【プロローグ】
僕は死んだのだろうか。見渡す限りどこまでも色とりどりの花が咲き誇っている。まるでお花畑だ。傍らに立つ母は僕の右手をしっかり握り、ふたり一緒に歩いた。お腹が空くことも疲れることも無く、時間の概念が無くなってしまったかのようで周りの景色も空の色も何も変わらず、方角すらわからず、それでも母は行く先がわかっているのか歩みに迷いは無かった。
突然、母が手を離した。しっかりと右手を握っていた母の手は、ゆっくりと僕を拒絶するように離れていった。母はそのまま僕を置き去りにして進んで行く、「待ってお母さん」、僕は叫んだ、でも母は振り返らない、どんどん離れていく。追いつこうとしてもなぜか足が動かない、僕はまた叫んだ。
「お母さん、おいて行かないで」
立ち止まり、ゆっくりと振り向いた母の顔には、いつもの優しい表情が浮かんでいた。でもその目は、どうしようもないあきらめと悲しみに満ちていた。母は何も言わず、再び歩き始めた。もう一度叫ぼうとした時、リモコンでテレビのチャンネルを変えたように、目の前の光景が一瞬で切り替わった。
僕は、僕を見ていた。天井から病室のベッドに寝ている自分を見ていた。口にマスクをはめられ、身体のあちこちには管のようなものをつけられていた。白衣に身を包んだ医者と二人の看護婦、それに祖母が僕を囲むようにベッドの周りに立っていた。
祖母は祈るように、「春木頑張れ、春木頑張れ」、と呟きながら僕の手を握っている。僕は動くことも声を出すこともできず、その様子をただ天井から見ていた。
突然目の前でカメラのフラッシュがたかれたような白い閃光が走った。眩しくて閉じた目を開けると、天井から見ていたはずの四人が、僕の顔を覗き込んでいた。この日、母は亡くなり僕は一命を取りとめた。小学校六年生のことだった。
* * *
降り注ぐ陽光を反射し、水面が銀色にきらめいている。さっきまで水辺で休んでいたカルガモが、今は池の真ん中辺りを泳いでいる。池のほとりにある四本の柱に屋根がついただけの小さな休憩所。木製テーブルがひとつ、それを挟むように木製ベンチが二脚置かれている。
僕はベンチに座り、池を眺めていた。市営図書館に隣接する公園の奥にある小さな池。目玉になるようなものは無く、おまけに行き止まりときている。そのせいかここには滅多に人が来ない。おかげで、カルガモ、コガモ、カワウ、シロサギ、アオサギ、たくさんの水鳥がいる。
『カルガモはね、雄と雌一羽ずつ、つがいで行動するのよ』
母の言葉を思い出し、数えて見た。全部で六羽、二羽ずつ寄り添っている。
「母さんの言ったとおりだ」
誰に言うともなく呟いた。どっちが雄でどっちが雌なのかわかりもしないのにと、自分で自分に突っ込みを入れる。次々と記憶が蘇る。
『つがいって何?』
隣に座る母の顔を見上げながら言う。
『うーん、仲よし同士ってことよ』
『じゃあ、僕とお母さんもつがいだね』
『あらあら、お母さんと春木は親子っていうのよ』
気持ちが真綿で包まれるように和んでくる。自然と笑みがこぼれた。
母と暮らした家はすでに無く、今ではここだけが母と過ごした唯一の場所だ。そして気持ちが荒んだ時、不満が爆発しそうになった時、心を落ち着けることのできる只一つの場所でもある。何度ここを訪れたことだろう。亡くなった母は水鳥が好きだった。よく母に連れられこのベンチに座り一緒に水鳥を見ていた。でも僕の楽しみは母が作ってくる弁当を食べることだった。いつも最後にリンゴや梨を果物ナイフでむいてくれた。
十センチにも満たない白い折りたたみ式果物ナイフ。大切な母の形見。テーブルの上に置きそっと目を閉じる。
風の音、風が木の枝を揺らす音、水鳥の鳴き声、羽ばたき、そんななんでもないものに心と身体をゆだねる。さっきまで抱えていた胸の中のどろどろとしたわだかまりや不満、怒りが、少しずつ池の水に溶けるように薄らいでいく。
今日、お昼のことだった。三学期が終わり、高校は数日前から春休みに入っている。僕は午前中を部屋で勉強して過ごした。小学校六年生から住んでいる築五十年になろうかという家。階段や廊下を歩くだけでミシミシ音がする典型的な和風家屋。昼になると、下の階から柱時計の音が聞こえてきた。きっちり十二回鳴り終わると、階段下から祖母が僕を呼んだ。
「春木、ご飯できたよ」
返事をして階段を降りる。台所にある二人で座るには持て余すほど大きな食卓に、すでに二人分の食事が並んでいる。
「勉強していたのかい?」
祖母はいつも同じ質問をする。小さく頷く僕を見て、満足そうに目を細める。短く切りそろえた髪の毛は、染めるのが面倒だと、ずいぶん前から真っ白だ。
僕は大学に何の期待も希望も抱いていない。世の中には不信感しか持っていない。ただ、進学すれば祖母が喜ぶ、それだけの理由で漫然と勉強をしていた。
食卓横においてあるテレビはお昼のワイドショーを放送していた。くだらなくて見る気になれず焼き魚を箸でつついていても、ワイドショー好きの祖母用に調整されたテレビの音量は、僕の気持ちなどお構いなし、遠慮なく両耳の鼓膜を揺らし続ける。昼食を食べ終えた時だった。お茶を飲んでいると、女子アナの言ったワードが僕の心にやすりをかけるように耳に飛び込み、つい見たくも無いテレビに顔を向けた。
画面では排水溝にはまった子犬の救出劇を放送していた。女子アナが言った、人助けならぬ子犬助けのほっこり映像です、の言葉につい反応してしまったのだ。
『よかった、チロちゃんが車に轢かれなくて』
地中深く打ち込まれた楔のように心に突き刺さったままの言葉から、じわじわと身体の中にどす黒いものが染み出していく。
画面が切り替わり、消防隊員がカッターを使い、子犬を救出した映像が流れる。周りにいる人たちから拍手喝さいが起こり、子犬は無事飼い主の元に戻る。皆、口を揃え、よかった、よかったと言っている。映像に映っている飼い主の嬉しそうな顔、司会者や出演者の視聴者を意識した百均ショップで売っていそうな安っぽい笑顔、ふざけんな、テレビから流れる映像と音声に怒りが湧いた。
「チャンネル変えようか」
いつの間にか祖母は、テレビ画面から目を離し、僕を見ていた。
「いや、何で?」
「見たくないだろ」
「犬は大っ嫌いだよ、気分が悪くなる。家族同様かもしれないけれど、所詮はペットだろ、なんでこんなくだらないことを全国放送しているのか、理解できないよ」
「でも子犬に罪は無いよ」
「子犬を助けるためなら、人を轢いてもいいわけ?僕も母さんも道路に飛び出した子犬の身代わりで車に轢かれたんだよ。人間よりもペットのほうが大切なの?こんな世の中おかしいよ」
早口で捲くしたてた言葉に、一瞬、祖母の顔が歪んだ気がした。
「おまえは心の病気なんだ。あれは事故なんだよ、わかっておくれよ。おまえも母さんの陽子も子犬の身代わりで轢かれたわけじゃない、暴走した車に轢かれたんだよ。それに春木は本当は犬が大好きだったじゃないか。いつも犬を見ればあんなに可愛がっていただろう」
「もういいよ」
こんなテレビ見ていられるか。やり場の無い怒りを抱え、部屋に戻った。
祖母にあたってもしかたのないことだとわかっていても、どうしようもなかった。胸の中にどろどろとしたものが澱んでくる。大声を出して叫びたい、駆け出したい、何かに当たり散らしたい心境にかられてくる。机に座っても、とても勉強の続きをする気になれず、開いたままだった参考書を閉じた。階段をかけ降りると祖母は相変わらずワイドショーを見ていた。ただチャンネルが変わっていた。
「出かけてくる」
テレビに顔を向けたままの祖母に言い、玄関に向かった。祖母が振り向き、僕を見ている気がした。
ゆっくり目を開き池に視線を馳せると、子犬を抱き、逃げるように足早に歩く三人連れ親子の姿が、かげろうのように浮かび上がってくる。
探せど探せど見つけられない親子、絶対にあの事故現場の近くに住んでいるはずなんだ。何年かかっても必ず見つけ出すんだ。僕の言うことが間違っていないと証明するんだ。心を落ち着け密かに誓いを新たにする。カルガモはとっくに対岸に着きくつろいでいる。大きく息を吐き帰路についた。
遊歩道を通り抜け図書館に向かう公園に差し掛かった時、不意に犬に吠えられ、飛び上がるほど驚いた。
「相川君」
顔を向けるとスタジャンにミニスカート姿の女の子が立っていた。大袈裟に驚く僕を見て、口元を手で覆っているが、肩が震えている。右手で掴むリードの先で、舌をベロンと出し、はっはっはと呼吸を荒げているどこかちんちくりんな犬が僕を見つめている。あるのか無いのかわからないぶざまな尻尾が憎らしい。
「やだ、わたしのことわからないの?」
僕が何も言わないものだから、女の子は真顔に戻り、心外そうに肩にかけたピンクのポーチの紐を掛け直した。犬がまた吠えだした。ブヒブヒとしか聞こえない。笑い出したくなる気持ちを抑え、クラスメイトの名前を口にした。
「亜川美帆さん?」
本当は最初からわかっていた。教室で女性グループの中で笑顔が輝いている姿が瞼に浮かぶ。ただ話をしたことなどほとんど無く、声をかけられたことが意外だっただけだ。
「ぴんぽーん。よかった、わからなかったらどうしようかと思っちゃった」
亜川美帆は嬉しそうに歯を見せた。
「いつもと服違うから」
遠慮がちに視線を上から下まで送った。スラっと伸びた色白の脚が眩しかった。亜川美帆は僕の目線に合わせるかのように、自分の服装を見回した。
「変?」
顔を上げ、少し不安そうな顔をしている。肩に掛かる黒髪が風になびいている。
