木暮さんに名刺をもらって、その日の帰りにナギと言い合いみたいになって以降、バレットの動画の更新は止まったままだ。
 一応、あの日の前に収録した動画が数本あるのだけれど、僕が編集する気になれていない。バレットの動画――特にナギのギターの音や彼の姿を見聞きしているだけで、胸がどうしようもなく苦しくて痛くて、とても編集なんて出来ないからだ。
 病気かと一瞬思いもしたけれど、心当たりはばっちりあるので、その線は違う。

「お兄、最近バレット活動してるの? 路上ライブの予定は? 練習しなくていいの?」

 バイトが休みの日、部屋でぼんやりと珍しく学校の課題をやっていたら、芽衣が突然部屋に張ってきてそんな小言を言ってきた。
 バレットの最初の動画配信を手伝ってもらったことを、いつまでも芽衣は恩に着せてきて、毎度路上ライブのスケジュールを訊いてきてはクラスメイトなんかに宣伝して回っているらしい。
 だからいまの小言も、そのついでのように僕が最近ナギとあってすらいないことを指摘しているのだろう。なんにしても、お節介の何者でもないのは確かだ。

「うるさいなぁ。芽衣に言われなくてもやるって」
「その割に、もう一週間もナギさんウチに来てないじゃん」
「……別にフツーだろ」
「えー? だって前は毎日ってくらいでウチにきたり、お兄が出かけたりしてたじゃん。最近バイトと学校だけじゃない?」
「学校に帰りに行ってる、とかは思わないわけ?」
「だってレコーダー置いていってるもん」
「……練習だから、スマホでいいんだよ」
「ふぅん……じゃあ、そのスマホで録ったの聴かせてよ」

 芽衣の鋭い観察眼をかわすためについた嘘が見透かされてバレてしまうのを恐れ、僕は芽衣に奪われそうになったスマホを寸でのところでつかみ取る。芽衣は忌々しそうに僕をにらむ。
 べつに、芽衣にバレットのことをとやかく言われようとも、ここ最近ナギとあってさえいないことがバレようとも、僕には何の影響もないはずなのに……何故か、それを芽衣には知られたくないと思ってしまう自分がいる。

「お兄、観念しなよ。ナギさんと何があったの? あ、もしかして痴話げんか?」
「は?! ち、痴話げんかってなんだよ……僕もナギも、男だぞ……」
「何マジになってんの? べつに男同士だっていいじゃん。それよかさ、ホントにナギさんとなんかあったの?」
「……なんにもないよ」
「じゃあ、一つだけ訊いていい?」
「……なんだよ」
「この前の配信の終わりに、“次の配信では新曲披露します”って言ってたの、あれ、どうなったの?」

 ナギと気まずくなる数日前のライブ配信の頃、バレットは5曲目となるオリジナル曲の制作の真っ最中だった。僕がいつものように作詞を担当し、ナギがそれに曲をつける。
 だいたいの全体像は出来上がっていて、あとは音源や配信用として録音するのと、その練習を繰り返すだけになっていたのだけれど……あの一件以来、それもまた停まったままだ。
 実は、最新のライブ配信のアーカイブのコメントにも、「新曲いつお披露目ですか?」「次の路上はいつですか?」というような問い合わせの内容がなくはない。あれ以来ちゃんとナギと顔を合わせていないこともあって、僕の独断でそれらに答えるわけにはいかず、コメントへの返事さえも出来ていない。その事を、芽衣は言っているのだろう。

「……いまは、僕もナギも忙しいんだよ」
「それでもちゃんとコメント返ししなよ。ちゃんと返事しないのって感じ悪いよ」
「わかってるよ。その内やる」
「その内、じゃなくて、せめてこの後すぐやりなよ! 折角のファンが離れていっちゃうよ!」
「うるさいな! 僕らのことに口出しするな!」
「……なにそれ。マジで感じ悪。ナギさんに何やっちゃったか知らないけど、ちゃんと謝りなよ」
「なんで僕が悪いってことになるんだよ!」
「じゃあなんでそんなに怒ってるのよ。お兄が悪くないなら怒らなくたっていいじゃな……」
「うるさいな!! 芽衣には関係ないだろ! 出てけよ!」

 一方的に僕が悪者にされた上、チクチク言われる正論に苛立ちが勝ってしまって、冷静に適当に聞き流せなかった。だからついカッとなって怒鳴ってしまったら、芽衣は凍り付いたような顔をして、それからふいっと顔を背けて部屋のドアを荒々しく閉めて出ていった。
 僕は溜め息をつきながら片手で顔を覆い、それから先日木暮さんから言われたことを思い出し、また溜め息をつく。


