昼休みになり、いざ図書室へ来たが何を手に取れば良いかわからない。

 一緒に来た七生は「俺は今、生息界隈がオカルトなのよ!」と叫んで違う棚の通路へ行ってしまった。

 取り残された一成は、恨めしそうに図書室の奥の棚に並べられてある厳めしい本の壁を見上げる。この春吾妻学園に入学して高校生活が始まったが、どの教科でもそれなりに勉強はできたが、苦手な科目があった。日本史、世界史などの地理歴史科である。

 一年生の科目は日本史だが、一成はとんと頭に入ってこなかった。歴史的出来事もその名称も人の名前さえも記号や暗号に見えてしまう。これが物理や化学なら平気なのだが、歴史となるとどうにも苦手意識があって覚えられない。

 すると、担当教師の寧々子はある助言をしてくれた。

「小説を読む感覚で歴史を学んだらどうでしょう。そうですね、取っつきにくさをなくするために、まずは歴史に関係する本で、自分が面白そうだと思った本を借りてみてはどうですか?」

 温和で丁寧な言葉遣いの先生に半分素直に従って図書室へ向かった。の、だが。

 ――わからないぞ。

 何が面白そうなのかが皆目わからない。

 歴史関係の書籍といってもいっぱいあり過ぎて、まず本棚のどこからどこまでが該当ジャンルなのかがわからない。試しに目の前の一冊をと思ったが、「人生は失敗ばかり~歴史の誤算列伝」という本のタイトルを見て、伸ばした手を引っ込めてしまった。

 ――やめた。やっぱり無理だ。

 まさしく広大な海にただ投げ込まれたような感覚で、一成はもうお手上げ状態になった。

 ――綾辻先生には無理だったって言おう。

 そうだ、それがいいと一成は一人頷いて、図書室を去る理由にした。本だらけの棚を眺めていたら頭が痛くなってきた。

 ――あいつ、どこ行ったんだ。

 クラスで席が自分の後ろだった七生とは、最初に会話をした相手である。すぐに気が合い、無類の本好きであることも披露してくれて、図書室へも嬉々として付き合ってくれたが、解き放たれた鳥のようにどこかへ飛んで行ってしまった。まだ図書室にはいるだろうから、探して帰ろうと本棚が両側に立ち並ぶ通路を右に左にと首を回して、ふと目が止まった。

 図書室の入り口側に向かう通路の先で、男性が一人立っていた。

 一成は少しだけ肩を丸める。いつのまにいたのだろう。本棚と睨み合っていたので気が付かなかった。

 ――先生、だよな。

 男性は顎に左手を添えて、真剣に本棚を見上げている。その立ち姿から、結構背の高い人だなと思った。

 変な音を立てて邪魔をしてはいけないと、俯き加減でコソコソと歩く。男性の近くまで来て、前を横切るのではなく背後を通り過ぎようと「すみません」と一言添えて、本棚と男性の間の狭いスペースを通り抜けようとした。時に、

「君」

 と、突然声が降ってきた。

 一成は反射的に足を止める。え? と思って声がした方を振り向くと、男性の背中がある。すらりと伸びて均整の取れた後ろ姿。ネイビーブルーのスーツが綺麗に整っている。

 ――俺に言ったのか?

 高い塀のような男性の背中を目でのぼるように、首を後ろに曲げて仰ぎ見る。すると、もう一度声がした。

「君、下品だな」

 まるで目の前に台本があって、そう書かれてある台詞を読むかのような抑揚のない口調。

 一成は唖然とその場で固まった。下品? 今の今まで聞いたことのない衝撃的な言葉に、いや、何を言っているんだこの人と、驚きや反発を越えて呆れる。というか、あまりにも唐突で正直戸惑った。

 ――俺、何かしたか?

