風呂が焚けたのは、予定通り六時を少し過ぎた時間だった。すでに客は食事を終え庵に入っている。そろそろ風呂にくるだろう。僕は、タオルで顔や身体の汗を拭き、はだけた白衣に腕を通し服装を正し、風呂小屋の前で客を待った。
 日はまだ沈んでおらず、月はまだ出ていないが蝉はとっくに鳴き止み、鳥のさえずりも羽音も聞こえなかった。風はいつの間にか止み、動く物が何も無い透明な湖の底にいるような、制止した時間の中で佇んでいるような錯覚を覚えた。時々風呂の焚口から聞こえる薪が弾ける小さな音が、僕をこの世界に繋いでくれているような気がした。
 しばらくすると庵から声が聞こえてきた。いよいよ客が入浴に来るようだ。少し緊張してきた。素早く服装を点検していると、庵から年配の男性がこちらに向かって歩いてきた。紺色の作務衣を着ている。
「風呂はこちらです」
 僕は頭を下げ、手で風呂小屋を差し示した。
「うん、ありがとう」
 男性は立ち止まり僕を見た。ゴルフにでもよく行くのか黒く日に焼けた精悍な顔立ちがロマンスグレーの髪にとても似合っていた。六十歳は過ぎていそうな雰囲気だがどこか大きな会社の社長のような上品な雰囲気をまとっている。
「食事美味かったぞ。君はあの綺麗な巫女さんの弟さんだそうだな」
 いきなり弟にされていて驚き、返事の代わりに頭を下げた。
「大学生か」
「いえ、高校二年です。夏休みで、手伝っています」
 まさか、無理やり働かされているとも言えず、言葉を選んだ。
「ほお、感心だな。私の孫も高校生だが遊んでばかりで困ったもんだ」
 男性は声を出して笑った。
「今日は一晩やっかいになるよ。なんせここに泊まるのは初めてでね。期待半分、不安半分て感じかな」
 男性は探るような目で僕を見ている。男性が不安半分と言うのはよくわかる、僕自身、まだ夢見の間のことを信じているわけではないから。そんなことを言うわけにもいかず、明美さんから教えられたとおりのことを言った。
「底板を風呂桶に入れてから湯船に入ってください。私は外で待機しています。もし湯がぬるかったら薪をくべますので声を掛けてください」
「わかった」
 男性はつまらんことを言って悪かったとでもいうように、僕の肩をポンと叩いて、風呂小屋に入って行った。
 家族にも、健康にも恵まれた裕福な人のように見える、社会的な地位も高そうだ。こんな人が一体夢で何を望むのだろうか。
 しばらくして、男性が風呂小屋から出てきた。首にタオルをかけている。
「いい湯だったよ」
 また、ポンと僕の肩を叩いてそのまま歩いて行った。日が沈みかけた頃で、西の空が燃えるように赤く染まっている。辺りは少しずつ暗くなり、それに合わせるかのようにあちこちで虫が鳴き始めている。男性が庵に入るのを見届けて、すぐに篝火を焚く準備に入った。篝と言われる鉄製の籠とそれを支える三本足台は薪の山の横に置いてある。二つ用意し、庵の前に置いた。その頃には夕闇は濃くなり、仄暗く蒼い空に瞬く星が見えた。

 そろそろ月が昇ってくる時間だ。篝に薪を入れ着火剤を使って火を点ける。火はすぐに大きくなり、明かりに浮かび上がった庵の姿は幻想的ですらあった。夢見の間の障子窓が燃えるように赤く染まって見える。先ほどの男性はもう寝たのだろうか。いつの間にかまん丸に近い月が、明日の夜には満月になる月が、林の間から顔を出していた。
 本当に人に望む夢を見させ、その夢を食べる獏などいるのだろうか。あの置物が動き出す姿を想像してみたけれど、置物はやはり置物に過ぎなかった。
 でも車の修理代金十万円分は働かないといけない。この後、朝まで火が消えないように篝火のお守りをし、その後風呂の掃除をし、夢見の間の掃除をしなければいけない。そう考えると無茶苦茶な重労働に思え、この仕事をあと何回やらなければいけないのかと思ったら眩暈がしてきた。その時、重大なことに気がついた。一回働いていくらか聞いていないのだ。十万円弁償しろと言われ、高校生の身分ではあまりに高額で頭の中が真っ白になり、明美さんの言いなりになっていたことにもやっと気がついた。お金のことははっきりしておかないといけない。僕は明美さんを待った。
 ほどなく巫女姿の明美さんが出てきた。暗闇の中、篝火の赤い炎に染まった色白の肌は美しく燃え、その姿は妖艶ですらあった。つい先ほどまでの勢いを忘れ近づいてくる明美さんに見惚れてしまっていた。
「どうしたん、ぼーとして」
 いつもの関西弁に我に返ったように明美さんを見た。篝火を背にしていて表情は見えなかったけど、優しい口調だった。
「ここまで何とかやれました」、やはりお金のことは言いだし辛い。
「うん、よう頑張ったな。お客もしっかりした弟さんやなって感心しとったで」
「いきなり弟にされていてびっくりしましたよ」
「堪忍な。でもな、何や、姉、弟言うと収まりがええやろ」
 機嫌がよさそうな明美さんの笑い声が聞こえた。よし、今なら言える、僕は歩きながら口を開いた。
「明美さんにちょっと話があるんですけど」
「なんや、急にあらたまって。気持ち悪いな」
「お金のことです」
「お金?こんなところで無粋なやっちゃな。今で無くてもええんやろ」
「いえ、大事なことですから、今、ここではっきりしておきたいです」
「わかった。でも先に着替えてくるからここで待っとってくれるか」
 いつの間にか社務所の入口に着いていた。すぐに明美さんは着替えて出てきたがすっかり辺りは暗くなっていて、昼間のように目のやり場に困ることはなかった。ちょっと残念な気がした。
「で、何や?」
「十万円弁償するんですけど、この仕事朝までやって一体いくらなんですか、結構重労働だと思うんですけど」
「何や、そんな話か。そう言えばまだ決めて無いな。よっしゃ、切りのいいところで一回、一万円てのはどうや」
「一万円!」
 僕は目を見開いた。僕の毎月の小遣いは五千円と世間並だ。その倍額を提示され、つい舞い上がってしまった。
「そうや、大盤振る舞いや」
 明美さんはニタっと笑う。
「でも前も説明したとおりアルバイトや無いから、バイト代は払わんで。あくまで弁償なんや。十万円分やから、十回やな」
 そろばんをはじくように冷静に、念を押すように言う。
「ほな、うちは帰るから、後よろしゅうな。朝、客が帰ったら夢見の間を掃除してくれたらそれで終わりや。次はまた昼過ぎに来てくれたらええ」
「あんまり寝れませんね」
「うん、でもまあ、一万円やからな」
「そうですね」
 こうして明美さんは帰って行った。車のテールランプが夜の闇に消えると、街灯の無い神社周辺は真っ暗になるはずが、何故かくっきりと見える。気がつくと月は林の上に顔を出し、辺り一帯を照らし出していた。虫の鳴き声だけが鼓膜を揺らしている。
 坂道を神社に向かって歩いて行くと、慣れない草履で砂利を踏みしめる音が妙に大きく耳に響いてきた。庵が月明かりに青白く浮かび上がって見える。庵の入口に座り、夢見の間の様子を窺った。鼾はおろか、物音ひとつ聞こえない。月が沈むか、客が起きてくるまでは、決して中を覗いたり客に声を掛けたりしてはいけない、明美さんから厳重に言われている。篝火に薪をくべるため、腰を上げた。

 コケコッコー、遠くから空気を貫くようなかん高い鳴き声が聞こえてきた。テレビドラマの中でしか聞いたことがない鶏の鳴き声がひどく新鮮に思えた。耳を澄ますと、夢から醒めたように騒ぎ出した小鳥のさえずりも聞こえる。
 辺りは薄っすらと明るくなり、夜明けが近いことを示していた。月は林の陰に隠れてしまい、間もなく沈んでしまうだろう。
 結局ほとんど眠ること無く朝を迎えた。時々睡魔に襲われることもあったけれど、篝火に薪をくべていると不思議と眠気は遠のいた。薪の山にもたれかかり、少しずつ位置を変えていく月をずっと見ていた。
 もうすぐ客が起きるだろう、探るように僕を見たあの年配の男性の目が瞼にちらつく。自信の裏側に何かにすがりたいような光を宿していた。あの人は夢を見ることができたのだろうか。それとも何も見ることができず、怒りと失望とあきらめを抱え帰っていくのだろうか。今の僕にはわからない。
 考えても仕方が無いと風呂の掃除を始めた。熱かった湯はすっかり冷めていた。スポンジで風呂桶の中を掃除し、洗い場はブラシで擦り風呂の湯で流した。栓を抜き、流れて行く湯を見ている時だった。
「おはよう」
 後ろで声がした。バリトンのような太い張りのある声だ。慌てて振り向くと昨夜の男性が立っていた。来た時と同じ白の半袖シャツにループタイ、グレーのスラックス姿だ。別人のような違和感を覚えながら、「おはようございます」、と返し、ちょこんと頭を下げた。男性はズカズカと風呂小屋に入ってくるなり、どんと薪の上に座った。何かを喋りたくてうずうずしているように見える。僕を見て、「タバコ吸っていいか」、またバリトンのような声で言った。僕はどうぞ、と言いながら備え付けの灰皿を差し出した。
「向こうの建物は禁煙なんだね」
 男性はシャツのポケットからタバコを一本取り出し火を点けた。すでに外は明るくなり、風呂小屋の中に差し込む光に白い煙が浮かび上がった。男性は旨そうにタバコをくゆらせ天井を見ている。
「正直驚いたよ、まさかこれほどとは」
 ゆっくりと目線を動かし僕を見た。
 その目は少年のような輝きを放ち、猜疑心はかけらも感じられなくなっていた。誰かに話さずにはいられない、そんな面持ちで男性は話し始めた。
 
「昨夜、君の姉さんに言われたんだ。本当に戻りたい過去があるのなら、逢いたい人がいるのなら、獏の置物に手を置いて真剣にそれを願ってください、そして床に入ってくださいとね。君も気づいていたと思うけど、藁にもすがりたい思いではあったんだが、こんなバカげた話、やはり疑っていたんだ」
 僕は無言で小さく頷き、話の続きを待った。
「私が獏にお願いしたのは、小学校四年生の時、クラスの席替えをした日に戻ることだったんだ。そして逢いたかったのは、その数か月後に転校してしまった同級生の女の子さ。恋というにはあまりにも幼いけれど、初恋の相手と言ってもいいのかもしれない。私はね、正直恵まれた人生を歩んできたと思う。妻とは大学時代に知り合い、卒業と同時に結婚した。最初は大手メーカーで働いていたのだが、三十歳を過ぎ、思い切って退職し、小さな工場だけど立ち上げたんだ。もともと理系の大学を卒業し、もの作りに関心があったからね。死に物狂いで働いたよ。おかげさまで今では、孫にも恵まれ、会社は大きくなり従業員は二百人を超えるまでになった。前ばかりを見てきた人生だけど、六十も半ばを過ぎ、だんだん後ろを、昔のことをよく思い出したり考えたりするようになったんだよ。でもきっと私は幸せ者なんだね、後悔すること、悔やむことは正直いっぱいあった。だが不思議と、それは今となっては仕方がなかったんだと、選択は間違ってはいなかったんだと、笑い話のように受け入れることができるんだ。だけどたったひとつだけ、小さな棘のように、ずっと心に引っ掛かっていたことがあったんだ」
 男性は長くなった灰を灰皿に落とし、また一口タバコを旨そうに吸った。

