突然戻ってきた……いや、蘇ったというべきか、ヒナの登場により、僕の生活は少しずつ上向きだしていた。
 彼女の後押しもあって部屋の掃除を済ませる。すると、その状況を見た母親が驚きで目を見開いていた。
「晴彦……あなた……」
「か、母さん……ごめん、心配かけて。ちょっとだけ、部屋を掃除してみたんだ」
「……よかった、もう出てきてくれないのかと思っちゃった」
「本当にごめん。やっと外に出る勇気が出たと言うか、もらったと言うか。と、とりあえず今日からご飯もみんなと食べるようにするから……」
 母親は何も言わず頷いていた。心なしか、その目が少し潤んでいたような気がする。
 今まで自分は誰の役にも立たない人間だと思っていた。
 それが陽菜世先輩が現れたことで、少なくとも彼女のために頑張りたいという自分の存在意義が見つかった。しかし、陽菜世先輩の死によってその存在意義が失われてしまった。
 僕が引きこもってしまった根本的な要因は、おそらくそんなところであろう。
 でも引きこもっている間、僕はずっと勘違いをしていたらしい。
 僕の存在意義というのは、すべてがすべて陽菜世先輩のためのものというわけではなかったのだ。
 今、僕の目の前で涙ぐんでいる母親が、その答えでいい。
『……よかったね』
 スマートフォン端末の中にいるヒナがそうささやく。
 今まで見えていなかったもの、忘れていたものを、彼女が見つけ出してくれるかのようだった。
「ありがとう先輩。ちょっとだけ、前に進めた気がします」

※※※

 その日から僕は部屋に引きこもるのをやめることにした。
 しかしながら学校の方は春休みに入ってしまったので、新学期までのこの期間は元の生活に慣れようという準備期間みたいなものという位置づけだ。
 とりあえず外に出て散歩する程度のことから始めて、徐々にリズムを取り戻していく。幸い、外に出てもスマートフォンの中にヒナがいてくれるおかげで、それほど心細くはならなかった。

 桜の蕾が膨らんできたある日のこと、僕は陽菜世先輩の家の近くをのんびりと散歩していた。
 ふと、僕は街道沿いにあるリサイクルショップに行き着く。こういう店は意外と琴線に触れる品物が置いてあったりするので、僕はなんだかんだ立ち寄るのが好きだ。
 その日は別にそういう気分ではなかったのだけれども、普段立ち寄らない店なのでどんな物があるのだろうと興味を持った。
 中に入ると店内はきれいに物品が陳列されている。古本、CD、DVD、ゲームソフト、パソコン、そして楽器や音響機器。
 やはり腐っても僕は音楽人なのだろうか、無意識のうちに楽器コーナーにたどり着く。
 壁にはギターハンガーがたくさんあって、中古のエレキギターやベースが何本も陳列されていた。
 普段なら「お金があったらこういうギターも欲しいなあ……」というウインドウショッピングで終わるのだけれども、今日は少し事情が違う。
 目の前にある一本のエレキギターが、僕にとっての特別なものだったのだ。
「あれ……これってもしかして……」
『あっ、私のテレキャスターじゃん。ここに売られちゃったんだねー』
 着ているシャツの胸ポケットに収まっているスマートフォンから、ヒナがつぶやく。
 そのギターは生前の陽菜世先輩がいつもかき鳴らしていた赤色――キャンディアップルレッドのテレキャスターだった。
 本家本元フェンダー社のテレキャスターは値段がものすごく高いので、その系列でエントリーモデルを作っているスクワイアというブランドのもの。とはいえ人気モデルなので、中古価格でも高校生が気軽にポンと現金払いできる価格ではない。
「先輩、テレキャスター売っちゃったんですか?」
『うん。うちの家族とか親戚とか、誰もギター弾けないし。形見にするにはちょっと邪魔かなと思って、売り払っていいよって言ったんだ』
「それなら僕に売ってくれても良かったのに……」
『そしたらハル、私のこと思い出してしんどくなっちゃうかなって』
「……まあ、確かにそうなりそうではありますけど」
『ハルにはずっと音楽を作ってもらいたいから、そこまで私に縛られなくてもいいかなって思ったんだよ』
 絶対に自分の死後、僕が落ち込むのが目に見えていた陽菜世先輩。このギターを売ったということは、彼女なりの気遣いだったのだろう。
『まあ、今はこんなふうにバーチャル世界に舞い戻ってきたから、結局縛り付けている感じはあるけど』
 冗談っぽくヒナはそう言う。彼女は戻ってきたとはいえ、もうギターが弾ける身ではないのでそこまで執着しているような感じではなかった。
 それでも、僕は偶然出会ってしまったこのギターに、何か運命のようなものを感じてしまっていた。
「……このギターを買い戻すって言ったら、先輩は怒りますか?」
『別に怒りはしないけど……これ安物だし、そんなに価値のあるものじゃないよ? ってか、ハルはもっと良いの持ってるじゃん。ええっと、ギブソンのレスポール……なんとかってやつ』
「そうですけど、あれは親戚から譲り受けたものですし。それに……なんかこのギター、お金に換えられないような気がして」
 ヒナはため息をつく。
 それもそうだ。陽菜世先輩は僕に気を使ってこのギターを形見にしないよう売り払ったのだ。
 それを買い戻すとなれば、彼女の気遣いを無に返すようなもの。僕はとても無駄なことをしている。
「未練がましく見えるかもしれないんですけど、やっと僕も先輩の死に向き合えるようになってきたんです。だから改めてこのギターを買い戻して、先輩の形見にしたいなって」
『……わかったよ。ハルってそういうとこ頑固だもんね』
「だってそのほうが、……なんか頑張れそうじゃないですか」
『そっか』
 ヒナはそれ以上何も言わなかった。でもその口調は嫌そうな感じではなく、どこか嬉しそうに聞こえた。

