機械の向こう側から先輩が微かに笑った声が聞こえた。
──先輩の顔、見たい。
「先輩、俺も……」
──〝生徒会は四月で引き継がれる。だったら二年生もあと少しで終わり〟
鳥羽の言葉を聞いて俺は、 〝寂しくなる〟と思ってしまった。
そして今も、先輩の顔を見たいと思った。
今までずっと気づかなかった。いや、気づかないフリをしていたのかもしれない。気づいてしまったら〝今の関係〟を壊してしまうことになるかもしれないと思ったからだ。
だけど、もう俺は気づいてしまった。この感情の正体に。
「俺も先輩に会いたいです」
気づいてしまったら嘘をつくことはできなかった。
『矢野くんがそんなこと言ってくれるの珍しいね。嬉しい』
先輩の声はいつだって優しい。
その優しい声で何度でも名前を呼んでほしくなる。
「先輩」
スマホを持つ手に力が入る。
『ん?』
「修学旅行が終わったら話したいことがあります」
その瞬間、廊下の窓からふわりと冷たい風が入り込み俺の頬を撫でた。
『……うん、分かった』
機械の向こう側から先輩の真剣な声が聞こえる。
その直後、チャイムが鳴ったので。
「あ、じゃあ、修学旅行楽しんでください!」
『ありがとう。矢野くんも授業頑張って』
スマホを切ると、教室に戻った。
「夏樹先輩何だって?」
すぐに鳥羽に聞かれる。
どうして夏樹先輩だと分かったんだろう。
「お土産何がいいって聞かれただけ」
「ふーん」
「何?」
「べつに何も」
何もって顔してないけど、聞かれたくないから今話した内容は内緒にしておこう。
先輩たちが修学旅行から帰ってきた翌日は、生徒会室にはたくさんのお土産が置かれていた。
「こっちは俺から。で、そっちは夏樹と武田から」
会長がテキパキと説明をしていく。後輩である俺たちは、「ありがとうございます」と口を揃えた。
「感謝しろよー」
武田先輩がそう言って後輩に絡むのを見て俺は思わず苦笑い。
それにしても、夏樹先輩がいない。
椅子から立ち上がり、会長の元へ向かう。
「あの、夏樹先輩って……」
「ん? ああ、夏樹ね。今、忘れ物を取りに教室に行ってるよ。何か用事でもあった?」
「用事ってほどでもないんですけど……」
「じゃあ、夏樹のこと呼びに行ってもらっていい? ついでに生徒会メンバー分のジュース買ってきてほしいんだ」
と、会長は俺に千円札を手渡しながら、「夏樹、二年四組だから」と続けた。
やっぱり会長はどこまでも抜かりがない。
生徒会室を出て先輩の教室に向かう。
──『修学旅行が終わったら話したいことがあります』
そう言ったけれど、なかなかタイミングが合わない。生徒会室では絶対に無理だし、かと言って帰り道にサラッと言うのもなんか違うし。
考えていると、先輩の教室の前にたどり着く。中を覗くと、夏樹先輩が机に軽く腰掛けている後ろ姿が見えた。
何か考えてる……?
「……夏樹先輩」
恐る恐る声をかけると、振り返った先輩は、「あ、矢野くん」と笑った。
「どうしたの?」
「会長におつかいを頼まれたので、そのついでに様子見に来てみました。忘れ物は見つかりましたか?」
「うん、見つかったよ」
先輩は立ち上がろうとはしない。
俺はそうっと教室の中に足を踏み入れる。
「そうだ。矢野くんにお土産があるんだ」
そう言って鞄から取り出して「はい」と手渡される。
「色々見てみたんだけどどれがいいか分からなくなって。で、最後に見たそれがなんか雰囲気が矢野くんっぽくて」
見てみると、小さな猫のキャラクターもののキーホルダーだった。
「俺っぽいってなんですか……でも、嬉しいです。ありがとうございます。修学旅行は楽しかったですか?」
「うん、すごく楽しかったよ。いろんな景色も見れたし、おいしいものも食べれたし」
「そうですか。よかったです」
どうしたんだろう。いつもより少しだけ元気がないように見える。
「先輩は、生徒会室行かないんですか?」
「俺はもう少ししてから戻るよ」
笑っているはずなのに、肩が落ちている気がする。
「分かりました。会長に伝えておきますね」
何か様子がおかしい。何でだろう。
──『修学旅行が終わったら話したいことがあります』
もしかして俺が言ったあの言葉が原因?
