週末、金曜日の朝だった。
「春木、いつまで寝とる、学校に遅れるぞ、早く起きろ」
階段下から呼ぶ祖母の声で目が覚めた。夢を見ていた。枕元の時計を見ると、とっくに起床時間を過ぎている。慌ててベッドから身体を起こした。額の汗をパジャマの袖で拭い、急いで着替えをして階段を降りると、「よう寝とったな」、あきれるように祖母が声をかけてきた。夢を見ていたことは言わなかった。見たくない夢を見た。
交通事故直後の生々しい現場、歩道で寄り添うように血まみれで倒れている女性と子ども、ビルに突っ込んでいる自動車、野次馬のような人だかり、どんどん大きくなる救急車のサイレンの音、僕はそれを空中から見ている。
倒れている女性は僕の母、そして傍らで倒れているのは僕、生々しい鮮血が舗道に拡がっていく。
一瞬で場面は切り替わり、三人連れの家族、男、女、小学生らしい女の子、逃げるように急ぎ足で歩いている、男の腕には子犬、女が言う、よかったチロちゃんが轢かれなくて、僕はずっと空中からただ黙って見ている。場面が変わる、僕は母に手を引かれ、お花畑を歩いている、突然母が手を離し、ひとりで先に進んでいく、僕は大声で叫ぶ、お母さん、置いていかないで。遠くから祖母の声が聞こえる、春木、春木、そっちじゃない。いつもここで夢が終わる、もう何回見たのか数えきれない。
急いで朝食を取り、自転車に飛び乗った。身体の中に澱が溜まっていく、むかむかと吐き気が込み上げてくる、何がチロちゃんだ、所詮はペットだろう。明日またあの街へ、母と住み、そして事故に遭ったあの街へ行こう、今度こそあいつらを見つけ出すんだ。
どろどろの沼の底に沈みこんでいくような心と体に鞭を入れ駅に向け全速力で飛ばす。前髪が靡き、傷跡が露出してもかまわずペダルを漕ぐ。
駅北の駐輪場に、放り出すように自転車を置き、駅に駆け込んだ。丁度電車が到着したところで、けたたましく鳴っている発車のベルを聞きながら目の前の電車に飛び込んだ。
間一髪閉まった扉にほっとし、そのまま扉にもたれ掛かり周りを窺っても、同じ高校に通う生徒の姿は見えなかった。ふと、ひとりの女性に目が止まった。吊革につかまり、文庫本を読んでいる。綺麗な人、だった。惹きつけられるように見つめているうちに、どこかで会ったことがあるような、その横顔をどこかで見かけたことがあるような気がして、記憶を辿った。
背中まで届いている長い黒髪、人形のような白い肌、思わず小さな声を漏らしてしまった。亜川美帆と花見に行った日、桜吹雪の中から姿を現した女性だった。二十代後半ぐらいだろうか、落ち着いた大人の女性の雰囲気が美しさを際立たせていた。
突然ブシュっと音がして扉が開いた。気がつくと高校の最寄り駅に着いていた。急いで電車を降り誰もいない通学路を走り、なんとか朝のホームルームの時間にすべり込んだ。幸いなことに、いつものように連絡事項は無く教師は来ておらず、ざわざわしているだけなので何食わぬ顔で席に着くことができたし、遅れてきた生徒に注目するクラスメイトもいなかった。こうしてまた何でもない一日が始まると、朝見た夢で頭の中が一杯になっていく。胸の中の澱が溢れだし、身体中に充満していく。憎しみに心が浸されていく。電車で見かけた女性のことはいつの間にか頭の中から抜け落ちていた。
土曜日、朝食を取ると夕方には帰るからと祖母に言い、自転車に跨り母と住んでいた街に向かった。前カゴに置いたスポーツバッグの中には水筒とリンゴが二つ放り込んである。僕の気分を見透かしたような曇天で、黒とも灰色ともつかないのっぺりとした雲の下、あの親子への憎しみをエネルギーに変えるかのように一心不乱に国道を走りつづけた。何度この道を走ったことだろう、どれだけ薄汚れたアスファルトを睨み続けたことだろう。
母と暮らした借家はとっくに取り壊され、周辺一帯再開発が進み、今では高層マンションに姿を変えている。事故現場に流れた母と僕の血はとっくに洗われ、車が突っ込んだビルの一階部分はきれいに修理され、事故の痕跡はどこにも何も残っていない。それでも事故現場に近づくだけで、呼吸が乱れ胸の鼓動が早くなる、嫌な汗が首筋を流れ始める。事故現場を素通りし、呼吸を整えるようにゆっくりと近くの商店街に向かった。
家族で子犬の散歩をしていたのだからこの辺りに住んでいるはず……、偶然出会えることを願いそれだけに縋り人通りの多い商店街を歩き、公園で遊ぶ人たちを観察し、ショッピングセンターの中を彷徨う。夢で何度も見た、「よかった、チロちゃんが車に轢かれなくて」、口走った母親の顔を探す。雰囲気の似た母子を見つけるたび気持ちが昂り、そして落胆する。どれだけ同じことを繰り返したことか。だけどこれ以外の方法を思い浮かばなかった。人混みを歩き回り、街中を自転車で徘徊する。同じことの繰り返しであっても偶然を祈るしかなく、そしてやはり奇跡は起きなかった。
唇を噛みしめ、失望、恨み、わだかまり、不満、ぐちゃぐちゃに混ざりヘドロのように溜まった澱を身体に抱えたまま街を後にした。いつもの公園に向け自転車を走らせる。空はますます暗くなりいつ泣きだしてもおかしくない。ようやくたどり着いた公園に人影はまばらだった。
珍しく池に水鳥は一羽もいなかった。休憩所のベンチでリンゴに噛りついていると、リンゴの皮をむきながら母が話してくれたことが思い出された。
『この池ではね、たまにだけど、カワセミを見ることができるのよ』
『カワセミ?どんな蝉?』
『蝉じゃなくて小鳥よ。くちばしが長くて、鮮やかな青い羽を持っていてとっても美しいの。お腹も綺麗なオレンジ色。青い宝石って呼ばれることもあるんだよ。青い鳥はね、幸福の象徴なの。幸せを運んでくるって言われているんだよ。だからカワセミもね、きっと幸せを運んでくるんだよ。滅多に見ることができないけど、カワセミを見れた時はとても嬉しいのよ。本当に綺麗な小鳥なんだから。春木も見られるといいね』
『お母さんはカワセミを見たの』
『見たわよ』
『幸せが来た?』
『うん。春木が生まれた』
そう言って優しく抱きしめてくれた母の顔が瞼に浮かぶ。「母さん」、身体が震え、涙がこぼれる。静かに母を想い続ける。ヘドロのように溜まった澱がどこかに流れていく。心が少しずつ軽くなっていく。
雨が降り出した。ぽつぽつと降り始めた雨は、すぐに本降りになり、辺り一帯雨の匂いに包まれた。いくら待っても、カワセミどころか水鳥すら現れる気配はなく、それどころか雨がさらに勢いを増しそうで、仕方なく休憩所を後にした。
すぐに大粒の雨が頬を叩く。野球帽を目深に被り直した。傘もささず雨に打たれたら、身体のどこかにいつもくすぶっている澱がきれいに洗い流されてくれないかと、自虐的な気持ちに浸りながらわざとゆっくり歩いた。
駐輪場の近くまで来た時だった。雨音の中、不意に女性の声が耳に届いた。
「君、この傘使いよ」
関西弁混じりの言葉に違和感を覚えながら顔を上げると、図書館の裏口に傘をさしたワンピース姿の女性が立っていた。反対の手に畳まれたままのビニール傘を持っている。声の主を見て驚いた。間違いない、桜吹雪の中から現れた、電車の中で本を読んでいた、例の女性だった。
「君、びしょびしょやろ。この傘は図書館のやから自由に使ってもええんよ」
雨の中、傘もささずずぶぬれになって歩いている僕を気の毒とでも思ったのだろうか。女性はビニール傘を、ほれ、もっていけと、子どもにおやつをあげるような気安さで差しだした。公共の物を勝手に使おうとするずうずうしさが可笑しく、そして乱暴なようにも聞こえる言葉の中に優しさが込められている気がして何故だかほっとした。
「大丈夫です、自転車なんで」
「あらま、そりゃ自転車片手で運転したら危ないわ。大きなお世話やったな」
気安く言うのは僕が年下だからだろう。女性は傘立てにビニール傘を戻し歩き始めた。どこへ行くのだろうか、彼女のことが気になった。彼女は公園に入り、そのまま公園の端、ちょうど花見の日、彼女を見かけたベンチの横を通り抜け、その先の駐車場へと向かって行った。僕は公園の桜の木の陰から、青いスポーツカーの運転席に乗り込む女性を見た。
「時間大丈夫かい」
祖母は変な顔をしている。月曜日、僕はわざとゆっくり朝食を取っていた。
「一本ぐらい遅れても平気だから」
そう答えると安心したのか、時間をかけて身支度した僕を何も言わず学校へ送りだした。本当は遅らせる電車は一本ではなく二本だ。わざと自転車をゆっくり走らせる。目指すのは先週、例の女性を見た車両だ。もしかしたらひと回り近く齢の差があるかもしれない、そんな年上の女性に関心を持つなど、今まで夢にも思ったことはなかった。
平凡な普通の男子高校生が、クラスメイトや同級生の女生徒に恋をするように、僕も淡い気持ちを寄せる女生徒はいた。それでも僕はそういう気持ちを抱いた女生徒を見つめたり、通学時間を合わせたり、休日、家の周りをうろついたりしたことは一度として無く、当然、告白や、ラブレターを書くなど考えられなかった。
それなのに、あの雨の中、彼女が差し出したビニール傘がどうしても頭から離れない、彼女の好意が忘れられない。あの時、傘を受け取っていたらどうなっていたのだろう。清楚な美しさと関西弁が僕に安心感を与える。この女性には心を開いても大丈夫、きっと受け止めてくれる、僕の心の澱を拭い取ってくれると。走り出した青いスポーツカーを見たあの時から、風船に空気を吹き込むように、勝手な妄想が少しずつ膨らんでいた。
あれこれ考えているうちに、電車の到着を告げるアナウンスが入った。ホームは、いつの間にか人で溢れている。
彼女に会えるだろうか。最前列で立っていた僕は、ホームに入ってくる電車に顔を向けた。その時だった、何気なく見た隣の乗車口に並んでいる人の中に彼女を見つけた。頭の中にドクンと大きく脈打つ心音が響き渡った。
次の日から同じ学校の生徒がひとりも乗っていない電車で通学を始めた。祖母は、「遅刻しなけりゃいいよ」、と気にする素振りも無く、むしろ弁当を朝早く作らなくてよくなったことを歓迎しているようだった。
駅から学校へのランニングは日課となり、授業中も、家に帰ってからも、気がつけば名前も知らない彼女のことばかり考えていた。知らないことばかり。でもそれでよかった。毎朝、彼女と同じ乗車口に並び同じ車両に乗り込む。走行中の電車の中で彼女の横に立ち、彼女の姿を、顔を、盗み見する、それ以上望むことは無かった。
そんな生活が一ヵ月以上続いた頃だった。その日、僕が並んだのは最前列だった。彼女はそろそろ来るだろうかと、周りを気にしていると、ホームの線路側を歩いてくる年配の男性に気がついた。目が悪いのかスモークの入ったサングラスを掛け、猫背気味で杖をついていた。カッカッカッカと杖の先で、足元を探りながらゆっくり歩いてくる。僕は一歩後ろに下がって場所を開けた。その時だった、サラリーマン風の男性が急ぎ足で僕と年配の男性の間を通り抜け、折り悪く杖の先がサラリーマン風の男性の靴にあたってしまったのだ。年配の男性はふらふらとよろめき、そのまま線路側に身体が倒れていった。
「あぶない」
咄嗟に口走り動いた。同時に後からも声がして素早く動く影が見えた。僕は男性の右手を、左手を彼女が掴んでいた。杖がホームを転がり、カラカラと音を立てた。
「おっちゃん、大丈夫か」
彼女は、転がった杖を拾い上げ、男性に渡しながら言った。
「ありがとう、ありがとう、助かりました」
男性は小さな声で何度も何度も頭を下げ、また杖で足元を探りながら歩いて行った。
「それにしてもひどいやっちゃな。あの野郎、てめえが代わりに線路に落ちろ」
僕は、足元に落ちている文庫本を拾い上げ、まだ興奮が冷めていない様子の彼女に差し出した。
「この本、落ちてました」
「ああ、ありがとな。そう言えば気がおうたな」
彼女と初めて吐息が届きそうな距離でまともに目を合わせた。森林に射し込む朝日のように清く澄んだ瞳が僕を貫く。
はい、とだけ言って、歯を見せた。本当はもっと話をしたかったけど、何を言えばいいのかわからなくて、だけど考える間も無く電車の到着を知らせるベルがけたたましく鳴り響いて、彼女との会話はそこで途切れてしまった。それでも離れ離れに押し込まれた車内で一人余韻に浸っていた。気がおうたな、と言った彼女、でも僕にとってはそれ以上の出来事だった。あぶない、と叫び、咄嗟に動いたあの刹那、僕と彼女は間違いなく同じことを考え同じ行動をした。ほんの一瞬だったかもしれないけれど、僕と彼女は心が通じ合った、一体となったのだ。
彼女への想いは、堤防を破り平地に流れ込む洪水のように、いっきに僕の心の奥底へ侵食した。彼女のことをもっと知りたい、話したい。はちきれんばかりに想いが膨らむ。