「そんなことない、似合ってると思うよ」
どうにか言葉を吐き出した。
女の子とつき合ったことなどなく、クラスメイトであっても会話をすることはほとんどない、当然気のきいたことなど言えるはずもない。そんな僕の口から出たセリフでも亜川美帆は、つぼみから一瞬で開いた花のように表情を輝かせ、すぐに、ほっとしたような、嬉しそうな顔をして、僕に服を見せるようにくるっと回った。
リードを持つ右手を高く上げ、髪が流れ、ミニスカートが少し舞い上がった姿はダンサーみたいだった。スタジャンの胸元につけた蝶のブローチが陽光を反射しきらきらと輝いた。
「いつもセーラー服だもんね。学校以外で会うのは初めてだよね、て言うか、口をきくのもほとんど初めてだったりして。相川君、いつもひとりでいるもんね」
亜川美帆はクラスでは可愛いほうの部類に入る女の子だ、成績も優秀ときている。快活で明るい彼女はいつも女性グループの中で輝いていて、密かに好意を抱いている男子生徒は多いはずだ。
「何してたの」
「ちょっと散歩をしてたんだ」
咄嗟に嘘を言った。
「わざわざ散歩にここまで来るの?」
驚いたような顔をして僕の顔を覗き込んでくる。
「家の前の道路工事がうるさいんだ。それで自転車で図書館まで来たんだよ」
不自然に思われてはまずいと思い、慌てて嘘を重ねた。池のほとりにあるベンチに座り亡くなった母を想い出していたなど、口が裂けても言えるはずがない。おまけにここへはよく来ているが、図書館に入ったこともない。
「ふーん、相川君、ここの図書館で勉強するんだ。新学期が始まれば、わたしたち二年生だもんね。わたしもここに来ようかな」
「亜川さんは優秀だからいいんじゃないの。ここ家から遠いでしょ?それより今日はどうしたの?」
ここで知った顔に会いたくないし嘘がばれるのも困る。
「へへ、お父さんと車で来たの。そろそろ桜が咲くんじゃないかなと思って連れてきてもらったけどまだ早かったみたい。お父さんは速攻ホームセンターに行っちゃった。わたしはその間ワンちゃんと散歩、名前はコロよ。相川君もしかして犬苦手?」
彼女は僕が知らんぷりを決め込んでいた犬のリードを引っ張った。落ち着きのなかった犬はいつの間にか僕の靴を舐めていた。僕は犬が苦手なわけじゃない、嫌いなだけだ。
「コロちゃんって言うんだ。でもちょっと変わった顔してるね」
僕は質問に首を振って答え、素知らぬ顔をして言った。コロはリードを引っ張られても靴を舐めることを止めようとしない。
「やだあ、相川君のこと気に入っちゃったのかな。ごめんね、コロちゃん結構人なつこいんだ。フレンチブルドッグって言うのよ。ブス犬だけど可愛いでしょ」
嬉しそうにリードを引っ張りながら笑った。
確かにちんちくりんなせいで、かえって可愛く見える。でも犬の話題はあまり続けたくない。
「ここ桜が咲くんだ」
「そうだよ、公園の周りに植えられているの全部桜よ。ここ、桜の名所なんだから」
公園に目を馳せると、幹と枝だけの寒々しい木が立ち並ぶ、人影も少ない殺風景な光景が目に映るだけだった。それでも、あとわずか数日のことで公園の木はピンクの花弁で埋め尽くされる。桜が咲いたら、きっと花見客で賑わい、池にも人が来るだろう。しばらくここに来ないほうがいいかもしれない。
「来月クラス替えね」
唐突に亜川美帆は言った。高校は四月にクラス替えを行っている。
「始業式の日に発表だもんね、どきどきしちゃう。また一緒のクラスになれるといいね」
亜川美帆はちらっと僕を見た。
彼女の真意がわからなくて、何と言えばいいのかわからず黙っていると、彼女は、「じゃあお父さんが待っているから」、と僕に手を振り、思い出したように、「その帽子かっこいいね」、とつけ加え、「おいで」、とコロに声を掛け、小走りで図書館と反対側にある駐車場に向かって走って行った。
コロは嬉しそうにあるのかないのかわからないシッポを振りながら、彼女の前を走っていく。ミニスカートが踏み出す脚に合わせるように小さく揺れている。僕は彼女に背を向け、図書館横の駐輪場に向かった。
帰り道、自転車を漕ぎながら亜川美帆との会話を思い出した。こんなに女生徒と話をしたのはたぶん初めてだろう。一学年十クラス、また同じクラスになることはまずないだろう。「どうでもいいよ」、ペダルに力を込めた。家を出る時に胸に溜まっていた澱のようなわだかまりや不満、やり場の無い怒りは、コントロールできる程度に薄まっていた。でも消えて無くなることはない、きっと死ぬまで共生していくのだから。
「あら、おかえり。早かったね」
勝手口横に自転車を停め、玄関に回ると祖母が声をかけてきた。プランターで咲いたチューリップの花を、植木ばさみで切っている。
「ほら見て。綺麗だろ」
祖母は、切ったばかりのチューリップを、僕に見せるように茎をつまんで突き出した。原色の絵具で塗ったような黄色と赤色の花びらが目に飛び込む。
「そうだね」
お昼の会話が思い出され、わざと気の無い返事をした。そそくさと二階の自室に向かいベッドに寝ころぶとすぐに階段の軋む音が聞こえてきた。珍しく祖母が二階に上がってきたようだ。
「春木、開けるよ」
引戸のガラスに、影が浮かぶ。返事を待たず、引戸が開いた。
「お茶を入れたよ」
祖母は廊下からお盆を差し出した。
「わざわざ持ってきてくれなくてもいいのに」
僕は慌ててベッドから飛び起き、手早く湯呑みのふちを掴み、机に置いた。
「陽子のことだけど、忘れろって言っても無理かもしれないけど、もうどうしようもないことだからな。お前の母さんは、運が悪かったんだよ。それが言いたかったんだ」
「運?僕や母さんが子犬の代わりに車に轢かれ、母さんが死んだのは、母さんに運がなくて子犬に運があったってこと?ペットだよ。母さんの命はペット以下なの?それに僕の額に一生消えない傷が残ったのに、子犬は無傷でぴんぴんしてたんだよ。はっきり言ってよ。事故は運じゃない、あの親子と子犬のせいだって」
「いや、そうじゃない。そんな子犬や親子なんて初めからいないんだよ。おまえが見たのは幻覚なんだ。間違っても人前でそんなことを言うんじゃない。陽子や春木は運悪く暴走した車に轢かれた、ただそれだけなんだよ」
祖母は声を荒げる僕を悲しそうに見て引戸を閉めた。階段を降りる祖母の足音が遠のいていく。音が聞こえなくなると、机の一番下の引き出しから木箱を取り出し、中に母の形見の果物ナイフを入れた。母さんは運が悪かったわけじゃない、あいつらに殺されたんだ。呟きながら木箱を戻し、引き出しを閉めた。
ばあちゃんが何を言っても、絶対にあいつらを見つけ出すんだ。本当は仕返ししたい、母さんの恨みを晴らしたい。でもあの親子を見つけても復讐なんてできるわけがない。そんなことをしたら高校を退学になるばかりかもっとひどいことになってしまうだろう。だからせめて、せめて僕が言っていることが正しいと証明するんだ。そしてあいつらに母さんの遺影に謝らせるんだ。前髪に隠れた額の傷跡が疼いた。
僕が三歳になる前に、母と父は離婚したそうだ。父のいない借家で母と二人だけの生活をしていた僕には、両親の離婚どころか父の顔すら記憶に残っていない。それでも母ひとり、子ひとりの生活は快適で父親がいなくても何も不自由することは無かった。
だが母と二人で暮らす生活は長くは続かず、小学校六年生の時、事故で母は亡くなった。道路に飛び出した子犬を避け歩道に突っ込んできた乗用車に母と僕ははねられたのだ。
僕は生死をさまよい、額に一生残る傷跡を残し奇跡的に生還した。命を取りとめた僕の魂に刻み込まれた事故の記憶は、子犬を抱き、
「よかったチロちゃんが轢かれなくて」
と言いながら逃げるように去っていった三人連れ親子の姿は、夢の中で何度も僕を襲ってくる。一生この夢を見続けるのかもしれない。退院後は一人で暮らしていた祖母に引き取られ、この家で暮らすようになった。
新学期が始まった。登校すると掲示板の前にたくさんの人だかりができている。クラス替えの発表だ。一組から素早くチェックし七組の一番上に名前を見つけた。気にして無かったというと嘘になるのかもしれない、七組の女生徒名の一番上に亜川美帆の名前を見つけた僕の体温は少しだけ上がった。
「また一年一緒だね」
帰り道、駅に向かって歩いていると、真横に自転車が止まった。亜川美帆だった。ペダルを漕いでいたせいなのか、色白の頬がもぎたての桃のようにほんのり赤くなっている。髪を後ろで束ね、額に薄っすらと汗を掻いていた。突然のことで少なからず動揺している僕を気にすることなどなく、彼女は自転車から降り並んで歩き始めた。
放課後、女の子といっしょに歩いて帰るなんて想像したことが無く、そもそも通っている高校は進学校で男女交際すら珍しい。そんな状況下で、なぜ今、青春ドラマのように女の子と並んで歩いているのだろうか。ちゃぶ台をひっくり返してしまったかのように混乱している僕に向かって、彼女はたぶん次のようなことを言ったと思う。
「相川君、数学得意だよね、教えて欲しいんだ。今度の土曜日、いいでしょ?」
不覚にも彼女の言葉を聞き逃してしまい、聞き直すのも気が引けて困ったあげく何も言わずただ彼女の顔を見た。
「私、微分積分がいまいちなの。微分は微かにわかるんだけど、積分は分かった積もりになってるだけ、本当はお手上げなの。だから教えてくれると嬉しいな」
亜川美帆は、真面目な顔をして前を向いたまま言った。
「もしかしてそれ、しゃれ?」
彼女のキャラに似合わない古典のような駄洒落がおかしくて、少し冷静さを取り戻しようやくまともな言葉を発することができた。
