱莉は「えっ、怒鳴れるの?」と言って「いやでも怒るのは当然でしょ、あいつマジか…」と呆れていた。
他人からしてもそこまでのことなのか。初めて他人に話したエピソードだったから、尚輝は反応を観察して楽しんだ。
楽しませてもらった代わりに、一応彼のフォローもしておく。このままでは、彼女は一生学校へ来たくなくなってしまうかもしれない。変な担任だから、との理由で。
「でも今では、感謝してて。僕…は、その、他人に可哀想な子だって思われるの、嫌だったんだ。恵まれてるくせにそんな目で見られちゃうと、本当に不幸…、…こんなこと言ったら良くないけど、もっとツラい人たち?に、恨まれるんじゃないかって」
彼女は「うん」と怒りを沈めて頷いた。
「だけど、先生に『病気』って言われて、あとカウンセリングも行っ…、…行かされた?騙されて、…んー、まあ色々あって、やらされて。当然のように病名を口にしてて…。…思うんだよ。病気で喋れなくて、カウンセリング受けてて、学校に友だちいなくて。…僕って、ちゃんと可哀想だなって」
「…、…うん…」
「堂々と可哀想な子ヅラしててもいい身分なんだって思って…、思ったら…、気が、楽になったんだ。だから気づかせてくれた先生には、ありがたいと思ってる。…、…それから、わかるよ。エスカレートしてる自覚はある。自費で検査に行った。やっぱり、は…、はっ…発達…障がい、だって」
「言わなくてもいいよ」
言葉に詰まると、彼女は無理しないでと言ってくれる。でも、尚輝は言いたかったのだ。噛んだのは、躊躇ったのではなく緊張しているから。初めて、他人に自分の障がいを晒している。
「…気質は、HSPってさ、繊細で敏感で、あとは、やっぱり先生たちに言われた社交不安障害がベースで、…、だからつまり、僕は結構だいぶ生きづらい」
言ってみると、やはりスッキリする。気持ちがいい。快感を追うように言葉を続ける。
「あとさっき思ったけど、僕も恋愛感情がわからないんだよね。もしかしたらアロ、」
「ッちょっと黙って!」
吠えるように彼女は言った。賑やかな店内は、目の前の一人に向けた叫び声くらいでは響かない。
「………なに…」
そんな言い方する必要あるのだろうか。尚輝の繊細な心には、針が強く刺さるというのに。もっと丁寧に扱ってほしいものだ。
「さっきから何?僕に何を求めてるの?」
「…えっ、別に何も…」
「そんなに色々と口に出す必要ある?それが、尚輝くんが他人に薬を飲んでまで伝えたい言葉なの?可哀想って言われたがってるじゃん、それでいいの?」
そのセリフに、尚輝は首を傾げる。
「言われたがったらダメなの?」
彼女はため息をつくだけだった。今のうちに、もっと言葉を足しておかなければと尚輝は思う。
「可哀想なのは事実じゃん。そりゃあ言いたいよ。伝えたい言葉…ってほどじゃないけど」
「言いたくないことのはずだよ?僕が自分に恋愛感情がないって話、言うの、すごく怖かった。尚輝くんは平気で色んなレッテルを、しかも自己診断とか自費で診断されにいって。堂々と被害者ヅラ?当事者ヅラ?可哀想アピール暴露して、なんか自己紹介してる気になってるけど」
言い過ぎだ。自己防衛で無意識のうちに聞き流してしまう。めちゃくちゃ怒られていることだけわかる。
「尚輝くんは病名とか障がいとかでしか表せない人間なの?それってどうなの?さっきアセクシャルかも的なこと言いかけてたけど、デリケートなものだって、わかるよね?テキトーに使って欲しくない」
「テキトーじゃない。本当にそう思った。マイノリティ抱えすぎだろって、自分自身に引いたけど」
彼女は頭を抱えていた。俯いている姿を見つめていると鼻を啜る音がして、嘘だろ⁈と思う。だが、机に大きな雫が落ちるのが見える。
女性は面倒だというのは本当だろうか、と考えてしまう。カテゴライズして差別する自分に、腹が立つ。でも生物学的に、脳科学的に、だってだってと言い訳する。女の涙だ。ダルいヤツだ。
彼女は震えた声で言う。
「ずっと、心に留めて苦しんでたのはわかるけど、…、はぁ、言われたって困るよ、言われた側は手の差し伸べようがないんだから」
誰も、助けてくれとは言っていない。そりゃ助けてくれるなら助けてほしいけど、そんな願いはさすがに傲慢過ぎる。そんなことで泣くんじゃない。
「放っておいていいんだよ…?」
優しく言ってみるが、彼女は更にヒステリックになった。
「ほんとに⁈ほっといてほしいなら、わざわざ言わなくてよくない⁈なんで言うの?」
尚輝は、朱莉はとても良い人だと思った。だからもっと良い人になってほしいと考えた。
「……多様性。互いが互いを認め合うと、生きやすくなる。…別に、何かしてほしいとか、思ってないよ。共感してくれるだけで救われる。だから言ったんだ」
尚輝だって、先程の自己紹介に勇気が一ミリも必要なかったわけではない。そういえば彼女だって、なぜアセクシャルを告白したんだって話だ。
(僕に好きになられたら困るか ら?…いや、認めてほしかったんだろ?)