それからというもの、今日こそ絶対に声をかけようと胸を膨らませ勇んで家を出るのだけれど、駅が近づくにつれ大きくなっていくプレッシャーにびびってしまい、彼女の姿を見るころには、夜店で買い一晩置いた綿菓子のようにぶざまに決意はしぼんでしまっていた。
そんなふがいない日が続いた日曜日、通学定期券を買うため駅まで自転車を走らせた。七夕が近づき、駅前商店街アーケードは飾りつけがされ、祭り前なのに賑やかで、吹き流しが揺らめき、あちこちに飾られた短冊や折り鶴が祭り本番を待っていた。子どもの頃、母と歩いた七夕祭り。母の手のぬくもり、シャキシャキのかき氷。小学校六年生までしかない母の記憶。僕の心に咬みついているように、思い出すたびに慈しみと痛みを伴う。
その時だった。ゆらゆら揺らめく吹き流しに手をかざしている女性が目に映った。彼女、だった。飾りを見ながらゆっくり歩いている。ほどなく彼女は路地脇の月極駐車場に入っていった。すぐ先に見覚えのある青いスポーツカーが見える。ここからならば駅まで歩いて数分の距離、彼女はたぶん毎朝ここまで車できているに違いない。思わぬ収穫に、僕は機嫌よく帰路に就いた。
学期末試験が近づいてきた。もうずいぶん前から勉強は手につかず、間違いなく成績は悪くなっているだろう。このままでは僕の大学進学を楽しみにしている祖母に申し訳が立たない。でも今のままでは恋が進展するとは思えない、勉強も手につかない。辛い、苦しい、切ない、もう八方ふさがりだ。
そうだ、ラブレターを書こう。突然閃いた。国語の授業中、森鴎外の舞姫の感想文をクラスの女生徒が朗読している時だった。彼女の感想文は、美しく、繊細で、そして抒情的ですらあった。僕は感動し、そうだ、ラブレターを書こう、と思いついたわけだ。
「ばあちゃん、便箋と封筒ある?」
家に帰り、真っ先に庭で花壇の手入れをしている祖母を捕まえた。
「タンスの引き出しに入ってるよ。誰に手紙を書くんだい?」
「ばあちゃんの知らない人だよ」
「ふーん、女の子かい?」
祖母はにやっと笑う。
「違うよ」
そそくさと引き出しから便箋と、白い封筒を取り出し、二階に上がった。便箋を前に机に座る。白無地の紙に縦の罫線。手紙などほとんど書いたことが無く、ましてラブレターとなると初めてだ。確か手紙の書き出しは拝啓だったはず……、とりあえず、最初の行に拝啓と書いてみた。
拝啓、拝啓、拝啓、次の言葉が出ないまま、呪文のように唱え続ける。そのまま固まること数分。やっと拝啓の書き出しは、ラブレターに似つかわしくないということに気がついた。そもそも文面をまったく考えていなかったので、拝啓の二文字に斜線を引き、下書きを書くことに決めた。書いては×、書いては×を繰り返し、自分のセンスの無さ、貧しいボキャブラリーを嘆きながら、夕食を取っている時も、風呂に入っている時も、もうすぐ学期末試験が始まるというのに勉強そっちのけで下書きを推敲し続けた。
夜はどんどん更け、もうすぐ日付が変わろうかという頃になって、俄然筆が進みだした。突然才能が開花したかと思うほど、潤沢な水量を誇る泉のように、次から次と湧き出てくる大胆な言葉に酔いしれながら下書きを書き進めた。
初めてラブレターを書く人間が、深夜に恋文を書いてはいけないなどという鉄則を知るはずがなく、もしかしたら僕はすごい才能があるかもしれないと詩人になったような気分だった。
便箋を白い封筒に入れ、糊付けした時にはすでに深夜二時を過ぎていたけれど眠気は無く、彼女にこの手紙を渡すことを考えると、また興奮して眠れそうになかった。結局、ベッドで僕が意識を手放したのは明け方近くになってからだった。夜更かししたくせに、パッチリと目が覚め、目覚まし時計は不要だった。
今日、彼女にラブレターを渡すことを考えたら起き上がる前から緊張が始まり、足が震えてきた。どうやって渡そうか。手紙を書くことばかりに気を取られ、いつ、どうやって渡すか考えていなかった。昨晩あんなに大胆だった感情は、ベッドから起き上がる頃にはすっかり萎れてしまっていた。それでもチャンスがあれば駅で渡せるかもしれないと、気持ちを奮い立たせ、ラブレターをすぐ取り出せるように通学カバンの一番上に入れ家を出た。
駐輪場に自転車を止め、駅に向かって歩き出す。胸は再びバクつき始め、足が震えてくる、逃げ出したくなってくる。今日に限っては彼女がこないことを期待してしまう自分さえいた。
改札口を抜け、いつもの乗車口に行くとすでに彼女は並んでいた。梅雨も明け、すっかり夏らしくなり彼女はブルージーンズにTシャツ姿だ。カジュアルな服装も素敵だ。彼女の真後ろに並んだ。いつもの香水の匂い、優しい香り。
僕達の近くをどんどん通勤客が通り過ぎていく、ホームを無数の人が歩いて行く、それでも今なら渡せる、まだこの乗車口は僕と彼女の二人だけだ。手を伸ばせば、すぐそこに彼女はいる。何も言わずに手紙を渡すだけでいい、きっと彼女は優しく微笑んでくれる。
今だ、今しかない、勇気を出せ。僕はビビッてしまった自分を叱咤激励、鼓舞する。でも足はガタガタ、手はブルブル、心臓はバクバク。おまけに眩暈までしてきて、もうこの場で倒れてしまいそうだ。それでも、今だ、今しかないんだ、とっとと渡せバカヤロー、と、何度も何度も気力を振り絞り頭の中で思いっきり叫び声を上げ続ける。
もう、なるようになれ、とやっとのことで震える手でカバンを開け、手紙を掴んだ時にはもう遅かった。いつの間にか僕は通勤客に囲まれていた。
学校へ行ってもいつも以上に授業に身が入らず、手紙をどうやって彼女に渡すか、そればかり考えていた。朝、駅で渡すのはやはり難しいかもしれない、そうかといって夕方、彼女が何時に帰ってくるのか皆目見当がつかない。駐車場で待ち伏せするのはありか……、でもうろうろ待っているのを誰かに見られると不審者のように思われるかもしれない、どうする、どうする。そんなことを考え続けていたら、あっという間に昼休みになった。弁当を食べていると、隣に誰かが立ち止まった。亜川美帆だった。
「相川君、最近いつも学校くるの遅いね」
彼女とまともに話をするのは、花見の日以来だ。
「家が遠いからね、朝、遅い電車のほうが楽なんだ」
「ふーん、そうなんだ」
それだけ言うと、亜川美帆は何も無かったようにいつものグループの輪に入っていった。
学校帰り、駅を出ると駐輪場では無く商店街に向かった。少し歩くと駐車場が見えてきた。青いスポーツカーが見える。さりげなく周りを窺い、車に近づいた。
すでに心臓が早鐘を打っている。通学カバンからラブレターを取り出し、運転席の真上に置く。白い封筒だ、ここならば夜、暗い時間でも彼女は絶対に気がつくはず。途中、空き地で拾ったこぶしほどの大きさの石を重石代わりに封筒の上に置いた。これで少々の強風が吹いても手紙が飛んでいくことはないだろう。僕は何度も何度も振り返り、駐車場を後にした。
次の日、胸いっぱいの期待とともに家を出た。今日は熱い日になりそうな予感がする。空を見上げると、宇宙の果てまで見渡せそうな透明なスカイブルーが広がっている。自転車に跨り、思いっ切りペダルを漕ぐ。風が頬を撫で、髪が靡く、前を走る自転車をどんどん追い抜いて行く。映画のように空を飛ぶことができたら、と思う。駅に着くのが待ち遠しい。
昨夜は興奮してほとんど眠れなかった、でも少しも眠くない、ずっと彼女のことを考えていた。もちろん、瞼に浮かぶのは手紙を読んだ彼女が感動しているシーン、そして僕を見てにっこり微笑んでくれるシーンだ。それに加えて青いスポーツカーの助手席に座っている僕を少しドキドキしながら想像してしまう。ラブレターは初めて書いたけど、もう二度と書くことはできないと思えるほど、渾身の内容だった。あの手紙ならきっと彼女の心に響くはず・・・。微かな胸の高鳴りとともに彼女の美しい顔を瞼の裏に思い浮かべた。
改札口の横で彼女を待った。朝のこの時間帯は、たくさんの人が駅を目指して集まってくる。ここに立つと全員の顔が見える、でも僕を見る人は一人もいない。でも彼女だけはきっと僕を見てくれる、そう思っていた。
彼女はどんな顔をしてくるのだろう、僕を見てどんな顔をするのだろう、期待ばかりが膨らんでくる。商店街方面にじっと目を馳せる。きたっ、彼女だ。僕はきっと彼女が千人の人波に紛れても、瞬時に見つけられるだろう。カメラをズームするように彼女はどんどん近づいてくる、僕に向かって歩いてくる。いつもならどきどきして、ろくすっぽ見ることができない彼女の顔をじっと見つめた。でも彼女は僕を一瞥することすらなく、無表情のまま横を通り過ぎ、改札口に消えていった。僕はあっけにとられ彼女を追い、乗客を掻き分けるようにして彼女の隣に立った。でも彼女の様子はいつもと何ら変わらず、左手で吊革を掴み文庫本を読んでいるだけだった。
彼女はラブレターを読んだのだろうか。誰もいない通学路をひとり走りながら考える。いつもと何ら変わることのない彼女の様子を思い出し不安になる。
そもそも直接渡していないのだから彼女はあのラブレターを僕が書いたとはわからない。手紙を渡せさえすればきっとわかってくれると思い込んでいた、信じていた、今となってはバカとしか言いようがない。授業中も悶々とし、先生に名前を呼ばれても、心ここにあらずで指されたことに気づきもせず、たまりかねた隣の生徒につんつんとお腹をつつかれてようやく気がついたほどだ。
当然、教室は大爆笑、先生は呆れ果て、授業が終わるまで教室の後ろで立たされた。みんなが笑い転げる中、亜川美帆だけが変な顔をして僕を見ていた。
初めて書いたラブレター、会心の作だったのに結局彼女によんでもらえたのかどうかわからずじまいのまま、一学期が終わった。学生の本分を忘れ、年上の女性にうつつを抜かし、学期末試験の直前であるにもかかわらず勉強もせず、深夜までラブレターを書いていた阿呆は、ご多分に漏れず、補習となった。英語、社会、国語の三科目、一週間午前中びっしりだ。得意なはずの数学と理科もぎりぎり赤点を逃れるという体たらくで、教師から冷たい目線で睨まれたことは言うまでもない。
「おはよう」
夏休み初日、僕にとっては補習初日のことだ。朝ゆっくり家を出て、いつもより一時間近く遅い電車に乗り学校に行き、指定された教室に入ると、いきなり元気のいい挨拶が飛んできた。
声の主は亜川美帆だった。補習は生徒を一クラスに集約し授業が行われる。落ちこぼれが集まるこの教室にどうして?僕は変なものでも見るような顔をして彼女を見た。
「ちょっと、人が挨拶してんだからちゃんと返しなよ」
「どうして亜川さんがここにいるの?今日補習だよ」
「私は、君と違って自分の意思でここにいるの。要は希望したってことよ」
鼻の穴を膨らませ、得意げに胸を張る。確かに補習は赤点組だけでなく、希望者も受講することができる。おいおい、せっかくの夏休みだよ、と僕は口にしかけたが、彼女のどこに地雷があるのか、どのワードで起動するのかわからない、僕は学習する生き物だ、「熱心だね」、とだけ言った。
一週間は何事もなく過ぎた、過ぎるはずだった。だが補習最後の日、授業が終わると亜川美帆に声を掛けられた。
「お疲れ、一週間あっという間だったね。この頑張りが受験に効くんだよ」
相変わらずのポジティブ発言だ。
「そうだといいけどね」
「一緒に帰ろうよ。ていうか、お昼ご飯食べにいかない?明日から正真正銘、夏休みだもんね。こないだのお礼したいしさ」
僕は彼女に借りは言うに及ばず、貸しを作った覚えはない。心あたりも無く返事に窮している僕の気持ちを察したかのように亜川美帆は続けた。
「お花見に付き合ってくれたお礼よ」
「でもあれは、おいしいお弁当でチャラじゃなかったっけ」
途端に亜川美帆の顔に得体のしれない笑みが浮かんだ。両手を頬にあて、
「おいしかった、おいしかったって、うふっ」
ひとりでぶつぶつ言っている。
「あれはね、相川君に嘘言ったお詫びじゃないの。あの時そう言ったでしょ」
仕切り直しをしたのか真面目な顔をして言う。彼女の変わり身の早さには、相変わらず驚かされる。
「だから、お花見に付き合ってくれたお礼をまだしてないの」
「そんな、別にいいよ、気にしてないから」
「だめよ。私、そういうことにはこだわるの」
「いいけど。でも僕、有名店とかおいしい店とか知らないよ」
「まかしてよ。いい店に案内しまっせ」
亜川美帆はご機嫌だ。自転車二人乗りは禁止されているので、僕達は並んで歩いた。郊外にある学校から繁華街に向かう。高校二年目で始めて歩く街中は新鮮だった。比較的広い片側一車線の道路に沿っていろいろな建物が並び、喫茶店やレストランも見えてきた。喫茶店など入ったことは一度も無く、祖母に言わせれば高校生で喫茶店に入るのは不良だけらしい。
「どこまで行くの?」
「もう少し先に最近できた喫茶があるの。ピッツアが美味しいって評判なんだ」
「ピザとピッツアとどう違うの」
「知らなーい。それより、ねえ、前も聞いたけど、相川君最近学校に遅刻ぎりぎりで来るじゃない。どうして?」