「女の子は中山孝子という名前だった。可愛い子で、活発な子だった。クラスでも人気があったよ。あの日、担任の先生が急に席替えをすると言い出したんだ。君はわからないかもしれないけど、私が子どもの頃の学校は、木の机でね、一つの机に二人並んで座ったんだ。机の上に木の蓋が二つ付いていて、それを持ち上げて中に教科書やノートを入れることができるようになっていたんだ。そんな机、今はどこにも無いけどな」
 男性はちらっと僕を見て、蓋を持ち上げるような真似をした。口元に笑みを湛えている。

「クラスは男女同人数だったから、必ず男女ペアで座った。だからみんな口には出さないけれど誰と一緒になるのかが最大の関心事で、席替えはもうビッグイベントだったんだ。男女別々にくじを引いて該当する机に移動する、隣に誰がくるのかもうドキドキだったよ。私の隣は中山孝子だった。正直、天にも昇る心地だったよ、秘めた恋というには小学四年生には似つかわしくないかもしれないが、本当に嬉しかった。でも子どもは素直じゃないんだよな。誰かが席替えの結果に不満を言ったんだ。不思議なことにその声はどんどん大きくなっていって、それで先生はみんなに不満か?やり直すかって聞いたんだ。だが中山孝子はパッチリと見開いた目で私を見て、力強くこれでいいよねって嬉しそうに言ったんだよ。私は心の中では、うん、絶対このままがいいって思っていたんだが、周りに同調するように、この席やだって言っちゃったんだよ。結局、席替えをやり直すことになり、当たり前だが、また彼女と同じ机になるという幸運が訪れることなど無く席替えは終了したんだ。初恋の相手といってもいい女の子だったのに、残念なことに私の記憶はこの席替えしか残っていないんだ。数か月も経たないうちに彼女は転校してしまったんだよ。

 あの時どうして、うん、の一言が言えなかったのか、言わなかったのか。嫌なんて言いたくなかったのに、どうして嫌だと言ってしまったのか。嫌だと言ってしまった時、正直辛くて彼女の顔を見ることができなかった。あの時彼女はどんな顔をして私の言葉を聞いたのだろう。これでいいよねと言った彼女の顔を思い出すと、懐かしさと切なさで胸に穴が空いてしまう気がして、嫌だと言ってしまったことを思い出すたび、針を何本も飲み込んだように心が痛んだんだよ」
 男性はじっと天井を見ている。
「それで夢で過去にもどれたんですか」
「ああ、どんぴしゃりであの日あの時あの場所に戻れたよ。今度はしっかりと彼女の顔を見て、うん、と応えたよ。ショートカットの可愛らしい女の子だった。嬉しそうな顔をしてたなあ、きっと彼女も私のことが好きだったんだな」
「それからどうなったんですか」
「どうなったと思う?」
「やっぱり席替えはやり直しになり、現実どおりになった」
「夢の話ではあるけれど、君は夢が無いな。その後な、私と彼女は一緒に手を挙げ、二人して先生に言ったんだ。くじ引きで決めたことですからやり直しはおかしいですってな。周りのみんな面食らってな、夫婦、だとか言われてえらい冷やかされたよ。結局、席替えのやり直しは無くなり、私と彼女は同じ机に並んで座ることになったんだ、無茶苦茶嬉しかったぞ。夢はそこで終わったよ、でもおかげで、刺青のように、心に刻み込まれたような後悔の気持ちが消えて無くなった気がする。ただ残念だったことは、夢の中で彼女はモノトーンで現れたことだ」
「どういうことですか」
「なんだ、聞いてないのか。夢で逢いたい人が色付きで現れれば存命している、モノトーンであれば亡くなっているそうだ。あんなにリアルな夢なのに、見ている間は何も違和感は無かったよ。でも目覚めた時、彼女に色が無い、モノトーンだったことに気づいたんだ。病気なのか事故なのか、いつどこで亡くなったのかそれすらわからないが、逢いたくてももう逢うことができないってのは悲しいもんだな。目が覚めた時、涙が零れたよ」
 男性は夢を思い出しているのだろうか、物思いに耽るように格子窓をじっと見ていた。
 
 外はすっかり明るくなっていた。お湯が全部流れていることを確認し、風呂桶に蓋をした。ガタガタという音に我に返ったように男性が視線を向けた。
「さて、長話しすぎちゃったかな。君はまだ仕事中だろ、これ以上邪魔しちゃ悪いから、私はこれで退散するよ。ありがとう。お姉さんにも伝えておいてくれ、心から感謝していたと」
 ゆっくりと腰を上げ、男性は外に出て行った。遠ざかっていく砂利の音を聞きながら、僕は庵に向かった。
 夢見の間に入ると布団は綺麗に畳んであり、その上に男性が着ていた紺色の作務衣がこれまた丁寧に畳んで置いてあった。床の間の獏の置物の前にはお礼と書かれた白い封筒が置かれている。薄暗い部屋の中であらためて獏の置物を見た。
 人に望む夢を見させ、その夢を食べるという獏。昨日見た時と何も変わっていない、何の変哲も無い木彫りの置物。これにそんな力があるようにはどうしても見えなかった。僕は部屋を掃除し、布団のシーツと枕カバーを交換し、作務衣と一緒に洗い物置場に持って行った。明美さんが、朝クリーニングに出すことになっている。獏の置物は昨日同様、きれいな布で拭いた。一通り掃除と片付けを終えると六時に近かった。

「何やまだおったんか」
 服を着替え、社務所の上がり框に座り、ぼーとしているといきなり引き戸が開いて明美さんが顔をだした。家から直接来たのか上下スウェット姿だ。
「あ、おはようございます」
 瞼を擦りながら僕は言った。
「はよ帰らんと。眠いやろ」
「そのつもりだったんですけど、いろいろと考えちゃって」
「夢見の間のことか」
 明美さんは僕の隣に腰掛けた。今朝は香水をつけていないようだ、いつもの香りがしない。でも石鹸の清潔な匂いがした。
「昨夜泊まった男性といろいろ話をしたんです。ああ、そうだった、とても喜んでいましたよ、明美さんに心から感謝していると伝えてくれとも言われました。それに獏の置物の前にお金だと思いますけどお礼と書いた封筒が置いてありました」
「そうか。で、春木君はうちの話を信じる気になったんか」
「あの男の人、昨夜とは別人のように変わっていたんです。昨日はあきらかに夢見の間のことを疑っていたのに、今朝は嬉しそうに見た夢の話をしてくれました。戻りたかった小学四年の席替えの日にどんぴしゃで戻り、逢いたかった同級生の女の子に逢えたといって本当に喜んでいました。それを聞くと夢見の間のことを信じないわけにはいかないです、でも、僕は……」 
 唇を噛み締め頭を垂れた。
「でも、なんや、こっち向き」
 ゆっくり顔を上げ明美さんを見た。明美さんはじっと僕を見ていた。長い睫毛の奥の瞳は不自然なぐらいに澄んでいて、そして優しい色を湛えていた。何も言えなくなってしまう気がして、目を逸らした。
「確かに夢の中で、逢いたかった人に逢って、言えなかったことを言って、後悔の念を晴らすことができたとしても、相手の女の人は、もう亡くなっていたんですよ、モノトーンで現れたって言っていました。そりゃあの男性は楽しかったかもしれない、嬉しかったかもしれない、夢の中とはいえ、ずっと引きずっていた後悔の念を晴らすことができたんだから。でも相手の人には何も伝わらない、何もわからない、だって死んじゃってるから。それって、自分さえよければいいってことじゃないですか、自己中じゃないですか。僕は、僕は、そんなの納得できない」
 無意識に手に力が入った、拳を握っていた。
「君は優しい子やな」
 明美さんは左手をそっと僕の右手の拳の上に置いた。
「春木君のいうことわからんでもない。でもな、人は死んだらそれでしまいや、無になるだけなんや。大事なんは、残った人間、今、生きてる人間や、死んでしまった人のことを慮る必要は無いと思う」
「明美さんてそんなクールな人なんですか、死んだ人間はどうだっていいって言うんですか、そんなひどい人に僕の気持ちなんてわかりっこないよ、帰る」
 好きな女性の口から出た言葉があまりにも辛くて、つい語気を荒げ拳の上の手を払いのけた。立ち上がり睨むように見た明美さんは、驚いたような、悲しそうな表情を浮かべ僕を見ていた。そのまま社務所を飛び出し、駐車場に向かって走った。後ろから明美さんの声が追ってくる。
「次は今日の昼過ぎや。一万円や、忘れたらあかんで」
 やっぱり明美さんだ。
「バカー」
 振り返りもせず、大声で叫んだ。

 家に帰ると玄関が開いていた。中に入ると上がり框に祖母が座っていた。
「何やってんの」、ぎょっとして言った。
「いやな、春木が神社で泊まりのアルバイトをして、朝帰るって言ってただろう。そろそろ帰ってくるかなと思って待っとったんだ」
 嬉しそうな顔をして僕を見た。やはりいきなり泊りでアルバイトをすると言ってでかけたことを心配していたのだろう。悪いことはしていないが少し後ろめたい気がした。
「腹が減っただろ、朝ごはんは食べたか」
 そう言えば、朝食を食べていない。社務所に置いてある明美さんが朝食用に作ってくれたおにぎりを食べずに帰ってきたことを思い出した。だが食欲はほとんど無かった。
「ごめん、ばあちゃん、僕ほとんど寝て無いんだ。シャワー浴びてすぐ寝るからお昼になったら起こしてよ」
 祖母は何か言いたそうな顔をしているが、気づかぬ振りをして家に上がり、そのまま脱衣所に入った。汗臭い服を脱ぎ、浴室でシャワーの蛇口を回す。シャワーヘッドから噴き出す冷たい水をお構いなしに頭から被った。
 後悔の気持ちが消えて無くなったと言った男性のすっきりとした嬉しそうな顔、死んだ人間を慮る必要は無いと言った明美さんの言葉、どうしても納得がいかなかった、汗といっしょに流してしまいたかった。シャワーの水は徐々に温かくなっていく。汗は流れても、男性と明美さんの言葉は、網膜と鼓膜に刻み込まれたかのように消えることはなかった。心は冷えたままだった。
 