自分だけが不幸だと思うな。尚輝は、対抗心で己について話していたかもしれないと思い返す。傷の舐め合いをする時間にしたら、有意義な時間になると思った。
「僕、多様性って言葉、嫌い」
朱莉の涙はなくなっていて、ただ不満げな表情だけが残されていた。
「…え?」
「認めて、共感して、それだけで本当に救われてくれるの?当事者じゃないくせにとか、どうせ完璧にはわからないだろって、貴方も私も腐るじゃん。尚輝くんも、多様性って言葉が好きなだけじゃないの?キレイゴトだよ、この世にある全てのマイノリティを理解できる人なんかいないよ?幸せも不幸も主観なんだからね、『可哀想に』なんて私は易々と言わないよ」
尚輝は思った。早口で長文で、何言ってるのかわからない、と。
「自分が何かを抱えてる人で在りたいだけでしょ。…あの、私もそれはあるよ。一人称なんて悩みってほどじゃないし、正直どうでもいい。学校に行かないのも重たくて暗い理由なんか一つもなくて。ずっと優等生だなって自惚れて、グレてみたくなっただけなの」
「…ふーん…」
どうして『私』になったのか、尚輝にはわからなかった。でも壁ができたような気がして、外向け用の朱莉になったのだとは理解できる。
「…私、色々喋った。…、…そうだね、喋ってたね。マイノリティ自慢?してたわ。尚輝くんを責める資格ないや」
マイノリティは自慢じゃない。僕だって!と張り合ったのは、なんか、支え合える仲になれるかなって感じたからだ。提示し合って秘密を共有したら、かけがえのない関係に――。
(例えば親友とか)
仲良くなれるかなって、思った。それだけ。健常者に手を差し伸べてほしいんじゃない。生きづらいを抱えてる人と、手を握り合いたい。
なんてそんな文学的な感じで言っても、きっと恥ずかしさしか残らない。彼女は親友候補から消えてしまったし、永遠に続けばいいと思うほどの夢のような時間も、もうこの状況から逃れたいと彼女に怯えている自分がいる。
尚輝は、薬を飲んでいないときのように小さく頷くしかなかった。喋れるからって、調子に乗り過ぎたのかもしれない。やはり自分が怖い。他人も怖いけど、自分のことも同じくらい怖い。
「…、…資格ない」
「あは、正直者だ。…まあ、わかるよ。例えばマイノリティな人に対して失言して『知らないくせに』って言われても、『当事者ですけど?』って言い返せば相手は何も言えない。マイノリティの当事者であることは、マイノリティを語る上での説得力に繋がるもん」
「…僕は、そんなつもりは…」
「病名を貰うメリット。多様性を認めるのが尚輝くんの正義なら、病名を貰うことはその為の武器になると思う。だから言ったんだよね。了解だよ」
彼女の言うことはわかる。六十五パーセントくらい。理解しても、納得しきれなくて、機嫌が悪くなっている自覚症状がある。
朱莉は立ち上がって、言った。
「こんなの言ったらアレだけど、学校で喋れないなんてすごくツラいだろうし、そんなに苦しいのに、行きたくないのに、ちゃんと通ってるの。偉いし、でも、とっても可哀想」
ご褒美。易々と言わないと言った矢先のこれだ。求めているものを意識してプレゼントしてくれたのだろう。
しかし尚輝は、ちっとも嬉しくなかった。
(思ってないくせに。助けてくれないくせに。共感してます、わかってますって雰囲気出しやがって)
あのカウンセラーが浮かぶ。
可哀想だと思われたいのに、可哀想な目で見られると腹が立つ。あの時の心情。
(なんなんだ、一体、何を求めてる)
迷走している。ゴールが『喋れるようになること』じゃないのは、忘れていた事実なのか、薬を飲んでから生まれた欲なのか。
(…頭痛い…)
喋れないのを言い訳に諦めてきた数々の青春は、喋れないだけが原因ではない、と。そんなことを言われてしまえば尚輝は絶望のどん底に落ちるしかなく、つまり現在、尚輝は泥沼を迷走している。
学校で喋らずして、何の意味があるんだろうか。喋れたことに喜び過ぎたり怖気付いたりしているうちに忘れていた目的。
(青春)
現在の自分は不幸を言いふらして救われてると。信じて疑わなかった。けれど、果たしてそうだろうか。自分を知ってもらうための自己紹介ではなく、ハキハキと教壇でありきたりな自己紹介をするのが夢ではないのか。
「…わからないよ…」