「こないだ答えたとおりだよ。家が遠いから、朝遅い電車のほうが楽なんだ」
「本当に?」、口調は穏やかだが、取り調べをする刑事のような疑り深い目で僕を見ている。
「ばあちゃんも朝早く弁当を作らなくてもよくなったって喜んでるよ」
「ふーん」、納得したのかしないのか、うさぎのように口を尖らした。
「あっ、あそこだよ」
突然、さっきまでより、一オクターブは高い声で亜川美帆が言う、生まれて初めて遊園地にきた子どものようだ。声につられ顔を上げると、赤や緑色がやたら目立つカラフルな看板が見える。嬉しそうに言う亜川美帆のお腹が鳴る音が聞こえそうだ。僕もいよいよ不良デビューかと思った矢先のことだった。
「クロちゃん」
突然、女性の叫び声にも似た大きな声が耳に飛び込んできた。何事かと声がしたほうを見ると、道路の反対側に、部屋着のようなやぼったいスカートとシャツを着たおばちゃんが、壊れたおもちゃのように手をばたばた振っている。視線の先を見ると、首輪にリードをつけたままの白い子犬がセンターラインを越え、こちら側の舗道に向かってトコトコ歩いている。散歩の途中、リードごと飼い主の手から逃れたようだ。
あっと思う間も無かった。目に前に飛び出した子犬を避けようとした車が舗道に突っ込んできた。かん高い急ブレーキの音が、空気を切り裂くようにあたりに響き渡る、亜川美帆が悲鳴を上げる、自転車が舗道に倒れていく。逃げる間も無く立ち竦む僕たちの前で、車は間一髪、数十センチのところで止まった。亜川美帆は糸の切れた操り人形のようにその場にへたり込んだ。でも僕は逃げることも、悲鳴を上げることも無く、ただ茫然と案山子のように突っ立っていた。
道路に飛び出した子犬、突っ込んでくる車、あの時と全く同じ状況に僕はフラッシュバックを起こしていた。
僕は小学校六年生で夏休みに入った最初の日曜日だった。いつもの休日ように僕と母は近所の商店街に買い物に出かけた。母は美しく、優しくて、僕は母の回りをちょろちょろしながら歩いていた。
暑い日だった。天気はいいのに何故か母は傘を差していた。真夏の日差しが真上から容赦なく僕達を照らす、でも僕は黄色のスクール帽子を被っていて気にならない。
「ねえ、どうして雨が降ってないのに傘を差すの?」
「これは日傘っていうのよ。日に焼けないようによ」、母はくるくるっと傘を回した。
「じゃあ僕も、傘に入れて」
隣に並び、母の服を掴み、顔を上げた。ベージュの日傘の下は意外と明るく、色白の母の顔がよく見えた。これが母の顔を見た最後だった。
「チロちゃん」
不意に女の子の叫び声が聞こえた。道路の反対側で父、母、娘だろうか親子三人連れらしき人達の姿が見える。女の子の視線の先にリードを付けた白い子犬がいた。道路の中央付近でうろうろと進むか戻るか困っているようにも見える。子犬は不意にこちら側の舗道に向かって走るそぶりを見せた。その瞬間、子犬を避けようとした車が、僕達のいる舗道に突っ込んできた。
気がつくと、僕は宙に浮かんでいた。舗道の数メートル上の空中から舗道に倒れている僕を見下ろしていた。傍らには母が同じように倒れていた。僕達の周りには人垣ができ、人の身体にはこんなに血があるのかと思えるほど大量の生々しい鮮血が、舗道に広がっていた。母が差していた日傘が、風に吹かれて舗道を転がっていく。その先で僕達をはねた車がビルに突っ込んでいた。
「おかあさん、おかあさん、僕はここにいるよ、おかあさん」、大声で叫んだ。
どれだけ叫んでも舗道に倒れている僕も母もピクリとも動かず、僕達を囲んで人垣ができているのに誰も僕に気がつかない。
救急車のサイレンの音がどんどん大きくなる。遠くに三人連れの親子が見える。男の腕には子犬、逃げるように足早に歩いている。よかった、チロちゃんが轢かれなくて。女の声が聞こえる。
茫然と立ち尽くす僕の目には、五年前の事故現場が映っていた。血まみれの母と小学生の僕、野次馬のような人だかり、足早に逃げるように歩く三人連れの親子、すべてを上から見下ろしている僕。何度も夢で見た映像、夢とは比べ物にならないリアルな映像が、事故の衝撃や身体の痛み、耳鳴りのようなサイレンの音とともに蘇る。
頭が割れそうに痛い、痛い、痛い、身体が震える、身体に澱がどんどん溜まる感覚に襲われる。運転手の男性が車から飛び出し、へたり込んでいる亜川美帆を助け起こした。
「当たってないよね?」
「はい、大丈夫です」
亜川美帆の言葉を聞いて、男性は安堵の色を顔に浮かべ、車をバックさせその場を去って行った。
「びっくりしたね、危機一髪だったね」
亜川美帆は頬を紅潮させ、あわや大事故に遭う一歩手前だったというのに、興奮冷めやらぬという様子だ。
「それにしてもあの子犬の飼い主はひどい奴だね。何も言わず、子犬を抱き上げ逃げちゃったよ。世も末だね」、今度は怒ったような口ぶりで僕を見た。
「大丈夫?顔真っ青だよ、それにすごい汗」
僕の異変に気づいた亜川美帆が言い終わるより早く、僕はよろよろと舗道に倒れ込むように座り込み、そのまま頭を抱えた。
「頭が割れそうに痛いんだ、傷が疼くんだ」
亜川美帆は、僕の前にしゃがみ、そっと僕の前髪をかきあげた。傷跡が顔を出す。
「気にしなくていいから。なんともなってないから」
真剣な顔でポケットからハンカチを出し、僕の顔の汗を拭いた。
「ありがとう、事故を思い出しちゃったんだ」、澱が身体中に充満していく。
「それって、お母さんが亡くなったっていう……」
頷くことしかできなかった。
「せっかく誘ってくれたんだけどちょっと行けそうにない、悪いけど、帰るよ」
何とか声を絞り出し、よろよろと立ち上がった。
「送っていくよ」
「大丈夫、ひとりで帰れるから」
反吐が出そうだった。
家に着くころには頭の痛みは治まったが、どこの誰かもわからぬ家族のペットの代わりに亡くなった母、まさに犬死にした母、生々しく蘇った母の死の記憶は、胸の中に溜まっていたどろどろとした澱を一気に身体中に溢れさせた。気が狂いそうだった。何でもいいから大声を上げたい、叫びたい、手頃な石があればどこでもいいから投げつけたい、そんな衝動に駆られていた。
部屋に入るとすぐ机の引き出しを開け、母の形見の果物ナイフを取り出した。気持ちを落ち着けるようにぐっと握りしめる。階段を駆け下り、玄関に向かうと祖母が驚くように声を掛けてきた。
「そんな血相変えてどこ行くんだい」
「図書館」
祖母の顔を見ずに吐き出し、玄関外に置いた自転車に飛び乗った。
表面張力で限界まで膨らんだコップの水が、限界に達した瞬間突然溢れ出すように、身体の中に充満した澱が、抑えきれず口から、目から、耳から、鼻から、どろりと流れ出したような感覚に襲われていた。世界を拒絶するように目線を下げ自転車を走らせた。
図書館に隣接した駐輪場に自転車を止め、荷物カゴの通学カバンを乱暴に掴み、池に向かった。途中、前から三人連れの男子高校生が歩いてくるのが見えた。皆、坊主頭で黒の学生ズボン、すぐにガラの悪いことで有名な高校の生徒だと気がついた。
三人は遊歩道を横に広がり、ゲラゲラ笑いながら歩いてくる、僕のことなど眼中にないようだ。でもこの時の僕は自虐的な気持ちに侵されていた、賢明な判断ができる状態ではなかった。歩道の脇により、やり過ごせばいいものを、歩道の中央を強引に突破したのだ。真ん中を歩いていた一番ガラの悪そうな男子学生と肩があたり、お互いのカバンが引っかかるように絡んだ。僕はおかまいなしに力づくでカバンを引っ張った。当然、相手の腕が跳ね上がる。そのまま通り過ぎようとした僕の背に怒声が浴びせられた。
「おいこら、てめえちょっと待て」
僕は何も言わず、ただ振り向いた。
「ケンカ売っとんのか、おまえ」
男子学生は見下すように僕を上から下まで見て、左手で僕の襟首を掴んだと思ったらすぐにゴンと頭の中で音が響いた。左の頬を殴られたのだ。続けて同じところを殴られた。僕はただでさえケンカなどしたことはない、おまけに相手は三人、はなからかなうわけがない、どうでもいいと無抵抗を決めた。
相手の男子学生は、僕を殴るうちに、さらに気持ちが興奮してきたのか膝蹴りまで繰り出し始めた。他の二人はへらへら笑いながら、僕が逃げられないように周りを固めている。一向に収まる様子のない暴力に、僕は心が満たされていく気持ちすら感じ始めていた。
「あんたら、何しとんのや」
その時、耳をつんざくような大声が聞こえた。びくっとして僕を殴っていた男子学生が動きを止めた。
「なんやお前は、殴られたいんか」
売り言葉に買い言葉、男子学生が僕のうしろに向かって言った。唾が顔に飛んできた。
「あんたら高校生やろ、しかも三人で弱いもんいじめか。警察と学校に通報したろか」
僕を殴っていた男子学生は他の二人に目配せし、けっ、と言いながら僕から手を離し、三人逃げるように足早に去って行った。僕は顔を見なくても声の主が誰かわかった。どうしてここに彼女がと思うより、恋しくて、逢いたくて片時も頭を離れなかった彼女に、みっともない姿を見られた上、助けられるなど恥ずかしくて、その場に座り込み顔を上げられなかった。
「これ、使い」
彼女は覗き込むように僕の顔を見て、ショルダーバッグからハンカチを取り出した。顔の左側がじんじんする。素直にハンカチを受け取り、顔にあてた。頬は腫れ、まぶたから血が出ていた。唇も切っているようだ。
「あいつらしょーもない奴らやな。三対一で」
彼女は僕の正面に、スカートを抱え込むようにしゃがみ込み、僕の手から優しくハンカチを取り上げた。
「でもな、いかんのは君や。たまたま通りかかって最初から見とったけど、ありゃどう見てもケンカ売ったんは君やで」
彼女はそう言いながら、僕の顎に手をあて、くいっと僕の顔を上に向かせた。しなやかな指先が肌をすべる、指先から彼女の体温が直接伝わってくる。目の前に、吐息がかかるほどすぐ近くに、彼女の顔が見える。陶器のように白く透きとおる肌がユリの花のように匂い、大きく見開かれた瞳は、僕のすべてを見通すように、心の奥底まで見透かすように、正確に僕の心を射抜いた。
顔の痛みはじんじんから、ずきずきに変わり、僕は息を吸うことも吐くこともできず倒れそうだった。彼女は真綿で肌を撫でるように、優しくハンカチで僕の顔をそっと拭いた。甘美のハーモニーを奏でられているかのようで、ハンカチから伝わる彼女の指先の感触が、優しさが、痛みを忘れさせる気がして、心が痺れた。
「よし、まあこんなもんやろ、とりあえず血も止まったようやし。でもひっどい顔やな、左側ばっかこんなに腫れてもうて。瞼なんてほとんど塞がっとるわ。どうせなら右側も均等に殴ってもらわなあかなんだな」
手鏡でも見るように僕の顔を見ながら彼女は言った。
「ひっどー」
彼女の冗談が面白くて、思わず苦笑してしまった。口角を上げると顔に痛みが戻ってきた。
「やっと喋ったな。君、朝いつも同じ電車に乗る子やろ」
ばれていた。穴があったら入りたい、今、まさにこの言葉の意味を理解した。
「何でまたあんなことしたんや、そりゃあいつら怒るのあたりまえや。それに君、ケンカしたことないやろ」
「……、言いたくないです」
「そうか、まあええわ。で、どこに行くつもりやったんや。この先には大したものないやないか」
「散歩……、してました」
何も言わず、彼女はただ僕の目をじっと見た、さざ波ひとつ無い透明な湖のような瞳は、僕の嘘を見破っているようにも見えた。
僕は動揺を悟られないよう頑張って彼女の瞳を見つめ返した。苦しくて、呼吸もできず倒れてしまう、そんな気さえした。
「まあええわ」、彼女がそう言い、目を逸らした時だった。ほっとした僕の通学カバンの中から携帯電話の着信音が聞こえてきた。祖母との連絡用に持っている携帯電話、緊急の用事などなく使うことはないと思っていた。その携帯電話が着信を告げている。嫌な予感がして僕は慌てて通学カバンを開け、急いで携帯電話を取り出した。
「もしもし」
祖母の声が耳に響く。
「もしもし、ばあちゃんどうかした?」
「おーその声は春木だな。いや、何でも無いけどな。ちょっと気になったから電話してみただけだ」
なんだよ、それ。「用が無いなら切るよ」、乱暴に通話終了ボタンを押し、顔を上げ彼女を見ると変な顔をして僕を見ている。
「これ何?」
彼女は果物ナイフを持っていた。携帯電話をカバンから取り出した時に、外に落としてしまったようだ。
「これって折りたたみ式のナイフやな。何でこんなもん持っとんの?これで何するつもりなん?」
「返してください。それ大事な物なんです」
「これで何をするんや」
「だから、リンゴとか……、梨とか」
「ああ、これ果物ナイフか。でも君のカバンの中、果物なんか入ってないやん」
じっと僕の目を覗き込むように見る。
「何だっていいでしょ」