「春木、起きろ」
 ベッドで祖母に揺り起こされて、やっと目が覚めた。珍しく、祖母が部屋にいた。
「よう寝とったな、ご飯できているから早く食べろ」
 祖母はそれだけ言うと部屋を出て行った。時間を見ると、十二時を三十分ほど過ぎている。頭の中がぼーとしている、それに身体中の節々が痛い。眠気を覚まそうと朦朧とする頭を振ってみた。考えることを拒否しているかのように、脳がストライキを起こしているかのように頭が重かった。
「今日もバイト行くから」
 鯖の身を箸で取りながら僕は言った。祖母が驚くように顔を上げた。
「今日もって、二日続けてだぞ。神社でどんなバイトやってるんだ」
「満月の三日間だけの特別な行事の手伝いだよ。詳しいことは言えないんだ。それに今回は今日までだから」
「今回ってまだやるのか」
「うん。次の満月は一か月後だから、八月の終わりごろになるかな。まだ夏休みだから大丈夫だよ」
 十万円分は働かないといけない。それに夢見の館の仕事を続けていれば、明美さんと繋がっていられる。明美さんの柔らかくて温かい左手が思い出された。そうだった、あの手に三発殴られたんだ、ふと思い出し、くすっと笑ってしまった。僕の様子をじっと見ていた祖母は箸をおいて、
「なあ、春木、よくお聞き」
 と心配そうな顔をして言った。
「おまえ最近おかしいぞ。亜川さんが訪ねてきた日、図書館に行くとか言って家を飛び出し、やっと戻ってきたと思ったら顔をあんなに腫らしとったな。そうかと思えば急に神社でアルバイトをするとか言いだして、しかも泊りで朝帰りだ。また今日も行くと言ったな。それに手紙、誰に書いたかしらないけれど渡したんだろ。なあ、春木、お前、もしかして変な女につかまっとらんだろうな」
 僕は途中から目を伏せ、食べかけの鯖をじっと見ていた。祖母は僕をじっと見つめ返事を待っていた。変な女と言われ、明美さんの顔が浮かんだ。でも明美さんは決して祖母の言うような変な女ではない、でも彼女のことは祖母に知られたくなかった。
「おまえは本当に純情で世間知らずだから簡単に騙されそうで、ばあちゃん心配なんだ」
 何も言わない僕を見て祖母は続けた。
「そんなこと無いから心配しなくていいよ」
 そう言い、また鯖の身を箸で取った。

 祖母は納得したのかしないのかわからなかったが、出かける僕を止めることはなかった。昨日と同じようにジーンズ、Tシャツ、野球帽姿で自転車に跨った。相変わらず、青い色紙を貼り付けたような快晴の空がどこまでも広がっている。安心した気持ちのせいなのだろう、景色を見ながらゆっくりと自転車を走らせる余裕があった。祖母はいろいろ言ったけれど、結果として泊りで神社に行くことを黙認してくれたようなものだからだ。
 
 神社に着くとまだ明美さんは来ていなかった。今朝、あんな風に別れた後だ、どんな顔をすればいいのかわからず困っていただけに少しほっとした。でも、僕は明美さんがどこに住んでいるのか知らないし、携帯電話番号も教えてもらっていない、緊急の時困るからと言って教えてもらおう。
 
 昨日と同じ場所に自転車を停め、坂道を上った。相変わらずここの蝉は元気だ、砂利道を歩く僕の靴音ばかりか世界中の物音を掻き消さんばかりの勢いで大合唱をしている。社殿に行き、賽銭箱の裏に隠した社務所と庵の鍵を取り出す。明美さんと決めた鍵の隠し場所だ。こんなことでも二人だけの秘密めいていて嬉しく感じてしまう。社務所に入り、着替えをする。後はやることは昨日と同じだ、トイレ、庵の掃除、風呂の準備、篝火のお守り、朝になったら風呂と夢見の間の掃除、考えただけで目が回りそうだ。縁側の掃除をしていると明美さんがやってきた。
「どや、機嫌直ったか」
 掃除をしている僕の背後から声が飛んできた。簡単な知恵の輪を外せなくてバカにされたかのようで、少しカチンときたけれど、聞こえなかった振りをした。
「バカ、と言いながらわき目もふらず走っていくなんて、なんや青春ドラマみたいで胸がキュンキュンしちゃったわ」
 お構いなしに明美さんは続ける。もう、限界。持っていた雑巾を縁側に叩きつけた。
「何なんですか、もう。ケンカ売ってるんですか」
 そう言いながら後ろを振り向くとすぐ目の前に白いワンピース姿の明美さんが立っていた。片側に寄せた黒髪が、清流のように首筋に流れている姿は涼しげで、思わず息を飲んだ。時として横暴に振る舞う明美さんの清楚な美しさにあらためて目を奪われ、固まってしまったように次の言葉が出なかった。
「うちはな、目を覚ませ言うとるんや。春木君はまだ夢見の間のことを理解できとらんやろ。ここはな、前も言ったけど過去を変えて現在や未来を変えるとかいう大それたところじゃないんや。あの獏の置物が何を望んで人に好きな夢を見させてくれてるかなんてことは知らん。でもひとつだけ言えることは、ここに来る人間はみんな何かしら心に悩みを持っとんのや。そんな人達が、ここで一晩泊まることで救われるんや。自己中だとか、相手のことを慮るとか、相手の人が亡くなっているとか生きているとか、そんなことは一切関係ない、そもそも誰かをどうにかしようというような高慢な話じゃないんや。夢見の間で眠った人の夢の中だけの話なんや、だから夢を見た本人意外何もわからんし、わかるはずもない、本人意外何も変わらん、それでいいんや」
 そうだった。ここでは何も変えることはできない。初めて夢見の間の話を聞いた時、そんなことに何の意味があるんだ虚しいだけだと、明美さんに反論したことを思い出した。
「これだけ言うてもわからんのなら、ご要望どおりうちとケンカするか。今度は容赦せえへんで」
 どこかの悪ガキみたいな口調が可笑しくてつい笑ってしまった。
「容赦って、この前の三発は手加減してたってことですか」
「当たり前や。うちはこう見えても空手を習ってたんや、黒帯やで。春木君がもしうちにいやらしいことしようとしたら、タマキン蹴り潰したるでな」
 空手と聞いて思わず仰け反ってしまった。後の言葉は聞き流した。
「本当ですか、すげー。手を見せてください」
 僕は両手で明美さんの左手を握った。
「手、綺麗ですね、拳だこも無いし」
「当たり前や、嫁入り前の娘やで。防具をつけて拳だこできんように練習したんや」
「でも拳で瓦やコンクリートブロックを砕いたり、手刀でビール瓶切りしたりするんですよね」
「おまえマンガの読みすぎや。ところでいつまで手握っとるん?」
 僕は今気づいたように慌てて手を離した。本当はさっきから心臓が口から飛び出しそうなほどバクバクしていた。でももっと握っていたかった、白くて柔らかくて温かかったから。明美さんの優しさが伝わってくる気がしたから。
「君はやっぱり女たらしの素質があるわ」
 明美さんの頬がほんの少しだけ赤く染まったように見えた。
「さあ、仕事や仕事、のんびりしとるとお客がきてまう。そう言えば春木君、今日、服ばっちり決まっとるやん」
 明美さんは僕の肩を掴み、くるっとひと回りさせた。
「馬子にも衣装や」
 うんうん頷き、次の言葉を期待して待っている僕の額を、指で軽く突きながら、明美さんはやんわりと言った。
「はよ、仕事しい」
 明美さんは我儘だ。本当はまだ一緒にいたかったけど、着替えにすたすたと社務所に歩いて行く。ついて行くわけにもいかず、しかたなく掃除の続きを始めた。
 掃除を終え、風呂の水汲みを始めると、暑い夏、やっぱりこの仕事が最大の難関だ。数回水汲みをしただけで腕はパンパン、汗が噴き出してくる。たまらず昨日と同じように上半身をはだけた。風呂桶にやっと水が半分ほど溜まった頃、声を掛けられた。
「あのー、すいません、今日五時までにここに来るように言われた者ですけど」
 紹介してもらった氏子の名を言い、ちょこんと頭を下げた。今日の客だろう。三十代半ばぐらいに見える。背は高いが色白で痩せ型、髪は長く耳が隠れるぐらい。目は細く吊り上がり、昆虫のかまきりを思わせた。
「中に巫女がいますので、あちらにお願いします」
 社務所を指差すと、男性はまたちょこんと頭を下げ、歩いて行った。

 水汲みを終わらせ風呂がいい按配に沸いた頃に、紺色の作務衣を着た先ほどの男性が庵から出てくるのが見えた。
「食事、美味しかったよ。全部あの巫女さんが作ったんだってね」
 風呂小屋の前で立ち止まり、入口に立っている僕に言った。口調が妙に馴れ馴れしい。
「そうです。お風呂沸いていますのでどうぞ入ってください」
 僕は二歩横に移動し場所を開けたが男性は動こうとせず、更に話しかけてきた。
「彼女は独身だよね」
「ええ、まあ」
 何でこんなことを聞くのか変に思ったけど、まだ嫁入り前の娘やで、と言った明美さんの顔を思い出しながら答える。
「そうか」
 呟くように男性は言い、風呂小屋に入っていった。すぐにバシャバシャと湯船に浸かる音が聞こえてきた。
「おーい、ちょっと温度が低いからもっと焚いてくれ」
 湯加減を聞こうと格子窓に顔を寄せた途端、声を掛けられた。すぐに焚口に薪をくべた。
「すぐに温かくなりますから」
 格子窓に近づき、中の男性に聞こえるように言ったが返事は無かった。しばらくすると、怒ったような声が聞こえてきた。
「熱いだろ、水で薄めてくれ」
 何なんだと、慌ててバケツに水を汲み、風呂小屋に入ると男性は気持ちよさそうに湯船に浸かって目を瞑っている。
「水、いれましょうか?」
「その辺に置いといてよ」
 男性は僕とバケツをちらっと見て、また目を瞑ってしまった。
 わけがわからずバケツを風呂桶近くに置き、風呂小屋を出た。しばらくすると男性は作務衣を着て黙って庵に戻って行った。風呂小屋を覗くと、風呂桶の近くに置いたバケツは水が入ったまま残っている。
「何だよ」
 独り言ち、バケツを片づけた。
 
 そうこうしていると、日は傾き、西の空は赤く燃え、月が昇る時間が迫ってきた。篝火の準備を始めた。日が沈み、暗闇に包まれるように色を失った世界は、昇ってきた月の光に照らし出され、静寂なとばりに包まれた。
 庵の前で待っていると明美さんが出てきた。怖いものでも見たような強張った顔をしている。僕を見るとほっとしたのか、表情が緩んだ。二人して暗黙の了解のように、風呂小屋の前まで黙って歩く。焚口でちろちろとくすぶる赤い色が見える。
「変な人ですよね」

