「矢野くんの過去を知れて嬉しかったよ」

 一生、女装をして生きようとは思っていなかった。自分の顔がコンプレックスで、人よりも自信がなくて。どうしても自分に自信がほしかった。

 それだけ、だったのに。

 夏樹先輩に自分自身を肯定されて。

 ──素直に嬉しいと思ったんだ。

「でも、ひとつだけ俺と約束してほしいな」
「……約束、ですか?」
「女装するなら俺の前だけにしてほしい」
「…………へ?」

 いや、ちょっと待って。先輩、今なんて言った?

 〝女装するなら俺の前だけにしてほしい〟

「だからね、俺がそばにいるときだけ女装してほしいってこと。一人で街に行こうとしないで女装するときは連絡してよ。俺、すぐ駆けつけるからさ」
「いやっ、あの、なんで……」
「なんでも。絶対だからね」

 理由を聞いてもそれしか言ってくれず、困惑したままの俺。だけど、夏樹先輩はそんなのお構いなしに、「タケたち待ってると思うし戻ろ」と言って俺の横を通り過ぎていく。

 全然、理解が追いつかなくて俺はその場に立ち尽くす。

 俺の前だけで、って夏樹先輩の前だけ女装しろってこと……?

 なんかそれって──

「おーい、矢野くん?」

 聞こえた声にハッとすると、夏樹先輩の真っ直ぐ向けられる瞳とぶつかって、その瞬間顔が熱くなる。

「顔、赤いけどどうかした?」

 それって〝独占欲〟みたい。

 そんなふうに思う自分が恥ずかしくなって。

「なななっ、何でも、ありません……っ!」

 慌てて誤魔化すと、歩き出す俺。

 けれど、手足が同じタイミングで出てしまう。それはまるで壊れたロボットのようだ。

「なんでもないって顔してないけど」

 俺の隣を歩く先輩が、いきなりひょこっと顔を覗かせる。

「こっ、これはただ暑かっただけです!」

 そうだ。顔が、身体が、暑いのは、この真夏のせい。きっとそうに違いない。

 それなのに。

「ふーん、そっか」

 先輩は全く信用した素振りも見せずに、ふはっと吹き出して笑うから、

「しばらくこっち見ないでください!」

 隣にいる先輩に顔が見えないように、横を向いて歩いた。
 
 ──これは、女装した俺と先輩のお話だ。