声を荒げる僕を彼女は怪訝な顔をして見ている。本当のことなど言いたくない。黙り込んでしまった僕を見て、「まあええわ」、彼女は言い、僕に果物ナイフを返した。ほっとしたのだけれど、彼女の詰問口調に、反抗期の少年のようにぶっつんしてしまった。
「果物ナイフ、持ってちゃいけないんですか。あなたこそここで何してたんですか」
「何やそのむっとした顔は。助けてもらってその言い草かい。甘えん坊やな、君は。はっきり言うたるわ、君を見とったんや」
思いもよらぬ言葉が彼女の口から飛び出し、僕は心臓を吐き出しそうなほど驚いた、でも彼女の真意がわからなくてじっと顔を見つめた。
「随分前やったな、図書館の前で君を見かけたんは。確か雨がざあざあ降っとった日やな。うちな、図書館へはよう本を借りに来るんよ。本を借りて帰ろうと裏口に降りてきた時、君を見たんや、あの雨の中、傘もささんと歩いとったな。そんなん、勝手やから気にもせんかったけど、野球帽を深く被りずぶ濡れの君の姿はなんや得体の知れん不満のようなものが充満しとった。こりゃあかんと思って、咄嗟に目についた傘をもって君に声をかけたんや。人間て面白いもんでな、ほんのちょっとしたことで気分が変わるんよ」
「そんなこと、見ただけでわかるんですか」
「それほど君の様子が酷かったってことや。たしか、あのちょっと後やな、君と朝、同じ電車に乗るようになったんわ。目の悪い人助けたやろ、覚えとるか?あの時、こいつ意外といい子かもなって思ったんや。雨の日のようなものは感じんようになっとったし安心しとったんやけどな。けど、たまたまさっき見かけた時は、何やどす黒い不満のようなものが身体中に充満どころか溢れ出しているように見えたんや。こりゃあかん、何しでかすかわからん、まんざら知らん子でもないし、声かけようと思ったところ早速さっきの騒動や」
見透かされている、僕はそう思うと同時に天にも昇る心地だった、彼女は僕のことを見てくれていたと。やっぱりこの人なら僕のことを理解してくれる、母の死で傷ついている僕の心を、世の中に抱いている僕の不満をわかってくれる、この人になら心を開いてもいい、そう確信した。
半分だけ腫れた傷だらけの顔で、にたにたと薄ら笑いを浮かべる様子はさぞ異様だったのだろう、彼女は僕を見て、ぎょっとしたようにのけぞり、そのまましりもちをついた。
「なんやけったいな顔しとるな、殴られ過ぎて頭変になったんちゃうか。それとも、うち、なんか変なこと言うたか」
地面から腰を上げながら彼女が言った。
「いえ、何でもないです」
そう言った僕の右の目は、左の瞼が開かない分、目の玉が飛び出すぐらい大きく見開かれていたことだろう。
「あっ」、彼女はそう言いながら、慌ててスカートを手で抑え、僕を睨んだ。
「見たな」
「見てません」
打てば響く太鼓のように明るく元気よく即答した。
「本当か?ならええわ。よかったわー、うちな、今日ちょっと大胆、黒なんよ」
上目遣いで僕を見る。
「うそ、白でしたよ」
言わなきゃいいものを、何か得した気分になってつい口から洩れた。しっかり右の瞼に焼きついた映像に、僕は当分の間、夜、悩まされることになるだろう、と思う間も無く、いきなり平手が飛んできた。バチーンと公園にまで響きそうな惚れ惚れするような音だった。はたかれたのは右の頬、彼女の左手が弧を描いた。
「やっぱり見とるやないか、このエロガキ。恩を仇で返しよって、まったく油断も隙も無いわ」
彼女は立ち上がり、スカートについた砂を払った。
何ら能動的に動いておらず、まったくの不可抗力で下着が見えただけなのに、いきなり平手ではたかれた。男子学生に殴られたのは、ほぼ自分が悪く、いわゆる自業自得の部類に入ることであり、それなりに得心があったが、これは意味がわからなかった。彼女は右の頬を押さえてきょとんとしている僕の気持ちを察したのか、
「世の中は理不尽なことばかりなのよ」
何故か標準語で訳の分からない弁明をした。
彼女は僕の思っているような女性じゃないかもしれない。彼女の言葉と大袈裟に騒ぎ立てるリアクション、そして自己中な性格に、僕はたった今ひっぱたかれたことも、人生初めてのケンカでボコられて、顔半分だけ腫れ、瞼はほとんど塞がり、顔はじんじんしている、そんなことも忘れてしまうほど面食らった。それでもゆっくり立ち上がると、「あっち向き」、と彼女は言い、僕のズボンについた砂を丁寧に払い始めた。
もしかしたら僕をひっぱたいたことを気にしているのかもしれない、やっぱり優しい人なんだ、そんなことを思っているとすっかり忘れていた大事なことが頭をもたげてきた。
「もうケンカなんかしたらあかんで」
彼女の言葉は耳に入らなかった。僕は別のことを考えていた、そうラブレターだ。思いのたけを綴った人生初のラブレター。彼女は読んでくれたのだろうか、どう思ったのだろうか、怖いけど知りたい。彼女とふたりきりの今、千載一遇のチャンスが訪れている、今しか聞けない、このチャンスを逃しちゃいけない。心臓はバクつき、顔の神経はふたたびズキズキと脈づき始め、右の頬もヒリヒリする、でも重要なのはそんなことではない、幸い今彼女は後ろにいる、面と向かって言えないことでもきっと言える。勇気をもって羞恥心を打ち負かせ、僕は自分に言い聞かせた。
「てっ、手紙、読んでくれました?」
心臓の音が頭に鳴り響く中、何とか言葉を絞り出した。倒れそうだった。
「何のことや」
彼女は僕のズボンをはたきながら、素っ気ない返事をした。言い方が悪かったかもしれない。
「あなたの車の上にラブレターを置いたのは僕なんです」
一度開き直ると、言葉がすらすらと口をついてでた。今度ははっきりと言うことができた、ちょっとだけ得意げに言ったかもしれない。結果は吉とでるか凶とでるかはわからない、でも悪い結果は想像できなかった。彼女の手が止まり、すぐにつかつかと僕の正面に回り込んできた。一瞬でも彼女の感激の抱擁を期待した僕は、浅はかだった。
「おまえかー」
うんもすんもなく、いきなりぶん殴られた。想定外だ、しかもげんこつで、しかもまた顔の右側、きっと彼女は左利き。
「ひでぶ」、つい口からこぼれた。
それほどの一撃だった。ダウンこそしなかったものの、二、三歩よろめいた。怒りを顔に滲ませた彼女は、つかつかと歩み寄り、茫然としている僕の襟首を乱暴に掴んだ。
「来い、エロガキ」
彼女はそのまま行先も言わず歩き出した。途中、すれ違う人達が、何事かと好奇心丸出しの顔で彼女と僕を見る。でもすぐに、引き摺りまわされている僕のボコボコの顔を見て、関わり合いになるのを避けようとするのか、何も見なかったように目を逸らしていく。それでも、ただ立っているだけでも彼女の美しさは人目を惹く、加えて今日は色鮮やかな黄色のタイトスカートに派手な柄のサマーセーター姿だ、どうしたって目立ってしまう。
「みんな見てますよ。手、放してくださいよ、恥ずかしいじゃないですか。それにどこへ行くんですか」
僕は懇願した。
「あかん、手を離したら逃げる気やろ」
「逃げませんよ」
「エロガキの言うことは信用でけんな」
「訳が分かんない。逃げないから説明してくださいよ」
「わかった、手を離したる。駐車場に行くんや。でももし逃げたら、痴漢が逃げたって大声出すからな」
「ひっでー、誰がそんな嘘を信じるんですか」
「ここに鏡のないことが本当に残念やわ。誰が見ても、うちは痴漢を自ら捕まえてぼこぼこにした勇気ある女性やと思うやろ」
平然と嘘を言う姿に呆れてしまった。彼女は僕から手を離すと、腕をほぐすような仕草をした。何だかんだ言って、ただ手が疲れただけのようだ。彼女は僕を見て、何故か口角を上げた。ついさっきまでだったら、女神の笑顔だと思っただろうけど、今の僕には悪魔の微笑みにしか見えない。
「おい、エロガキ」
彼女が言う。嫌な予感がして、つい身構えた。
「何をそんなに警戒しとるん。腕が筋肉痛になってもうたんや、ちょっと揉んでや」
僕の襟首を掴んでいた左腕を差し出した。仕方なく通学カバンを地面に置き、彼女の腕を前腕から上腕まで揉んだ。女性の腕に触れるなど初めてのことで、二の腕の筋肉の柔らかさに驚いた。
「おまえ、マッサージうまいやん。でも調子こいておっぱい揉まんといてな」
エロガキからおまえにワンランク昇格できたのは、地球の歴史の中に出現したアウストラロピテクスのように、ほんの一瞬だけだった。僕は彼女の冗談を聞き流すことができず、思わず手を止め、すぐ目の前の胸の膨らみをガン見してしまったのだ。
「いやん、エッチ……、じゃないわ、おまえ、やっぱりエロガキや」
彼女は両腕で胸を隠すようにし、呆れた顔をして僕を見た。
連れていかれたのは彼女の言うとおり駐車場だった。
僕は彼女に襟首を掴まれて歩いたわけでも、囚人のように彼女の前を歩かされたわけでも、まして手を繋いで並んで歩いたわけでもなく、ただ彼女の後ろをしもべのようにおとなしくついて歩いた。すれ違う人達は、みな彼女に目を奪われ、僕には一瞥すらなく、おかげで腫れた顔を気にせずに済んだ。郊外のスーパーマーケットのような広い駐車場に、車は少なく彼女の青色のスポーツカーはすぐに見つかった。彼女は、運転席側に回り、フロントガラスの前で立ち止まった。
「来い」
命令口調だ。ここで彼女に逆らうことがいかに不毛な行為か、三十分足らずの出来事で嫌というほど思い知っている。逆らうことなく彼女の隣に並んだ。
「これ何や?」
彼女はフロントガラスを指差した。彼女が何を言っているのかわからず、よく見ようと身体を乗り出した。フロントガラスが僅かに欠けている。
「傷、ついてますね」
「それから、ここと、ここ」
続いて彼女がボンネットを指でさす。今度はすぐにわかった。太陽の光を浴びて青く輝くボディーに点々と引っかいたような傷がついている。何か硬いものがボンネットの上を転がったようにも見える。
「この車な、新車で買うたんや。しかも、五年、六十回ローンや。まだ半年しか乗ってへん」
「それなのにこんな傷がついちゃったんですか。どうして、また?」
「何でやと思う?」
「さあ?いたずら、とか」
目の錯覚だろうか、彼女の頬が一瞬ピクっと引き攣ったように見えた。
「何日か前のことや。夜、仕事帰りに買い物して帰ってきたんや。それで荷物を先に車のリアシートに入れて、ドアをな、こう、バタンと閉めたんや。中途半端な閉め方すると半ドアになって危ないからな」
彼女は身振り手振りをまじえ、説明する。興味が湧いてきて、彼女の説明に聞き入った。
「そしたらや。ゴトって音がしたと思ったらガンゴンゴンって大きな音が続いたんや」
彼女は横目で僕を見た。切れ長の目は流し目のようにも睨んでいるようにも見える。嫌な予感がふつふつと込み上げてくる。流し目であることを祈った。
「何が起こったと思う?」
語尾に怒りが滲んでいる気がした。
「さあ」、僕は彼女を刺激しないよう神妙な顔をして首を傾げた。いたって真面目な仕草のつもりだったけど、彼女の目にはふざけているように映ったのかもしれない。こめかみに青筋が走った。
「この期に及んで、まだとぼけるんか。おのれが手紙の上に置いた石が、ドアを閉めたはずみで転がり落ちたんや。フロントガラスにガン、そのままボンネットに落ちてゴン、ボンネットの上を転がってやっぱりゴン、合わせて、ガンゴンゴンや」
白い封筒を少しでも汚さないようにと、石を立てて置いたことを思い出した。それがドアを閉めた振動で倒れ、車の上を転がり落ちたという。あまりにもバカげていて、それに彼女の怒ったような冗談のような物言いが面白くて、つい口角が上がってしまった。
「このエロガキ」
あっと思った時にはもう遅かった。口角を下げる前にパンチが飛んできた。やっぱり殴られたのは顔の右側。
「何笑っとるの。修理になんぼかかると思うとるの」
当然、顔を押さえる僕を気遣うことなく彼女は言う。車の修理代など高校生にわかるはずもなく、自転車のパンク修理に千円払ったことを思い出し、車修理なら二倍、いや、三倍ぐらいか。祖母にもらったお年玉がいくらだったか素早く暗算し、よし、これなら払える、もってけ泥棒とばかり、「五千円」、と僕は声高々に言った。
「どあほ」
今度は蹴られた。
「フロントガラスの修理に、ボンネットの塗装、どう見ても十万はかかるわ。どうしてくれるんよ、弁償してくれるよな」
「ええー、こんなメダカのうんちみたいな傷に十万円?そりゃ無いでしょ、そんな大金、とても無理です、ごめんなさい」
「メダカのうんちで悪かったな。うちのような汚れのないボディーにようも傷つけてくれたな。おまえのせいでこうなったんや、ごめんで済むなら警察いらんて、国語の教科書にも載っとるやろ」
「どこの教科書ですか」
「にっぽんや。誤魔化すな、こら」
「でも、お金無いんです」
「しゃーないな。じゃあ、体で払ってくれるか」
「えー、僕、童貞なんです」