 口火を切るようにぼそっと言うと、怒涛の勢いで明美さんが喋り出した。
「何やあいつ、気色悪かったで。正直身の危険を感じたわ。社務所に入ってくるなり、ずっとヘビみたいにうちを見とってな、あー嫌やった。聞きもせんのに、今日来た理由を言い出してな。なんでも好きだった女性が、自分では無く、違う男と結婚したんやと。あんなに尽くしたのにそれが信じられん言うんや。毎日、彼女のアパート前で彼女を警護しとったらしいわ、出かける時も後ろについて……」
「それってストーカーじゃないですか」
 話を遮るかのようについ口を挟んだ。明美さんは何かを思い出したのか、あっけに取られた顔で僕を見た。
「そうや、なあ、春木君」
 明美さんは僕の顔を覗き込むように見て、いやらしくニタっと笑った。初めて見る下品な顔。もしかして僕、明美さんからストーカーって思われてる?それ絶対にダメ。懸命に頭を働かせた。
「僕の場合はですね、たまたま公園で見かけた女性が、たまたま乗った電車の、たまたま乗った車両にいて、それがたまたま明美さんだったというだけであって、それは偶然の産物であり、たまたま商店街を歩いていた僕の前を、たまたま明美さんが歩いていて、たまたま明美さんが借りている駐車場がたまたま僕の歩きたい方向にあった、というのは天の配剤なんです。だから僕は決して尾行をしたり待ち伏せをしてたわけじゃないんです」
 言いくるめるように畳み込むように、お腹に力を込めた。何を言っているのかわけがわからないようなことでも、力強く言い切るだけで説得力が生まれるものだ。
 
「おお、選挙演説みたいにごちゃごちゃ語るやんか」
 明美さんはやけくそのように胸を張る僕を感心して見ている、ような気がする。
「それでどうなったんですか」
 僕はこの機を逃さない、話の腰を折ったのは自分なのに、責めるように先を促した。
「ん、それでな、去年のことらしいんやけど、夜、アパートの前で彼女が帰ってくるのを待っとったんやと。すると、いつもは笑顔を浮かべて早足で通り過ぎる彼女が、数メートル先で立ち止まり振り向いて彼を見たらしいわ」
「笑顔じゃなくて、ただ顔が引き攣っていただけじゃないですか」
 ついまた、話にちゃちゃを入れる。
「ええから、最後まで聞き。その時、彼女が何や言うたらしいわ。せやけど、たまたま通り過ぎた車のエンジン音で聞こえなかったんやと。聞き直すのも何か気が引けて黙っていると、返事を待つように立っていた彼女は悲しそうな顔をしてアパートに駆け込んだらしいわ。そしたら次の日、アパートはもぬけの殻になっていたんやと。あいつが言うにはな、きっと彼女はあの時、どうして私を見守るだけなの、どうして私に告白してくれないのって言ったと思う言うんや。その根拠は何やって聞いたら、それしか考えられんってほざきよんねん。うちはな、やんわりと、違うことを言いはったかもしれんで、と言うとな、そんなことはない、彼女はそれどころか、どうして私を奪ってくれないのって付け加えたかもしれん、と言い張るんや。今日それを確かめて、彼女を奪いに行くらしいわ」
「その話やばくないですか。今日この後、夢の展開次第でとんでもないことになるかもしれないですよ」
「ところがな、風呂から帰ってきてあいつ、うちを見て変なことを言ったんや。俺、彼女のこと忘れてもいいんだよねって。それでちらちらうちを見るんや。なあ、春木君、あいつと何喋ったん?」
 僕は時間を巻き戻したかのように、ゆっくりとあの男とのやりとりを口にした。
 
「最初は氏子に紹介されてきたと言ってきたので、社務所に巫女がいるからそっちに行ってくれとだけ言いました。それから風呂に入りにきた時にあいつは、料理が美味かった、全部あの巫女さんが作ったんだよねって感心してましたよ。それから、ああそうそう、明美さんは独身だよねって聞かれましたから、隠すことでもないですから、ええまあって答えました」
「それや、どあほ」
「どあほは無いでしょ。明美さん、嫁入り前の娘やって自分で言ったじゃないですか」
 明美さんは眉間に皺を寄せ、おちょぼ口で僕を見ている。こんな困った顔を見るのは初めてだ。
「つまり夢の展開次第では、明美さんに乗り換えるということですよね」
「いやや、そんなん絶対にいやや」
 首をぶるぶる振りながらダダをこねだした。
「いつもの強気はどこ行っちゃったんですか。タマキン蹴り潰せばいいじゃないですか」
「うち、ああゆうタイプだめなん」
 初めて優位に立てる気がして、ここぞとばかり言った。
「大丈夫です。僕が明美さんを守りますから」
 大胆な発言に心臓が早鐘を撃つ。白馬の騎士になった気分だった。
「そや、春木君は男の子や。それにうちとチューした仲やもんな」
 あっさりあしらわれてしまった。それに僕の思い出のファーストキスをそんな風に扱って欲しくない。ちょっとだけ明美さんを睨んだ。月はいつの間にか天高く昇っている。あの男はもう寝入っただろうか、夢の中ではどんな展開になっているのだろうか。
「とにかくや、明日朝、あいつがうちのことを何か聞いてきても何も答えたらあかんで」
「わかりました、でももし、彼氏がいるかって聞かれたら、僕が彼氏だと答えてやりますよ。明美さんは年下の男がタイプなんだって言ってやりますよ」
 僕は懲りない。
「それはあかん、春木君のこと弟や言うてある」
「またですか、もう……。じゃあ、ラブラブの結婚間近の彼氏がいるって答えます」
「うん、それでええ」
「でも、何も聞かれないかもしれませんよ。何も言わずに明美さんのストーカーになるかもしれない」
「いやー」
 明美さんは両耳を手で塞ぐ。
「わかりました。とにかく、明美さんにはラブラブの彼氏がいる、と伝えるように頑張ります」
 あんな男が明美さんに付きまとうなど絶対に許し難い。僕の力強い言葉を聞いて、明美さんはほっとしたように、「絶対やで」、と言い置き帰って行った。
 僕は篝火のお守りをしながら、仮眠を取ることもなくずっと起きていた。寝ている間にあいつに帰られては約束を守れない、明美さんのストーカーを野に放つことだけは断じて阻止しないと……。

「いつまで寝とんのや、起きい」
 ばっこーんと、お尻に強烈な蹴りを食らった。目から星が飛び出したかと錯覚するほどの一撃。あたふたと這いつくばり上半身を起こした。周りを見渡すと、辺りはすっかり明るくなっている、僕は庵の和室でおもいっきり寝入っていた。
「何時や思っとんのや。よだれ垂らして気持ち良さそうに寝とったな」
 昨日は家に帰って少し寝ただけだったことを思い出した。睡眠不足で爆睡してしまったようだ。すでに僕は自分の使命をすっかり忘れている。
「もう、せっかく人が気持ちよく寝ていたのに。起こさないでくださいよ、ぷんぷん」
 ズキズキするお尻をさすりながら言う。半分本気半分冗談のつもりだったが、明美さんは機嫌が悪そうだ、こめかみがぴくぴく動いている。瞬間、殺気のようなものを感じ、僕は畳みに倒れるように身を伏せた。ほとんど同時に左足が髪の毛を掠めた。まさに間一髪だった。
「危ないじゃないですか。いきなり何するんですか」
 目標物を失いくるっと一回転し、バランスを崩した明美さんは、おっとっとセーフ、とでも言わんばかりに両手を広げ、上手に寝転がったままの僕の顔を跨いだ。
 僕の苦情などどこ吹く風だ。でも今日の明美さんはザックリ前が割れたタイトスカートを履いている。
 見たいか見たくないかと問われれば答えるまでもない。嘘でも固く目をつぶる、そんな芸当思いつくはずもない。
 突然降って湧いたようなご褒美にお尻の痛みは吹っ飛び、僕は両目をひんむいた。白だ、前見た時と同じ白だ、やっぱり明美さんは白を穿くんだ。と、思う間も無く不穏な視線を感じ目線を外すとその先に、唖然とした顔で僕を見下ろす明美さんの顔があった。目の玉が飛び出しそうな勢いで両の眼を見開いている。時間が止まったかのように身じろぎしない。瞬間、バツの悪い気持ちが頭をよぎったが、僕の両目は地面に落ちたソフトクリームに群がる蟻のように、本能に導かれるまま再びスカートの中に吸い寄せられていく。
 
「きゃー」
 我に返ったような大声を上げ、明美さんは少女のようにスカートを押さえ僕のお腹の上に座り込んだ。
「何してくれるのこのドスケベが」
「うげっ」
 いきなり両手で首を絞められた。
「ようもかぶりつきで見てくれたな。このむっつりドスケベ」
 両手に更に力が加わった。本気だ。死ねー、という叫び声まで聞こえてきそうだ。マウントを取られた僕に抗う術はない。そもそも僕は寝ていただけで何もしていない。このまま絞め落とされるのかと諦めた時だった。
「何しとんの、早よ立ち」
 明美さんはしっかりとスカートを押さえ立ち上がった。
「こんなことしとる暇無いんや、今日はむこうの神社へ行かないかんのや。二日続けて夢見の館の仕事で休んだからな。今日は布団もクリーニングに出すから早よ着替えてくれるか」
 追い立てるように早口で言う。
 絶対絶命の窮地から生還できた僕に異論はもちろん無い。でも本当はもう少し明美さんにマウントを取られていてもよかった。スカート越しにお腹に伝わってくる明美さんのお尻の温かみと感触が気持ちよかったから。あのまま締め落されるのも悪くなかったかも……、一瞬、脳裏をかすめた思いに心臓が淫靡に脈打つ。違う、僕は変態じゃない、慌てて頭を振る。こんなこと口に出せるはずがなく、ドキドキ爆打つ心臓の鼓動とちょっぴり残念に思う気持ちを覚られないよう何食わぬ顔ですくっと立ち上がった。ポーカーフェイスを貫き、言われるまま服を着替え、夢見の間から布団を運び出した。肝心要のことについて明美さんが何も言わないことが不思議で、僕は布団を抱えながら、前を歩く明美さんに声を掛けた。
 
「すいません、寝ちゃって。あいつが帰ったこと全く気がつきませんでした」
 明美さんは聞こえなかったのか何も言わず歩いている。ヒールの踵が砂利でぐらつき歩き難そうだ。突然立ち止まり、振り向いた。
「実はな、うちが駐車場に着いた時、ちょうどあいつが坂を下りてくるところやったんや。車見られて嫌やなと思ったんやけど、あいつそんなこと全く気にする素振りが無くてな。一応念のため思うてな、春木君に声かけてもろたか聞いたんや。そしたらな、弟さんは気持ち良さそうに寝とったから起こさんかったと言うたわ」
 一瞬身構えたが、明美さんは淡々と話す。さっき機嫌が悪かった原因は他にありそうだ。
「まっずいなと思ったんやけど、あいつ意外なことを言い出したんや。夢の話や。彼女の言葉が車の音で聞こえなかったから、言い直してもらったんやと。そしたらな、当たり前やけど彼女はこう言ったそうや。『あなたのことが大っ嫌いです、金輪際私の前に現れないでください』、や。でもな、あいつ何てほざいたと思う、だったら早く言って欲しかったって言うんや。それなら毎日、彼女を警護することも見守ることも無かったのに、と言ったんやで。なんじゃそれみたいな話やろ。腹が立ったんはこの後や。あなたは僕のことが気になっているようだけど、ああ、あなたってのは、うちのことや、あなたは僕のタイプの女性じゃないから、想いを寄せても無駄ですよってほざいたんや。いつのまにかうちがあいつを好きになっとることになっとんや。こういうことははっきりと言ったほうがいいからねとも、僕は胸が小さい女性が好きなんだとも言いよったわ」
 僕は可笑しくなってきて、布団を抱えたまま声を出して笑った。
「明美さんのおっぱい大きいもんね」
「せやろ、春木君はちゃんとわかっとる。あいつうちのダイナイトマイトバディにけちつけよってからに。あーまた腹が立ってきた」
 この、この、この~、明美さんはそう言いながら、無防備な僕の脇をくすぐった。僕は身をよじりながら彼女の攻撃に耐えた。朝日が木洩れ日となり僕たちを照らしている、今、世界には僕と明美さんしかいない。時間が止まってくれたら……、僕は願った。