先輩、悪い方に考えたりしてる?
廊下に出ようと思ったが、足を止める。
「先輩、今元気ないですよね」
「俺? いや、元気だよ」
「先輩、笑ってるけどいつも通りには見えないです。それって俺が言った言葉を気にしてるからですか?」
「そんなことないよ。矢野くんの気のせい」
「嘘ですよね。俺だって先輩と一緒にいる時間は長かったので先輩のこと分かるつもりです!」
かなり待たせてしまった。その上、散々先輩には迷惑をかけたと思う。
俺は、女の子が好きだ。今でもそうだ。でも、夏樹先輩に告白をされて、先輩のことを考えるようになって、分かったことがある。
「たくさん時間がかかってごめんなさい。もっと早く言えば先輩に迷惑かけなかったのに……」
「だから、べつに矢野くんのせいじゃないって。てか、ちょっと今はあんまり聞きたくないっていうか」
やっぱり誤解している。だから、先輩は元気がないんだ。
やっと見つけた、俺の答え。
夏樹先輩には、ちゃんと伝えたい。
「俺、先輩のことが好きです」
ここは、教室の中。だけど、廊下もすぐ近くにあって。そこを誰が通るか分からない。
「夏樹先輩のことが好きなんです」
どうしても今伝えなきゃいけないって思った。
「矢野、くん……」
先輩は、ただ俺のことをじっと見つめているだけだった。
緊張する。手だって震える。
だけど、今言わなかったらきっと後悔する。
その方がよっぽど嫌だから。
「告白されたときはわけ分からなくて、どうして俺なんだろうって思ったりもして。でも、先輩と過ごしてるときはすごく楽しくて、いつも笑ってる自分がいて。先輩が真っ直ぐ気持ちを伝えてくれる。それがドキドキするけど、嬉しくもあって」
廊下とか教室とか、もうそんなこと考えてる暇なんかなくて、俺は伝えたいって思った。
「先輩ともっと話したい。先輩の笑った顔をもっと見ていたい、気づけばそう思うようになっていて。修学旅行で先輩が四日もいないって思ったらちょっと寂しくなって、声を聞いたら会いたいなって思ったんです。たくさん時間がかかってしまってごめんなさい。でも、その分ちゃんと考えました。俺は、夏樹先輩のことが好きです。だから──」
だから俺と付き合ってください、そう言おうと思ったら、腕を引かれて抱きしめられた。
しかも、かなりの力で。
「あのっ、先輩?!」
「矢野くんの言葉の破壊力まじでやばいよね」
「ここだと人が来てしまうんですが……」
「たった今、告白の返事くれた人が何言ってんの」
「それとこれとは話が違うっていうか」
先輩の腕の中にすっぽりと収まっている俺に、「今のほんと?」と耳元で尋ねてくる。
その声がいつもより頼りなくて、甘えているようで。
「ほんとです。俺、先輩のことが好きです」
もっとちゃんと言葉で伝えたくなった。
そしたら先輩は、「すごい嬉しい」と言って、また腕の力を強めた。でも、苦しくなくて、心地よくて。
「俺も矢野くんのこと好き」
「……はい」
「すごい好き」
「……俺も、です」
「俺たち両想い?」
「はい、そうです」
そんな会話がくすぐったくて、だけど幸せで。
はじめは、ただの先輩と後輩だった。
けれど、生徒会という仲間になり少しずつ時間を共有して、お互いのことを知るようになって、絆が生まれていった。
きっと俺は先輩じゃなきゃダメで、先輩も俺じゃなきゃダメで。そういうのを恋っていうのかもしれない。
「矢野くん」
と、呼ばれて顔を上げる。先輩は少し腕の力を緩めて、
「俺と付き合ってほしい」
先輩は、優しい眼差しで俺を見つめた。
答えは、たったひとつしかなくて。
「はい、もちろんです!」
俺が言うと、先輩は嬉しそうに笑って、また俺を抱きしめる。
「俺って世界一幸せ者かもしれない」
なんて言って先輩が笑うから、
「これからもっと二人で楽しいこと嬉しいこと増やしましょう。てか、俺が先輩を幸せにします!」
「矢野くんて頼もしいよね。そういうとこほんと好き」
耳元で先輩の笑う声が聞こえて、くすぐったくて、だけど嫌じゃなくて、むしろ心地よくて。
「俺だって先輩のこと好きです」
──放課後の教室で、そんなやりとりが行われていたのは、俺と先輩以外は知る由もなかった。