「あほか。エロガキのくっさいタマキンなんぞ、いらんわ」
こんなやりとりをして、僕は彼女の車の助手席に乗ることになった。
エアコンの効いた車の中は彼女の匂いで満ちていた。毎朝、電車を待つ間、鼻腔をくすぐる彼女の匂い、香水の香り。いつもはあんなに安らかな感情に包まれたのに、思わぬ展開で助手席に座る僕は、彼女との今日の出来事を思い出し、落胆とも失望ともつかない気持ちにまみれていた。
「どうしたんよ。黙りこくってちっとも喋らんな」
固まったようにじっと正面を見つめる僕をちらっと見て彼女が言った。車は片側二車線の道路の走行車線をゆっくり走っている。
「今日、三発殴られて、一回蹴られました」
「うん、災難やったな。あいつら三対一でしょーもない連中やったな」
「違います、あなたにですよ」
僕は隣でハンドルを握る彼女を睨んだ。彼女はしまったとでも言うように、首をすぼめ舌を出した。
「僕はずっとあなたのことを見てきて、心の綺麗な優しい人だと思っていました。目の悪い人を助けたあの朝、あなたと心が通じた気がして、気持ちが繋がった気がして、本当に幸せな気持ちになりました。それなのに人を殴るわ、言葉遣いは乱暴だわ、くっさいタマキンだとか平気で口にするし、あなたはそんな人なんですか」
「そうや。どんな女や思ってた?清楚で美しくて料理が得意で家庭的、慈愛に満ちて心が綺麗、気配り上手でおまけにおっぱいが大きいって、そんな女が今どきどこにおるんよ、それはバカな男が描く幻想やろ」、彼女は前を向いたまま答えた。
「でもまあ、うちのおっぱいは大きいけどな、な、エロガキ」
「僕は、エロガキでも、おまえでもない。相川春木って名前があるんだ」
つい大きな声を出してしまった、膝の上の通学カバンがフロアマットに落ちた。さっきからからかわれ続けていたことが、三発殴られて一回蹴られたことが、彼女が平気で下ネタを口にすることが、彼女にラブレターを出したことが、悔しかった。悔しくて悔しくて涙が出てきた。
僕の剣幕に驚いたのか、彼女は初めて叱られた子どもようなきょとんとした顔で僕を見た。ちょうど赤信号で停車した時だった。ふふっと彼女が微笑んだ。
「うちな、明美言うんよ、伊集院明美。よろしゅうな」
彼女はこれ使いと言いながら、足元に置いたショルダーバッグに手を突っ込んだが、すぐに引っ込め、代わりにスカートのポケットに手を入れハンカチを取り出した。
「汚れてへんから」
温かかった。彼女の匂いがした。彼女の体温が伝わってきた。心臓の鼓動が早くなるのがわかる。僕は両手でハンカチを握りしめたまま、信号が変わり走り出した車の中でずっと下を向いていた。
「ごめんな、春木君のことちょっとおちょくり過ぎちゃったみたいやな。君がうちに好意をもっとることはわかっとったわ。毎朝、電車でいっしょになる君からうちのこと好きなんですオーラがばんばん出とったからな。でも齢がずいぶん離れているし、君可愛いから、それでついつい気安くしちゃったんや」
「だからってあんなに引っ叩かなくたっていいじゃないですか」
僕は下を向いたまま声を荒げた。
「いや、あのな、春木君あんなにいっぱい殴られた後やろ?せやからあと少しぐらいなら、殴られついででええやろ、って思うてなあ。堪忍や」
「普通そういうふうには考えません」
この人、明美さんはやっぱりすごい、頭のネジが一本どころか二本は外れている、すっかりあきれてしまったけど、どこかさっぱりした性格に清々しさを感じ始めていた。
「あの、手紙、ラブレターですけど、読んでくれました?」
ほとんど期待することなく、ただ気持ちに整理をつけたいという一心で口にした。それでもやっぱり怖くて、顔を上げられない。
「うん、読んだ」
僕は、ドキドキ波打つ胸を隠すように下をむいたまま、続きの言葉を待った。
「せやけど、あんな気色の悪い手紙すぐに捨ててもうたわ」
木っ端みじんだ……。僕の右手は、破れてしまいそうなほど強くズボンを掻きむしり、左手は震えるようにハンカチをぎゅっと握りしめた。腫れて塞がった左の目からひと雫だけ涙がこぼれた。
「嘘やわ、また泣いたやろ、春木君は泣き虫やな。手紙嬉しかったで。せやけどな、うち、十歳も年下の男の子に興味ないねん。こういう性格やろ、どんと受け止めてくれる男が好きなんや」
明美さんは、ウインカーを出し、車を静かに路肩に停めると、ショックで黙りこくってしまった僕に、ごめん、本当にごめんな、そう言いながら、そっと口づけをした。唇が触れ合うだけの優しいキス、ファーストキスだった。
「ラブレター、大事に持ってるで。春木君の顔がこんなんじゃ無かったら、もっとムードがあったのにな」
僕の顔を両手でくしゃくしゃっと撫でた。ぎゃー、僕は飛び上がるほどの大声を出した。でも一番痛かったのは、右の頬だったことは内緒にした。心臓が破裂しそうなほど嬉しかった。
車は国道から脇道に逸れ、郊外の住宅地を抜け、山腹にある神社の駐車場に入った。
「ここ、神社ですよね」
「そや」
「僕、ここで何をするんですか」
「上に行ってから説明するわ」
ドアを開けた途端、むっとする暑い空気と世界中を覆ってしまうような蝉の鳴き声に包まれた。あらためて夏を実感した。
鳥居をくぐり、砂利が敷き詰められた坂道を上る。背の高い杉の木が参道を囲むように伸び、葉が日光を遮り時々吹いてくる風が腫れた顔を優しく撫でていく。明美さんは僕の前をすたすたと歩く。社殿に行くのかと見ていたら、その近くにある建物に向かった。
「ここですか?」
「ちゃう、これは社務所や。ちょっと待っとってくれるか」
明美さんは扉を開け、中に入って行った。ひとり残された僕は手持ち無沙汰にぐるっと身体を回し、境内を見渡した。社殿は古く、歴史がありそうに見えるが、どこにも人の気配は無かった。じっとしていると夏の暑さが全身に襲い掛かってくるようで、手の甲で額を拭った。
「お待たせしました」
明美さんらしからぬ物言いに、違和感を覚えながら振り向いた目に、巫女装束に身を包んだ明美さんが映った。白い小袖に赤い袴、黒髪を後ろで一本に束ねている。
「えー!」
びっくり仰天とはこのことで、腫れた左目をひん剥いて、釣り堀で人魚を釣り上げたかのように仰け反ってしまった。
「どうぞこちらへ。私といっしょにきてください」
にっこり微笑み、明美さんは手で境内の奥を指し示した。
赤白だけの清楚な服装、つい先ほどまでとは全く違う言葉遣いと仕草につい見とれ、それどころか熱々のハンバーグの中からこぼれ出るチーズのようにとろっとろに心がとろけてしまいそうで、立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿はゆりの花、そんな言葉も頭の中を巡り、僕は根が生えたようにその場に立ち尽くし、ただただポカンと口を開けていた。
「何をボケーとしとるんや。こっちや言うとるやろ、ちゃっちゃと歩かんかい」
いきなり歯切れのいい関西弁が飛んできた。やっぱり明美さんだ。僕は我に返ったように腫れた目をぱちくりさせながら明美さんのもとに駆け寄った。
「巫女さんだったんですか」
「そうや、惚れ直したか。またラブレター書きたなったやろ」
「はいっ」
あまりにストレートに言われ、つい素直に元気よく答えてしまった。明美さんは少しだけ口角を上げた。明美さんが向かったのは境内奥にある建物だった。年季の入った茅葺き屋根の建物や小屋のようなものがあり、その近くに薪が整然と山のように積んであり、雨露に濡れないよう屋根がついていた。
「どうぞ、入ってや」
明美さんは茅葺き屋根の建物の引戸を開けた。中に、ボロボロの服を身に纏い、胸まで届く白いひげを垂らした仙人が、胡坐を組んで座り僕を睨んでいる、と想像してしまうようなひなびた建物だった。
「古い建物ですね」
「庵や」、明美さんは素っ気なく言う。閉めきられた建物の中は暗く、明美さんは、「あっついな」、と言いながら、雨戸と障子戸を全部開けるとたちまち外から明りが射し込み、うそのように建物の中は明るくなり、風が通り抜けるようになると熱気はすぐにやわらいだ。
「この神社の宮司はうちの叔父さんなんや。今は入院しとるけどな。うちはここで巫女をしとるんや」
明美さんは縁側に出て庭を見ながら言った。
「でも明美さん、毎朝電車でどこかに通勤してるじゃないですか」
「せやな。後で説明するわ」
「それで僕は何をすればいいんですか」
「こっちや」
部屋の壁に背の低い引戸がついていた。大人はしゃがまないと通れない高さだ。明美さんは先に扉をくぐった。僕もすぐ後に続き中に入ってみると、丸い障子窓を通して明りが入るだけの狭い三畳ぐらいの薄暗い部屋で、床の間があり、不思議な形をした木彫りの置物が、木製の豪華な台座に載せて飾られていた。布団がきれいに畳んでおいてある。
「えへ、体で払うってやっぱりここでですかあ」
車の中でのファーストキスに調子こいて、つい口走ってしまった。
「どあほ」
ピクっと明美さんの左手が動きかけたが、飛んでくることは無かった。
「気色悪いわ」
代わりにデコピンをされた。
明美さんは僕に部屋を見せたかっただけのようですぐに部屋を出て、また縁側に戻ってきた。ふたり並んで座り、「飲みい」、と明美さんがどこからか持ってきた缶ジュースを口にした。建物に覆い被さるようなモミジの緑の葉が、日光を遮り、林からくる風が心地よく縁側を吹き抜けていく。僕は明美さんとこうして二人並んで座っていることが信じられなくて、でも嬉しくて、それを誤魔化すように足をぶらぶらしていた。
「この庵な、氏子しか知らん名前があるんよ」
「名前?」
「そや。突拍子の無いことを言うようやけど、夢見の館、言われてんね」
「何ですか、それ」
いきなり何を言いだすのだろうと不思議な気がして、足を止めた。明美さんは真面目な顔をしている。
「春木君は、夢見るか?」
「将来何をしたいとか、なりたいか、とかの夢ですか」
「せやない、夜、寝とって見る夢や」
「そりゃあ見ますよ」
いつも同じ夢を見ることは言わなかった。
「さっき見た部屋な、夢見の間言うんや。満月の前後三日間だけ、あの部屋で眠ると、見たい夢が見られるんよ」
明美さんが何を言っているのかわからなくて、僕はきっとラーメンと中華そばの食べ比べをさせられているようなこんがらかった顔をしていたと思う。
「要はな、記憶に残ってさえいれば、夢の中だけやけど、その時に戻れるということや。しかも見ている間は夢とはわからん、まったくもってリアルな感覚なんや。そうやな、USJでフライングダイナソーに乗ったとするやろ、それがとても楽しかったとするやんか。それでもう一度フライングダイナソーに乗りたいと願ってあの部屋で眠れば、夢の中やけどフライングダイナソーに乗れるちゅうことや。スタート時に身体を吊り上げられるドキドキ感、頂上に向かってゆっくりと上昇していく時のワクワク感、風を切って自在に旋回しながら空を飛んでいるような感覚、「死んじゃうー」、耳に響くどっかのねえちゃんの悲鳴、それをもう一度リアルに体験できるんや。それからな、ここが一番大事や。夢の中では実際に自分が取った行動と違う行動を取ることができるということや。例えば、スーパーで万引きして捕まって警察に突き出されてひどい目にあったとするやろ。でも夢の中では捕まらず逃げきれたり、万引きを思いとどまったりと、自分の好きなように自由に変えてリアルな体験ができるんや」
「一体何を言っているんですか。わけがわからない」
「いきなりで驚いたん?」
「驚くとか驚かないとかそういう話じゃないですよ。見たくも無い夢ばかりをみることだって珍しくないのに、それが見たい夢だけ見れて、おまけにその中で自由にリアルな体験ができるってそんな都合よくいくわけないでしょ」
「そう思うか」
「はい」
「うちが真面目に言うとるのに信じられへんか」
「信じられまへんなあ」
「どつくで」
明美さんの目がすっと細くなった。
「ごめんなさい、でもいくら明美さんだからって、こんなバカげた話信じられるわけないじゃないですか」
慌てて取り繕う僕を見て明美さんが大きな溜息をついた。
「でもな、春木君はここで十万円分働いてもらわなあかんのや。まさか踏み倒す気やないやろな?」
睨むように僕を見る、凄い目ぢからだ。
慌てて僕は頭の中で自分に言う。今日僕は明美さんに助けられ、彼女は僕のことを理解してくれる人だと確信したばかりだ。そんな彼女を信じないわけにはいかない。それに十万円なんて大金僕に用意はできない。ここは彼女が言う事を信じるべきだろう、でも話は突拍子が無さすぎる……。
「もう少し話を聞かせてください。現実にあったことを自由に変えて体験できるって言いましたよね」
こうなったら毒を食らわば皿までもだ。とことん納得がいくまで聞くしかない。
「そうや。思いのままや」
明美さんの顔が朝顔の花のように明るく輝いた。
