「……追い返しちゃった。私のバカ」
 晴彦が立ち去った後、自室に戻った凛は独り言をこぼす。
 陽菜世がこの世を去ってから塞ぎ込んでしまった晴彦が、時間をかけて自力で戻ってきたのだ。
 幼馴染として喜ぶべきだとは思う。しかし凛はそれ以上に、自分の無力さを痛感していた。
「多分、明日も来るよね……。どうしよ、何を話したら良いんだろ……」
 考えたところで答えは出ない。これ以上は時間の無駄だと思った凛は、倒れ込むようにベッドへ横たわった。
 ポケットに入れていたスマートフォンを取り出す。とりあえず動画でも見て考えることをやめようとした。
 Youtubeのアプリを立ち上げようとしたその瞬間、何やら懐かしい声とともに可愛らしい女の子のキャラクターが画面に現れる。
『元気出せー!!!』
「う、うわっ! な、何!?」
 そのキャラクターが突然絶叫したため、凛は心臓が飛び出そうなほど驚いた。
 幻覚を見たのかもしれないと、頬を叩いて気を取り直してから再び画面を覗き込む。すると、そこにはやはり女の子のキャラクターがいる。
 その子は亡くなったはずの陽菜世に少し似ていた。そういえば先程の声も彼女のものによく似ていた気がする。凛はまさかと思い、そのキャラクターに話しかけてみることにした。
「もしかして……ヒナ先輩……ですか?」
『おっ、一発で気づいてくれるなんてさすがだね。そういう凛の飲み込みの早さ、私はとっても評価してるよ』
「ほ、本当にヒナ先輩なんですか!? なんで!? ど、どうして……?」
『色々あったんだけどー、なんでこうなったかは私もよくわからないんだよね。気づいたらハルがデザインしたこのキャラクターに魂が宿ってて、電子の海に漂ってる感じ?』
 信じられないという表情を浮かべる凛。どういう言葉を発したらいいのかわからず、ポカンとしてしまった。
『それでね、さっきまでハルのスマホの中にいたんだけど、なんか凛の方に乗り移れそうだからこっちに来てみた』
「そ、そんなことも出来るんですか……?」
『出来るみたい。なんてったって今の私はバーチャル世界の住人だし』
 何故か得意げに鼻を鳴らすヒナ。
 先程まで晴彦のスマートフォンの中にいたということで、なんとなく凛は状況がわかってきた。
「そっか……そういうことだったんだ……」
 独り言のように凛がつぶやく。
『ん? なにが?』
「ううん、なんでもないです」
『なんでもないってことないでしょ、言ってみなよ』
 凛はそう言われ、少しためらってから渋々切り出す。
「……晴彦が引きこもりを脱して学校に来るようになったの、やっぱりヒナ先輩のおかげだったんですね」
『あっ……もしかして凛、それをずっと気にしてたからハルを避けてたわけ?』
 凛は何も言わず、首を少しだけ縦にふる。
 それと同時に、画面の向こうにいるヒナがため息をつく。
『はぁ……ハルも大概意気地なしだと思ってたけど、凛はもっと重症だよ』
「だ、だって……私が頑張ったところで、どうにかなるなんて思えなくて……」
『そんなことないよ? ……まあ、確かに私はハルの背中を押したけど、結局のところ行動を起こしたのはハルなんだから』
「そうかもしれないですけど……」
『そうだよ。まあ、本当は凛がハルの背中を押してあげるべきだったのかもしれないけど、こういう事が起きちゃったわけだし、それにハルはちゃんと立ち直ったわけだし、気にすることはないと思うけど?』
「でも私、どういう顔して晴彦にあったら良いのかわからなくて……ヒナ先輩との約束も破っちゃったし……」
 ヒナはもう一度ため息をつく。
 根は明るいくせに、あれこれ考え込んで頭でっかちになる。結局行動が上手くできないまま、さらに罪悪感が増していくという悪循環。小牧凛という女の子の弱みというべきところ。
 ここは人肌脱いでやろうという力の入った声色で、ヒナは凛へ告げる。
『確かに私が死ぬ前、ハルのことをよろしくって凛にお願いした。それは、かなり無責任なお願いだったと思う』
「無責任だなんてそんな……」
『それに結局私が戻ってきちゃった。そして凛の役割を奪った。だから本来謝るのは私の方。勝手なことしてごめん』
「そんな……謝らないでください」
『うん。だからこれでこの話は終わり。凛には責任なんてないし、私もこれ以上謝らない。……でもさ、私との約束が果たされなかったからって、ハルを避ける理由にはならなくない?』