「面白かった?」
パッチリ見開いた目で僕を見ている。
「微分、積分は一応理解しているよ」
「今度の土曜日、この間の公園の図書館で待ち合わせね、十時に入口で待ってて。私お弁当作っていくから。公園の桜はもう満開よ」
ぽんぽんと話が進められ、断るタイミングを逃し、約束をしてしまった。亜川美帆は、「じゃあまた明日ね」、と言って自転車に乗り引き返して行った。校庭の桜が綺麗に咲いていたことを思い出した。
新学期に入ったというのに、生活に大きな変化は無く、僕は相変わらずクラスメイトと距離をおき、休憩時間はひとりで過ごした。当然、亜川美帆と口をきくことなど無く、土曜日の約束が嘘のように思えた。それでも今までとは確実に違ったことがあった。女の子を意識することは無かったのに、意識しないようにしていたのに、頭の中に亜川美帆のスペースができてしまったのだ。
考えないようにしてもどうしても彼女を意識してしまう、彼女が発した言葉の意味を考えてしまう、気がつけば亜川美帆のことを考えている。彼女は僕のことをどう思っているのだろう、これってもしかしたらデートの誘いかもしれない。ということは、彼女は僕に好意をもっているということなのだろうか。だがクラスメイトというだけで、普段僕と彼女の接点はほとんど無い。彼女が僕に関心を持つことなど考えられない。もしかするとからかわれているのかもしれない。視点を変えるだけでころころと姿形を変える万華鏡のような落ち着きのない感情は、僕を悩ませ続けた。
「朝から図書館へ行くのかい」
土曜日、僕が食卓に座るのを待っていたかのように祖母が言う。
「うん。お昼は食べてくるから」
箸で鮭の身をほぐしながら答えた。身はふっくらし、皮はパリっとしている。赤い身の中から小骨を取り除く。
「珍しいな。いつもは昼から行くのに」
「お昼に、花見をするんだ。近くの公園は桜の名所らしいね」
「ああ、そうだった、そうだった。ばあちゃんも昔行ったことがあるよ、綺麗だったな。もうそんな季節なんだな」
祖母は何かを思い出したのか、箸を持ったまま遠くをみるような目をしていたが、すぐに皿に目を戻し、鮭をつつき始めた。
「で、花見って誰と行くんだい?」
さもついでに聞くような口調を装っているが、箸を持つ手が止まっている。
「同級生が三、四人かな」
嘘を言った。
「春木が同級生と遊ぶって珍しいな」
祖母は外堀を少しずつ塞ぐように話を続ける。これ以上の質問攻めはかなわない、早々に食事を済ませ、二階に上がった。部屋で時間を潰し、スポーツバッグ片手に、ジーンズにパーカー、黒色の野球帽姿で家を出た。
外は心地いい春の風が吹いていた。自転車の前カゴにスポーツバッグを置き、ペダルを勢いよく踏んだ。亜川美帆とどんな話をすればいいのだろう、そもそも彼女は来るのだろうか、不安な気持ちが芽生える。
亜川美帆と約束をした日から、ずっと考え続けてきたことがリフレインのように今また頭を巡る。あれこれいろいろ考えてもよくわからない、とにかく待ち合わせの場所に行ってみようと、足に力を入れ続ける。
でもいつの間にか不安な気持ちがどんどん大きくなる、ペダルを漕ぐ足が、重くなっていく、このまま永久に図書館に着かなくてもいいとすら思えてくる。
それでも予定より早く着いていた。駐輪場に自転車を置き、腕時計を見た。待ち合わせの時間までまだ時間はある。亜川美帆は本当に来るのだろうか?不安な気持ちを抱え、隣接する図書館に向かった。
入口に人気はなく、十時になっても亜川美帆は現れなかった、そもそも図書館に入る人もいなかった。ただ花見客だろうか、公園に向かって歩いて行く人の姿はよく見えた。約束の時間を二十分過ぎ、もういいだろう、もう帰ろうと自分に言い聞かせた時だった。
「ちょっと何でこんなところにいるの?」
突然怒りを滲ませた声が襲ってきた。驚いて声のしたほうを見ると、亜川美帆がいた。ショルダーバッグを左肩に掛け、右手にランチバッグを持っている。
「ここ、裏口よ、待ち合わせは入口って約束したでしょ、もー信じらんない、私、ずーっと、ずーっと向こうで待ってたのよ」
頭から角が、口から牙が生えてきそうな勢いで捲し立ててきた。女の子に怒られた経験など無く、一方的に彼女の剣幕に押され、おまけに待ち合わせ場所を間違えみっともなくてどう対応すればいいのかわからず、ただ慌てふためき、「ごめん、間違えたみたいだね」、と申し訳なさそうな顔をして言うことしかできなかった。でも本当は嬉しかった、からかわれたわけじゃないことに、彼女がきたことに、そして彼女もずっと僕を待っていたことに。
「それだけ?ねえ、ちょっと、本当にそれだけ?普通変だと思うでしょ。誰が見てもここ裏口でしょ、ねえ、ちょっと、じゃあ何、今までずっと裏口から入っていたわけ?」
亜川美帆の怒りはまだまだおさまりそうにない。ぼろが出る前に何とかしないと、と思う僕の目にピンクの花びらが映った。
「それいいね」
咄嗟に彼女の胸元を指差した。
彼女は虚をつかれたように、一瞬きょとんとして胸元を見た。
「あー、話を変えた」
顔を上げた彼女はそう言いながら眉根を寄せ、困ったように僕を睨み、すぐ後で、
「でもこれいいでしょ、今日のお花見に合わせて買ったの、百均で」
嬉しそうに言い、スタジャンにつけた桜のブローチを僕に見せびらかすように身体をくねらせた。見事な変わりようだった。
「へへー、私、こういう小物が好きなんだ」
寝た子を起こすことは無い、満面の笑顔で頷いた。
「まだお昼ご飯には早いわね」、亜川美帆は腕時計を見た。
「今日何しに来たんだっけ」
「そうよ。まず自習室で席取りしなくちゃ」
僕たちは裏口から、図書館正面に回った。亜川美帆は入口ここなんだよね~、と鼻歌のように嫌味を言った。もちろん僕は聞こえない振りをした。開館間もない学習閲覧室は空いていて、僕たちは受付で並びの座席番号札をもらった。
「よかった。誰も座っていない」
嬉しそうに亜川美帆は小声で言い、僕と彼女は指定されたテーブルに並んで座った。待ちきれなかったようにすぐに彼女は顔を向け、そっと囁いた。
「お昼何時にする」
「まだ来たばかりだよ」
近くの人達に声が届かないよう僕も声を潜める。
「でも早く行かないといい場所空いてないかもよ。せっかくお弁当作ってきたんだから」
足元のランチバッグに目をやる。赤い水筒が顔を出していた。結局、彼女に押し切られ、僕達は参考書を広げることなく、ランチバッグだけを持って学習閲覧室を出た。
「ところで亜川さんはどうやってここまで来たの?」
公園に向かいながら聞いた。春の柔らかい陽ざしが彼女の顔を照らしている。
「へへー、今日は自転車で来たんだ、三十分だよ、三十分。おかげでもう脚がぱんぱんだよ」
彼女は太腿を揉むような仕草をした。今日はデニムのショートパンツ姿だ。
「そういつもいつもお父さんに頼めないしね。そんなことより、ねえ、私、前から相川君に聞きたかったことがあるんだ、どうしていつもひとりでいるのかなって。休憩時間もお弁当食べる時もお昼休みもいつもひとりじゃない、どうして?友達とかいないの?ずっと気になっていたんだ」
亜川美帆は、遠慮もデリカシーも無く、あっけらかんといきなり聞いてきた。彼女が言うように僕はいつもひとりでいる。それには僕なりの、他人が聞いたらきっとくだらない、と思うかもしれないが理由があった。
物心ついた頃にはすでに父はいなかったけれど、それでも小学校時代、僕は普通の子どもで仲のいい友達もそれなりにいた。父親がいなくても何の不自由も無く、コンプレックスも負い目を抱えることも無く過ごしていた。授業参観日には欠かさず母はきた。
化粧をした母は美しく、むしろ母を独占できることを自慢に思うほどだった。だがその母が亡くなったと聞かされた時の喪失感はすさまじかった。
病院で目を真っ赤に腫らした祖母から、母の死を聞かされた時、僕は病室のベッドで寝ていたのに、真っ暗な海の底に引きずり込まれてしまったかのように目の前が真っ暗になった。足が、がくがくと震え、ただ茫然とするばかりの突然の別れだった。
退院し祖母に引き取られた僕の生活の、どこを探しても母の姿はなく、仏壇で笑っている母にしか会えなかった。母の写真を見る度に心の中にできた空洞はどんどん大きくなり、その空洞を理不尽な母の死にざまのきっかけとなった親子への憎しみと世の中への不信感、親がいないというコンプレックスがなだれ込むように埋めていった。
転校した学校では無意識にクラスメイトと距離をおくようになっていた。
公園が見えてきた。遠目に見ても桜が咲き誇っているのがわかる、まるで公園全体が淡いピンクの帽子を被っているかのようだ。
「私、もしかして変なこと聞いちゃった?」
亜川美帆は僕が何も言わないものだから、心配するような口調で言った。
「僕は両親がいないんだ。父親は物心がつく前に離婚して家を出て行っちゃったし、母親は小学校六年の時、交通事故で死んじゃったんだ。それからは、ばあちゃんに引き取られ、いっしょに暮してるんだ。ばあちゃんには感謝しているけど、親がいないってのは、やっぱり自分の中で何か引け目のように感じてる」
自分の価値が下がってしまう、そんな気もしていた。
「それでいつもひとりでいるの?」
「どうしてもクラスの中に溶け込めないんだ。みんなの口から普通に飛び出すお父さんが、お母さんが、って言葉を聞くだけで、みんなが別世界の人間という気がしてしまうんだ」
亜川美帆は突然立ち止まった。