「それって過去を変えることで、現在や未来を変えるっていう、よく映画や小説にある話ですか」
「ちょっと違うな。そんな大そうなものとちゃうんや。あくまで夢の中だけのこと、現実世界は何ひとつ変わらないし、変えることはできない、そんなん当たり前のことや。目が覚めれば何もかわっていない現実に戻るだけや」
「そんなの、ただのペテンじゃないんですか。夢なんて、見たことを覚えているかいないかだけで誰でも見るじゃないですか。突飛な夢を見ることが多いけど、現実に起こったことを夢に見ることも、夢の中で現実と違う行動をとることも珍しいことじゃない。きっとあの部屋で眠るとリラックスできて、夢をよく見るとかいうだけの話じゃないんですか」
「現実は何も変わらんからそういう言い方もできるかもしれんな。けどな、自分の記憶の中にある出来事で、もう一度戻りたいと願うまさにそのシーンに戻れるんや。霊感だとか何か特別な力がいるわけじゃない、誰でもや。しかもさっきも言うたけど、現実と何ら変わらないリアルさがあるんや。そしてそこでは違う行動をとることができるから、目が覚めるまでの間、経験できなかった別の物語が展開されるんや」
「でもそうなると、夢と現実との境界が無くなり、間違った記憶が刷り込まれて事実は一つのはずなのに、二つの記憶ができてしまうかもしれないですよ。それどころか現実逃避で事実のほうの記憶を消して、刷り込まれた都合のいい記憶だけを残してしまうかもしれない。事実と記憶が完全に異なることになってしまうって、それまずいでしょ」
「たしかに世の中には、夢と現実の境目が無くなってしまうような人もおるみたいやけど、ここではそういうことは起こらん。過去にとった行動と違う行動をとることは空想や。リアルな空想を夢で見とるんや。誰も現実と空想の区別はしっかりできる。だから夢と現実の境界が無くなるとか、間違った記憶が擦り込まれるとかいうことは無いんや。うちも一度体験したからそれはようわかる」
僕は驚いて明美さんを見た。
「ほんまやで、嘘やないんや」
「それが本当なら、自分のいいように事実を変えられるのなら、ここに住みたいと言い出す人がでてきても不思議は無いでしょ。そう思いませんか」
どうしても納得ができない、僕は食い下がった。
「それがでけんのや。夢の続きどころか同じ夢は二度と見られへんのや」
「どういうことですか?あの部屋では満月の前後三日間は夢の中で好きな過去にもどれるんでしょう」
「床の間になんやけったいな置物があったの覚えとるか」
「あ、はい、何か変な形をした動物の置物がありましたよ。鼻が長かったけど象では無いし、身体はカバみたいで、あれ何ですか?」
「あれは獏や」
「バク?動物園にいますよね」
「ボケ、それはバク、うちが言うとるのは、伝説上の生き物の獏や」
「ああ、確か人の夢を食べるといわれてる」
「そうや。夢見の間で眠るとな、あの獏が見たい夢を見させてくれるんや。その代わりその夢を食べてしまう。だから夢見の間で見た夢は、夢見の間では二度と見ることはできん。そう言われとんのや」
「でも記憶にあることはまた夢で見られるんでしょ」
「あの獏はな、同じ夢は食べんのやと。つまりあの部屋では同じ夢を見ることはできんと言うことや。だからあの部屋で眠り続けてもだめなんや」
「それじゃあ、せっかく過去に戻って、過去を変えても、結局、朝、目が覚めればそれまでで、現実は何も変えられないし夢の続きも同じ夢も見ることもできない。それ、何の意味があるんですか、そんなの虚しいだけじゃないですか、人の心を弄んでいるだけじゃないですか」
本当に変えられるのであれば、何をおいても変えたいあの日、母を奪ったあの忌まわしい事故。だが夢をコントロールすることができて、母が事故を逃れ死なずにすんだとしても、それがどれだけリアルな世界であったとしても、目が覚めればやはり母はこの世におらず、何ひとつ変わっていないのであれば、ただ虚しいだけだ。むしろこんな話、怒りすら覚える。
「人にはいろいろあるんよ。自分の与えられた宿命に不満を抱いていたり、自分で選択したことを後悔し続けていたり、少しでもいいから人生で楽しかった日に戻ってみたい、せめてもう一度亡くなった人に逢いたい、遠くに行ってしまった友人に逢いたい、それは本当にさまざまや。確かに何かを変えようとしたら虚しいだけや。でもな、例えば絶景を見ようと出かけて、途中道を間違えて見損ねたとするやろ。だけど夢の中で正しい道を選択して、絶景を見ることができるんや。それって凄いことや思わんか」
「万が一、本当に絶景が見えたとしても、目が覚めれば所詮、夢は夢、嘘は嘘、まがい物じゃないですか。僕はそんなものは絶対にいいとは思わない」
「でもな、もう二度と逢えない人に逢うこともできるんやで。ほな春木君に質問や。今、君はここでうちとこうして話をしとる。これは夢か現実か」
「現実に決まってるでしょう」
「ほう、何でや」
「だって……」
「次の瞬間、春木君自分の部屋のベッドで目が覚めるかもしれんで。ほいで、ああ夢やったんやと伸びをしながら思うかもしれん、そやないか」
僕は何も言い返すことができなかった。
「まあ、ええやろ、とにかくここで夢を見たいと希望する人がおるんよ。氏子の紹介じゃ、無下にでけん。春木君にやってもらいたいことは、その手伝いや。十万円分はしっかり働いてもらうで」
明美さんは十万円を強調するように言う。
「僕、何をするんですか」
「夢見の間に泊まる人に、床に入る前に入浴してもらうんや。で、その風呂を沸かして欲しいんや。ここはもともと庵や言うたやろ、ここ風呂が無いんや。外にあった小屋な、あれが風呂なん。近くに井戸があるからそこでバケツに水を汲んで風呂桶に入れて、ガスも無いから薪で沸かして欲しいんや。薪割りもせなあかんで。それから……」
「ちょっと待って。井戸の水を汲むんですか」
「そうや。春木君若いから知らんかもしれんけど、まあ、うちも若いんやけどな、昔はどこも井戸やったんや。でもよかったな、昔みたいなつるべ井戸やなくて手押しポンプ式や。ぎこぎこ漕ぐと水がどばっと出てくるちゅうわけや。どや、楽なもんやで安心したやろ」
明美さんは、得意そうに言う。
「その水をバケツで受けて、風呂桶に入れるんですね。明美さんやったことありますよね」
水が入った重いバケツを何十杯と持ち運ぶのは重労働の気がする。明美さんは怪訝な顔をしている僕の質問に答えること無く、話を進めていく。
「さっきも言ったけど薪割りもしてもらわなあかん。薪が積んであるとこ、見たやろ。あれえらい大っきいから、まず斧で手頃な大きさに割り、それから手斧で割って風呂の焚口に入る大きさにするんや、簡単やろ」
「やったことありますよね?」
「あ、そうそう、それから風呂をな、沸かしてもらわなあかん。これは楽ちんや、焚口に薪をくべて火つけるだけや」
明美さんは僕の声が聞こえなかったように話を進める。質問の仕方を変えてみた。
「水汲みや薪割りは今まで誰がやってたんですか」
「うちの叔父さんや。でも去年、病気で入院することになってな、それでうちがここに来ることになったんやけど、まあそれは置いといて、それからは叔父さんが懇意にしとる氏子さんがやっとるんや」
「じゃあ明美さんは?」
「うん、したことない」
「だったら僕もやらなくていいじゃないですか」
「それがな。氏子さんこないだぎっくり腰やっちゃってな、ずっと家で寝とるんよ。いよいようちがやらなあかんようになってもうて困っとったんや」
「なんで?明美さんがやればいいじゃないですか。井戸ポンプ式で楽なんでしょ」
「いやや、あんな重労働」
「薪割り簡単なんでしょ」
「腕が太くなるやろ」
「風呂焚き、薪をくべるだけで楽ちんなんですよね」
「あっついやんか」
僕はため息をつき不毛な会話を打ち切った。
「わかりました。でも明美さんは何をするんですか。明美さんも一緒ですよね」
まさか僕一人?いくら十万円弁償と言っても明美さんがいないのなら嫌だ。じっと彼女の顔を見た。
「そない怖い顔して見つめんでくれるか。そうでなくても酷い顔しているのに、おしっこちびってまうわ。うちもおるから安心しい。うちはな、社務所で客の夕食の準備や。春木君とうちの二人で客をもてなすんや」
得意げに言う明美さんの顔を見て思わず破顔してしまった。腫れた顔がズキズキした。
「なんやその嬉しそうな顔は」
「なんだっていいじゃないですか。ところでどうして明美さんがここへ来ることになったんですか」
少しだけ口を尖らして話を変えた。明美さんはくすっと笑った。
「さっきも言うたけど、ここの宮司とうちは親戚なんや。うち、子どもの頃、ここで巫女のアルバイトをしたことがあってな、それに叔父さんひとりもんで、よう可愛がってもろたんや。親戚ということもあって、会社を辞めてプーしとったうちに手伝ってもらえんかって相談がきてな、ぶらぶらしとってもしょあないから二つ返事で決めたんや」
「会社何で辞めたんですか」
「上司がな、エロい奴でな、うちのお尻をすっと触ってくるんよ。やめてや言うと、減るもんやないからええやろとほざきよんねん。そんなん嫌やろ」
「それで辞表をだした?」
「いや、カチンときて、ぶん殴ってやった、げんこつで。しかもワン・ツーや。辞表をだしたんは、その後や」
「やれやれ」
僕は言った。
「夢見の館のこと教えてもろたんはこっち来てからや。もともと秘密にしとることやし、満月の前後合わせて三日間だけのことやから、夢見の間に泊まる人は少ないんやけど、でも氏子の紹介でまあまあおるんよ。まだうちもここ来て一年経ってへんから、そんなに詳しくないけどな。それからここ見てのとおりちっちゃい神社やろ。だからいつもは他の神社で勉強がてら巫女をやっとるんや。で、行事があるとか夢見の館の仕事の時に、こっちで巫女をやるんや。まあ、掛け持ちやな。春木君と朝会うのは、別の神社に行ってるからなんや」
明美さんは縁側奥の壁に掛けてある時計を見た。五時を過ぎていた。そう言えばいつの間にか蝉の鳴き声が止んでいた。
「図書館まで送るわ。自転車やろ」
庵と社務所の戸締りをし、僕達は並んで坂を下った。
「僕はいつ来ればいいですか」
「明後日、昼過ぎに来てくれるか。ここまで自転車で来れるやろ」
「え、送り迎えしてくれるんじゃないんですか」
「また車の中で泣かれたらかなわん」
明美さんはちらっと僕を見た。
「どうして男の純情に塩ふって、やすりでこするみたいなこと言えるんですか」
「上手いこと言うな。そない口が達者なら女の子にもてるやろ」
「女の子と付き合ったこと一度も無いですよ」
僕は明美さんにもてたいだけなのに……。そう思いながらも一瞬、亜川美帆の顔が脳裏に浮かんだ。
「ほんとか?嘘言ってもすぐばれるで。今、女の子のこと考えたやろ、顔に出とったで」
明美さんは僕の額を指で突いた。
「どうして、そう人をおちょくるんですか。もうしないって言ったでしょ」
「そんなことは言うとらん。きっちり十万円分、うちの代わりに働いてくれればええんや」
「高校、アルバイト禁止なんですけど」
「あほか、バイトちゃうわ。借りたもんを返す、これ人として当たり前のことやろ」
「でも僕、何も借りてませんけど」
「ごちゃごちゃ言うやっちゃな。アルバイトはな、働いてその報酬としてお金をもらうことや。せやけど春木君の場合はな、心配せんでもええで、働いてもらうけど報酬は無いんや。何故か。それは弁償やからや。すなわち、アルバイトではない、よかったなあ。それにご飯はただで食べさせたる、夕食、朝食の二食付きや」
「朝食?」、僕は思わず明美さんの顔を見た。明美さんは、今頃何を言うとんの、とでも言うように澄ました顔をしている。
「夢見の間に泊まった客が帰った後、風呂と庵の掃除をして戸締りするまでが仕事や、そんなん当たり前のことやろ。それに庵は電気無いんや。だから暗くなったら朝まで、篝火を二つ庵の前で焚くんや。火を消さんように篝火に薪をくべてもらわんといかんのや」
「それじゃ寝れないじゃないですか」
「そうやな」
「他人事みたいに言いますね。明美さんも一緒ですよね」
「あほ、うちは家に帰って寝るんよ。睡眠不足はな、お肌の大敵やねん。うちな、嫁入り前の娘やで。それにな、うちまで一緒にいたら、春木君に働いてもらう意味が無くなるやないか。十万円分、きっちりうちの代わりに働いてもらわんとな」
話しが終わった頃、ちょうど駐車場に着いた。明美さんはボンネットとフロントガラスの傷跡を指で撫でながら僕に聞こえるような大きな声で呟いた。
「新車で買うたのにこんな傷物にされて」
「はいはいそうですね。悪いのは全部僕です」
僕は明美さんに聞こえるよう大きな溜息をついた。
「そや、人間素直が一番や」