 凛はそう言われ、ヒナから視線をそらしてうつむいてしまった。
『何か他に理由があるんじゃないの? ハルに対してやましいことがあるとか』
「や、やましいことではないです。ただ、晴彦に対して恩知らずのままだなって、ちょっと後ろめたくて……」
『恩知らず?』
「……はい。多分晴彦はそんなこと思っていないかもしれないんですけど」
 凛はおもむろに部屋の中にある本棚からアルバムを取り出した。
 それは中学時代のもの。部活動の写真が載っているページに、ユニフォームを着てマウンドに立つ当時の凛の姿があった。
「私、小学校から中一のときまでソフトボールでピッチャーをやってたんです。人数もあまり多くないチームだったので、中学入ったら即レギュラーで」
『あー、なんか昔言ってたよね。でも投げすぎて怪我しちゃったって』
「そうです。中一の秋にヒジを怪我して、お医者さんからはもう投げちゃだめだって」
『それで、ソフトボールを辞めたんだよね?』
「ええ。当時の私はずっとソフトボール漬けで、もうそれが人生のすべてみたいな感じだったんです。だから、ボールを投げられなくなったとき、人生終わったなって本気で思ってました」
『そこまでずっとソフトボールに打ち込んできたわけだもんね』
 凛はゆっくりと頷く。
 中学時代までの彼女は皆の期待を背負ったソフトボールチームのエースピッチャーだった。それが怪我によって道を絶たれたとなれば、本人はもちろん、周囲だって気を使う。
 人生が終わったかもしれないと感じていた凛に救いの手を差し伸べる人は、なかなか現れなかった。
「でも、晴彦だけは違ったんです。多分何の気無しに言ったんだと思うんですけど、『音楽始めたら?』って言ってくれて」
『それ多分、ハルのやつ本当に何も考えてないと思うよ? 当時から音楽漬けでぼっち極めてたみたいだし、単純に音楽のことしか頭になかった気がする』
「確かに、今となっては私もそう思います」
 凛はフフッと笑い出す。
「でもあのときの私にとって、その一言が救いだったんです。あれがなかったら私はずっと塞ぎ込んでいたと思うし、こんな感じで音楽を始めることもなかった」
『ハルとバンドを組むこともなかっただろうしね』
「はい。だからいつかちゃんと恩返ししなきゃって思ってたんです」
『あー、それでか……』
 ヒナはしまったという表情を浮かべる。
「……何の気無しとはいえ、自分が辛かったときに晴彦は助けてくれた。でもいざ彼が辛いときに、私は何もできなかった。そんな恩知らずなのに、まともに顔を合わせて良いのかなって」
『ごめん、それは私も考えが及ばなかったよ』
「ヒナ先輩、もうこれ以上謝らないって言ったばっかりじゃないですか」
『そりゃそうだけど……そんな背景があるなら早く言ってよ。生前に』
「いいえ、結局行動できなかった私が悪いんです。下手に助け舟を出して失敗しちゃうのが怖くて、そのせいで晴彦がこのまま戻ってこなかったらどうしようかって、考えてもしょうがないことをずっと考え続けて……バカですよね」
 凛は自嘲するように力なく笑う。
『バカじゃないよ』
「バカですよ。だって私、何もしないで結局ヒナ先輩任せで……」
『凛は自分が間違ってた、失敗したんだってちゃんと理解してるじゃん。そんなのバカにはできないよ』
「頭の中だけですよ。わかってても行動できないなんて、やっぱりバカです」
『じゃあ、今からでも行動しようよ。ハルは今、凛のことを待ってる』
 スマートフォンの中のヒナは、ブラウザを開いてとあるページにアクセスする。
 そのページは、晴彦が自分で作った曲をアップしているクラウドストレージだった。
「ちょ、ちょっとそれ、晴彦のアカウントじゃ……」
『いいのいいの、ハルのスマホの中は全部私に筒抜けだから。ちゃーんと閲覧履歴とかパスワードの痕跡とか残さないようにしとくから安心して』
「は、はい……」
 あっけに取られる凛をよそに、ヒナはクラウドストレージ内にあるとある音声データを選びだす。
 プレーヤーが起動し、その音声データが再生され始めた。
「あの……これって……?」
『ハルが引きこもってた間、ずっと一人で作ってた曲だよ。すごいよね、私の生前よりもスケールアップしてる』
「この歌……ヒナ先輩の声ですか?」
『そう。正確には私の声のデータを収録しておいて、それを切り貼りした疑似ボーカロイドみたいな感じ』