※※※

 陽菜世先輩の形見であるギターを買い戻すため、僕は資金繰りをしなければならなくなった。
 小遣いを貯め込んだ口座残高を確認するためスマホの銀行アプリを立ち上げると、開口一番にヒナがバッサリ言う。
『全然足りないじゃん』
「うっ……」
『ってか、思ってたよりも少なかったね』
「コンテストとか文化祭に向けてかなり使い込んでましたからね……。原付バイクの維持費もバカにならないし……ギター買う以前に台所事情が火の車だ……」
『案外そういうところは計画性ないんだ』
「……すみません」
 僕はがっくりうなだれる。
 普通の高校生なので僕の主な収入源はお小遣いかお年玉だ。しかし、ここのところ親に迷惑をかけてしまっているので小遣いをせびるのは気が引ける。
 そうなるとお金を得るためにできることは一つしかない。
「……働く、か」
『そうだねー、アルバイトすれば全然手が届く金額だと思うから、それが一番いいかも』
「アルバイト……僕にできますかね……?」
『大丈夫できるできる。ギター弾いて曲を作るより簡単だよ』
「僕は曲を作るほうがまだ簡単な気がします」
 よく考えてみたら陽菜世先輩に出会うまでは本当にコミュニケーションに難がありまくった僕だ。
 アルバイトなんてうまくいくわけがない。そもそも引っ込み思案な僕に都合の良い仕事がこの世に存在するのだろうか。
『そんじゃ、このアプリ入れたらいいんじゃない?』
「アプリ……?」
『そう、スキマ時間でできる短期バイトをあっせんしてくれるやつ。ほら、CMもやってるじゃん』
 スマートフォンの中にいるヒナが、アプリショップから勝手にスキマバイトアプリのインストールを始めた。
 いや、そんなこともできるとか聞いてないんだけど。
『ハルは人とお喋りするのが苦手だから、別の能力が使えるバイトのほうがいいよね』
「……まあ、そうですね。お喋りはちょっと勘弁です」
『じゃあこれとかいいんじゃない? スーパーの品出し』
 ヒナはまるでコンシェルジュのようにアプリを操作して求人を探してくれる。
 表示されたのは近所のスーパーの品出し作業。レジ打ちに比べればお客さんと会話をする機会が少ないだろう。
 力仕事にはちょっと自信がないのだけれども、短時間から始められるのはありがたい。
「迷っている暇はないですよね。モタモタしていたら、あのギターが他の人に買われてしまう可能性もありますし」
『おっ、意外にもめっちゃやる気じゃん。ハルじゃないみたい』
「僕も自分が自分じゃない気がしてきました。このまま自分をごまかし続けたらまともに働けそうな気がします……」
 取れる手段が減ると、人間は迷わなくなるらしい。
 ヒナいわく、登録と本人確認手続きを済ませればすぐにバイトにいけるということなので、僕は早速働く準備に取り掛かった。