家に帰ると、真っ先に洗面所に向かった。今までケンカなどしたことは無く、当然殴られて顔を腫らすことなど無かった僕は、鏡に映った顔を見てまさに文字通り、ビックリした。
左目瞼の腫れはだいぶ治まったようだがまだしっかりと腫れ、頬も腫れ、唇も切れている。誰が見てもケンカをして殴られたのは一目瞭然だ。幸い補習は今日で終わり明日から学校に行かなくていいのだけれど、祖母に何て言おうかと困り果てた。すぐに夕食の時間になり恐る恐る食卓に座った。
祖母は俯き加減に座る僕を見てほんの一瞬驚いたような様子だったけれど、すぐに何事もなかったかのように思わぬことを言った。
「今日、女の子が春木を訪ねてきたぞ」
驚いて顔を上げた僕の顔を、祖母は一瞬の早業で隅々まで点検したように見えた。そんなことよりも、僕を訪ねて女の子がくるなんてまさに青天の霹靂で、左手に持ったご飯茶碗を思わずひっくり返してしまった。顔の腫れのことなどすっかり吹っ飛び、慌てて茶碗を拾い上げながら言った。
「誰?」
「可愛い子だったな、亜川美帆って言ったかな。花見に一緒に行った子だろ、同級生なんだってな」
祖母はにやっと笑った。
彼女以外に思い当たる女の子はいなかったから、祖母の口から出た名前に驚くことは無かった。むしろ亜川美帆が祖母に何を話し、祖母が彼女に何を話したのかが気になった。
「うん、まあ、そうだね。亜川さんがそう言ったの?」
「よく喋る子だな。一年生からクラスが同じなんだってな。今日まで一緒に補習を受けていたとも言っとったぞ。でも私の場合は希望なんですけど、とも少し得意げに言っとったな。おまえ、学校ではあまりしゃべらんそうだな、あかんぞ、友達は作らんといかん。それにおまえ最近、毎朝遅刻ぎりぎりで登校しとったそうだな。ホームルームの時間で本当なら遅刻だとも言っとったぞ。ばあちゃんに嘘ついとったんか」
「遅刻じゃないからいいんだよ」
余計なことまでぺらぺらと。学校のことは、ほとんど祖母に話をしていない。おそらく祖母が彼女からいろいろ聞き出したのだろう。
「で、今日、お昼を一緒に食べに行く途中、車に轢かれそうになったんだってな。事故を思い出したと言って、ふらふらになって、送って行くって言ったのにひとりで帰っちゃったとも言っとった。それなのにご飯も食べずにすぐ出かけたんか」
「僕の勝手だろ」
「やっと帰ってきたと思ったらその顔だ。どこで何をしとったかは聞かん。でも、亡くなった母さんに顔向けできんようなことだけはするな」
いつになく厳しい言葉を浴びせられた。
「もういいよ」
僕は箸をおいて部屋に上がった。
ベッドに横たわると、天井板が目に映る。ぼーと波打った木目を眺めながら、あまりにもいろいろなことがあり過ぎた一日を振り返った。とにかく明後日、神社へ行かないと。祖母に何と言って出かければいいのか、そんなことを考えていると、階段が軋む音が聞こえてきた。祖母が二階に上がってきたようだ。
「春木、開けるぞ」
返事をする前に引き戸が開いた。お盆におにぎりが載っていた。
「ご飯ほとんど食べてないだろ、おにぎり作ったから食べろ。頭はもうええんか、痛くないか。それと……、ケンカしたんか」
ベッドに横たわったまま、祖母の言葉を聞いた。
「何も言いたくない」
天井の木目を数えながらぶっきらぼうに答えた。
「とにかく、事故のことは、母さんのことは忘れろ」
「何でそんなことを言うんだよ。忘れるなんてできるわけないだろ。何でそんなことがわからないんだよ」
「なあ春木。陽子はおまえの母であると同時に、ばあちゃんの娘だぞ。ばあちゃんだって辛いんだ。でもな春木は若い、人生これからだ。死んだ人間ではなく、生きている人を見て欲しい、後ろを見て生きるのは、ばあちゃんだけでいい」
「うるさい」
「そうか。でも今日来た女の子、亜川さんだったな、あの子にはちゃんと連絡しとかなあかんぞ。春木が心配で、名簿を見て住所を調べて、わざわざここまで来たと言ってたぞ」
「そんなの彼女の勝手だろ」
「そうかもしれんけど、おまえのことそんなに気にしてくれる人間他におるか?それにな、ばあちゃん、人を見る目はあると思っとる、あの子はいい子だ」
祖母に言われ、今日、二人の女性にハンカチで顔を拭われたことを思い出した。乱暴な言葉遣いとは裏腹に、そっと撫でるように血を拭いとってくれた明美さん、不器用な手つきで滴る汗をふきとってくれた亜川美帆、二人とも優しい眼差しだったことを思い出した。
「わかったよ」
「それとな、ばあちゃん失敗しちゃったかもしれん」
嫌な予感がして、ベッドから身体を起こした。
「何のこと?」
「亜川さんにな、春木からラブレターもらったかって聞いちゃってな」
僕は眩暈がして、ノックアウトされたボクサーのようにベッドにひっくり返った。
「この間、お前が夜なべして書いていたのラブレターだろ?てっきり亜川さんに書いたものだと思ってな。いらんこと言っちゃったかな」
僕は布団を被った。
次の日昼食後、図書館に行く為スポーツバッグにノートと筆記具を入れた。明美さんのハンカチが学生ズボンに入ったままだったことを思い出し、ポケットに手を入れる。とっくに温もりの消えたハンカチから伝わる柔らかい肌触りが、乱暴な言葉遣いと態度の奥に隠れた明美さんの優しさを思い出させ胸が震えた。ジーンズの前ポケットにそっと入れた。
不思議なほど心が軽い。昨日身体中から溢れ出るほどだったどろどろの澱は、すっかり影を潜めていた。明美さんが言った、『人間て面白いもんでな、ほんのちょっとしたことで気分ががらっと変わるんよ』、の言葉が頭をよぎる。
ちょっとどころでは無かった、初めて尽くしだった。初めてケンカした、初めて殴られた、初めて女性に気持ちを打ち明けた、初めてキスをした、まるでテレビドラマの主人公にでもなったような気分だった。そして初めてフラッシュバックを体験した。
母を亡くした事故の後、祖母に引き取られ、一度だけ心療内科に連れていかれた。その時、先生と祖母との会話の中で、耳に飛び込んできた言葉だった。
中学に入り、たまたま立ち寄った本屋で手にした雑誌に記載があり、言葉の意味は何となくわかっていたが、自分の身に実際に起きるとは考えていなかった。リアルな映像や音のみならず事故の衝撃と激痛までもが思い出され、頭は痛み、身体は震え、事故の後、祖母にどれだけ話をしても信じてもらえなかった体外離脱の体験までもが覚醒した。
『本当に見たんだよ。事故の後、どうしてかわからないけど僕は宙に浮いていて、空中から舗道に倒れている僕とお母さんを見ていたんだ。それに、足早に逃げていく親子三人も見たんだ。女の人が、よかったチロちゃんが車に轢かれなくて、って言って嬉しそうに子犬の頭を撫でながら走って行ったんだ。見たんだよ、絶対に見た絶対、絶対、絶対に見た!』
どれほど祖母に食い下がったことか。子ども心にも、ペットの子犬の命以下に扱われた母の死が、たかがペットの代わりに犬死した母の死が、納得できるはずなどなかった。
『魂が抜け出るなんて、そんなことあるわけないだろ。春木も瀕死の重傷だったんだ、それでありもしないものを見たんだよ。お母さんは運が悪かった、寿命が無かった、春木は寿命があった、それだけだ、助かったんだから、お母さんの分まで生きなあかん』
祖母はどれだけ言っても僕の言う事を信じてくれなかった。どうしてだと、母と歩いたお花畑や、病室の天井から祖母を見たことを話しても取り合ってもくれなかった。祖母の口から出る言葉はいつも、おまえは心の病気なんだ、幻覚を見たんだよ、だった。
そんな祖母に反発するように、幻覚なんかじゃない、絶対にあいつらはいる、あの事故現場付近で暮らしているはずなんだ、見つけ出して復讐してやる、母さんの恨みを晴らすんだと、ケガが回復してからというもの、時間を見つけては体外離脱で見た親子を探しに出かけていた。
駐輪場に自転車を置き、入口に回る。受付で座席番号札をもらい学習閲覧室に入ると夏休みということもあるのか、中は満席に近かった。
指定された座席にスポーツバッグを置き、書架に向かった。普段図書館で本を借りることなどなく、加えて書架スペースは広く、どこにどんな本が置いてあるのかさっぱり見当がつかず、僕はすぐに降参し、図書館事務員に助けを求めた。
教えてもらった本棚は、心理学関係の本でぎっしりで、とりあえず、フラッシュバック、体外離脱の文字がタイトルに入っている本を取り出した。夢に関する書籍も多くあり、適当に目についた一冊を手に取った。
三冊本を抱え、座席に戻る途中、受験勉強をしている学生の中に亜川美帆の姿を見つけた。僕は思わず被っていた帽子のつばを深く引き下げた。別に何かやましい気持ちがあったわけではない。ただ、祖母から家に訪ねてきたと聞かされ、どう対応したらいいのかわからなかっただけだ。
昨日は本当にいろいろなことがありすぎた。彼女と喫茶店目指して並んで歩いたことが、車に轢かれそうになったことが、遠い昔のことのようにさえ思えた。亜川美帆は一瞬顔を上げ、こっちを見た気がしたけれどすぐに机上に顔を向け、シャープペンシルを走らせた。数学の問題でも解いているのかもしれない。幸か不幸か、亜川美帆の座席からは柱がある為、死角に入り僕の座席は見えない。
僕はまずフラッシュバックの本を開いた。パラパラとページを捲る中でわかったことは、僕は心的外傷後ストレス障害、いわゆるPTSDと呼ばれる状態で、それによりフラッシュバックが引き起こされたようだ。飛ばし読みではあったけど、印象的な記述もいくつか出てきた。
“フラッシュバックは何らかの引き金によって引き出される。思い出すのではなく、強烈な再体験である”
“トラウマ場面の中に立ちすくんでいる”
まさにその通りだった、昨日、僕はあの場所で、まさに五年前の事故を再体験した。そしてそれがまたいつ引き起こされるかわからない。次に体外離脱の本を手に取り、目次の中に臨死体験の文字を見つけた時だった。すぐ隣に誰かが立ち止まった。
「どうして知らん顔するのよ」
いきなりTシャツの胸元を掴まれた。亜川美帆だった。驚いて顔を上げた僕を見て、彼女はいきなりふき出した。腫れた僕の顔がツボにはまったようだ。女の子は難しい、何に怒り、何に笑うのか基準がわからない。いずれにしろ、僕たちは周りから白い目で見られることになり、追い出されるように背中を丸めて学習閲覧室を出た。
「どうしちゃったのその顔」
「とにかく外へ出ようよ」
僕は言い、足早に図書館を出て、公園に向かった。亜川美帆はうさぎのように口を尖らせて後をついてくる。どうも納得できない時にこの顔をするようだ、覚えておこう。空いているベンチはいくつかあったけど、何となく花見の時に座ったベンチに座った。
「えへ、思い出のベンチに座ったな」
亜川美帆は例の得体のしれない笑みを浮かべ、嬉しそうに隣に座ったと思ったら、矢継ぎ早に攻勢をかけてきた。まず、有無を言わさない早業で僕の帽子を奪い取った。
「顔、よく見せてよ。ケンカしたの?殴られたの?何でどうして、誰にやられたの?事故のこと思い出したんだよね。頭痛いの治った?昨日帰ってからどこ行ったのよ」
「いきなりそんなに聞かないでよ」
「だって私昨日、相川君の家に行ったんだよ。ふらふらで真っ青な顔をして帰っちゃったから心配だったんだ。それなのにおばあさんが出てきて、帰ってくるなり血相変えて出て行ったって言うじゃない。どういうことって私、ついおばあさんに突っかかっちゃったんだ。ねえどこに行ったわけ、何してたの?でもおばあさん私の話を聞いてもあまり驚かなかったな。それどころかもっと話を聞きたいって普段の相川君のことをいろいろと聞かれたよ。ダメだよ、ちゃんとおばあさんと会話をしないと。あまり話してないんでしょ?機嫌が悪くなるとすぐに、図書館に行くとか言って出て行っちゃうって言ってたよ。ねえ、いつも図書館で何してるの。入口がどこか知らなかったぐらいだから口実でしょ?本当はどこで何やってんの?」
酔っ払いのように話があっちへこっちへとふらふらする。だけど恐るべし、亜川美帆。いきなり核心をついてくるとは……。
「ねえ、僕は何を答えればいいんだろう」
池のことは知られたくない、彼女の質問をはぐらかすように逆に質問した。
「だから、昨日何してたかってことよ」
あれだけ喋り倒して結局これかいと思ったけど、もちろん口にすることは無い。僕は昨日彼女と別れてからの行動を手短に話した。こんな具合にだ。
「家に帰ってすぐここに来たんだよ、補習の復習をしようと思ってね。慌てて家を出たのは、ほら、諺にもあるだろ、鉄は熱いうちに打てって。それで急いで歩いたものだから、うっかり階段で躓いちゃってね、壁に顔面をしこたまぶつけたんだ。家に帰って鏡を見てびっくり仰天って訳さ、ははは」
なあんだ、やっぱりそんなこと、うふ、てな具合になどなるはず無く、逆に火に油を注いでしまった。亜川美帆は僕のTシャツの胸元を両手で掴んだ。