「継ぎ接ぎの音声なのに、こんなにクリアな歌に聴こえるんだ……」
『まったくバカだよね。こんなことに時間をかけまくってさ』
 晴彦が作っていたというその曲は、人力でボーカロイド風に仕立て上げたとは思えないくらい、自然な歌声だった。
『でも、それがあったから私がこんな感じで戻ってこられたのかもしれない。すごいんだよ、人の執念って』
「……それならなおさら、私じゃなくてヒナ先輩を必要としているんじゃ」
『違うんだよ凛。この曲を聴いてなにか感じない?』
 ヒナにそう言われ、凛は曲に耳を澄ませる。
 メロディ、構成、楽器演奏、アレンジ、どれをとっても晴彦が作る楽曲というのはクオリティが高い。
 実際に去年はコンテストで狭き門とされる一次選考を突破できたのだ。この点に関しては、何も不思議に思うことはない。
 しかし、二回三回と繰り返し聴いていくと、凛はあることに気がつく。
「メロディのキーが、ちょっと低くないですか? ヒナ先輩ならもっと高い音程まで歌えるはず……」
『おっ、良いところに気がついたねー。他には?』
「えーっと、晴彦がよくデモ音源としてバンドに持ってくる曲って、ギターが二本分録音されてるんですけど、これは一本だけですね……。あとは、ベースラインが晴彦にしてはシンプルというか……。あっ、あとコーラスもついてないです」
『それが答えだよ』
「えっ……? それって……」
 その刹那、凛は何かを思い出した。
 バンドを組んで自分がベースとコーラスを担当すると決まったとき、あることを晴彦から訊かれたのだ。
「そういえば私、自分が歌える音域を晴彦に教えた……。ヒナ先輩よりちょっと音域が低いから、コーラスでハモるときは主旋律より低いところを……」
 今流れているこの曲は、ヒナが歌うにしては主旋律がやや低め。言い換えれば、凛の歌える音域――声域にピッタリなのだ。
 それに加えていつもは二本分の音が収録されるはずなのに、今回は一本分だけ。おまけにベースラインはシンプルに作られていて、歌いながら弾くことが可能なものになっている。極めつけは、本来凛が歌うはずであるコーラスパートがない。
 これらを総括して導き出される答えはひとつ。
 この曲はボーカルに陽菜世ではなく、凛を据えて演奏されることを見越して作られたということ。
 陽菜世を失って絶望の淵にいながら、晴彦は彼女のいない現実を少しずつ受け入れ、向き合おうとしていたのだ。
『ようやくわかったかな? ハルは私に依存することから卒業しようって、変わらないといけないって、必死にもがいてる。凛はね、その最後の一ピースなんだ。だから今からでも遅くない、ちゃんとハルと向き合ってほしい』
 ヒナは面と向かって凛へ想いをぶつける。
 晴彦は不器用なりにきちんと前に進んでいた。凛を見放すどころか、最後の最後まで信じていた。
「私っ……、晴彦に……頼りにされてたんだ……」
 凛は感情が溢れてきてすすり泣きはじめる。まるで呪縛から解き放たれるかのように、凛の瞳からは大粒の涙がこぼれる。
『そう。だから凛にはちゃんと、晴彦を支えてほしいんだ。私ができなかった分もね』
「……はいっ」
『まあ今日は疲れただろうから、明日ちゃんとハルと話しなよ? そうじゃないと私、ハルのスマホに戻れないし』
 凛は泣きじゃくりながら首を縦に振る。それを見たヒナは、肩の荷が下りたように先ほどとはまた別の種類のため息をついた。
『落ち着いた?』
「はい、おかげさまで」
『ならよかった。じゃあ、そういうわけで一晩このスマホにお邪魔するからよろしく。久しぶりにガールズトークで夜を明かしちゃおう』
「そ、それはいいんですけど、ヒナ先輩って私のスマホの中を自由に覗けちゃう感じですか……?」
『うん。割といろいろ見られるよ。まあハルのやつに比べたら凛のはだいぶ健全っぽくみえるよね』
「け、健全……?」
『だってハル、高校二年生の男の子だよ? スマホの中身とか閲覧履歴とか、きれいなわけ……』
「ひ、ヒナ先輩! 私の履歴絶対に見ちゃだめですからね! 絶対に絶対ですよ!」
『あっ……ああ、そういうことね、わかったわかった……』
 凛が急に慌て始めるので、ヒナは何かを察してそれ以上スマホの中身について話すことはしなかった。
 そのかわり、バッテリー切れを何度も起こすくらいその夜はお喋りに明け暮れた。