『バレットはこの先どうしていきたいのか、はっきり二人で決めているのかな? 僕が見る限りだけど、ナギ君が主導的だよね、二人の、そのー……力関係みたいなものが。葉一君的には、それでいいからそうしてるの?』

 やはり、たくさんのアーティストの卵や、アーティストそのものを見て来た人の目は鋭い。
 バレットの音楽のことをコメントしてくる人は木暮さんの他にもいなくはなかったけれど、僕らの関係性にまで踏み込んできたのは、やはりその道のプロだからだろうか。
 バレットという二人組ユニットのバンドをやっていく上で、作詞の上では僕が主導権を握りことはあっても、曲の作り方や動画の企画、路上ライブのスケジュールなんかも、殆どナギが主体となって決めていた。
 それは単純にバレットを組んだ当時、僕がライブをやっていくことなどにあまりに無知だったこともあって、ナギに任せていたらいつの間にかナギが主導権を握っていたのだ。
 それでなくとも、ナギは主張が結構強いタイプで、所謂陽キャで、僕とは真逆のタイプだ。そういうこともあって、僕から意見するとかがなかなか出来ないままでいたら、バレットの顔がボーカルである僕よりもナギになっている感じがある。

『二人組だから、どちらがリーダーで、どちらがサブで、なんて扱いはしない方がいいと思うんだけれど、片方が主導権を握った方がやりやすいとか、それがキミたちのやり方なのかな?』

 先日声をかけられての返事を――僕としては、メジャーでやっていける自信がないことを――ひとまずしようと木暮さんのメッセージアプリにメッセージを送ったのだけれど、そう立て続けにバレットの在り方について訊かれたのだ。
 もしこれに対して、「僕はメジャーでやっていく自信がない」と返したら、もしかしたら、木暮さんは僕らが仲たがいしたとか、もめたとか思ってしまうだろうし、それはナギが渇望していたメジャーへのチャンスを潰しかねない。そんなことをして、ナギの悲願を潰すような権利は僕にはない。それは絶対にやってはいけない。
 でもだからって、嘘をついてしまったら、僕はこの先、嘘をつきながら音楽をやっていかなくてはならなくなるだろう。
 ――そんなのは、いやだ。自分に嘘をつき続けてまで、ずっとやり続ける根性なんて僕にはない。それだけは、はっきりとしている。だけど、僕もナギも納得の行く答えがわからない。

『僕は、業界のことでわからないことが多いし、その……あまり自信もないから、ナギに任せているんです』

 さんざん悩んだ末にそう返信をしたのだけれど、それが正解だったのかは今でもわからない。寧ろ、印象が悪くなってしまったかもしれない。もっとうまい言い回しがあったのかもしれないけれど、生憎僕には思つかなかった。
 やり取りが数分途絶えたのち、木暮さんはこう返してきて、メッセージは終わってしまった。

『二人が納得しているなら僕は何も言わないけれど、片方が片方に頼りきりなのはあまり健全な関係とは言えない気がするよ。音楽にもそれは現れてしまうからね』

 プロの目は、僕らがまだ遠くに見ていることさえ知っている。だからこそ、この先に起こりうる、いいも悪いも交じり合った出来事のことを考えて、最善をいまから対策しておけと言うのだろう。
 二人の関係性が、音楽に現れる――だから、あれ以来、新曲は出来上がりを目前にして停まっているし、ナギと音を合わせることもできていないのかもしれない。体はずっと、意識よりも正直だ。
 考え方も思い描く“成功の形”も違うナギと、僕は意見をぶつけ合って説き伏せるようなことができる気がしない。説き伏せるなんてことをしたところで、ナギがあの夜のように背を向けてしまうことには変わりないんじゃないだろうか。それは、あまりに苦しくて、つらい。そんなやり方は健全じゃない。
 じゃあ、それなら……もう僕は、ナギと音楽をやっていけないんだろうか? ナギに僕はもう必要ないんだろうか? そんな想いが、あの夜以来ぐるぐると渦巻いている。
 僕は、僕らは、どうしていったらいいんだろう。僕が単純にメジャーに行きたいとナギにも木暮さんにも伝えれば、それで万事が解決して丸く収まる気がしないのは、どうしてだろう。それだけじゃない深い感情が、事態の根っこに絡み付いている気がするし、それは僕がずっと目を背け続けてきた何かである気がする。
 このままじゃダメだ。それはわかっているのに……じゃあ、それを打開するには何をどうしたらいいのかがわからない。それが、苦しくて痛くて仕方ない。
 わからないまま、僕は真っ白なレポート用紙を見つめ、もう何日もナギのギターを聴いていないことに気づく。あんなに浴びるように聴いていたのに、あの夜以来まったく聴けていない。
 真っ白なままのレポート用紙が、責めるように僕を見つめていたナギを彷彿とさせ、僕は胸を抑えて蹲った。