「相川君は間違っていると思う」
悲劇の主人公にでもなったような口ぶりの僕に、楔を刺すような透明な声だった。
「相川君はクラスメイトのこと何も知らないよね」
亜川美帆は続けた。彼女が何を言おうとしているのかわからなくて、ただ彼女の澄んだ瞳を見つめた。
「確かに私達のクラスには、相川君みたいに両親がいない子は他にいないわ。でも片親の子は何人かいるんだよ。私もね、実はお母さんがいないんだ。私が保育園に通っている頃、ガンで亡くなったの。突然入院しちゃってね。人の死なんてまだよくわかっていない頃で、まして自分の母親が亡くなるなんて夢にも思っていなかった。だから病院が珍しくて、個室を独占している母親が羨ましくて、お見舞いに行くのが楽しかったぐらい、バカだよね。若かったから病気の進行が早かったの。日を追うごとにお母さん元気が無くなって、どんどん痩せて、寝たきりになって、身体中に管がたくさんついて、そして死んじゃった。それからはずっとお父さんと二人で暮らしてる。お母さんがいないのは寂しいけど、私はそのことを引け目に感じたりしない、だってお母さんがいないから、その分お父さんから愛情をいっぱいそそいでもらったもの。だから他のクラスメイトを嫉んで、自分から距離をおくようなことはしない、みんなとわいわい騒ぐの楽しいじゃない、他の人達も同じだと思う。ひとりの人間としての価値は親がいてもいなくても変わらないよ。相川君みたいにこの世の不幸を一身に背負って生きている、みたいに考えてる子なんてひとりもいない。両親いなくても、おばあさんがいるんでしょ、ここまで育ててくれたんだよね、愛情そそいでもらったんだよね、引け目を感じるなんて言ったらおばあさん悲しむよ」
亜川美帆が話し終わる頃には公園に着いていた。多くの人が満開の桜を楽しんでいた。あちこちでブルーシートを敷いて、まだお昼前だというのに、食事をしている家族連れや、すでに宴会を始めている大学生らしきグループもいた。みな幸せそうに見える。
「すごーい、きれい」
亜川美帆は、目を輝かせて周りをきょろきょろ見ている。
咲き誇る淡いピンクの桜が空を覆っている。時々吹いてくる春のさわやかな風に乗って花びらが宙でワルツを踊っている。亜川美帆は満開の桜を楽しむように、ランチバックを右手に持ったまま、その場でくるくる回った。
彼女が言うことは理解できた。きっと彼女の言葉が正しいのだろう。他人に心を開き、奔放に振る舞う姿を見て僕は自分の矮小さを感じた。でも、僕にはできない……。
「あー、目が、目が回った」
亜川美帆は、酔っ払いのような足どりで僕の腕を掴んだ。
「さっきはごめんね、言い過ぎちゃった」
ぎゅっと掴まれた腕から、彼女の体温が、彼女の心が伝わってくる気がした。
じっと僕を見つめる彼女の顔は暑くもないのに薄紅色に染まっていた。
「いいよ、気にしてないから。それに亜川さんの言うとおりかもしれないね。だけど……」
その時、すぐ近くで声が聞こえた。
「ねえ、ちょっと、いっぱいじゃないの」、女性の声だ。
声がしたほうを見ると、レジャーマットを抱えた大学生らしいカップルが辺りをキョロキョロ見渡していた。
「あっち行ってみようか」、彼氏らしき男性が女性に言う。
よくよく見ると、他にもレジャーマットを持ってうろうろしている人達があちこちにいる。僕は某国が一度に数発のミサイルを発射したような危機感を覚えた。
「だけど何?」
彼女は話の続きを促したけれどそれどころではなかった。場所取りができないと、やっとよくなった亜川美帆の機嫌がまた悪くなり、暴れ出すかもしれない、せっかくお弁当を作ってきたのにと。
そもそも待ち合わせ場所を間違えた僕に言い訳の機会が与えられるとは到底思えない。むしろ、すべての責任を被せられる可能性が高い。彼女の言葉は耳を素通りし、「とにかく場所取りをしようよ」、と、亜川美帆の手から半ば強引にランチバックを奪い、あちこち目を配りながら歩き始めた。
彼女は一瞬きょとんとし、質問を無視した僕に不満そうな表情を向けたが、すぐに嬉しそうな顔をつくり後ろをついてくる。
公園はたくさんの人で溢れ、たった二人が座るだけのスペースが見つからない。探すこと数分、やっと場所取りがされずぽっかりと空いている場所を見つけた。ラッキーとばかり、駆け出し亜川美帆を手招きした。
「じゃーん、ここどう?」
得意げな僕を見て、彼女は、おまえ殺す、とでも言わんばかりの冷たい目で言った。
「トイレの前は嫌」
後ろを振り向くと見慣れた青と赤のトイレマークの男女が目に飛び込んできた。そこはかとなくアンモニア臭が漂っている。僕は彼女に何も抗弁することなく、名誉挽回と左手にランチバッグ、右手にレジャーシートを握りしめ奔走した。だが残念ながら、彼女は次々と僕の選択を否定していく。
「ゴミ箱が臭い」
「地面が濡れてる」
芝生広場では、
「犬のウンコがある」
敷き詰められたブルーシートの間に、僅かな隙間を見つければ、
「酔っ払いがうるさい」
「桜が見えない」
いちいちケチをつけられ、それでも僕は耐えた、先に切れたのは彼女のほうだった。
「真面目に探す気があるの?さっき私に図星を突かれた腹いせしてるんじゃないよね」
胡散臭そうに僕を見た。消費期限切れのシュークリームを眺めるような細い目だった。
「さっきから何だかんだとケチをつけているのは君だろう」
さすがに辛抱できなくなった僕はやけくそのように言った。あっと思ったが、後の祭り、巣を荒らされたスズメバチのように、亜川美帆の反応は素早く攻撃的だった。
「君?君って何よ、その言い方。そもそもあんたが、待ち合わせ場所を間違えたのがいけないんでしょ」
あー、地雷踏んだ。目が吊り上がってる。
いまさらながら後悔したが、昔の人はよく言ったものだ、後悔先に立たず。後は耐え忍ぶしかない。亜川美帆はマシンガンのように連射する。
「あんなところが正面入口だとどーして思えるの?誰がどう見たってあそこは建物の裏口でしょ、扉だってしょぼくれた親父にお似合いのぼろぼろ扉だよね。普通変だと思わない、思うよね、これが公共の図書館入口だろうかって、もしかしたら場所間違えてるかもしれないって、よし反対側に回ってみようって、普通思うよね。でもそれをあんたはしなかったんだよ、約束の時間をニ十分過ぎてもただ待ってただけ、そう、ぼけーっと木偶人形みたいに突っ立ってただけ、その結果がこれだよ。私が見つけなかったら今でもまだ無様に立ってんだよ、全部あんたのせいなんだからね」
すべての責任を僕に被せ、言い訳を挟む余地を一切与えることなく彼女は捲し立てる。僕は縁日で売られるだるまのように手も足も出ず、場末のジムのサンドバッグのごとく無様に打たれ続けた。
突然、彼女は僕の手からレジャーシートを奪い走り出した。ブルーシートの青い海原のすき間を縫うように軽快な足取りで走って行く。訳が分からず慌てて彼女の後を追う。これ以上、言いがかりのネタを与えたくない。
亜川美帆は、宙を舞う蝶のような軽やかなステップで走り続ける。あと少しで公園から出てしまうと思った時、彼女の足が止まりすぐにレジャーシートを大きく広げた。アラビアンナイトの空飛ぶ絨毯のように大きく広がったシートは、自分の意思を持った生き物のごとく彼女の目の前のベンチをすっぽり覆った。
スカッっとするほどの早業だ。あらためて周りを見ると、レジャーマットやレジャーシートを持った人たちが悔しそうに亜川美帆を見ている。
「亜川さん、凄いね」
遅れて辿り着いた僕は、少し息を荒げながら言った。彼女は小学校の運動会の百メートル競走で、一位を取った子どものように、どうだと言わんばかりの得意げな顔でベンチの真ん中に座っている。
「どう、ここ?不満ある?」
息を荒げることもなく、お姫様みたいに言った。当然僕に不満などない、もしあったとしても口が裂けても言うはずが無い。
でも確かにいい場所だった、公園の端のほうに位置するが、足元は土がむき出しの地面では無く、芝生が張られ綺麗に刈り揃えられていた。なにより犬のウンチやアンモニア臭が無い。それに桜の花びらが風が吹くたびにひらひらと芝生の上に舞い積もり、ピンクの絨毯のように芝生を彩っている様は、わび・さびに疎い僕でも心打たれる思いだった。
「参りました」
「でしょ。日頃の行いの賜物だよ。まあ、座りなよ」
亜川美帆は得意そうに言い、僕にベンチに座ることを許可した。
「でもよく見つけたね」
「へへー、荷物を持って立ち上がるお年寄りが見えたんだ。即行動よ」
つい先ほどまでと打って変わって上機嫌だ。
「さてと。ゆっくり桜を見てこない?」
亜川美帆は嬉しそうに提案をしてきた。腕時計を見ればお昼まで随分時間があった。
「賛成、でもここせっかく場所取ったのに大丈夫かな」
「そうだね、ランチバッグと水筒を置いていこうよ。他に何かないかな」
回りをキョロキョロと見始めた彼女は、僕の顔を見てニコっと微笑んだ。
「相川君の被ってる帽子、それも置いていこうよ」
言い終わるより早く、彼女は素早く手を伸ばし、僕の帽子を奪い取った。
「いきなり、何すんだよ」
「ごめん、怒った?」
少し苛立ったような言い方に慌てたのか、珍しく、亜川美帆は神妙な顔をして帽子を返した。
「驚いただけだよ」
僕は、帽子をベンチに置き、立ち上がった。
「相川君、前髪長いのが好きなの?」
長髪は学校で禁止されているので、サイドは耳にかかるぐらいの長さだが、前髪は目に届きそうな長さにしている。
「別に好きってわけじゃないけど、中学からずっとこの髪型だよ」