彼女は自分の頼んだ金額より高いお金を置いて去っていった。払いたかったのに、と尚輝は思った。
朱莉は、校外学習から一週間後に学校へ来た。「家庭の事情で私もしばらく休まなきゃでさ」とそれ以上追及しにくい理由を述べると、「待ってたよ」と属していたグループのみんなに迎え入れられていた。一瞬八木原が声をかけに来たが、数分で会話を終えた。自分と音羽だけが「あっ、カウンセラーのあいつ」の表情をしていた。
音羽は相変わらず核島に甘やかされ、美香は相変わらず男女問わず視線を奪っていた。自分が気にかけている人物はこのくらいだから、あとはどんな変化があろうと知らない。
そういえば最近は、社会の先生の浦山と核島が仲良しだ。この前通りがかりに会話を盗み聞きしたけれど、なんというか、朱莉と観た映画と似ていた。
学校は本当に色々ある。それに気づけたのは、何てったって顔を上げられるようになったからだろう。学校が好きになることはないが、人間観察ができるようになっただけでも有意義で、ボーっとしているだけだったあの頃よりは遥かに生産性のある時間だと錯覚できる。
果たして学校へ向かうまでの電車内で掲示板を読むのは生産性があると言えるのか。しかし、まとめサイトと比べれば現在進行形が上になる気がする。書き込むのは、あと薬十錠早い。
自分の文章で場を白けさせるのは、自分の発言もしくは自分の無言で場を白けさせるよりもキツい。アドリブ力を言い訳にしていたのに、『考える時間があってそれか』と思われるからだ。
名無し1・無口な男の人って何考えてるの?
名無し2・なんも考えてない
名無し3・>3むしろ逆だろ
頭の中でスパイと戦ってるんだぜ
名無し4・イッチはなんで知りたいの?
名無し1・好きになった
名無し3・ファッ⁈
名無し2・詳しく
名無し1・私、高一、女。相手は同じクラスの男。喋れないわけじゃなさそうだけど声を聞いた人はいないと思う
名無し5・どうやって学校入ったんだよ。面接ないの?
名無し1・あった。めちゃくちゃ頑張ったんじゃない?
名無し3・それ場面緘黙症じゃないの?知らんけど
名無し1・>3調べとく
名無し6・告白すればいい。以上。
名無し1・そのやり方を教えろくださいと言っている
名無し7・どこを好きになったの?
名無し1・自分の世界を持ってる感じ?昼ご飯食べずに図書室で本読んでる
名無し8・それはただのぼっち……
名無し1・>8そうだと思うよ。そういう人への告白方法教えて。
名無し3・なぜ俺たちに……
名無し1・>3同類でしょ?
名無し7・相手のスペック
名無し1・ぼーっとした顔してる。目と口が大きい。色白。
名無し2・似てる芸能人とかいないの?キャラクターとか
名無し1・なめこ栽培キットのマサルとか?
名無し7・wwwwwww
名無し8・調べなくてもわかるやつ言えよwわかったけどw
名無し9・懐かしいな
名無し10・全部枯れなめこにした記憶しかないわ
まさか自分なわけがない。と、言い切れないのが現在の尚輝である。
読み進めていたのは、『無口』に引っかかった掲示板。何となしに読み進めていたが、自己分析にだけ異常なほどの自信がある尚輝は、例えられたキャラクターにスマホを落としそうになった。ここは電車内、電車でスマホを落とすとどれほどうるさいか、どれほど視線が集まるか、知っているからそれだけは気をつけるようにしている。
(マサル)
それは核島をなめこ栽培キットのなめこに例えた場合の自分を指していたのだが、その縛りにしなくともキャラクターで例えるならば自分はマサルだと思うようにしていた。聞かれることもないのだけれど、聞かれたときに答えるのは『マサル』と決めている。
(他人からもそう見えているのか…?)
まだ自分のことである可能性は半分くらいだ。自惚れるなと内心で唱える。だってクラスに自分へ恋愛的好意を持つ者がいるわけが――。
(以前までの僕なら)
あり得なかった。しかし今の自分なららそんなことも、大イベントにするほど特段動揺する日常ではないかもしれない。青春のほんのひとつ。少しずつ取り戻している青春の、たった一部分。だって今も、無言の男のどこが魅力的に映り、どんな告白を受ける運命になるのか、見届けようと掲示板をタップしたではないか。相手を自分に重ねて。
(告白されるのか…?)
