一成は図書室へ向かう間に考えていた恒例行事への上手なお断り文句を口にした。
「これから会議がある。また今度にしてくれ」
すると、流れるように色めかしい目が見るからにしょんぼりんことなった。
「ようやくこの本を語れると、指折り数えて待っていたのにな……」
一成は、気持ちは理解しているというような表情をつくった。つくったが、理解しているのは気持ちだけで、毎度相手のTPOを考えないディープなオタクぶりが正直しんどかった。
七生は吾妻学園の卒業生で、一成の同級生であり友人だ。高校生の時からもう無類の本好きで、読めるものなら本だろうが漫画だろうが電子書籍だろうが一向に構わない。しかも読んだら語らずにはいられない本バカっぷりで、それは時間も場所も相手の都合も関係なく発動される。社会人になって母校の司書になっても変わらずだ。
――いい奴だし、気が合うし、信頼はしているんだが。
毎回本を返却する度に、さあ俺と語り合おうと一方的に誘われて、いやこっちは今お前に付き合えないしと困ってしまう一成である。本好きなので紹介する本も大概面白くて良質だ。だから一成も本に関することは七生に聞くのだが、もう少し空気を読んで欲しいかなとは友人として思う。性格は良いので男友達はいるが、こういう性分なのでお付き合いする相手とはほぼほぼうまくいかない。外見はどこかのバーで洒落たカクテルを提供する謎めいた色男モードなのに、付き合った相手はその見てくれとの大ギャップに絶句するらしく、ある相手には「私はあなたとお付き合いしたいんであって、本を読みたいわけじゃないの!」と言葉でビンタされたらしい。とは七生が、どうして俺振られるんだろうとこぼした内容である。さもありなんと、当時読んでいた徒然草の一節を思い浮かべた友人代表一成である。
「ま、それじゃ、また今度だな」
七生は重そうにその本を手に取ろうとして、ふっと何かを思いついたのか、カウンターから離れようとした一成を呼び止めた。
「そういえば、この間、万葉集を借りに来た子がいたよ」
「万葉集?」
一成は足を止めて振り返る。
「確か、一成が担任しているクラスの子だ。担任の先生に薦められたってさ。どこにありますかって、折り目正しく聞いてきたよ。きっと部活は武道系に所属している子だな。そういう匂いがした」
今どきの子にしてはと七生は感心する。
「ネットでも読めるよと教えたんだが、本で読みたいってね。薦めてくれた先生も本で読んだと思うからって。おい、恥ずかしがるなよ」
「別に恥ずかしがってはいない」
囃し立てる七生に、一成は憮然と言い返す。恥ずかしがってはいない。ただちょっと驚いただけだ。
――読んだと言っていたが……
あの保健室でのやり取り。伝馬の態度はギスギスしていたが、きちんと読んでくれたのは伝わってきた。有言実行してくれたのも嬉しかったが、図書室で本を借りて読んだというのが意外だった。確かに自分が読んだ万葉集は古典文学シリーズで出版されているが、七生の言う通り、今の時代ならネットでも読めるし、スマホでも気軽に目にすることができる。
――俺が本で読んだからって……
一成は無意識に左頬を撫でた。何だかこそばゆい。
「嬉しいね、一成」
七生はカウンター越しに一成を眺めながら、その心情を代弁する。
「自分が薦めた本を読んでくれただけでも嬉しいのに、同じ形式で読んでくれる生徒はあまりいないよ」
「……そうだな」
一成は小さく相槌を打つ。段々と気恥ずかしくなってきた。
「ああ、一成が羨ましい」
やおら七生は両手で頭を抱え込む。
「俺もそういう人生を過ごしたいのに……俺が生徒に本を薦めても、みんな引いちゃってさ……どうして?」
最後の問いかけは同窓の友へ投げかけている。
投げかけられたクエスチョンに、同窓の友は難しいという表情のアンサーを出した。一言で言えば、今日日の高校生が興味をもたない本ばかり薦めるからだ。だがそれをオタク強度の七生に説明するのは大変だ。
――俺は七生と同年代で、本を読むのも苦じゃないからいいんだが。
チラッとカウンターにある分厚い本を見る。借りたのは歴史ミステリーで真面目に面白かった。だから七生も薦めてくれたんだろう。しかしこの本を高校生に薦めて果たしてどれくらいの人数が読んでくれるだろうか。まず本の厚さで尻込みされてサヨナラされるだろう。七生が紹介する本は本当に面白いのだが、多彩なコンテンツに溢れている高校生が自分の限りある自由時間で読むかと言われたら、ないなと横に首を振ってしまう。よほどの本好きであればワンチャンあるかもしれない。あるいはもう少し紹介の仕方を工夫すれば、数人くらいの好奇心は刺激されるかもしれない。
――桐枝はよく読んだな。
一成は改めて感心した。万葉集である。いくら自分が薦めたからといって、古典でしかも興味もない本のページをめくっていけたなと素直に思う。自分への反発心が原動力だったかもしれないが。
――全く。
ささやかな笑いが自然と洩れた。直情径行という言葉が頭の片隅で花を咲かせた。
「一成」
七生はいつの間にか、苦悩するオタクからいいムード全開の図書室司書に舞い戻っている。
「幸せそうだな」
七生の表情は楽しそうだ。
一成はゆるんでいた口元を引き結んで、教師の顔になる。
「そうか?」
「そうだ。本当に羨ましい」
俺は全部お見通しと言わんばかりに、七生は盛大に吐き出す。
「俺も人生で一度は、先生と同じスタイルで薦められた本を読みましたって言われたいよ」
最後に願望をダダ洩れにして分厚い本を手に取り、奥にある返却棚へ持っていく。