「ふーん」、感心したように亜川美帆は言い、「でも似合ってるよ」、にやっと笑い、「さあ、行こう」、と立ち上がった。
亜川美帆は妙に機嫌が良かった。僕の前を鼻歌交じりに歩き、時々振り向いて意味不明な笑顔を見せる。いつの間にか片手にデジカメを持ち、「すごーい」、とか、「きれい」、とか、「やばっ」、など短い言葉を連発しながら桜の写真を撮っている。
たまに、桜を背景に、「撮って」、とデジカメを渡され、僕は彼女と桜の写真を撮った。気がつくと、デジカメはずっと僕の手の中にあり、僕は彼女が指示するとおりに写真を撮っていた、まるで専属カメラマンだ。まさか、今日の彼女の本当の狙いはこれだったのかと、疑心暗鬼になりかけた頃、いつの間にか公園を通り抜け、先日、ふたり出会った場所に近づいていた。彼女が手招きしたので僕はまたデジカメを構えた。
「ねえ、相川君。この間はあっちから歩いてきたよね。向こうには何があるの?」
突然の質問に驚いたけれど、とぼけた。
「小さな古びた池があるだけだよ。それよりそろそろベンチに戻らない」
亜川美帆は腕時計を見て、驚いたような顔をした。時間は十二時に近かった。
「やだ、もうこんな時間じゃない。どおりでお腹が空くわけね。早く言ってよ」
彼女はバレリーナのように軽やかにくるっと反転し、引き返し始めた。僕はほっと息を吐き、彼女の後を追った。
あの池を、あの休憩所を、彼女に見られたくなかった、行かせたくなかった。あそこは母との思い出の場所であり、今となっては母を感じられる唯一の場所だ。あの池に他人を連れて行きたくなかった。僕の心の中を覗き込まれたくなかった。
ベンチに戻ると、レジャーシートの上には桜の花びらが何枚も降り積もり、お花見気分を盛り上げていた。
僕は帽子を被り、ベンチに腰掛けた。春の陽ざしを浴びたレジャーシートから、ほんのりとした心地良い暖かさが伝わってくる。隣に座り、嬉しそうにランチバックに手を掛けた彼女を見て、今なら聞けると思い、口を開いた。
「ずっと気になってたから聞くけど、亜川さんは、今日どうして僕を誘ったの?微分積分を教えてなんて口実でしょ?」
亜川美帆は困った顔をし、少し間をおいて、「実はね」、ぬかるみから足を引き抜くような口調で語り始めた。
「今日、相川君じゃなくてもよかったの。前も話したけど、私、毎年ここの桜を見に来てるんだ。本当のことを言うと、ここが桜の名所だからって理由じゃないの。小さい頃、いつもお母さんと花見に来てたんだ。今でもうっすらと覚えてるよ、芝生の上に、昔だからゴザを敷いてね、そこでお母さんが作ったお弁当を食べるんだよ、玉子焼きが美味しかったな。ここの桜を見るのが大好きなのは、お母さんに会える気がするから。ずっとお父さんに連れてきてもらってたんだけど、今年は仕事が忙しくてどうしてもダメだって言うの。学校で友達誘ってみたけど、ここ遠いじゃない、だからみんなから断られて困ってたんだ、ひとりでここにくる勇気がないから、泣いちゃいそうだから」
ずっと俯いている、握ったこぶしが小さく震えている。
「それで僕に目をつけたわけだ」
「こないだの口ぶりからちょくちょくここに来ているのがわかったからね。でも信じて、誰でもいいってわけじゃないんだよ」
縋るような目で僕を見た。
「同じことだよ」
がっかりしなかったと言えば嘘になる。でも正直なところ、ずっと解けなかった方程式が解けたようなすっきりした気分だった。
根暗な僕に好感を持つ女の子なんているはずないし、まして気持ちが通じ合うなんて考えられなかったからだ。でも一方でこんな僕に心を開いてくれる彼女が嬉しかった、心を開ける彼女が羨ましかった。僕には無理だ、理不尽とも思える母の死、心の中に抱え続けてきた人に対する不信感は今でも拭えていない。亜川美帆はしょぼんとし、
「ごめんなさい、暗い話に付きあわせて」
ぽつりと言った。
「別に謝らなくてもいいよ。それに今日はいろいろあったけど面白かったし」
「本当?」
亜川美帆は、顔を上げ僕を見た。ほっとしたような、媚びるような赤みが頬に浮かんでいる。すぐに彼女は嬉しそうにランチバッグを開き、中から弁当を取り出した。
「お詫びというわけじゃないけど、いっしょに食べようね。これはおにぎり、シャケとツナマヨの二種類あるんだよ。それからこっちのパックには、玉子焼き、からあげ、ウインナが入ってるの。全部私が作ったんだよ」
得意そうに言う亜川美帆を見て、これでこの数日間、僕を悩まし続けた落ち着きのない感情とおさらばできると思ったら、妙に食欲が湧いてきた。僕は彼女の手作り弁当を食べることに集中することに決め、シャケおにぎり、玉子焼き、からあげ、ツナマヨおにぎり、ウインナの順番で食べた。間に水筒に入った温かいお茶を飲むことも忘れなかった。母親がいない亜川家では、もっぱら彼女が食事当番をしているそうだ。彼女が作ったお弁当はどれも美味しかった。
食事を終え、近くの自動販売機で一本ずつ買った缶コーヒーを、彼女はミルクと砂糖入り僕は無糖、もちろん僕がお金を出したのだけれど、飲んでいる時だった。
「そう言えば、ここどうしたの」
不意に亜川美帆が口を開いた。彼女は自分の額の上の方、髪の毛の生え際近くを人差し指で触った。ひらひらと桜の花びらがベンチに舞い落ちる。
「さっき、私が相川君の帽子を取った時、髪の毛の隙間からちらっと見えたの。古い傷跡だよね。もしかして相川君の髪型ってその傷を隠す為?」
僕の額の左上に二センチほどの傷跡がある。
「聞いちゃいけなかった?」
「嫌、別にいいよ。さっき僕の母親が交通事故で亡くなったって言ったけど、僕も事故に巻き込まれていたんだ。その時の傷跡だよ。暴走し舗道に突っ込んできた車に母と僕ははねられたんだ。母は亡くなり、僕は一命を取りとめた。この傷を見るたびに、事故のことが母のことが思い出されて、いつの間にか髪の毛で隠すようになったんだ……、ごめん、今度は僕が暗い話をしちゃったね」
「ごめんなさい」
驚いたような顔をしていた亜川美帆はそう言った後優しく微笑み、すぐに神妙な顔をして、「おあいこね」、と言った。そして、「あーあ、夢でもいいからお母さんに逢いたいな」、桜の花びらを指でつまみながら独り言のように呟いた。僕はただ頷き、目の前に広がる景色を眺めた。
満開の桜は空を覆いつくすほどで、桜の木は優しい春の風が吹くだけでも花びらを散らしていく、しんしんと降り積もる雪のように芝生の上に舞い積もっていく。子どもたちが走り回るだけで降り積もった花びらが紙吹雪のように舞い上がる。
その時、やわらかな風は、俄かに勢いを増した。突風が吹いた。亜川美帆が悲鳴を上げる。一斉にあたり一帯の桜の木は花びらを散らし桜吹雪となり、芝生に降り積もっていた花びらは、吸い上げられるように舞い上がった。桜吹雪はやがて渦を描き、舞い上がった花びらと合体し視界を覆うほど大きくなっていった。目が回りそうなほど幻想的ですらある光景に僕は心を奪われ、我を忘れるように見入っていた。
突然、花びらの渦の中から、女性が姿を現した。唐突に現れたようにも、花びらが人の姿になったようにも見えた。ベージュのワンピースの裾と背中まで届く長い黒髪が風に靡いている。透きとおるような肌、吸い込まれてしまいそうな瞳、綺麗な人だった。
もし桜の精霊がいたら、こんな美しさかもしれない。突然現れた女性はつと立ち止まり、肩に乗った花びらをそっと指で摘んだ。目を奪われるように見入る僕の前で、女性はふっと花びらに息を吹きかけた。ひらひらと蝶のように花びらは舞い、ゆっくりと女性の足元に落ちていった。いつの間にか風は止んでいた。
「すごい風だったね」
亜川美帆の言葉で僕は我に返った。彼女は髪の毛や服についた花びらを一枚一枚点検しながら取っている。はっと気がつき、周りを見渡しても女性の姿はどこにも見えなかった。
「髪の毛にまだ残ってるよ」
あちこち見回している様子がおかしくて、僕は亜川美帆に言った。
「どこ?取ってくれる」
彼女は絵画のモデルにでもなったかのように、澄ました顔をしてじっとしている。僕は彼女の頭頂付近と首筋付近に残った花びらをそっと取った。
「照れちゃうな」、と言いながら、彼女は笑みを浮かべた。
「そろそろ戻ろうか」
桜も弁当も堪能したのだろう、満足そうに亜川美帆は言う。片づけをしながら、ふと先ほどの女性のことが思い出され、レジャーシートをたたんでいる亜川美帆に言った。
「さっきの女の人って」
「ん?何のこと?」
「桜吹雪の中から突然現れた女の人だよ」
「知らない、そんな人いたあ?だってすごい風で私、目をつぶっていたからわかんない」
「もういいよ」
その日、僕たちは図書館で四時まで自習をし、もちろん私語は慎みながら、そしてさようならをした。
それからしばらくの間、何事も無く過ぎて行った。僕は今までどおり学校では無口な生徒で過ごし、亜川美帆は飽きもせずクラスメイトの輪の中でワイワイ騒いでいた。たまに彼女と目線が合うことがあっても、彼女は笑みを浮かべるだけで会話をすることは無かった。公園の桜の花はとっくに散り、今では新鮮な若々しい緑の葉を纏っているだろう。僕はしばらく池に行っていない。
僕は死んだのだろうか。見渡す限りどこまでも色とりどりの花が咲き誇っている。まるでお花畑だ。傍らに立つ母は僕の右手をしっかり握り、ふたり一緒に歩いた。お腹が空くことも疲れることも無く、時間の概念が無くなってしまったかのようで周りの景色も空の色も何も変わらず、方角すらわからず、それでも母は行く先がわかっているのか歩みに迷いは無かった。