朝から空き部屋へ行くことになるとは思わない。ここはカウンセリングに使われている部屋だった。屋上とか体育館裏じゃないの?なんて浮かれたツッコミもできない。
目の前にいるのは核島で、隣にいるのは音羽なのだから当然だ。
「何で呼び出されたか、心当たりはある?」
「……」
「山之内は今日は薬は飲んでる?」
「…は?」
(そんなの、音羽の前で言うな)
「まあどっちでもいいけど、薬は持ってるね?」
その薬はどこで手に入れた?と問われ、困惑するどころではなかった。校内でここまで心臓を高速で動かすのは久々だった。
「坂本から買ったね?」
「…?…え、違います…」
予想しない仮説に、尚輝は戸惑った。見当違い甚だしい。彼女とは一切関わっていない。ファンでないと言えば嘘になるけれど、勇気の有無は関係なく、推しとは一定の距離を置きたいタイプだ。
音羽が何か誤解をしているのか。作戦があってわざとこんな騒ぎを起こしているのか。核島が謎の推測をしているのか…。
「…すみませ…」
小さな小さな声が隣から聞こえた。歌声ばかり聴いて過ごしていたが、そういえば地声はこんなんだったな、と思い出す。歌ではあんなに技術を使っているのに、生まれて初めて声を出したみたいな細い声。
「坂本さん、裏アカで薬の売買をしてたんだってね。病院で貰った頓服薬のプロゼパムを、一枚三千円で。……で、それを買ってたのが山之内。…なんか、世間は狭いね」
それは最初の感想で合っているのだろうか?と思いながらも、尚輝は渦巻く様々な心境の中、核島の感想に深く共感した。そしてイッツァスモールワールドを頭の中で流したあと、ハッと自分の置かれた状況に驚き、面白そうなハプニングにワクワクして、音羽の通院の事実に嬉しくなり、いや喜んでいる場合ではないと落ち着くと、核島の真剣な眼差しと目が合い、焦る。
(音羽さんが病院)
冷静になって考え、尚輝は納得した。音羽の作詞は、精神的な何かを抱えていなければ書けない詩だった。例えば『お人形さん』の歌詞は社交不安障害を抱えた人の気持ちを題材にしているとしか思えない。他にも憂鬱や不眠を匂わせる歌詞の曲もあった。
「薬を販売するのは犯罪なんですよ。ね?わかっててやってると思うけど。それに買うほうもダメ」
わかってると思うけど、と再び呟く。
(まあ、わかってるよ)
そして彼は、ふぅ…と深呼吸にも思えるため息をついた。尚輝も合わせて呼吸を整え、先程より更に落ち着いた心境で核島の一挙一動を観察する。
「坂本さん……の仕事については、山之内に話していいんだっけ?てか一部の人たちにはバレてるのか」
深刻な表情をしている核島に、首を傾げながら頷く音羽。尚輝はこのリアクションを知っている。「話していい」という肯定と共に「バレてるのかな?」と疑問をぶつけている。彼女はほんの数人にしか話していない。一部の人にバレているとはどこ情報だよ?と尚輝が内心で問う。
あのメンバーからどの程度広まっているのか知らぬが、とりあえず自分は、彼女の仕事について承知済みである。それが本人にバレていないことにホッとした。
「この事件については、彼女のネットニュースで知ったんだよ。投稿するアカウントを間違えたんだってね、やっちゃったねぇ」
グッと俯く彼女の姿が目の端に映った。
(あっ、これは泣くなぁ…)
まだ癒えていない傷に塩を塗るな、もしくは、まだ炎上中のネットを想像すると、火に油を注ぐなと言いたい。尚輝は核島のデリカシーのなさを再確認する。この性格だから尚輝に病気だと言えたのだと思い出して、ムカつき、そういえば核島との会話は久しいなと考える。
「そういう…なんだろ、事務所の対応とかは介入しないから。ただ学校の問題としては、SNSの使い方とか薬物の危険性について指導しないといけないってことで、二人を呼んだのね」
逮捕より指導って感じの案件だから、と独り言なのかわからない声量で呟く核島。牢屋行きではないことに、ひとまず安心した。この説教が終われば日常が戻ってくるらしい。
時が解決してくれる問題は気楽で良い。自分は何度も時間に救われた。何も言わずにいれば、いつか相手は諦める。無言を一生待つ人なんていないのだから。時間が、寿命が、もったいないだけ。寿命を削っても手に入らないものは、寿命を削ってでも手に入れたいものだけだ。
「親にはね…、坂本さんはバレちゃってるかもしれないけど。山之内は言わないでおいてあげようか…、…それとも、これを機に病院に行くきっかけにするか。選んでもらおうと思ってる」
尚輝は、どっちにしようかな…と一応脳内で唱えてみる。だが、答えは『言わないでもらう』に決まっていた。それは、まだ薬の残りがあるからかもしれない。薬は残り二枚以上、つまり二十錠は確実にあった。それを大切に大切にしようと決心するほうが、親へ話すよりも精神への負荷が少ない。