 見知らぬ男性である。

 一成はぐっと顎を上げた。下品という言葉のインパクトに徐々に腹が立ってきた。元々この学園へ入学したくなかった一成である。その原因である叔父への反発心もあって、それが先生だか何だか知らない人間のわけのわからない一言で、怒りが猛然と吹き出した。

 ――誰だ、この人。

 胡乱気(うろんげ)に背中と向き合う。あからさまに不審者にでも遭遇したような眼差しをぶつけた。その不躾(ぶしつけ)な眼差しを背中で感じ取ったのか、男性は肩越しに振り返って一成に目をやると、フッと鼻で笑った。

 一成はムッとなる。何だこの人と、怪しむ色が顔全面に出る。すると男性はフフッと鼻で笑った。とても愉快そうに。

 二度も鼻で笑われた一成は、相手が誰だろうが構わないとばかりに食ってかかった。

「あの!……」

 まるで一成の文句を遮るように、男性は優雅な身のこなしで振り返った。

「君が悪い」

 色に例えればダークな声。

 一成は口先から飛び出す寸前だった「あの! 俺何かしましたか!」という文句を喉元で呑み込んだ。

 男性の顔立ちは外国映画で見るような俳優のようだった。両目の色も薄い緑色をした異国風で、どこかシニカルに一成を見つめている。

「先程の君の行動が愉快でね。つい下品だと感じた」

 本を朗読しているような心地良い口調。

 一成は吸い寄せられるように男性に視線が釘付けになった。先程の行動というのは、本棚を前にしてウロウロと彷徨(さまよ)い、本を手に取ろうとしては止めるという繰り返しのことだろうか。それが下品なのか、男性にとっては。

「たくさんの本を前にして迷うのは、人生を迷うことと同じだ。躊躇(ためら)わずに手を伸ばしなさい。その手が掴んだ本を読みなさい。それが君に幸運をもたらすだろう」

 端整な口元が容赦なく言葉を刻んでいく。

 一成はひとり口を閉じて見上げていた。少し前まであった反発や反感は、どこからともなくきた突風に吹き飛ばされてしまった。

「君は」

 男性は丁寧に彫り込まれた頬を(やわ)らげる。

「新入生だな、当然だが」

 返事を求めてはいない口調。

「まだ若いことに感謝するんだな」

 皮肉そうに会話を閉じる。

 一成は息をするのも忘れたように男性を見つめる。まるでそう命令されたように目を離さないでいる。いや、離せない。

 不満も不快さも苛立ちもなかった。無礼で辛辣な物言いにも腹立つことはなかった。

 ただただ圧倒された。

 男性は(ろう)人形のように固まってしまった一成を見て、どこか不憫そうに息をつく。

「ああ、私の欠落しているところは、ここは傍若無人なロンドンではないということを失念してしまうことだ」

 独り言のように呟くと、後ろの棚を振り返り、探すように少しだけ顔をあげて、天井から二段目の中央箇所にあったハードカバーの本をいとも簡単に取り出す。その本を片手で一成に差し出した。

「読みなさい」

 無造作に渡された一冊。一成は借りてきた猫のように両手で受け取る。

「その本が君に幸運をもたらすだろう」

 一成は表紙にある本の名前に目を落とす。しかしこの本がどうして幸運をもたらすのか、素直によくわからない。

「不思議そうな顔をしている君に、答えの一つを提示しよう」

 男性は愉しんでいるようだった。

「私は日本史の教師だ」

 本には「日本最古の歌集 万葉集」とある。

 一成は両手でハードカバーの本を持ちながら、心の底で違和感が鎮火し切れていない残り火のように(くす)ぶった。外見は明らかに欧米人風の男性である。なのに当たり前のように日本語を喋り、日本史の教師で、万葉集を勧める。どうにもチグハグでおかしい。

 すると、まるでその気持ちが伝わったかのように男性は静かに言った。

「目を上げなさい」

 一成は何かの力で突き動かされるように顔を上げて男性を見た。

 湖面のような淡い緑色の瞳が自分を射抜くように見つめていた。

「その本を読んだら、感じたことを私へ話しなさい」

 ごく自然に言い渡す。

 一成もまた何の迷いもなく頷いた。そうさせる雰囲気が男性にはあった。

「とても楽しみだ」

 (えい)は満足げに美しい色合いの瞳で(たたず)む。

「君に、一体どのような幸運がもたらされるのか」

 一成は耳に絡まってきた言葉を黙って聞いた。胸の中では、今まで感じたことのない緊張が生まれていた――