突然、母が手を離した。しっかりと右手を握っていた母の手は、ゆっくりと僕を拒絶するように離れていった。母はそのまま僕を置き去りにして進んで行く、「待ってお母さん」、僕は叫んだ、でも母は振り返らない、どんどん離れていく。追いつこうとしてもなぜか足が動かない、僕はまた叫んだ。
「お母さん、おいて行かないで」
立ち止まり、ゆっくりと振り向いた母の顔には、いつもの優しい表情が浮かんでいた。でもその目は、どうしようもないあきらめと悲しみに満ちていた。母は何も言わず、再び歩き始めた。もう一度叫ぼうとした時、リモコンでテレビのチャンネルを変えたように、目の前の光景が一瞬で切り替わった。
僕は、僕を見ていた。天井から病室のベッドに寝ている自分を見ていた。口にマスクをはめられ、身体のあちこちには管のようなものをつけられていた。白衣に身を包んだ医者と二人の看護婦、それに祖母が僕を囲むようにベッドの周りに立っていた。
祖母は祈るように、「春木頑張れ、春木頑張れ」、と呟きながら僕の手を握っている。僕は動くことも声を出すこともできず、その様子をただ天井から見ていた。
突然目の前でカメラのフラッシュがたかれたような白い閃光が走った。眩しくて閉じた目を開けると、天井から見ていたはずの四人が、僕の顔を覗き込んでいた。この日、母は亡くなり僕は一命を取りとめた。小学校六年生のことだった。
* * *
降り注ぐ陽光を反射し、水面が銀色にきらめいている。さっきまで水辺で休んでいたカルガモが、今は池の真ん中辺りを泳いでいる。池のほとりにある四本の柱に屋根がついただけの小さな休憩所。木製テーブルがひとつ、それを挟むように木製ベンチが二脚置かれている。
僕はベンチに座り、池を眺めていた。市営図書館に隣接する公園の奥にある小さな池。目玉になるようなものは無く、おまけに行き止まりときている。そのせいかここには滅多に人が来ない。おかげで、カルガモ、コガモ、カワウ、シロサギ、アオサギ、たくさんの水鳥がいる。
『カルガモはね、雄と雌一羽ずつ、つがいで行動するのよ』
母の言葉を思い出し、数えて見た。全部で六羽、二羽ずつ寄り添っている。
「母さんの言ったとおりだ」
誰に言うともなく呟いた。どっちが雄でどっちが雌なのかわかりもしないのにと、自分で自分に突っ込みを入れる。次々と記憶が蘇る。
『つがいって何?』
隣に座る母の顔を見上げながら言う。
『うーん、仲よし同士ってことよ』
『じゃあ、僕とお母さんもつがいだね』
『あらあら、お母さんと春木は親子っていうのよ』
気持ちが真綿で包まれるように和んでくる。自然と笑みがこぼれた。
母と暮らした家はすでに無く、今ではここだけが母と過ごした唯一の場所だ。そして気持ちが荒んだ時、不満が爆発しそうになった時、心を落ち着けることのできる只一つの場所でもある。何度ここを訪れたことだろう。亡くなった母は水鳥が好きだった。よく母に連れられこのベンチに座り一緒に水鳥を見ていた。でも僕の楽しみは母が作ってくる弁当を食べることだった。いつも最後にリンゴや梨を果物ナイフでむいてくれた。
十センチにも満たない白い折りたたみ式果物ナイフ。大切な母の形見。テーブルの上に置きそっと目を閉じる。
風の音、風が木の枝を揺らす音、水鳥の鳴き声、羽ばたき、そんななんでもないものに心と身体をゆだねる。さっきまで抱えていた胸の中のどろどろとしたわだかまりや不満、怒りが、少しずつ池の水に溶けるように薄らいでいく。
今日、お昼のことだった。三学期が終わり、高校は数日前から春休みに入っている。僕は午前中を部屋で勉強して過ごした。小学校六年生から住んでいる築五十年になろうかという家。階段や廊下を歩くだけでミシミシ音がする典型的な和風家屋。昼になると、下の階から柱時計の音が聞こえてきた。きっちり十二回鳴り終わると、階段下から祖母が僕を呼んだ。
「春木、ご飯できたよ」
返事をして階段を降りる。台所にある二人で座るには持て余すほど大きな食卓に、すでに二人分の食事が並んでいる。
「勉強していたのかい?」
祖母はいつも同じ質問をする。小さく頷く僕を見て、満足そうに目を細める。短く切りそろえた髪の毛は、染めるのが面倒だと、ずいぶん前から真っ白だ。
僕は大学に何の期待も希望も抱いていない。世の中には不信感しか持っていない。ただ、進学すれば祖母が喜ぶ、それだけの理由で漫然と勉強をしていた。
食卓横においてあるテレビはお昼のワイドショーを放送していた。くだらなくて見る気になれず焼き魚を箸でつついていても、ワイドショー好きの祖母用に調整されたテレビの音量は、僕の気持ちなどお構いなし、遠慮なく両耳の鼓膜を揺らし続ける。昼食を食べ終えた時だった。お茶を飲んでいると、女子アナの言ったワードが僕の心にやすりをかけるように耳に飛び込み、つい見たくも無いテレビに顔を向けた。
画面では排水溝にはまった子犬の救出劇を放送していた。女子アナが言った、人助けならぬ子犬助けのほっこり映像です、の言葉につい反応してしまったのだ。
『よかった、チロちゃんが車に轢かれなくて』
地中深く打ち込まれた楔のように心に突き刺さったままの言葉から、じわじわと身体の中にどす黒いものが染み出していく。
画面が切り替わり、消防隊員がカッターを使い、子犬を救出した映像が流れる。周りにいる人たちから拍手喝さいが起こり、子犬は無事飼い主の元に戻る。皆、口を揃え、よかった、よかったと言っている。映像に映っている飼い主の嬉しそうな顔、司会者や出演者の視聴者を意識した百均ショップで売っていそうな安っぽい笑顔、ふざけんな、テレビから流れる映像と音声に怒りが湧いた。
「チャンネル変えようか」
いつの間にか祖母は、テレビ画面から目を離し、僕を見ていた。
「いや、何で?」
「見たくないだろ」
「犬は大っ嫌いだよ、気分が悪くなる。家族同様かもしれないけれど、所詮はペットだろ、なんでこんなくだらないことを全国放送しているのか、理解できないよ」
「でも子犬に罪は無いよ」
「子犬を助けるためなら、人を轢いてもいいわけ?僕も母さんも道路に飛び出した子犬の身代わりで車に轢かれたんだよ。人間よりもペットのほうが大切なの?こんな世の中おかしいよ」
早口で捲くしたてた言葉に、一瞬、祖母の顔が歪んだ気がした。
「おまえは心の病気なんだ。あれは事故なんだよ、わかっておくれよ。おまえも母さんの陽子も子犬の身代わりで轢かれたわけじゃない、暴走した車に轢かれたんだよ。それに春木は本当は犬が大好きだったじゃないか。いつも犬を見ればあんなに可愛がっていただろう」
「もういいよ」
こんなテレビ見ていられるか。やり場の無い怒りを抱え、部屋に戻った。
祖母にあたってもしかたのないことだとわかっていても、どうしようもなかった。胸の中にどろどろとしたものが澱んでくる。大声を出して叫びたい、駆け出したい、何かに当たり散らしたい心境にかられてくる。机に座っても、とても勉強の続きをする気になれず、開いたままだった参考書を閉じた。階段をかけ降りると祖母は相変わらずワイドショーを見ていた。ただチャンネルが変わっていた。
「出かけてくる」
テレビに顔を向けたままの祖母に言い、玄関に向かった。祖母が振り向き、僕を見ている気がした。
ゆっくり目を開き池に視線を馳せると、子犬を抱き、逃げるように足早に歩く三人連れ親子の姿が、かげろうのように浮かび上がってくる。
探せど探せど見つけられない親子、絶対にあの事故現場の近くに住んでいるはずなんだ。何年かかっても必ず見つけ出すんだ。僕の言うことが間違っていないと証明するんだ。心を落ち着け密かに誓いを新たにする。カルガモはとっくに対岸に着きくつろいでいる。大きく息を吐き帰路についた。
遊歩道を通り抜け図書館に向かう公園に差し掛かった時、不意に犬に吠えられ、飛び上がるほど驚いた。
「相川君」
顔を向けるとスタジャンにミニスカート姿の女の子が立っていた。大袈裟に驚く僕を見て、口元を手で覆っているが、肩が震えている。右手で掴むリードの先で、舌をベロンと出し、はっはっはと呼吸を荒げているどこかちんちくりんな犬が僕を見つめている。あるのか無いのかわからないぶざまな尻尾が憎らしい。
「やだ、わたしのことわからないの?」
僕が何も言わないものだから、女の子は真顔に戻り、心外そうに肩にかけたピンクのポーチの紐を掛け直した。犬がまた吠えだした。ブヒブヒとしか聞こえない。笑い出したくなる気持ちを抑え、クラスメイトの名前を口にした。
「亜川美帆さん?」
本当は最初からわかっていた。教室で女性グループの中で笑顔が輝いている姿が瞼に浮かぶ。ただ話をしたことなどほとんど無く、声をかけられたことが意外だっただけだ。
「ぴんぽーん。よかった、わからなかったらどうしようかと思っちゃった」
亜川美帆は嬉しそうに歯を見せた。
「いつもと服違うから」
遠慮がちに視線を上から下まで送った。スラっと伸びた色白の脚が眩しかった。亜川美帆は僕の目線に合わせるかのように、自分の服装を見回した。
「変?」
顔を上げ、少し不安そうな顔をしている。肩に掛かる黒髪が風になびいている。
「そんなことない、似合ってると思うよ」
どうにか言葉を吐き出した。
女の子とつき合ったことなどなく、クラスメイトであっても会話をすることはほとんどない、当然気のきいたことなど言えるはずもない。そんな僕の口から出たセリフでも亜川美帆は、つぼみから一瞬で開いた花のように表情を輝かせ、すぐに、ほっとしたような、嬉しそうな顔をして、僕に服を見せるようにくるっと回った。