「まだ薬は残ってる?」
間髪入れずに首を横に振った。核島は「そっか、じゃあいいや」と言った。どっちでも良かったんだろうなと思う。彼も音羽に似たような罪を一度犯しているくらいだし、いくら叱る立場であろうと当事者なりの同情はあるはずだ。
「気持ちはわかるよ。二人のことは、一応知ってるから。でも違法なものは違法だし、結構大きい問題として最近はテレビでも取り上げられてる。目的はオーバードーズが多いんだけどね。薬の過剰摂取をするために買う人が多いらしくて、尚輝に関しては違うみたいだったからそれは良かったよ」
「うぃっす…」の意でゆっくりと頷く自分たちが、シンクロしていて面白かった。
「坂本さんは、いらないから売ってたの?」
彼女は首を傾げてから、考えているのか一時停止し、その後小さく頷いた。
(いらないわけじゃないけど、自分ではいらないと判断したから、いらないと言えばいらない。いや本当はいるものなんだけど…)
尚輝の予想は、核島の予想とも同じだったと思う。
「学校で話したいとは思わないの?」
ナイス!と尚輝は思った。興味深い質問だ。まさか彼も私情で質問したのではないだろうかと疑うが、彼女は必要だから聞かれていると信じている様子だし、核島が優位に立っている現在、逃げるのは困難だ。尚輝は口角が上がらないよう、下唇の内側を前歯で軽く噛む。
敢えて音羽を見ないようにしていたが、つい表情が気になって見てしまった。彼女は「え…」と口を半開きにして、自分の髪の毛を撫でて首を傾げていた。目が上下左右に不規則だが平等に泳いでいる。
やがて沈黙に背中を押されたのか、彼女はまるで操られているかのように首を何度も縦に動かした。頭の中で色々考え、我に返って、時間が経っていることに気づき、焦った。手に取るようにわかる同類の気持ち。
首を動かし終わったあと、唇が「別に」と言ったのを尚輝は見逃さなかった。
(話したい願望はないんだ…)
薬を持っているにも関わらず、飲まない選択をするということ。理由は「別に学校で話したいと思っていないから」と。尚輝にとって訳がわからない。その根性がわからなくて、尚輝の目には強い人であると映って、腹が立った。
(キャラ作り?)
喋りと歌声のギャップ、学校でぼっちなのに日本の若者の多くに知られている有名人というミステリアスな感じ、元引きこもりなのに学校へ通うようになった感動ヒストリー。芸能人オーラを纏っている。逆転劇。ノンフィクション映画にしやすそうなストーリー。芸能人を目指しているわけでもないのに、ただの病人とは違うと見せつけられたような気がした。
「…っあ、あの…っ!」
急に音羽が叫ぶ。本人的には大声だったはずの声は常人の話し声より小さいが、核島と自分の視線を瞬時に集める威力があった。
核島がなんでもないように問う。
「どうしましたか?」
声量や声を出した勇気を指摘しない気遣いだけは評価したい。彼女も同じように彼を評価しただろうか。なんとも思っていないだろうか。
「私、彼…、えっと、山之内…さんが、買ってるって、わかってました…。住所も、名前も…、送ってもらってたから……」
尚輝は驚愕する。そうだ、彼女にはDMで個人情報を送っている。
最悪。と思うが、何が最悪なのかはわからない。バレていた上で何度も送ってくれていた。バレているぞと教えてくれなかった。いやそれは彼女の自白にもなるからそうか。なぜ彼女の手のひらの上にいる感覚になるのだ。なぜそれを嫌がり、ムカついているのか。
最悪。悶々と脳をフル回転させて考え、理由を突き止める。そしてはたと気づいた。彼女は、“山之内尚輝は抗不安薬を必要としている精神状態だが病院に行けない状況である”と知っていたのだ。こちらは坂本音羽が、目老が、通院しているなんて知らなかった。病名は今現在も知らない。…そう、不平等だ。個人情報のバランスが合っていない、自分が嫌いな状態だから苛つくのだろう。
「それが何か?」
核島の声に驚いたのは、彼女も自分も同じだった。
「…えっ、だから、…もっと早く白状してたら、良かったかなって…」
「『私は山之内に薬を売っています』って?」
強く頷く音羽。
核島は首を傾げる。
「そうかな。バレない可能性が大きいのに、自らバラすなんて相当勇気のいることだよ。それに、もし自分の罪悪感が原動力なら、『私は薬を他人に売っています』って山之内のことは伏せてあげてもいいんじゃない?」
尚輝は、たしかにそうだな…と心の中で呟く。彼女の勇気を出したであろう発言の意図も、核島の質問攻めも、必要性がわからない。ただ、置いてけぼりにされているのが気に食わなかった。慣れっこの感覚だけれど、この二人は自分と同類であるため、会話に混ざれずにハブられる寂しさは誰よりも理解している。
