「あの、夏樹先輩……」

 もう一度声をかけると、『──あっ!』弾んだ声がスマホから流れてきて、

「矢野くん、みーっけ」

 楽しげな声がふたつ聞こえた。
 ひとつはスマホからで、もうひとつはこの場所から。

 あたりを見渡すと、少し離れた場所で俺の方へ歩み寄る夏樹先輩が映り込んだ。
 夏休みと同様、ラフな格好なのにすごくおしゃれで一際目立っていた。

「矢野くん、お待たせ」

 俺に手を振ってくるからつられるように手を振り返す。

「今の女の子見た? すっごい可愛かった」

 通りすがりの女子がボソッと呟いた。

 その言葉によって俺はあることを思い出し、すぐに手を下げて、俯いた。

「矢野くん、どうしたの?」

 そんな俺に困惑して、先輩は声をかける。

 俺は今、女装をしている。
 それなのに先輩と会うとどうしても普段のままの自分だと錯覚しそうになる。

「先輩……その、矢野くんっての人前ではやめてもらっていいですか?」

 先輩は、俺のことをいつも通りで呼ぶ。
 それを他の誰かに聞かれたら俺が女装している変なやつだと疑いをかけられる。

「え、なんで?」
「なんでって……えっと俺、今…女装してて、だから……」

 頭の中で考えながら言葉を紡ぐが、緊張のあまり言葉は滑らかに現れない。
 中途半端な言葉だったが、先輩は意図を汲み取ったのか、

「ああなるほど、〝矢野くん〟はまずいよね」

 と、表情を明るくする。

「じゃあ……あーちゃんって呼ぼう」
「えっ、ちょ……はい……?!」
「矢野くんの名前、朝陽でしょ? でも今矢野くんはダメだし。だったら、あーちゃんしかなくない?」
「だからって、なんで……もっと他の呼び方にしてくださいよ」
「気に入らなかった?」
「いや、そういうわけじゃなくてですね……」

 羞恥心が半端ないっていうか、今まで先輩には矢野くんとしか呼ばれたことないから想定外だったというか。

「じゃあ……朝陽ちゃん?」

 あーちゃんも朝陽ちゃんも、どっちもしっくりこないけれど。