「ストーカーって変ですよね」
「うん、猿といっしょや、目合わせたらいかん」
 悟りを開いたような顔をして言う。
「あ、そうだった、今回の仕事はこれで終わりですよね、次は一ヵ月後ですか」
 今思いついたように言った。本当はあの変な男のことよりもこっちのほうが重要だった。
「そうや、まだたったの二万円分しか働いてもらっとらん」
「一ヵ月も先だとうっかり忘れちゃうかもしれないし、緊急で連絡を取りたい時もあるかもしれないじゃないですか」
「そうやな」
「だから明美さんの住所と携帯番号を教えてください」
 極めて自然に、水が低きに流れるがごとくさらりと口にした。明美さんは何かを考えるかのようにちらっと僕を見、不意に口角を上げた。見覚えのある唇の角度、また嫌な予感がしてきた。
「上手いこと言ってその手はくわんで。住所を教えたら、家の前をうろついたり、勝手に郵便受けを覗いたり、洗濯物を盗んだりする気やろ」
「そんなことしませんよ」
 僕は呆れて言った。
「この前は上手く言いくるめられたけど、今度はそうはいかんで。ストーカー野郎の言うことは信用でけんでな」
 僕はいつの間にか、エロガキ、女たらし、に加え、むっつりドスケベ、ストーカー野郎の称号まで得ていたようだ。
「じゃあ住所はいいですから携帯番号を教えてください」
「あかんな」
 明美さんは冷たく言い放つ。
「言葉にでけんようなエッチな電話を掛けてくるつもりやろ」
「もういいです」

 車のトランクに、抱えてきた布団や神主衣装を入れ、力を込めて閉めた。バタンと大きな音が辺りに響き渡る。明美さんは手を振って走り去ってしまった。
 とぼとぼと庵を目指す。日はとっくに昇っているのに、背の高い杉の木に囲まれた参道は薄暗く、夏の朝なのに少し冷たい風が吹いている。蝉たちが今日も一日頑張るぞとでも言わんばかりに、あちこちで鳴きだした。僕は世界から取り残された。孤独だった。この後、明美さんに一か月逢えないと思ったら自然と涙が出てきた。風呂の掃除を終え、夢見の間に入る。寝具を運び出してしまった部屋の中は妙に広く見えた。畳みに座り込み、床の間の置物をじっと見る。この部屋に泊まる人を救ってくれる伝説の生き物、獏。ふと頭に浮かぶ、今日は満月三日目。今夜までなら夢を見ることができる。
「なあ、おまえ、僕を助けてくれるか」
 置物に語りかける。でも明美さんのことも亡くなった母のことも獏の置物にお願いしても何ともならないのだ。明美さんからは年下の男に興味は無いと言われ、母はすでに亡くなり、夢で母を交通事故から救ったとしても目が覚めればやっぱり母はいない、現実は変えられない。寂しいよ、獏の置物に語りかけるように呟きうな垂れた。

 それからしばらくの間、僕は普通の高校二年生らしく、受験勉強や学校の宿題に取り組み、気分転換に、むしろこっちの時間のほうが長かったけれど、テレビを見たり、雑誌を読んだり、時には部屋の掃除をし、ごろごろして一日を過ごした。でも本当のところ頭の中は明美さんで一杯だった。はちきれんばかりに明美さんのことを考えていた。
 
 八月に入りやっと登校日がきた。ずっとこの日を待ち続けていた。朝食後、いつもより早く駅へと向かった。自転車のペダルが軽い、今なら誰と競争しても負ける気がしない。
 駐輪場に自転車を置き、駅前ロータリーから階段を上がった改札口近くで明美さんを待った。一本前の電車が発車するベルが空気を振動するように鼓膜を震わせる。僕の傍を忙しなく通勤客が通り過ぎる。もうすぐ逢える、そう思うだけで喜びが身体中から溢れ出しそうで、ひたすら商店街方面から歩いてくる人の波を凝視していた。でも待てど暮らせど明美さんは姿を現さない、発車時刻はどんどん迫ってくる、そしてとうとう電車の到着を告げるアナウンスが流れた。
 もしかしたら見過ごしたのかもしれないと急いで改札口を通り、いつもの乗車口に行った。素早く並んでいる人の中に明美さんがいないか確認する。いない。頭の中が真っ白になった。どうして?今日までずっと明美さんのことを考えていた、あんなに楽しみにしていたのに。結局、待ち人は現れず、夏真っ盛りなのに、心は寒々としてしまった。駅に着いても走る気力が湧かず、地面に座り込みたい気分だった。それでも、きっと今日は仕事が休みだったんだと、都合のいい理由をこじつけ自分を慰め、何とか気分を奮い立たせた。とにかく学校へ行かないと……、重い足を引き摺るように前に進めた。

 教室に入るとすでにホームルームの時間になっていた。いつもはいない教師が、夏休みだけあってすでに教壇に立っていた。そんなことにも気がつかないほど心にゆとりを無くし、後ろの扉から悪びれもせず堂々と机に向かう生徒を教師が見逃すはずがない。
「相川、遅刻だぞ、夏休みボケか」
 クラスメイトは一斉に振り向き僕を見た。クスクスと笑う女生徒の声が聞こえる。
「すいません」
 我に返ったようにちょこんと頭を下げ、顔を上げた目に、びしょ濡れの野良犬のように、光を失った寂しげな目で僕を見つめる亜川美帆が映った。彼女だけ声を出して笑うことも口角を上げることも無かった。
 全校集会が終わり、帰宅する生徒でごったがえす下駄箱で、見事に亜川美帆とかち合った。図書館であんな風に別れたきりで、何も言わないのも何だかばつが悪く、ほんの一瞬驚いたような表情を浮かべた彼女に、「やあ」、と一言だけ言ったけど、彼女の目はすぐに二つの暗い穴のように光を失い、そのまま僕の前を通り過ぎて行った。亜川美帆の後ろ姿を目で追う僕の頭の中に、相川君に逢いたくて来たんだよと、公園のベンチで言った彼女の言葉が巡る。だけど僕は、十歳も年下の男に興味は無いと言った明美さんが好きだ、この気持ちはどうにもならない。

 帰り道、駅前商店街にある月極駐車場に行ってみると明美さんが借りている駐車スペースだけがポッカリと空いていた。

 翌朝、駅前商店街にある月極駐車場に向かった。明美さんに逢えなくても車だけでも確認したかった。本当は駅や駐車場で明美さんを待ちたかったけど、ストーカー野郎と言われることだけは嫌だった。
 車の中でのファーストキス、明美さんの巫女姿、脇腹をくすぐられたこと、明美さんへの想いに浸りながらゆっくり自転車を漕いだ。駐車場に着くとやはり青いスポーツカーは見当たらなかった。昨日同様、ぽっかりとそこだけ空いている。
 神社にいるかもしれないと、ペダルを踏んだ。神社駐車場に車は一台も無かったけれど、念の為、社殿に行き賽銭箱の裏側を覗き込んだ。社務所と庵の鍵が見える。今、神社には誰もいないということだ。明美さんはどこにいるのか。胸の中で、嫌な気持ちが湧き上がる、不安な思いに囚われる。わけがわからなくなり、それから毎日、月極駐車場と神社を自転車で回った。
 でも、どれだけ探しても、明美さんに逢えるどころか青いスポーツカーを見ることさえできなかった。それどころか、数日後、月極駐車場の明美さんが借りていた駐車スペースに、空き駐車場の明示と連絡先が書かれた看板が置かれていた。明美さんとの接点は、神社だけになってしまった。
 
「いつもいつも、一体どこに行っているんだい」
 毎日外出する僕を見かねた祖母が詰問してきても、何も答えず神社に向かい、ガランとした駐車場を見て、殺伐とした思いを抱え家に帰る、そんな生活が続いた八月の旧盆が過ぎた日だった。
 夕方、神社駐車場に白い軽自動車が停まっているのを見つけた。神社の関係者なら明美さんのことを知っているかもしれない。微かな期待を抱え坂道を上った。見れば庵の引戸が開き、男性用の黒い革靴がある。入口で呼びかけると年配の男性が奥からゆっくり現れた。
 短く刈り込まれた白髪は亀の子タワシのように固そうで、痩せこけ、肌はミイラのように張りが無く枯れ木を思わせた。
「何か用かね」
「伊集院明美さんに会いにきたんですけど」
 射貫くような眼光に少したじろいでしまった。
「ここにはいないよ。君は、相川春木君、だよな」
 いきなり名前を言われ驚いた。誰?この人。動揺する僕を見て、男性が声を出して笑った。乾いた笑い声だった。
「明美から聞いとるよ。本当によく似とるなあ。亡くなった明美の弟にそっくりだよ。ああ、わしはな、この神社の宮司だよ、怪しい者じゃない」
 柔和な笑みを浮かべて言う。明美さんがそのうち会わせてくれると言っていたことを思い出した。
「明美さんの叔父さんですか。東京の病院に入院しているって聞きましたけど」
「何だ聞いているのか、でも病気が治ったわけじゃないんだ、一時退院して帰ってきたところだ。今度の満月に明美が立ち会えないかもしれなくてな」
「それってどういうことですか」
 彼女がいないのなら、こんな仕事はしたくない。理由を作りとっとと辞めてやる。
「明美が巫女を掛け持ちしとるのは知っているよな。私の友人の頼みで別の神社に変わったんだよ。忙しくて休めないかもしれないと明美から連絡があってな。それで万が一を考え、一時退院したんだ。ところで今日は何か用事か」
 穏やかな顔をして僕を見ている。
「今度の打合せとかしたかったんです。次の満月の時も彼女の手伝いをすることになっていたから」
 明美さんが来るかもしれない。適当なことを言い誤魔化した。
「明美の代わりは私がやるから引き続き頼むよ。最初明美が君のことを話に来たときに、そんな見ず知らずの高校生に大事な仕事をまかせて大丈夫かって言ったんだ。すると明美は、無給でもいいから是非神社の仕事を手伝わせて欲しいって、今時珍しい情熱的な高校生だと言うんだ」
「え、明美さんそんなこと言ったんですか」
「うん。熱意にほだされた、高校生の鏡だとも言っていたな」
 車の傷修理、弁償、一回一万円。君には十万円分働いてもらわんといかんのや、と言った明美さんの顔が瞼に浮かぶ。開いた口が塞がらないとはこのことだ。
 