尚輝は初めて音羽に顔を向けた。
「なんで言いたかったの?」
「……」
黙り込む。なんだこいつ、と今まで周りが自分に対して思っていたであろう感情が湧き出て、ヒュッと息が詰まる。自分が話せるようになったからといって、話せない人の理解を怠るつもりはない。どれだけ尚輝が成長して常人に近づこうと、仲間はコミュ障の陰キャでなければ納得できない。喋れない尚輝が本来の自分でないと、過去の自分が馬鹿みたいで可哀想だ。あの屈辱の日々をなかったことにさせるものか。
「喋るの上手だよ」「全然コミュ障じゃないと思うよ」「これは尚輝の努力だよ」…ふざけるな。全て薬のおかげだし、そんなことを言う奴らは僕の何を、いや僕のことを何も知らない。
核島は「憶測だけど」と前置きして話した。
「坂本さんは、山之内が病気を抱えていることを僕に言いたかったんじゃない?」
優しいね、と微笑む彼を見て、尚輝は苦虫を噛み潰した表情になる。優しさを感じているのは核島お前だけだ。人に病気だと言えてしまう頭の人間にしかない思考だ。音羽が頷いたのを横目で感じる。
自分がいないところで「あいつは病気だ」と言われる、思われる苛立ちを知らない。病気や障がいのせいって知ってもらえて良かったね、生きづらいって察してもらえて助かったね。頭お花畑か。
特別な人間で在りたいけれど、決して、特殊な人間で在りたいのではない。常人らしく振る舞いつつ、例えば才能などで、こっそり常人と差つけていきたいのだ。「不思議」「独特」「個性的」を、悪口ではなく褒め言葉として言われる人生になりたい。
病気は才能じゃない。障がいは個性じゃない。もうポリコレにはウンザリだ。多様性は大変良い心がけだけれど、多様性に収まりたい心と、多様性に勝手にカテゴライズされる不快感はトントンで、あくまでレッテルを貼るのは自称してからにしてほしい。当事者代表で声を挙げるほど尚輝は強い思想を抱いていないが、イッツァスーパースモールなこの教室のスケールなら、なんとかならないものだろうか。
「山之内さん、ごめんなさい」
「……なんの、謝罪…?」
「知ってて、黙って罪を重ね続けたこと。…その…、先生の前で言うのも変だけど、SNS使わずに取引する手段もあったなぁとか。同じ病気を抱えてるなら相談とか、求めてないかもしれないけど、同じ教室に仲間がいるんだって教えるだけでも嬉しいんじゃないかなとか、」
「僕、音羽さんの病気知らないけど」
ツラツラ言葉を並べる彼女を遮り、尚輝は質問した。逃したくなかった。知りたかった。今だ!と思った故に、早口で強い口調になったのはミス。
「……社交不安障害、うつ病、ASD、ADHD、…んー、あー、自傷癖、中学まで不登校で引きこもり、あと…、母子家庭、とか…?」
尚輝が同情したのはほんの数秒のことだった。知ったこっちゃない内容が半分くらい聞こえたから。
「ADHDより先は、診断されるものじゃないよね。そんなの別に聞きたくない」
「…診断されるものじゃないけど、前半のものの理由とか前半のもののせいでなったものだから…一応と思ったんだけど…。私の人生を物語のに…、私という人間が作られるのに必要な成分というか、」
すると、核島が割り込んできた。
「山之内を語るのに『社交不安障害』が外せないように…、…もしかしたら、もっと何か見つけてる?山之内は自己分析好きそうだと思ってたんだよ。自分をいつも俯瞰で見て、客観視した発言しがちだからさ。坂本さんが抱えてるものは、坂本さんを語るのに外せないんだ」
ワナワナと、指先が意図せず震える。怒りや不安が頂点に達したときの症状だ。軽いパニック発作とも言える。頭の中がぐちゃぐちゃする。叫びたい。思い切り叫んで身軽になりたい。
その欲は、彼女から割高で購入した薬によって、実行できるのである。尚輝はグァンッと大型犬のような咳払いをして、放った。
「不幸自慢って、大っ嫌いなんだよっ!!!」
沈黙。予想通りだから何も感じない。アホヅラだ、と思った。
気色悪い、キッモ、弱者はそうやって慰め合ってろよクソが。
ボヤきながら部屋を出ると、『学校の空気』で澱み、酸素が薄くなっていた。でも、さっきまでいたこの教室が心地いいなんて、絶対に思うものか。保健室登校が羨ましいと思う心も、カウンセリングを受けたい心も、馬鹿馬鹿しい。引きこもっていたからなんだ、自分を傷つけたからなんだ、母親しかいないからなんだ。
可哀想な自分が、そんなに可愛いか。
尚輝は青春に対して「死ね」と思った。勝てない、追いつけない。でもそれを公言するのはシャバい。
(僕は幸せ者。恵まれた身分)