「人が真面目に心配して話をしているのによくそんなことが言えるね。壁に顔をぶつけただけでこんな顔になるわけないじゃない。殴られたんでしょ、ひどく腫れてるじゃない」
僕は反射的に昨日男子学生に殴られた顔の左側を触った。
「そっちじゃない、反対側」
「こっち?」
僕は顔の右側を指差した。大きく頷く亜川美帆を見ながら思う、明美さんの拳は硬くて重い。
「もういいわ、相川君にとって私はその程度の存在なんだね。昨日、事故のことを思い出したと言ってふらふらで真っ青な顔をして舗道に座り込んでたくさん汗かいて送るって言うのにひとりで帰っちゃって……、心配して損しちゃった」
「あの、ひとつ聞いていい?亜川さん、今日どうしてここにいるの?」
「どうしてそんなこと聞くの、わかっているでしょ。相川君に逢いたくて、逢えるかもしれないと思ってきたんだよ」
彼女は声を荒げてそう言うと真っ直ぐ僕の目を見た。黒く潤いのある瞳が水晶のように輝く、僕に訴える。でも僕は彼女の視線を支えきれなかった、何も言わず逃れるように目を伏せた。亜川美帆の顔が歪む。
「ずるいよ」
悲しみにまみれたような小さな声で亜川美帆は呟いた。思わず顔を上げた僕を見ることなく、彼女は顔を隠すように帽子を深くかぶり立ち上がった。
「じゃあね」
彼女はその場でくるっと身体を反転し、図書館に向かって駆け出した。
逃げるように走る彼女の姿を見て、花見の日、ブルーシートの間を足どり軽く舞うように走る彼女を追って走ったことを思い出した。あの後、二人このベンチに座り、彼女は僕を誘った理由を白状し、僕は亡くなった母の話をし、彼女が作った弁当を食べた。女の子と二人きりでベンチに座ることも、手作り弁当を食べることも初めてだった、美味しかった。
ひとりベンチに座り、まだ視界の片隅に映る亜川美帆の後ろ姿を見た。彼女は僕のことが好きなのかもしれない。今ならまだ彼女に追い着ける、そう思いながらも僕は立ち上がることができなかった。ついさっき彼女は思い出のベンチと言ったけれど、僕にとっては別の意味で思い出のベンチになっていた。初めて明美さんを見たのもあの日このベンチだった。
僕は空を仰ぎ見た。青空の中、視界に緑が一層濃さをました桜の木が映る。真夏の太陽が容赦なく顔を照らす。ポケットをまさぐると柔らかい感触が指に触れた。明美さんのハンカチだ。力を込め、ぎゅっと握りしめる。季節は確実に歩んでいる。僕はやっぱり明美さんが好きだ。
図書館に戻ると学習閲覧室に亜川美帆の姿はなかった。彼女が座っていた座席だけ何も無く、ぽっかりと白く浮き上がっているように見えた。席に戻るとノートの上に、亜川美帆が被っていった僕の帽子が置いてあった。帽子を取るとページいっぱいに大きな字でバカと書いてあった。
約束の日になった。祖母に神社で泊まりのアルバイトをすると言って家を出た。祖母は怪訝な顔していたけれど、嘘は言っていない僕の言葉を信じたのか、「気をつけてな」、とだけ言い、僕を送り出した。瞼や顔の腫れは濡れタオルで懸命に冷やしたのが功をそうしたのかほとんど引いていた。傷跡も気にならないぐらいになっていた。
ブルージーンズに白のTシャツ、黒い野球帽を被り、自転車を走らせる。空は日本晴れだ。明美さんに逢えると思うだけで、ペダルを漕ぐ足がいつもより軽くなる、流れる汗さえ心地いい、ペダルに力を込めた。神社に着くと、すでに明美さんは来ていた。蝉の大合唱の中、見慣れた青色のスポーツカーが停まっている。僕は車の隣に自転車を停め、車のフロントガラスとボンネットに付いた傷を見た。
メダカのうんちのような傷。結果としてこの傷が、僕と明美さんの距離を一気に縮めてくれた。この傷が無かったら僕のファーストキスは無かったと思う。そう思ったらこの傷がとても愛しく思えてきた。僕は指先で傷に触ってみた。微かにザラザラするような感触が指先に伝わってくる。
「こら、何しとんのや」
突然声がした。振り向くと明美さんが坂道の上で腰に手をあてモデルのような立ち姿で僕を睨んでいる。
「今、何や悪戯しようとしとったやろ。まったく、油断も隙も無いわ。うちに腹いせしようたってそうはいかへんで」
言葉とは裏腹に顔は笑っている。彼女は足元を少し気にしながら駐車場に降りてきた。
今日は大胆にフロントスリットが入った白いタイトスカートに薄いベージュの半袖ブラウス姿だ。スリットからのぞいている太腿の白さと大きく開いた胸元に、僕はノックアウト寸前だ。一瞬、目が釘付けになったことを彼女に気づかれなかったことだけが幸いだった。
「何もしてないですよ。でも明美さん、今日も綺麗ですね」
不思議なほど素直に気持ちが口をついて出た。
「春木くーん、嬉しいこと言ってくれるやないか。おまえ、女たらしの素質あるで。太鼓判押したる」、明美さんは歯を見せた。
「嘘でもお世辞でもないですよ。とっても素敵です。でもちょっと大胆過ぎませんか」
「そう思うか」
「ちょっとだけ」
この姿で会っていた人がいるのだろうか。
「実はな、春木君に魅力全開のうちを見てもらお思って着てきたんや」
「ええー、本当ですか?」
胸がドキュンときた。体温が一気に二、三度上昇したかもしれない。
「嘘に決まっとるやん。昨日から野暮用があってな、出かけとったんや。今さっき帰ってきたとこや」、口に手をあて小さな欠伸をしている。
「昨日からって……、それって泊まりということですか」、心が一気に冷えた。
「そうや。あまり寝てへん」
この姿で泊まりで出かけたということは、男?……、寝てない?……。嫌だ、考えたくない、僕は頭を振った。
「何しとるん?」
「別に、何でもないです」
ぶっきらぼうに答える僕を見て、明美さんはきょとんとしていたが、不意に笑い出した。
「もしかして春木君、うちが昨日どこに泊まったか気にしとるん?」
むっときた。面白くないからよそを見て黙っていた。
「いややわー、エッチなこと考えとったやろ。うちはな、今、彼氏おらんのや。ま、募集中というわけでもないけどな」
彼氏おらんのやの言葉に、猫パンチを繰り出す野良猫のように、不覚にも電光石火の早業で破顔してしまった。
「わかりやすいやっちゃな」、明美さんは呆れ顔をしている。
「でも、今って言いましたよね。て、ことは前はいたってことですよね」
「そらそうやけど、そんなこと春木君に言うことやないやろ。うちの美貌やで、男がおらんほうがおかしいやろ。ちょっと隙見せればなんぼでも寄ってくるわ、なあ、春木君」
明美さんは覗き込むように僕の顔を見る。僕は磁石の同極同士のように顔を背ける。
「君はほんま子どもみたいでおもろいな」
「昨日な、実は東京まで行ったんや。車でやで、遠かったわ。叔父さんに春木君のこと話して無いこと思い出してな。慌てて着替えて、病院までかっとんだんや。叔父さん派手な女が好きやねん、見舞いに行くたびに女はもっと派手にせなあかんってうるさいんや。このかっこで行ったら合格や言うてにんまりしとったで。その内、春木君も叔父さんに合わせたる」
明美さんはにっこり微笑んだ。僕は自分が明美さんの特別な男になった気がして、嬉しくて、「はい」、大きな声で返事をした。
「そう言えば、顔きれいになったな」
明美さんは今頃気がついたのか、目をパッチリ開けて僕を見た。点検するように僕の顔をしげしげと見ている。恥ずかしくなってきて、もういいでしょ、と口を開きかけた時だった。明美さんが不意に口角を上げた。僕の頭の奥底でアラームが鳴る、見覚えのある唇の角度、そう先日見た悪魔の微笑み。
「春木くーん」
猫なで声で言う。嫌な予感しかしない。
「もしかしてやけど、まさか夜な夜なうちをおかずにしとらんやろな」
心臓が口から飛び出すかと思った。鏡を見なくても身体中の血液が、瞬時に顔に集まったことがわかる。
「そっ、そんなことやってません」
思いっ切り狼狽し声が裏返ってしまった。本当は冗談のつもりだったのだろう、僕の過剰な反応を見た明美さんの頬が微かに引き攣ったように見えた。
「ほ、ほんまにしとるんか」
困惑顔で言う。明美さんは何故か二歩後ずさりした。目がまん丸になっている。
「本当にしてませんから。絶対です、絶対」
僕は明美さんに、にじり寄りながら必死に弁明した。明美さんは悲鳴を上げ、顔を引き攣らせ逃げるように後ずさりし、僕との距離を広げた。
「そんな熟れた柿みたいな赤い顔して言われてもなあ」
充分な距離を取り安心したのか明美さんはしばらく疑いの眼差しを僕に向けていたが、何かを思いついたように言った。
「春木君をちょっとからかってやろうかと冗談で言うただけやったんやけどな……、でも、男の子だもんな、仕方ないか……、ここだけの話、ほんまはしとるんやろ?」
上目遣いで僕を見る。口調が優しい、きっと罠だ、騙されちゃいけない。
「だから、してないですって。神に誓って絶対にしてません」
「わかった。信じたる。でももし嘘やったら二度と名前で呼んでやらん、一生エロガキ決定や」
胡散臭そうに僕を見て明美さんはぴしゃっと言った。
「まずこれに着替えてくれるか」
社務所に入るとすぐに白衣、足袋、袴を渡された。
「うちは奥で着替えてくるよって、春木君はここで着替えてくれるか」
そう言い残し、明美さんは奥の部屋に入って行った。僕はと言えば、白衣や袴など身に着けたことなど無く、着かたがわからずトランクスだけの姿で固まってしまった。
「何や、まだ着とらんの」
しばらくして巫女姿で戻ってきた明美さんが呆れた顔をしたけれど、右手に白衣、左手に袴を持ち、途方に暮れている様子を見て小さく笑った。
「そっか、ごめんな、教えたるわ」
ひとりで白衣と袴を着られるようになると、明美さんは点検するように僕の周りをぐるっと回って、「よっしゃ、合格や」、と言って僕の肩を叩いた。
「今日のスケジュールを説明するわ。春木君はこの後、庵の掃除をして、それが終わったら水汲みをして風呂を沸かしてくれるか。薪割りはせんでもええわ、氏子が割った薪がまだ風呂桶の横に積んであるんや。うちは、社務所の厨房で客の夕食の準備や。客は五時頃来る。社務所で食事をして、それから庵に移動してもらい、風呂に入り、七時前には夢見の間に入り寝てもらうんや」
「七時?いくら何でもちょっと早くないですか」
夏至はとっくに過ぎているとは言え七月、まだまだ外は明るい。
「夢見の間でな、希望の夢が見られるのは月が出とる間だけなんや。だからだいたい夜七時から翌朝五時ぐらいまでや。せやから七時前に夢見の間に入ってもらうんや」
「でもそんなに早く眠れますかね」
「不思議とあの部屋で横になるとなあ、すぐに眠れるんや、だから心配せんでもええ」
それからが忙しかった。僕はまず掃除から始めた。任されたのは、外にあるトイレ、庵の入口と和室、縁側、夢見の間だ。箒で掃き、ちりとりにゴミを入れる。汚れた所や縁側は雑巾がけをし、トイレはブラシで便器を掃除した。雑巾がけは初めての体験で、おまけにきつくて、どこかの寺で修行僧になった気分だった。掃除の仕上げは夢見の間だ。扉をくぐり中に入る。
薄暗く狭い部屋は、先日見た光景と何ら変わらず、夏なのに不思議と暑さを感じなかった。あんな話を聞いたあとだからなのか、あらためてしげしげと見ても何の変哲も無い部屋なのに、言葉では言い表せない霊気が満ちている気がした。
床の間に鎮座した獏の置物からは妖気のようなものが感じられた。畳を丁寧に箒で掃く。獏の置物は、台座に置いたまま綺麗な布で拭いた。
掃除が終わると今度は風呂の水汲みだ。予想通り、風呂の水汲みは重労働だった。手押しポンプを上下させてバケツに水を汲み、井戸から離れた風呂小屋まで運び風呂桶に注ぐ。まだ夏真っ盛りだ。すぐに額から滝のように汗が流れ始め、背中に汗が噴き出す。白衣を上半身はだけ、水汲みを続けた。
風呂桶は大きめで、バケツに汲んだ水を注いでも水位はほとんど上がらなかった。明美さんに指示された水位に達するまでには井戸と風呂桶を何度往復しなければいけないのだろうか、目の前が真っ暗になる思いだった。
ようやく半分ほど溜まった頃には、両腕の筋肉がパンパンになり、腕が上がらなくなってきた。ちょっと休憩と、風呂桶横の格子窓を開け、洗い場に座り込みタオルで汗を拭いた。屋根があり日陰になる上、林を抜けてきた風が風呂小屋を吹き抜け火照った身体を撫でていく、汗が蒸発していく。心地よくてつい、うとうととしてしまった。
子守歌のような単調な蝉の鳴き声の間に、突如、人の声が聞こえた気がした。はっと我に返り外に出て周りをうかがうと年配の男性が社務所の前にいるのが見えた。髪の毛はロマンスグレーで白の半袖シャツにループタイをしている。どうやら今日の客のようだ。慌てて腕時計を見た。時間は四時半を過ぎている。しっかり寝てしまったようだ。五時頃から風呂を焚き始めればちょうどいいと言われている。大きく息をひとつ吐き、井戸へと向かった。