「この仕事はな、前は私がひとりで全部やってたんだがな。でももう体力的に無理だ、寄る年波と病気には勝てん。相川君が頼りだ。よろしく頼む」
 宮司は真面目な顔をして胡坐をかいたまま丁寧に頭を下げた。
「あの、夢見の間ですけど、結局、獏の置物は何なんですか。どうして望む夢が見られるんですか。それとさっき僕を見て言いましたよね、亡くなった明美さんの弟にそっくりってどういうことですか」
 この際とばかり、気になっていたことを口にした。それに明美さんの弟が亡くなったなんて初耳だし僕と似ているという……、宮司をじっと見た。
「そんなところに立っていないで上がったらどうだ。縁側で話そうか。お茶ぐらいあるだろう、ちょっと待っていなさい」
 宮司はゆっくり立ち上がり建物奥に消えて行った。僕は靴を脱ぎ、縁側に座った。時々通り過ぎる風が微かに秋の匂いを運んでいる。ほどなくペットボトルのお茶を二本抱え、宮司が戻ってきた。隣に座り、何も言わず一本を僕に手渡した。
「ここはいいなあ」
 宮司は頭の上で枝を広げるモミジや庭を見ながらしみじみと言った。
「ずっと病院暮らしが続いていてな。窓の外を見てもビルばかりで殺風景なもんさ。ここに帰ってくるとほっとするよ」
 どこから取り出したのかタバコを咥え、ライターで火をつけた。白い煙が風に揺らぎ拡散していく。宮司は旨そうに鼻から煙を吐き出した。
「ああ、明美には内緒だぞ」
 僕をちらっと見て、また一口吸い、名残惜しそうに携帯灰皿でもみ消した。

「さて、何から話そうかな。そうだな、獏の置物のことから話すとするか」
 僕は黙って生ぬるいお茶を一口、口に含んだ。
「もともとあの獏の置物は過疎化で廃村になった村の神社の御神体だったんだ。私の父がここの宮司だった頃、頼まれて引き取ったんだよ。父はてっきり鏡だと思い引き取ったと言っていたよ。神社の御神体は鏡が一般的なんだ。送られてきたものはあの変な動物の姿をした木彫りの置物と獏と書かれた紙一枚だったそうだ。父は驚いてすぐ先方に電話をしたのだが、自宅を引き払った後で連絡がつかなかったそうだ。こんなものを本殿に置くわけにはいかない、かと言って捨てるわけにもいかないということで、結局この庵の床の間に置くことにしたと言っていたよ。この庵には当時祖父が住んでいたんだ。宮司を引退した後建てたのさ、まあ、年寄りの道楽だよ」
 庵の中を見渡すと、天井や柱、縁側に使われている木は随分古そうに見える。

「半分ぼけたような祖父だったと聞いているが、しばらくすると昔のことをつい昨日のことのように話すようになったらしい。いよいよ本当にボケちまったんだろうとみんな適当にあしらっていたらしいが、でも祖母だけは熱心に話を聞いていたそうだ。祖父が亡くなると庵で暮らす人がいなくなり何年もここはほったらかしになったんだ。父が亡くなって私は宮司を継ぐことになり、初めてここに入ると、中はすっかり埃まみれで、大掃除をしたわけさ。最後の雑巾がけが終わるとすっかり日が暮れてあたりは真っ暗、おまけにここ電気が無いだろ、大の字になって寝ころんだら、すぐに寝てしまったんだよ。あの日空には煌々と満月が輝いていたんだ」

 宮司は話を止め、ペットボトルのお茶をひと口喉に流し込んだ。遠くを見るような目でモミジを見ている。何かを思い出しているのかもしれない。おもむろに視線を落とすと、言葉を選ぶようにゆっくりと話の続きを始めた。

「気がつくと私は夏祭り会場にいたんだよ。傍らには当時好きだった女性がいた。若い頃、私はそこで女性に気持ちを打ちあけ、見事撃沈したんだよ。その時と寸分たがわず同じことが起こったんだよ。だから目が覚めてもそれが夢だったとはどうしても思えなかった。あまりにもリアルだったから、何らかの方法でタイムスリップをしたのかもしれないと思ったんだ。その話を当時まだ存命していた祖母にしたんだよ。すると祖母はくすっと笑って、
『昨日は満月だったからね。おじいさんが言っていたことは本当だったんだね』
 と嬉しそうに言ったんだよ。
『おじいさんはぼけちゃったわけじゃないんだよ』
 と祖母は言って、祖父から聞いたという獏の置物の秘密について語ってくれたよ。これでやっと肩の荷が降りたと嬉しそうな顔をしていたな」
 
 亡くなった祖母を思い出しているのか、宮司は穏やかな顔で頭上のモミジに目を馳せている。すぐに気を取り直すようにそっと息を吐き、続きを話し始めた。

「自分で体験したとは言え、それでも半信半疑で、それから私は祖母から聞かされたことをひとつひとつ確かめていったんだ。夢見の間で眠ると、希望する過去に戻れること、それは満月の前後を入れた三日間だけに限られること、現実と区別できないほどリアルであるがあくまで夢であること、雨が降っていたり月が厚い雲に覆われている時はこの現象は発生しないということ、眠る前に念じれば夢の中で現実に取った行動とは違う行動をとることができるということ、目が覚めて現実の世界に戻れば何も変わっていない、つまり過去であっても現在であっても現実の世界を変えることはできないということ、また、同じ夢を見ることはできないし、逢いたい人がモノトーンで現れたらその人は亡くなっているということ、まあ、そんなところかな、全部確かめたよ。でもまだ他にわかっていないことがまだまだいっぱいあると思う。そして一番肝心なこと、何故こんな現象が起こるのか、あの獏の置物はいったい何なのか、そういったことについては残念ながら一切わかっていない。でもな、私はそんなことはどうでもいいことだと思うようになってきたんだ。誰かに迷惑をかけるわけでも、何かを変えるわけでもない、ただ夢見の間に泊った人が希望する過去の出来事を夢で見ることができるというだけのことなんだよ。そしてたったそれだけのことで、人ひとり救われることもあるんだよ。
突拍子の無い話だから、このことは秘密にしていたのだがどこからか洩れちゃってね。氏子を介して夢見の間に泊まりたいという申し出がくるようになったんだ。断ることもできず、人様を泊める以上、食事を出し、風呂を用意し泊まってもらっているというわけだ」

 話し終えると、宮司はまたペットボトルのお茶を口にした。ごくっと喉を鳴らし、旨そうに飲み込んだ。そして何か考え事でもするように長く息を吐いた後、タバコを取り出し、ライターで火を点けた。幸せそうな顔をしてタバコをくゆらせている。
 
「明美の亡くなった弟のことなんだが、君は明美がここに来ることになった理由を聞いているか?」
「はい、宮司さんから神社の仕事を手伝って欲しいと頼まれたと言っていましたよ」
「それは違うな。明美のほうから夢見の間に泊まらせてほしいと言ってここに来たんだよ。明美は私の妹の子どもでね、姪っ子さ。明美には十歳も年の離れた弟のシンジがいたんだ。ただシンジは生まれつき心臓が悪くてね、ずっと通院生活をしていたんだ。さっきも言ったとおり君とよく似ていたよ、生きていれば君と同じ年齢だろう」

 ちらっと僕を見た宮司の顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。

「年が離れていた分、明美は弟というより子どものように可愛がっていたかもしれん。明美が大学を卒業し一人暮らしを始めた翌年に妹夫婦は離婚したんだ。旦那の暴力、妹の浮気、どっちが先かわからんがな。中学生のシンジの親権は妹が持つことになったのだが、シンジのたっての希望で、アパート暮らしの明美と同居することになったんだ。だが一昨年の春、高校生になったシンジがアパートで発作を起こし倒れたんだ。土曜日だったのだが、折り悪く、明美は外出していてな、アパートはシンジひとりだったんだ。夕方帰ってきた明美が見つけてすぐ救急車を呼んだのだけれど、すでに亡くなっていたんだよ。連絡をもらって私はすぐに駆けつけたがあんなに憔悴しきった明美を見たのは初めてだった。去年、一周忌の法要が終わり、食事の席で酒が入ったこともあり、つい夢見の間の話を明美にしてしまったんだ。その時は関心無さそうに聞いていたのだが、一週間も経った頃、突然神社にやってきて夢見の間に泊まらせてくれと言うんだ、鬼気迫るものがあったよ。あいにく満月まで二週間近くあってな、私の家に居候することになったんだ」
「もしかしたら明美さんは今も……」
「ああ、私の家にいるよ」
 宮司はタバコをまた一本取り出し火を点けた。

「どこまで話したかな?」
「明美さんが宮司さんの家に居候を始めたところです」
「ああ、そうだったな。明美が訪ねてきた時に、私は彼女に夢見の間で何を見たいのか聞いたんだ。すると彼女は、シンジが亡くなった日に戻りたいとだけ言ったよ。それ以上のことは何も言わなかったし、私も聞きはしなかった。そして満月の日がきたんだ。明美は朝からずっとこの縁側に座り、庭を見ておった。ここに来た時と打って変わり、本当に穏やかな顔をしとったな。今思えばあれは死を覚悟した顔だったんだ。月が昇る頃、明美は夢見の間に入って行ったよ。静かな夜で、雲も無く、空は晴れ渡り、いつにも増して月は光輝いていたんだ」

 不意に宮司が口を閉ざした。変に思い顔を向けると歪んだ表情で目を閉じている。続きを話すべきか逡巡しているのかもしれない。少し間をおいて宮司は話の続きを始めた。

「夜が明けても明美は部屋から出て来なかったんだ。不審に思い、部屋に入ると明美は布団に座り泣いておった。何かが光った気がして、見ると明美の手元にナイフが転がっていたんだ。何でこんな物があるんだと、急いで拾い上げると、明美は泣きながら、死ねなんだ、と言ったんだ。明美は続けて話してくれたよ。
『あの日、近所の公園の桜が満開で、弁当を持ってシンジと花見に行ったんや。桜がほんまに綺麗やった。シンジは美味い美味い言うてうちが握ったおにぎりをほとんどひとりでたいらげてまってなあ、このどアホうちの分が無いやろって小突いてやったんや。シンジは笑っとったわ。その後アパートに帰ってうちは外出し、シンジは発作を起こし亡くなった。あの日、もしうちが外出せんとアパートにおって、発作を起こしたシンジを助けられたんなら、うちは死のうと決めとった』、とな。
 でも、シンジを助けられなかった。救急車を待つ間、明美はずっと苦しむシンジを抱きかかえることしかできなかったそうだ。交通事故で道路が渋滞し、救急車の到着が大幅に遅れたらしい。ねえちゃんありがとう、桜きれいだったね、おにぎり美味しかったよ、と言ってシンジは救急車が到着する前に事切れたそうだ。明美は本当に死ぬつもりだったんだろうな。ここに来る前、アパートは引き払い身の回りの整理をしていたんだよ。結局、行くところが無くて、私の家に住み着いて巫女をやって暮らしているって訳だ。そして君と出会った。桜が満開の公園で、桜吹雪の中から突然現れたようにベンチに座っている君を見つけた時、息を飲んだ、心臓が止まるかと思ったと言ってたよ。シンジが生き返ったのか、とね。女の子とベンチに座っている姿を見て、シンジとベンチに座りおにぎりを食べたことを思い出したとも言ってたな。不思議なことにあの日シンジを小突いた感触がまざまざと左手に蘇ったそうだ。女の子といる君をじろじろ見るのも気が引けて、服に付いた桜の花びらを取る振りをして君を盗み見たらしい。似てはいるけど他人とわかり、やっぱりシンジは死んだんだと思ったら涙が溢れそうで、逃げるようにその場を後にしたそうだ」