「マジでバカじゃねぇの」
吐き出してみると、まるで卵の殻を割ったように解放された気分になった。
お気に入りの場所がある。学校と自分の家の間の駅。降りて、コンビニがあって、そこはたまご蒸しパンが必ず売っている。さらに土日夕方のシフトの店員は気怠げな外国人で、例えば尚輝が酒をレジに置いても年齢確認は一切されず、スムーズに購入できる。これは中学生の頃の話だ。そして高校生になった今、自身では顔に変化があったとは思えないが大人びたであろう、もっと堂々とレジに置けた。どちらにせよ、やっぱり余裕で買えた。
「ありがとうございます」
でも今は感謝だって言える。中学生の逃げるように購入していた自分は、もしかしたら店員も「子どもっぽいな」と思っていたかもしれない。
数メートル行ったところには、昔ながらの文房具屋がある。その先にはケーキ屋がある。その隣には書店がある。
橋の下。緑と緑で川を挟んでいる。あまり人はいない。草の上に座り、プシュッとチューハイを開けると、「おーい」と叫ぶ声が聞こえた。橋の上に人がいるのが見えたが、ここから見たら一センチほどのサイズで、誰かわからない。
「おーい、ヒヨコみたいな格好してどうしたー?」
酒を飲む罪悪感でフードを被っていた。黄色いパーカーで丸いフォルム。ヒヨコは自分のことだろうな、と看破できるのは客観視の癖か。たまご蒸しパンを開け、食べる。しっとり食感が上顎に張り付いて甘ったるい。鼻に抜ける砂糖の香りがセロトニンを呼び起こす。やっぱり、美味い。
自分から近づいてしまっているのはどうしてだろう。答えがわかるのが怖くて、薬を飲んでいるのに視線恐怖みたいに床しか見られない。
「……なんで、こんなところにいるんですか」
何故キレたみたいな声質になってしまったのか、わからない。自己分析できないと、不安が募ってイライラしてしまう。イラつかせてくるのは大抵同じ理由で、同じ人だ。
対照的な楽しげで間延びした声が返ってくる。
「お気に入りの場所なんだよねー。山之内こそ、こんなところで何してるのぉ?」
「……お気に入りの場所なんです。……酒くさっ」
核島先生。
顔を見て、やっと認める。
ここは尚輝の秘密基地のようなもので、グレてしまいたいときに酒を飲む場所だ。そこに同じように酒を……たぶん自分の十倍は飲んでいるだろう教師がいるなんて、誰が信じられる。
「酒飲んでんのぉ?大人になったねぇ。ここのコンビニがやる気のない外国人だから?賢いねー。薬もSNSで買ったりなんかして、ほんとに賢いなー、尚輝は」
「皮肉ですか」
「へぇ、そう思ったんだ?」
「そんな簡単な皮肉、いくらASDでもわかります」
さりげなく隣に並ぶ彼から、ムッと顔を逸らす。誰かに見られたらどうするんだ。と心配するのは、本来なら教師のほうだろうよ。
「僕、それは聞いてなかったけど。山之内もそうなんだ。じゃあ余計に坂本の言ったことにはムカついたよなぁ。『俺だって同じもの抱えてるけどそれを言いふらしたことなんかないし、ずっと苦しんでるのに。自分だけ生きづらいと思うなよぉ?あぁん?』的な」
(なんなんだこいつ)
尚輝は酒をグイッと煽る。
「あっ、担任の前で堂々と飲んでる。挑発的だなぁー」
「先生、酒臭い」
「飲んでる量が違うからね。自分の生徒が悪事働いて、ヤケ酒ってところ?」
核島の顔は明らかに酔っ払いのそれで、呂律も怪しくなっているし声量も大きくなってきた。姦しい。核島、姦しい。
「……すみません」
「今のは冗談だよ、時系列おかしいじゃん。たまにやるんだぁ。唐揚げと十缶の酒を飲み切るまで帰れませんゲーーーム!」
変な人だ、と思う。でも、理性が飛んで面白いことを漏らさないかなと、尚輝はワクワクとこの時間を楽しみ始めた。酔いも少しずつ回ってきて気持ちがいい。一人で飲むより、酒のツマミになる会話をしていたほうが楽しい。彼の場合は独壇場だから肴になってくれているといった表現が正しいか。いや、人間に対して肴とは失礼か。
「むしろ飲み切ったら帰れなくなりそう」
「帰れるよ。何回やってると思ってんのぉ」
「……んー……二十回くらい?」
「えー、数えてないよ。あと今のは質問じゃなくてツッコみだからね、勉強になりましたねぇ」
「ぅ……」
ウザい、という言葉を酒と共に飲み込む。
「やぁー、気分いい。どうにでもなれって思っちゃうなぁーー」
末期だな、と尚輝は思う。今は目の前で自傷らしきヤケ酒を見せられている。見てしまった、のだろうか。しかし話しかけてきたのは彼のほうだ。
「鳥になりたいなぁーー」
言えたことじゃないが、クラスに問題児が多くて悩んでいるのだろう。音羽が言った様々な負荷に、彼も何個か当てはまっているはずだ。