一成は何も言わない。ただ軽く左頬を撫でると、黙って図書室を出た。
「これから会議がある。また今度にしてくれ」
すると、流れるように色めかしい目が見るからにしょんぼりんことなった。
「ようやくこの本を語れると、指折り数えて待っていたのにな……」
一成は、気持ちは理解しているというような表情をつくった。つくったが、理解しているのは気持ちだけで、毎度相手のTPOを考えないディープなオタクぶりが正直しんどかった。
七生は吾妻学園の卒業生で、一成の同級生であり友人だ。高校生の時からもう無類の本好きで、読めるものなら本だろうが漫画だろうが電子書籍だろうが一向に構わない。しかも読んだら語らずにはいられない本バカっぷりで、それは時間も場所も相手の都合も関係なく発動される。社会人になって母校の司書になっても変わらずだ。
――いい奴だし、気が合うし、信頼はしているんだが。
毎回本を返却する度に、さあ俺と語り合おうと一方的に誘われて、いやこっちは今お前に付き合えないしと困ってしまう一成である。本好きなので紹介する本も大概面白くて良質だ。だから一成も本に関することは七生に聞くのだが、もう少し空気を読んで欲しいかなとは友人として思う。性格は良いので男友達はいるが、こういう性分なのでお付き合いする相手とはほぼほぼうまくいかない。外見はどこかのバーで洒落たカクテルを提供する謎めいた色男モードなのに、付き合った相手はその見てくれとの大ギャップに絶句するらしく、ある相手には「私はあなたとお付き合いしたいんであって、本を読みたいわけじゃないの!」と言葉でビンタされたらしい。とは七生が、どうして俺振られるんだろうとこぼした内容である。さもありなんと、当時読んでいた徒然草の一節を思い浮かべた友人代表一成である。
「ま、それじゃ、また今度だな」
七生は重そうにその本を手に取ろうとして、ふっと何かを思いついたのか、カウンターから離れようとした一成を呼び止めた。
「そういえば、この間、万葉集を借りに来た子がいたよ」
「万葉集?」
一成は足を止めて振り返る。
「確か、一成が担任しているクラスの子だ。担任の先生に薦められたってさ。どこにありますかって、折り目正しく聞いてきたよ。きっと部活は武道系に所属している子だな。そういう匂いがした」
今どきの子にしてはと七生は感心する。
「ネットでも読めるよと教えたんだが、本で読みたいってね。薦めてくれた先生も本で読んだと思うからって。おい、恥ずかしがるなよ」
「別に恥ずかしがってはいない」
囃し立てる七生に、一成は憮然と言い返す。恥ずかしがってはいない。ただちょっと驚いただけだ。
――読んだと言っていたが……
あの保健室でのやり取り。伝馬の態度はギスギスしていたが、きちんと読んでくれたのは伝わってきた。有言実行してくれたのも嬉しかったが、図書室で本を借りて読んだというのが意外だった。確かに自分が読んだ万葉集は古典文学シリーズで出版されているが、七生の言う通り、今の時代ならネットでも読めるし、スマホでも気軽に目にすることができる。
――俺が本で読んだからって……
一成は無意識に左頬を撫でた。何だかこそばゆい。
「嬉しいね、一成」
七生はカウンター越しに一成を眺めながら、その心情を代弁する。
「自分が薦めた本を読んでくれただけでも嬉しいのに、同じ形式で読んでくれる生徒はあまりいないよ」
「……そうだな」
一成は小さく相槌を打つ。段々と気恥ずかしくなってきた。
「ああ、一成が羨ましい」
やおら七生は両手で頭を抱え込む。
「俺もそういう人生を過ごしたいのに……俺が生徒に本を薦めても、みんな引いちゃってさ……どうして?」
最後の問いかけは同窓の友へ投げかけている。
投げかけられたクエスチョンに、同窓の友は難しいという表情のアンサーを出した。一言で言えば、今日日の高校生が興味をもたない本ばかり薦めるからだ。だがそれをオタク強度の七生に説明するのは大変だ。
――俺は七生と同年代で、本を読むのも苦じゃないからいいんだが。
チラッとカウンターにある分厚い本を見る。借りたのは歴史ミステリーで真面目に面白かった。だから七生も薦めてくれたんだろう。しかしこの本を高校生に薦めて果たしてどれくらいの人数が読んでくれるだろうか。まず本の厚さで尻込みされてサヨナラされるだろう。七生が紹介する本は本当に面白いのだが、多彩なコンテンツに溢れている高校生が自分の限りある自由時間で読むかと言われたら、ないなと横に首を振ってしまう。よほどの本好きであればワンチャンあるかもしれない。あるいはもう少し紹介の仕方を工夫すれば、数人くらいの好奇心は刺激されるかもしれない。
――桐枝はよく読んだな。
一成は改めて感心した。万葉集である。いくら自分が薦めたからといって、古典でしかも興味もない本のページをめくっていけたなと素直に思う。自分への反発心が原動力だったかもしれないが。
――全く。
ささやかな笑いが自然と洩れた。直情径行という言葉が頭の片隅で花を咲かせた。
「一成」
七生はいつの間にか、苦悩するオタクからいいムード全開の図書室司書に舞い戻っている。
「幸せそうだな」
七生の表情は楽しそうだ。
一成はゆるんでいた口元を引き結んで、教師の顔になる。
「そうか?」
「そうだ。本当に羨ましい」
俺は全部お見通しと言わんばかりに、七生は盛大に吐き出す。
「俺も人生で一度は、先生と同じスタイルで薦められた本を読みましたって言われたいよ」
最後に願望をダダ洩れにして分厚い本を手に取り、奥にある返却棚へ持っていく。
一成は何も言わない。ただ軽く左頬を撫でると、黙って図書室を出た。