 帰り道、僕は自転車を漕ぎながら、西の空に沈んでいく太陽を見た。夢見の間のことより、明美さんのことばかり考えていた。ひと際大きく見える夕焼けの真っ赤さが、明美さんの心の傷跡から流れる血のように思えた。

 家に帰ると祖母は誰かと電話で話をしていたけれど、僕に気がつくとすぐに受話器を置き、おかえりとだけ言い台所に引っ込んでしまった。
 僕は、そのまま自分の部屋に上がり、ベッドに寝ころび、明美さんのことを考えた。気安い物言い、乱暴な態度、きっと明美さんは僕を通して亡くなった弟を見ているのだろう。思い起こせば、心あたりはいっぱいある。ラブレターの返事を聞いた時、十歳も年下の男に興味はないと言ったのは、僕のことを弟のように思っていれば当然の話だ。むしろあんな物をもらって困惑したことだろう。
 
 進展する見込みのない恋、独りよがりの恋。これ以上彼女に迷惑をかけてはいけない、早く忘れたほうがいい。でも僕はやっぱり明美さんが好きだ。諦めろ、忘れろと言う理性、それを許さない感情、メビウスの輪のように考えがいつの間にか入れ変わる。まとまらない思考の隙間から明美さんの美しい顔が浮かび上がってくる。理性と感情がケンカしたら、理性など感情に勝てるはずがない。散々思い悩んだ末、今度明美さんにあったらもう一度告白を、真剣に告白をしようと決めていた。きっと、きっと、受け入れてもらえる……、明美さんの居場所も近況もわかっている、今度の満月で会えなくても、家に訪ねていけばいい。

「今日も出かけるのかい」
 翌朝、朝食を取っていると祖母が言った。
「いや、今日はどこにも出かけないよ」
「そうかい」、祖母は嬉しそうな顔をして僕を見た。
「ばあちゃん今日用事があるから夕方まで出かけるけど、お昼ご飯は作っておくからな」
 うん、とだけ言い部屋に上がった。午前中は机に向かって過ごした。昼食を取り、少し休憩と部屋でごろごろしていると呼び鈴の音が聞こえてきた。しつこく鳴る呼び鈴に階段を駆け下りた。扉が閉まった玄関に人影が浮かんでいる。「はい」、と大きな返事をし、急いで扉を開けた途端、心臓が飛び出るかと思うほど驚いた。目の前に亜川美帆がいた。ピンクのバックを肩にかけている。見間違えかと思わず目を擦ってしまったほどだ。
「何よその顔、幽霊でも見たような顔して」
 亜川美帆は絶好調、いきなりエンジン全開だ。
「なに居留守使ってんのよ。自転車も置いてあるし、いるのはわかってんだから、とっとと出てね」
「あのどうしてここに?」
「どうしてだと思う?」
「僕に会いに来たの?」
「ブー、自惚れないで。おばあさんに頼まれて来たんだよ」
「ばあちゃんに?」
「どうでもいいけど、わざわざ遠くから訪ねてきた同級生の女の子に、玄関先で立ち話させようっての?」
 家の中を覗き込んでいる、目が好奇心でキラキラしているようにしか見えない。
「いいけど、今誰もいないよ」
「わかってるわよ。お邪魔しまーす」
 誰に向かって言ったのかわからない挨拶をして、亜川美帆はとっとと玄関に上がり、履いていた赤いスニーカーを丁寧に揃え、家の中に入って行った。僕は自分の家なのに亜川美帆に招待されたかのように彼女の後ろをついて歩いた。
「相川君の部屋はどこ?」
「二階だけど」
「相川君の部屋で話そうよ」
「え、でも散らかってるよ。それに今本当に誰もいないんだよ」
「付き合ってもいない女の子を、いきなり自分の部屋に連れ込んで押し倒すような人間じゃないことはわかっているから大丈夫」
 ほめられたのか、けなされたのかよくわからない言い方をされ、僕は頭の中が???のまま、亜川美帆を部屋に案内した。亜川美帆は部屋に入ると、さっきまでの勢いが影を潜め、急に大人しくなり、遠慮がちに部屋の中を見回している。
「えへ、私、男の子の部屋に入るの初めてなんだ。相川君部屋綺麗にしてるんだね、それにあまり物が無いし」
 頬をほんの僅か赤く染め、ベッドに座った。僕は机のイスに座り彼女に言った。
「頼まれたってどういうこと?」
「昨日、おばあさんから家に電話があったんだよ。緊急連絡網で番号を調べたって言ってたよ。おばあさんが言うにはね、最近相川君の様子がおかしいって。毎日自転車でどこかに出かけてしまうし、聞いても何も教えてくれない。この間はアルバイトだと言って二日続けて朝帰りだったって。変な女に引っ掛かっていないかもう心配で心配で仕方がないって。それで私に何か知らないかって電話があったの」
 淡々と言い、探るように僕を見た。
「何で亜川さんなの」
「君の同級生でおばあさんが知っているのは私だけだってことよ。それよりアルバイトは学校で禁止されてるよね、そのことおばあさんに言わなかったけど本当にやってるの」
「いいじゃないかそんなこと、僕の勝手だろ」
 つい声を荒げてしまった。でも亜川美帆はひるまなかった。
「やってるわけだ。何でよ、学校にばれたら下手したら退学だよ。どこかの女にラブレター書いたんだってね、変な女に貢いででもいるわけ?」
 変な女と言われ、カチンときた。抑えが効かなかった。
「明美さんはそんな人じゃない」
 あっと思った時にはもう遅かった。亜川美帆は信じられないものでも見たように目を見開き、金縛りにあったように身じろぎせず僕を見ている。時間が止まった気がした。
「やっぱりいたんだ」
 亜川美帆は俯き、聞き取れないような小さな声で呟いた。重たい沈黙が濃度を増していく。それでもすぐに彼女は意を決したように顔を上げ、真っ直ぐ僕の目を見て言った。
「アルバイトは学校で禁止されていることも、明美とかいう女に上手く利用されていることもおばあさんに言うから」
 立ち上がり帰ろうとする亜川美帆を、僕は慌てて押しとどめた。だけのつもりが勢いでそのままベッドに彼女を押し倒してしまった。二人の身体が重なった。Tシャツを通して彼女の体温が、早鐘のように脈打つ彼女の心臓の鼓動が、彼女の胸の柔らかさが、僕の身体に伝わってくる。
 
「放して、私にまで手を出すの。相川君ってそんな人だったの」
 亜川美帆は僕を押しのけるように手をじたばた動かした。でもその手には意思が籠っていなかった。どうしようもない悲しみだけが操り人形のように彼女を動かしているように思えた。これ以上彼女を傷つけてはいけない、僕はゆっくり身体を起こし、彼女から離れた。亜川美帆はベッドに倒れ込んだまま泣いている。
「ごめん、今のはわざとじゃないんだ。それに明美さんは亜川さんが思っているような人じゃない。信じてもらえないかもしれないけど全部話すよ」
 僕はそう言い、倒れ込んだままの彼女と少し距離をおいて座り直した。そして明美さんを初めて見た花見の日まで遡り、終わっていない恋をおくびにも出すことなく、俯き目を閉じ、話を始めた。途中、亜川美帆が身じろぎしたような気配があったけれどそのまま話を続けた。

 この数か月、本当にいろいろなことがあったといまさらながら思った。補習が終わり亜川美帆と喫茶店に向かう途中、突然襲われたフラッシュバック、公園でのケンカ、明美さんに助けられたこと、そして夢見の館。夢見の間のことは今でも信じられない、夢を食う獏の置物なんて話をしても信じてもらえるだろうかと少し不安になったが、「それで」、と亜川美帆の言葉が耳に届き、ああ、僕の話を聞いてくれているんだと話を続けた。
 
 不意に、ぱりっと小さな音が耳に届いた。すぐ近くから発せられた音だ。実はさっきから微かな物音が聞こえていた。気にしないようにして話を続けていたけれど、音がだんだん大きくなるようで、そっと目を開け音のするほうを見た。
 目の前にベッドに倒れ込んでいたはずの亜川美帆の顔があった。盗み食いが見つかった子どものようにしまったとでも言うようなまん丸目玉で、煎餅を口に咥えて僕を見て固まっている。いつの間にかベッドに正座し、膝の上には袋ごと煎餅が乗っていた。
 ついさっきまで泣いていたかと思ったら、いつの間にか桝席に座り寄席でも見ているような気安さで、おまけに煎餅をぽりぽり食べながら僕の真剣な話を聞いている。さらによくよく見ると布団の上には煎餅の食べかすがあちこちに散乱している。おい、その煎餅何枚目だ。怒りを通り越し彼女の立ち直りと変わり身の速さにただただ呆れた。
 
「話はだいたいわかったよ」
 亜川美帆は悪びれもせず、咥えたままだった煎餅をいかにも美味しそうにぽりぽりと大きな音を出して食べ、指先についた塩を旨そうに舐めた。
「本当にラブレターは渡してないんだね」
 ほっとするような、探るような顔をして僕を見ている。
「うん、綺麗な人だと思ったけど十歳も年上だよ。恋愛の対象にはならないことに気がついて、そもそも手紙を書いていないんだ」
 嘘も方便とばかり僕は言う。おまえ女たらしの素質があるで、明美さんの言葉が脳裏をかすめる。
「その明美っていう女はいい人だとは思うけど、やっぱり相川君いいように使われているよ」
「どうして?」
「自転車で車に傷をつけたのは相川君の不注意だから、車の修理代金を弁償するのは仕方のないことだよ」
 ここでも僕は嘘を言ったことをおくびにも出さず、大きく頷く。
「問題はその夢見の間の仕事ってのが一回一万円は安すぎるんだよ」
「でも僕の小遣い二か月分だよ」
「もう、ほんっと世間知らずね。お昼の二時から翌朝七時まで働くとするでしょ。そうすると十七時間だよ、ほとんど寝る時間が無いんでしょ。時間給にしたら六百円も無いんだよ。今はね、最低賃金を千円にしようと国が言ってるんだよ。授業で習ったでしょ。おまけに重労働で徹夜みたいなものだから、三倍はもらわないと勘定が合わないよ」
「ええー、三倍って、一回三万円ってこと?」
 出来の悪い生徒がやっと答えを導き出せたかのように、亜川美帆は力強く頷いた。
「心配しなくていいよ。私がその明美って女と掛け合ってあげるから」
 彼女はまた袋から煎餅を取り出した。