「どういう意味ですか?比喩ですか、ガチですか、とりあえず哺乳類を辞めたいという意味ですか?」
「……相変わらずだね」
「何が?」
「飛びたいってことだよ。翼を広げ〜〜飛んでぇ行きたぁーいーよぉ〜」
「酔ってますね。どこに飛びたい……、あっ、質問変ですか?」
「んーん、大丈夫」
「大丈夫ってことは妥協してるじゃないですか」
彼は笑って誤魔化すだけだった。この酔い方だと、半分くらい聞こえていないかもしれない。
「ここから飛ばないでくださいね」
「……ん?そこまで病んでないよ。心配させたね」
「少しは病んでるんですか」
缶を傾けて酒を少し飲み、困ったように彼は苦笑いした。尚輝も習って一口飲む。心理学ではミラーリングと呼ぶんだったっけ。
「ハートはチキンだからね。ニワトリには成れたみたいだ」
ウケる、と呟くと嬉しそうにしてくれた。自分も何か上手いことを言ってみたい。これでもお笑いファンなのだから。
「そういえば美香が尚輝のこと好きらしいじゃん」
「……どこ情報ですか?」
「おっ、自覚あるんだ」
殺してやろうかと思わなくもない。彼は同類、だとすればあの掲示板を見ただけにすぎない。そこまであのキャラクターにそっくりなのか。イッツァスモールワールドなだけなのか。
「尚輝はポリコレ好き?」
唐突な質問に、瞬発的に首を傾げる。長年の癖は抜けない。
考える。聞くということは語りたいのだ。自分の答えはどうでもいいんだろうと思う。
尚輝は、「先生は?」と問う。
「そうだなぁ。先生、多様性は好きだけどポリコレはあんまり」
質問を質問で返すなと言われなかったから、やはり予想は当たっていた。
「多様性は好きだけどポリコレはあんまりって、変なこと言ってませんか?」
「そうかなぁ?でもポリコレさんは味方してくれないんだよ。俺がヤケ酒しなきゃいけない世界しか創れない」
自分勝手。そして幼稚だ。主観主義なのは自分も変わらないけれど、大人げない。自分は大人になったらもう少しマシになろうと心に誓う。
「山之内は嫌いなものある?」
急に聞かれて、色々考えようと脳内に集中……する前に、パッと思い浮かんだ。思い浮かんでしまうと他の選択肢が浮かばなくて、それを言ってみる。
「……アドラー心理学」
彼は笑った。
「ははっ。でも心理学好きでしょ」
「アドラーさんは広場恐怖の味方をしてくれないんです」
真似っこをしてみると、真似っこを返された。
「変なこと言ってるよ」
意図せず、二人同時に缶を傾ける。まるで兄弟みたいだと、尚輝は俯瞰で見て、思った。
「深く知らないくせに、」
「知ったかぶりして会話するのは良くないよね」
自分がこの不毛な会話にオチをつけようと喋り始めると、彼は被せてこちらの脳内の台本を読み上げた。この人は本当にムカつく大人。ニヤニヤと笑えてくる。
「……」
「以心伝心だね」
「イ……シ……?」
「喋らなくても通じたよ」
彼は、「皆まで言うなってやつだよ」と言い「違うかも……?」と即座に訂正していた。これが国語教師で大丈夫なのだろうか。
ヤケ酒をやめない核島を見て、尚輝は思う。きっと大丈夫なのだろう、と。だってこの人が国語教師なのは紛れもない事実で、その世界に自分も彼の教え子として生きている。どんなに生きづらくて、息がしづらくて、行き詰まっても。
「生きてるよなぁ」
彼は遠くを見て呟いた。
「以心伝心ですね」
生きているなぁと思った。喋れる自分たちは、大事なことは喋らずに通じ合っている。あんなに喋りたくて堪らない日々を過ごし、喋れない日々に絶望していたのに、喋らなくても通じてどうするよ。
人生そんなもんだ。神も仏も信じないけれど、彼らに弄ばれるのが人間の運命かもしれぬ。それなら。
(受けて立とうじゃないか)
脇道に逸れて、神様もビックリな邪道を進むのもアリかもしれない。数年後に自分が自分みたいな人を助けてみても面白そうだ。
「かくしまっち」
そう言って顔を見ると、彼は鳩が豆鉄砲を食ったような表情をして、でもすぐに「ふははっ」と嬉しそうに笑った。
「なぁーに?山之内、何か用?」
「もう一度、八木原先生に会いたいんです」
彼は今度こそ本格的に驚いた。
「……へぇ、どういう心変わり?」
尚輝は酒を飲み干し、缶を核島へ渡した。彼は反射的に受け取ってくれた。
尚輝は背を向ける。
「学校のカウンセラーって、どうやってなるのか。聞こうかなと」
えっ、と小さく聞こえた。
「……へぇー、山之内って面白いから芸人にでもなると思ってたよ」
「あははっ。いや、一番向いてないでしょ」
殻を破ったヒヨコは、夕日に向かって歩いた。逆光で服の色が白っぽくなる。太陽がちょうど尚輝の頭の上にあって、まるで飛べない鳥みたいに見えた。
未来へ羽ばたく鳥ではあるけれど……。……なんてね。