リードを持つ右手を高く上げ、髪が流れ、ミニスカートが少し舞い上がった姿はダンサーみたいだった。スタジャンの胸元につけた蝶のブローチが陽光を反射しきらきらと輝いた。
「いつもセーラー服だもんね。学校以外で会うのは初めてだよね、て言うか、口をきくのもほとんど初めてだったりして。相川君、いつもひとりでいるもんね」
亜川美帆はクラスでは可愛いほうの部類に入る女の子だ、成績も優秀ときている。快活で明るい彼女はいつも女性グループの中で輝いていて、密かに好意を抱いている男子生徒は多いはずだ。
「何してたの」
「ちょっと散歩をしてたんだ」
咄嗟に嘘を言った。
「わざわざ散歩にここまで来るの?」
驚いたような顔をして僕の顔を覗き込んでくる。
「家の前の道路工事がうるさいんだ。それで自転車で図書館まで来たんだよ」
不自然に思われてはまずいと思い、慌てて嘘を重ねた。池のほとりにあるベンチに座り亡くなった母を想い出していたなど、口が裂けても言えるはずがない。おまけにここへはよく来ているが、図書館に入ったこともない。
「ふーん、相川君、ここの図書館で勉強するんだ。新学期が始まれば、わたしたち二年生だもんね。わたしもここに来ようかな」
「亜川さんは優秀だからいいんじゃないの。ここ家から遠いでしょ?それより今日はどうしたの?」
ここで知った顔に会いたくないし嘘がばれるのも困る。
「へへ、お父さんと車で来たの。そろそろ桜が咲くんじゃないかなと思って連れてきてもらったけどまだ早かったみたい。お父さんは速攻ホームセンターに行っちゃった。わたしはその間ワンちゃんと散歩、名前はコロよ。相川君もしかして犬苦手?」
彼女は僕が知らんぷりを決め込んでいた犬のリードを引っ張った。落ち着きのなかった犬はいつの間にか僕の靴を舐めていた。僕は犬が苦手なわけじゃない、嫌いなだけだ。
「コロちゃんって言うんだ。でもちょっと変わった顔してるね」
僕は質問に首を振って答え、素知らぬ顔をして言った。コロはリードを引っ張られても靴を舐めることを止めようとしない。
「やだあ、相川君のこと気に入っちゃったのかな。ごめんね、コロちゃん結構人なつこいんだ。フレンチブルドッグって言うのよ。ブス犬だけど可愛いでしょ」
嬉しそうにリードを引っ張りながら笑った。
確かにちんちくりんなせいで、かえって可愛く見える。でも犬の話題はあまり続けたくない。
「ここ桜が咲くんだ」
「そうだよ、公園の周りに植えられているの全部桜よ。ここ、桜の名所なんだから」
公園に目を馳せると、幹と枝だけの寒々しい木が立ち並ぶ、人影も少ない殺風景な光景が目に映るだけだった。それでも、あとわずか数日のことで公園の木はピンクの花弁で埋め尽くされる。桜が咲いたら、きっと花見客で賑わい、池にも人が来るだろう。しばらくここに来ないほうがいいかもしれない。
「来月クラス替えね」
唐突に亜川美帆は言った。高校は四月にクラス替えを行っている。
「始業式の日に発表だもんね、どきどきしちゃう。また一緒のクラスになれるといいね」
亜川美帆はちらっと僕を見た。
彼女の真意がわからなくて、何と言えばいいのかわからず黙っていると、彼女は、「じゃあお父さんが待っているから」、と僕に手を振り、思い出したように、「その帽子かっこいいね」、とつけ加え、「おいで」、とコロに声を掛け、小走りで図書館と反対側にある駐車場に向かって走って行った。
コロは嬉しそうにあるのかないのかわからないシッポを振りながら、彼女の前を走っていく。ミニスカートが踏み出す脚に合わせるように小さく揺れている。僕は彼女に背を向け、図書館横の駐輪場に向かった。
帰り道、自転車を漕ぎながら亜川美帆との会話を思い出した。こんなに女生徒と話をしたのはたぶん初めてだろう。一学年十クラス、また同じクラスになることはまずないだろう。「どうでもいいよ」、ペダルに力を込めた。家を出る時に胸に溜まっていた澱のようなわだかまりや不満、やり場の無い怒りは、コントロールできる程度に薄まっていた。でも消えて無くなることはない、きっと死ぬまで共生していくのだから。
「あら、おかえり。早かったね」
勝手口横に自転車を停め、玄関に回ると祖母が声をかけてきた。プランターで咲いたチューリップの花を、植木ばさみで切っている。
「ほら見て。綺麗だろ」
祖母は、切ったばかりのチューリップを、僕に見せるように茎をつまんで突き出した。原色の絵具で塗ったような黄色と赤色の花びらが目に飛び込む。
「そうだね」
お昼の会話が思い出され、わざと気の無い返事をした。そそくさと二階の自室に向かいベッドに寝ころぶとすぐに階段の軋む音が聞こえてきた。珍しく祖母が二階に上がってきたようだ。
「春木、開けるよ」
引戸のガラスに、影が浮かぶ。返事を待たず、引戸が開いた。
「お茶を入れたよ」
祖母は廊下からお盆を差し出した。
「わざわざ持ってきてくれなくてもいいのに」
僕は慌ててベッドから飛び起き、手早く湯呑みのふちを掴み、机に置いた。
「陽子のことだけど、忘れろって言っても無理かもしれないけど、もうどうしようもないことだからな。お前の母さんは、運が悪かったんだよ。それが言いたかったんだ」
「運?僕や母さんが子犬の代わりに車に轢かれ、母さんが死んだのは、母さんに運がなくて子犬に運があったってこと?ペットだよ。母さんの命はペット以下なの?それに僕の額に一生消えない傷が残ったのに、子犬は無傷でぴんぴんしてたんだよ。はっきり言ってよ。事故は運じゃない、あの親子と子犬のせいだって」
「いや、そうじゃない。そんな子犬や親子なんて初めからいないんだよ。おまえが見たのは幻覚なんだ。間違っても人前でそんなことを言うんじゃない。陽子や春木は運悪く暴走した車に轢かれた、ただそれだけなんだよ」
祖母は声を荒げる僕を悲しそうに見て引戸を閉めた。階段を降りる祖母の足音が遠のいていく。音が聞こえなくなると、机の一番下の引き出しから木箱を取り出し、中に母の形見の果物ナイフを入れた。母さんは運が悪かったわけじゃない、あいつらに殺されたんだ。呟きながら木箱を戻し、引き出しを閉めた。
ばあちゃんが何を言っても、絶対にあいつらを見つけ出すんだ。本当は仕返ししたい、母さんの恨みを晴らしたい。でもあの親子を見つけても復讐なんてできるわけがない。そんなことをしたら高校を退学になるばかりかもっとひどいことになってしまうだろう。だからせめて、せめて僕が言っていることが正しいと証明するんだ。そしてあいつらに母さんの遺影に謝らせるんだ。前髪に隠れた額の傷跡が疼いた。
僕が三歳になる前に、母と父は離婚したそうだ。父のいない借家で母と二人だけの生活をしていた僕には、両親の離婚どころか父の顔すら記憶に残っていない。それでも母ひとり、子ひとりの生活は快適で父親がいなくても何も不自由することは無かった。
だが母と二人で暮らす生活は長くは続かず、小学校六年生の時、事故で母は亡くなった。道路に飛び出した子犬を避け歩道に突っ込んできた乗用車に母と僕ははねられたのだ。
僕は生死をさまよい、額に一生残る傷跡を残し奇跡的に生還した。命を取りとめた僕の魂に刻み込まれた事故の記憶は、子犬を抱き、
「よかったチロちゃんが轢かれなくて」
と言いながら逃げるように去っていった三人連れ親子の姿は、夢の中で何度も僕を襲ってくる。一生この夢を見続けるのかもしれない。退院後は一人で暮らしていた祖母に引き取られ、この家で暮らすようになった。
新学期が始まった。登校すると掲示板の前にたくさんの人だかりができている。クラス替えの発表だ。一組から素早くチェックし七組の一番上に名前を見つけた。気にして無かったというと嘘になるのかもしれない、七組の女生徒名の一番上に亜川美帆の名前を見つけた僕の体温は少しだけ上がった。
「また一年一緒だね」
帰り道、駅に向かって歩いていると、真横に自転車が止まった。亜川美帆だった。ペダルを漕いでいたせいなのか、色白の頬がもぎたての桃のようにほんのり赤くなっている。髪を後ろで束ね、額に薄っすらと汗を掻いていた。突然のことで少なからず動揺している僕を気にすることなどなく、彼女は自転車から降り並んで歩き始めた。
放課後、女の子といっしょに歩いて帰るなんて想像したことが無く、そもそも通っている高校は進学校で男女交際すら珍しい。そんな状況下で、なぜ今、青春ドラマのように女の子と並んで歩いているのだろうか。ちゃぶ台をひっくり返してしまったかのように混乱している僕に向かって、彼女はたぶん次のようなことを言ったと思う。
「相川君、数学得意だよね、教えて欲しいんだ。今度の土曜日、いいでしょ?」
不覚にも彼女の言葉を聞き逃してしまい、聞き直すのも気が引けて困ったあげく何も言わずただ彼女の顔を見た。
「私、微分積分がいまいちなの。微分は微かにわかるんだけど、積分は分かった積もりになってるだけ、本当はお手上げなの。だから教えてくれると嬉しいな」
亜川美帆は、真面目な顔をして前を向いたまま言った。
「もしかしてそれ、しゃれ?」
彼女のキャラに似合わない古典のような駄洒落がおかしくて、少し冷静さを取り戻しようやくまともな言葉を発することができた。
「面白かった?」
パッチリ見開いた目で僕を見ている。
「微分、積分は一応理解しているよ」
「今度の土曜日、この間の公園の図書館で待ち合わせね、十時に入口で待ってて。私お弁当作っていくから。公園の桜はもう満開よ」
