翌日の放課後、僕は再び凛の家へ向かった。
 今日の凛は学校にすら来ていなかった。体調不良だと小耳に挟んだけれど、おそらく僕と会うのを避けたような気がする。力技になるかもしれないが、やはり直接会って話をするしかない。
 表向きはヒナのお迎えという理由もあるし、なんとかして昨日全くもって取り合ってくれなかった凛と、もう一度話をするチャンスを伺おうとした。
 どうやって会話に持ち込もうとか、ヒナがうまいことアシストしてくれるのかとか、そんなことを考えながらお寺へ向かうと、あっという間に到着してしまった。
 意を決して門をくぐり、庫裡の方へ歩みを進める。
 すると、何やら聴き覚えのあるメロディに乗せて、誰かが歌う声が聴こえてきた。
「……り、凛?」
 小牧家の縁側には、ヘッドホンと装着して、ストラップを肩にかけてエレキベースを携える凛がいた。
 隣にはスマートフォンがスタンドに立てかけられていて、おそらくヒナと何かを話している。
 僕はそんな凛の姿を見て驚いたり、僕が何もしなくてもよかったなと拍子抜けしたりはしなかった。
 単にそれを見て、凛は凛のまま音楽を続けていてくれて、僕は安心したのだ。
「……あっ」
 ふと、凛と視線が合った。
 昨日あんな別れ方をしてしまっていたので、ちょっと気まずい。
 思わぬタイミングで出会ってしまい、僕はどう話を切りだそうか固まってしまった。
 すると凛はヘッドホンを外し、おもむろに立ち上がってこっちへ向かってくる。
 ちょっとその姿には見えない圧力みたいなものがあって、僕は一歩二歩後ずさりをしてしまった。
「待って晴彦、話があるの」
「き、奇遇だね、僕も話をしようかなと思って……あっ、そうだ、先輩が凛のスマホに入ってるかと思うんだけど……」
「それも含めて、ちゃんと話をしようよ」
 凛の真っ直ぐな瞳を見たのは、ソフトボールに明け暮れていたあのとき以来だったと思う。
 不思議とその目力に吸い込まれてしまいそうになり、僕は凛の言われるがまま縁側に腰掛けた。
 そして凛はお茶を用意すると言って一旦家の中に入っていく。
 僕がふと横を向くと、スタンドに立てかけられている凛のスマートフォンの画面越しにニヤニヤとした表情のヒナがいた。
『へへっ、ハルったらちゃんと迎えに来てくれたんだ』
「そりゃまあ、約束でしたから」
『ふーん。どう? 私のいない夜は寂しかったんじゃない?』 
 僕をからかう余裕があるようなので、それほど難しいことにはなっていなさそうだ。こういうとき、ヒナはわかりやすくて助かる。
「べ、別に寂しくなんてないですよ」
『ほんとかなー? 不安で眠れなかったんじゃないの?』
「そ……そんなことは……」
 昨晩あまり眠れなかったのは事実だ。しかしヒナの言うとおり寂しかったわけではない。凛のスマートフォンに入り込んだヒナが失礼なことをしていないかとか、明日凛とどんな話で打ち解けようかとか、そんなことに脳のリソースを使っていて眠れる気配がなかった。
『まあハルのことだし、寂しいよりも余計なことたくさん考えちゃって眠れなかったほうがありそうだけど』
「……わかってるなら聞かないでくださいよ」
 ごめんごめんとヒナが謝っていると、お茶を用意してきた凛が家の中にから現れた。
 昔から小牧家に来ると、煎茶とお菓子がセットで出される。かつては凛のお母さんやお婆ちゃんが淹れていたけれど、今となっては凛も上手にお茶を淹れられるようになっていた。家の手伝いをいくつもこなしているうちに、いつの間にか身についたのだろう。
「あ、ありがとう。いつもお茶淹れてるんだね」
「うん……まあ、家の手伝いで私にできることって、これくらいだし」
「ありがたく頂くよ」
 僕はお茶をすする。とても香り高くて美味しい。
 スマートフォンの向こうにいるヒナがその香りを嗅ぎたそうにしているが、さすがに無理だ。
「それで……話、なんだけど……」
「う、うん」
「ごめんなさい。晴彦がこんなにも前向きに色々考えてくれていたのに……私ったら、逃げてばっかりで……」
 凛はまるで土下座かのように深々と頭を下げた。
「顔を上げてよ」
「上げられない。だって、私は晴彦にとてつもなく大きな借りがあるんだもん」
「そんなものはないよ。僕は別に、凛が戻ってきてくれればそれでいいと思ってたから」
 それでも凛は頭を上げようとしなかった。
 僕が折れるまでこのままの状態を貫いてやるという、執念のようなものを感じる。
「ヒナ先輩から、晴彦の作ってた曲を聴かせてもらったんだ」
「えっ、あれ聴いたの……? パスワードかけてクラウドストレージに入れてたのに」
 一瞬驚いたが、それくらいのことはヒナにかかれば造作もないかと思うと、すぐに冷静になった。
「あの曲を聴いて、そしていざ演奏して歌ってみてわかったんだ。あの曲、スリーピースバンドで、私が歌うことを想定して書いてた」
「あはは……そこまでわかっちゃうんだ、恥ずかしいな……」
「晴彦は、ちゃんとヒナ先輩の死を受け入れて、前を向こうともがいてあの曲を書いたんだって、そう思った」
「ま、まあ……それくらいしかできることがなかったんだけどね……」
「自分がソフトボールを辞めて辛かったときに、晴彦から『音楽をやればいい』って言われて、私はすごく救われた。でも私は、晴彦が辛かったときに何もできなくて……それで……」
 そこまで言われて、僕は凛の気持ちがやっとわかってきた。
 凛はいま、僕に対して力になりたいと思っている。それは過去の借りを返すという形式になっているかもしれない。それでも凛は、また僕と一緒に音楽がやりたいのだ。
 だから僕が彼女にかけてやるべき言葉はもう、これしかない。
「じゃあ凛、お願いだよ。僕を助けてほしい。今金沢先輩と組んでいるバンドに、ベース兼ボーカルで入ってほしいんだ」
 その瞬間、時間が止まったようだった。
 いや、実は止まっていたのは今までの時間の方で、この瞬間に新しい時間が動き出したのかもしれない。
 凛は、ゆっくりを顔を上げた。
 その表情は、今までで一番ぐちゃぐちゃだったけど、とてもいい顔をしていた。
「本当に……いいの? 私、うだうだ考えて、結局何もしないまま時間を無駄にしちゃうような人間なのに……」
「無駄じゃないでしょ。それが凛にとっても必要な時間だったってことだよ。だって僕なんて、先輩が死んでから二ヶ月引きこもってたんだよ? でも、それが無駄だったとは思ってない。凛も、たぶんそうなんだよ」
 凛は涙ぐむ。
 夕暮れ時ということもあって、西陽がその涙粒に当たって光が拡散していた。
 美しい光だな、と、ぼんやりそんなことを思った。
「ありがとう……晴彦……」
「こちらこそありがとう、凛」
「あはは……泣くつもりなかったんだけどな……」
「いいんじゃない。もっと泣いてる人がそこにいるし」
 僕が指さす先には凛のスマートフォン。
 その中でヒナがズビズビになりながら泣きじゃくっていた。
 そういえばこの人、映画とかドラマとかの泣けるシーンを観ると、ひと目を憚らず泣くような人だ。
 僕と凛はヒナを見て大げさだよと笑う。
 一瞬だけ、あのときの日常が戻ってきたような、そんなひとときだった。