「駅まで自転車で送っていくよ」
「でも、自転車の二人乗りは禁止だよ」
 言葉とは裏腹に亜川美帆は顔を輝かせた。僕はすぐに自転車を家の前に引っ張り出した。
「捕まらなきゃ大丈夫さ。ほら、後ろに座って」
 言い終わるより早く、スカート姿の亜川美帆は行儀よく僕の後ろ、荷台に腰掛けた。ずっしりと、ハンドルを掴む手に彼女の体重がのしかかる。僕は後ろに座る亜川美帆に声を掛け、ペダルを力強く踏んだ。彼女は小さな悲鳴を上げ、身体を捻り両腕で僕のお腹を抱きかかえた。でもスピードが安定してくると、安心したのか腕を離し右手でサドルを掴んだ。交通量の少ない道を選び、ゆっくりと自転車を走らせた。後ろから鼻歌が聞こえてくる。
「相川君」
 亜川美帆が声を掛けてきた。返事の代わりに少しだけ顔を動かし、後ろを見た。
「私もその夢見の間に泊りたいの。宮司さんに頼んでもらえないかな」
 理由など聞く必要は無い。花見の日、彼女が言った言葉は今でも覚えている。
「来週の満月、予定が入っているのは三日目だけだと言っていたから大丈夫だと思う。明日、神社に行って聞いてみるよ」
 亜川美帆は、そっと僕のお腹を抱きかかえ、耳元で、「ありがとう」、と言った。駅が近づき、商店街に入ると道行く人の数がどんと増えた。
「ねえ、私達ってさあ」
 お腹を抱きかかえたまま亜川美帆が言う。きょろきょろと辺りを見回している気配が窺える。
「傍から見るとどう見えるのかな」
「法律を破り自転車二人乗りをしている高校生」
 僕は即答する。
「もう、そうじゃなくってー」
 亜川美帆は僕の背中を叩いた。風が少し出てきたようだ。声が掻き消されないように彼女は声を張り上げている。
「仲のいいカップルにみえないかなーって」
「でも僕達付き合っているわけじゃないけど」
 僕は少しだけ後ろを向き、遠慮がちに言った。
「何言ってのよー。私たち付き合っているようなものじゃない。私、ベッドに押し倒されちゃったしー」
 亜川美帆はまた後ろで声を張り上げた。風はとっくに止んでいる。声が商店街に響き渡った。

 次の日、勉強を早めに切り上げ、神社に向かった。祖母は昨夜からずっと機嫌がいい。たぶん、亜川美帆から連絡があったのだろう。昼までには帰るからと言って家を出た。
 宮司は拝殿の掃除をしていた。僕を見ると手を止め、笑顔を向けた。
「やあ、相川君か。今日はどうしたんだい」
「ちょっとお願いがあって来たんです。今いいですか」
「ちょうど休憩しようかと思ってたところだよ。何かね」
 宮司は箒を置き、拝殿前の木の階段に座った。僕は宮司の隣に座った。
「こんなところに座り込んでいいんですか」
「バチは当たらんよ」、宮司は笑った。
「実は、僕の同級生の亜川美帆という女の子に夢見の間の話をしたら、是非泊まらせて欲しいって頼まれたんです。亡くなったお母さんに逢いたいんだと思います」
「ああ、そうか、いいよ。じゃあ、満月の初日でどうだい」
 拍子抜けするぐらいあっさりと宮司は答えた。
「ありがとうございます。ちょっと待ってくださいね、本人に聞いてみます」
 少しドキドキしながら、昨日番号交換をしたばかりの亜川美帆の名前をプッシュする。祖母以外の人間に携帯で電話を掛けるのも話をするのも初めてだった。亜川美帆はすぐに電話に出た。きっと僕からの連絡を待っていたのだろう。二つ返事だった。
「それでお願いしますと言っていました」
「準備しておくよ。相川君も手伝いよろしくな。ところで君はいいのか?」
 宮司は厳しい顔をしている。ついさっき見せた笑みはどこかに消えていた。
「え、何がですか」
「君は逢いたい人とか戻りたい過去は無いのか」
「そんなのないですよ」
 戻れるものなら母を失くしたあの日に戻りたい、母を助けたい。でも夢見の間で過去に戻っても、結局は何も変えることはできない、ただ虚しい現実が待っているだけだ。そんなものなら、僕はいらない。
「そうか」
「どうして僕にそれを聞くんですか」
 僕は少しだけ苛立っていた。宮司をちらっと見た。
「いやね、先月、明美が病院に来て君のことを話したときに少し気になることを言ったんだ。時として君の身体にどす黒い不満のようなもの、澱のようなものが充満していたり、身体から溢れ出していることがあるとね。あれは負のオーラや、普通の人間からはあんなものは出ん、何か心に抱えとるかもしれん、とも言っていたな。明美は子どもの頃から霊感とでもいうのかな、そういう力が強かった。私にはそんな力はないがね」
 宮司は穏やかな光を瞳に宿し僕を見ている。
「僕の心が病んでいる、ということですか」
 僕は追いつめられた獣のような目をしていたことだろう。宮司は遠回しに、僕の質問を肯定するような言い方をした。
「夢見の間で救われた人間はいっぱいいるよ」
「では教えてください、負のオーラを発する人間でも、夢見の間に泊まればそのオーラは無くなるんですか、あの部屋は、獏の置物はそんなに万能なんですか、僕の負のオーラを消してくれる夢ってどんな夢ですか」
 そう、教えて欲しい、どんな夢を見ればこの胸の中の澱が消えるのか。
「僕、じつは体外離脱をしたことがあるんです」
 病院の先生や祖母に何度言っても信じてもらえなかった話を口にした。聞いて欲しかった、誰かに言いたかった。宮司は、突然僕が言い始めた突拍子の無い話に戸惑うことも無く、真剣に耳を傾けていた。僕は母の命を奪った事故、僕の額に一生残る傷をつけた事故のことを話した。
「祖母や医者はおまえは幻覚を見たんだよ、心の病気なんだよと言うけれど、あの時僕は確かに見たんだ。子犬を抱え、よかった、チロちゃんが轢かれなくて、と言いながら逃げるように走り去った親子を。母はどこかの家のペットの身代わりで死んだんですよ、車の運転手は子犬の代わりに母と僕を轢いたんです。そして母は死んだ。まさに犬死ですよ。あの走り去った親子の言葉と姿は、焼印のように僕の魂に刻み込まれている、絶対に忘れることはできない」
 そう犬死だ。何度この言葉が頭の中を巡ったことだろう。
「母の命はペットの命よりも軽かったんですよ。こんな僕は何を夢見ればいいんですか」
 もういい。これ以上こんな話はできない、辛いだけだ。
「帰ります。亜川さんの件、ありがとうございます」
 宮司の顔も見ず頭を下げ、靴を履き、駐車場へと走った。

 満月の初日になった。今日は亜川美帆が夢見の間に泊まる日だ。快晴の空が広がっている。
「じゃあ、ばあちゃん、僕バイトに行くから。帰りは明日の朝になるからね」
「ああ、気をつけてな」
 いつもの帽子を被りながら玄関に向かう僕を祖母は機嫌よく送りだした。自転車をゆっくり漕ぎながら、今日これからのことを考える。仕事内容は先月と変わらないと聞いている。ということは僕が水を汲み焚いた風呂に亜川美帆が入ることになる。別に一緒に入るわけでもないのに、誤ってベッドに押し倒した彼女の体温、胸の柔らかさが思い出され変に緊張してしまう。高まる鼓動に合わせるようにいつの間にか自転車のスピードを上げていた。
 神社の駐車場に、青いスポーツカーは無く宮司の白い軽自動車だけが停まっていた。予想していたとは言え少し残念な気持ちを抱え、社務所に向かった。手早く着替えを済ませ庵に行くとすでに宮司が準備を始めているのか入口扉は開いており、縁側に面した雨戸も障子戸も全部開け放たれていた。
「やあ、相川君、今日はよろしく頼むよ」
 箒で縁側を掃いていた宮司に声を掛けられた。今日は紫色の袴姿だ。先日のやり取りなどすっかり忘れてしまったかのようににこにこしている。意味があろうが無かろうが笑顔は伝染するものだ、僕もつられるように口角を上げた。
「庵の掃除は僕の仕事じゃないんですか」
「今日は体調がいいんだ、私がやるよ。でもさすがに風呂の水汲みは無理だ。相川君には風呂と篝火をお願いするよ。それはそうと神主姿が似合ってるな。すっかり板についているぞ」
 宮司は関心したように僕を見ている。
「おだてないでくださいよ。着かたは明美さんに教えてもらったんです。明美さん、やっぱり今日来ないんですか」
「ああ、三日目、明後日はこっちに来られるかもしれんと言ってたよ」
「本当ですか」
 今回は逢えないものと思っていただけに、つい笑みがこぼれてしまった。
「何だ、その顔は。明美に逢えるのがそんなに嬉しいのか」
 宮司もつられるように少し口角を上げた。宮司は僕の明美さんに寄せる感情を知らない。
「明美さん無茶苦茶だけど、一緒にいると楽しいじゃないですか」
「そうだな」
 今度は声を出して笑った。
「そう言えば、君から亜川さんのことを聞いた次の日だったかな、彼女のお父さんがここに来たよ。一人娘が神社とはいえ外泊するんだからそりゃ心配だろう。夢見の館を見学させて欲しいと言われ中を見せたよ。夢見の間のこともいろいろ聞かれてな、そりゃ突拍子もない話だからな、まあ心配するのは無理の無いことだと思う。見た通り、何の変哲も無い神社で安心されたのかもしれないな。夢見の間のことは信じていないかもしれないが、娘を一晩お願いしますと頭を下げて帰っていかれたよ。さっぱりした人だったな。あの人の娘なら美帆さんという子はいい子だろ、君の彼女か?」
 宮司はいつもの柔和な笑みを浮かべている。笑うと顔中しわくちゃになるが、人を安心させる顔だ、人徳と言ってもいいかもしれない。
「違いますよ、ただの同級生です」
 慌てて否定しながら、彼女と花見に行ったこと、手作り弁当を食べたこと、ノートにバカと書かれたこと、ベッドに押し倒したこと、自転車二人乗りしたこと、この数か月の間の出来事を思い出していた。ただの同級生じゃ無いよな、そう思ったが口には出さなかった。
「若いってのはいいよな」
 僕の気持ちを読み取ったのかもしれない、宮司はまたしわくちゃな顔になった。