「矢野くん?」
ほら、また。一度ならず二度までも。確実に俺だと思って声をかけている。
けれど、ここで返事をすれば今の俺が矢野だってことになるし、女装して歩いてたなんて学校で言いふらされたら笑い物扱いされてしまう。
ああでもさっき、〝夏樹先輩〟って言っちゃったし……いやでも今ならまだ誤魔化せるかもしれない。
俺は好奇の目に晒されて三年間過ごすためにこんなことをしているわけじゃない。
だから、負けるな俺!
「……ひ、人違いじゃ、ないですか」
俺は、この場を乗り切るためにシラを切ることにした。
少し高めの声が嫌いだったけれど、こういうときに役に立つ。
「何言ってんの、矢野くんでしょ」
それなのに夏樹先輩は、疑う素振りひとつも見せずに俺の名前を呼び続ける。
「いやっ、あの、何を言われてるかさっぱり……」
誤魔化してみるが、身体の中は心臓ばっくばくで。
「俺もこの状況にびっくり」
どうしよう、どうしよう。このままではきっと一分もしないうちに証拠さえ掴まれそうだ。そうなったら俺の高校生活は日陰のものとなるだろう。
「ねえ、矢野く──」
そうなれば、残す道はひとつしかない。
「わっ、私、ほんとに知りませんから……!」
夏樹先輩の声を遮った。
慣れない〝私〟呼びに思わず赤面しながら、夏樹先輩に背を向けて走った。
「あっ、ちょっ……」
背後で慌てる声が聞こえたけれど、追いかけて来る足音は聞こえなくて。
けれど、怖くて振り向けなかった。
代わりに俺は、走った。
運動部ではない俺が、走ることに慣れていなくてすぐに息があがる。それでも走って走って、夏樹先輩が見えなくなるまで逃げたんだ──。