ぽんぽんと話が進められ、断るタイミングを逃し、約束をしてしまった。亜川美帆は、「じゃあまた明日ね」、と言って自転車に乗り引き返して行った。校庭の桜が綺麗に咲いていたことを思い出した。
新学期に入ったというのに、生活に大きな変化は無く、僕は相変わらずクラスメイトと距離をおき、休憩時間はひとりで過ごした。当然、亜川美帆と口をきくことなど無く、土曜日の約束が嘘のように思えた。それでも今までとは確実に違ったことがあった。女の子を意識することは無かったのに、意識しないようにしていたのに、頭の中に亜川美帆のスペースができてしまったのだ。
考えないようにしてもどうしても彼女を意識してしまう、彼女が発した言葉の意味を考えてしまう、気がつけば亜川美帆のことを考えている。彼女は僕のことをどう思っているのだろう、これってもしかしたらデートの誘いかもしれない。ということは、彼女は僕に好意をもっているということなのだろうか。だがクラスメイトというだけで、普段僕と彼女の接点はほとんど無い。彼女が僕に関心を持つことなど考えられない。もしかするとからかわれているのかもしれない。視点を変えるだけでころころと姿形を変える万華鏡のような落ち着きのない感情は、僕を悩ませ続けた。
「朝から図書館へ行くのかい」
土曜日、僕が食卓に座るのを待っていたかのように祖母が言う。
「うん。お昼は食べてくるから」
箸で鮭の身をほぐしながら答えた。身はふっくらし、皮はパリっとしている。赤い身の中から小骨を取り除く。
「珍しいな。いつもは昼から行くのに」
「お昼に、花見をするんだ。近くの公園は桜の名所らしいね」
「ああ、そうだった、そうだった。ばあちゃんも昔行ったことがあるよ、綺麗だったな。もうそんな季節なんだな」
祖母は何かを思い出したのか、箸を持ったまま遠くをみるような目をしていたが、すぐに皿に目を戻し、鮭をつつき始めた。
「で、花見って誰と行くんだい?」
さもついでに聞くような口調を装っているが、箸を持つ手が止まっている。
「同級生が三、四人かな」
嘘を言った。
「春木が同級生と遊ぶって珍しいな」
祖母は外堀を少しずつ塞ぐように話を続ける。これ以上の質問攻めはかなわない、早々に食事を済ませ、二階に上がった。部屋で時間を潰し、スポーツバッグ片手に、ジーンズにパーカー、黒色の野球帽姿で家を出た。
外は心地いい春の風が吹いていた。自転車の前カゴにスポーツバッグを置き、ペダルを勢いよく踏んだ。亜川美帆とどんな話をすればいいのだろう、そもそも彼女は来るのだろうか、不安な気持ちが芽生える。
亜川美帆と約束をした日から、ずっと考え続けてきたことがリフレインのように今また頭を巡る。あれこれいろいろ考えてもよくわからない、とにかく待ち合わせの場所に行ってみようと、足に力を入れ続ける。
でもいつの間にか不安な気持ちがどんどん大きくなる、ペダルを漕ぐ足が、重くなっていく、このまま永久に図書館に着かなくてもいいとすら思えてくる。
それでも予定より早く着いていた。駐輪場に自転車を置き、腕時計を見た。待ち合わせの時間までまだ時間はある。亜川美帆は本当に来るのだろうか?不安な気持ちを抱え、隣接する図書館に向かった。
入口に人気はなく、十時になっても亜川美帆は現れなかった、そもそも図書館に入る人もいなかった。ただ花見客だろうか、公園に向かって歩いて行く人の姿はよく見えた。約束の時間を二十分過ぎ、もういいだろう、もう帰ろうと自分に言い聞かせた時だった。
「ちょっと何でこんなところにいるの?」
突然怒りを滲ませた声が襲ってきた。驚いて声のしたほうを見ると、亜川美帆がいた。ショルダーバッグを左肩に掛け、右手にランチバッグを持っている。
「ここ、裏口よ、待ち合わせは入口って約束したでしょ、もー信じらんない、私、ずーっと、ずーっと向こうで待ってたのよ」
頭から角が、口から牙が生えてきそうな勢いで捲し立ててきた。女の子に怒られた経験など無く、一方的に彼女の剣幕に押され、おまけに待ち合わせ場所を間違えみっともなくてどう対応すればいいのかわからず、ただ慌てふためき、「ごめん、間違えたみたいだね」、と申し訳なさそうな顔をして言うことしかできなかった。でも本当は嬉しかった、からかわれたわけじゃないことに、彼女がきたことに、そして彼女もずっと僕を待っていたことに。
「それだけ?ねえ、ちょっと、本当にそれだけ?普通変だと思うでしょ。誰が見てもここ裏口でしょ、ねえ、ちょっと、じゃあ何、今までずっと裏口から入っていたわけ?」
亜川美帆の怒りはまだまだおさまりそうにない。ぼろが出る前に何とかしないと、と思う僕の目にピンクの花びらが映った。
「それいいね」
咄嗟に彼女の胸元を指差した。
彼女は虚をつかれたように、一瞬きょとんとして胸元を見た。
「あー、話を変えた」
顔を上げた彼女はそう言いながら眉根を寄せ、困ったように僕を睨み、すぐ後で、
「でもこれいいでしょ、今日のお花見に合わせて買ったの、百均で」
嬉しそうに言い、スタジャンにつけた桜のブローチを僕に見せびらかすように身体をくねらせた。見事な変わりようだった。
「へへー、私、こういう小物が好きなんだ」
寝た子を起こすことは無い、満面の笑顔で頷いた。
「まだお昼ご飯には早いわね」、亜川美帆は腕時計を見た。
「今日何しに来たんだっけ」
「そうよ。まず自習室で席取りしなくちゃ」
僕たちは裏口から、図書館正面に回った。亜川美帆は入口ここなんだよね~、と鼻歌のように嫌味を言った。もちろん僕は聞こえない振りをした。開館間もない学習閲覧室は空いていて、僕たちは受付で並びの座席番号札をもらった。
「よかった。誰も座っていない」
嬉しそうに亜川美帆は小声で言い、僕と彼女は指定されたテーブルに並んで座った。待ちきれなかったようにすぐに彼女は顔を向け、そっと囁いた。
「お昼何時にする」
「まだ来たばかりだよ」
近くの人達に声が届かないよう僕も声を潜める。
「でも早く行かないといい場所空いてないかもよ。せっかくお弁当作ってきたんだから」
足元のランチバッグに目をやる。赤い水筒が顔を出していた。結局、彼女に押し切られ、僕達は参考書を広げることなく、ランチバッグだけを持って学習閲覧室を出た。
「ところで亜川さんはどうやってここまで来たの?」
公園に向かいながら聞いた。春の柔らかい陽ざしが彼女の顔を照らしている。
「へへー、今日は自転車で来たんだ、三十分だよ、三十分。おかげでもう脚がぱんぱんだよ」
彼女は太腿を揉むような仕草をした。今日はデニムのショートパンツ姿だ。
「そういつもいつもお父さんに頼めないしね。そんなことより、ねえ、私、前から相川君に聞きたかったことがあるんだ、どうしていつもひとりでいるのかなって。休憩時間もお弁当食べる時もお昼休みもいつもひとりじゃない、どうして?友達とかいないの?ずっと気になっていたんだ」
亜川美帆は、遠慮もデリカシーも無く、あっけらかんといきなり聞いてきた。彼女が言うように僕はいつもひとりでいる。それには僕なりの、他人が聞いたらきっとくだらない、と思うかもしれないが理由があった。
物心ついた頃にはすでに父はいなかったけれど、それでも小学校時代、僕は普通の子どもで仲のいい友達もそれなりにいた。父親がいなくても何の不自由も無く、コンプレックスも負い目を抱えることも無く過ごしていた。授業参観日には欠かさず母はきた。
化粧をした母は美しく、むしろ母を独占できることを自慢に思うほどだった。だがその母が亡くなったと聞かされた時の喪失感はすさまじかった。
病院で目を真っ赤に腫らした祖母から、母の死を聞かされた時、僕は病室のベッドで寝ていたのに、真っ暗な海の底に引きずり込まれてしまったかのように目の前が真っ暗になった。足が、がくがくと震え、ただ茫然とするばかりの突然の別れだった。
退院し祖母に引き取られた僕の生活の、どこを探しても母の姿はなく、仏壇で笑っている母にしか会えなかった。母の写真を見る度に心の中にできた空洞はどんどん大きくなり、その空洞を理不尽な母の死にざまのきっかけとなった親子への憎しみと世の中への不信感、親がいないというコンプレックスがなだれ込むように埋めていった。
転校した学校では無意識にクラスメイトと距離をおくようになっていた。
公園が見えてきた。遠目に見ても桜が咲き誇っているのがわかる、まるで公園全体が淡いピンクの帽子を被っているかのようだ。
「私、もしかして変なこと聞いちゃった?」
亜川美帆は僕が何も言わないものだから、心配するような口調で言った。
「僕は両親がいないんだ。父親は物心がつく前に離婚して家を出て行っちゃったし、母親は小学校六年の時、交通事故で死んじゃったんだ。それからは、ばあちゃんに引き取られ、いっしょに暮してるんだ。ばあちゃんには感謝しているけど、親がいないってのは、やっぱり自分の中で何か引け目のように感じてる」
自分の価値が下がってしまう、そんな気もしていた。
「それでいつもひとりでいるの?」
「どうしてもクラスの中に溶け込めないんだ。みんなの口から普通に飛び出すお父さんが、お母さんが、って言葉を聞くだけで、みんなが別世界の人間という気がしてしまうんだ」
亜川美帆は突然立ち止まった。
「相川君は間違っていると思う」
悲劇の主人公にでもなったような口ぶりの僕に、楔を刺すような透明な声だった。
「相川君はクラスメイトのこと何も知らないよね」
亜川美帆は続けた。彼女が何を言おうとしているのかわからなくて、ただ彼女の澄んだ瞳を見つめた。
「確かに私達のクラスには、相川君みたいに両親がいない子は他にいないわ。でも片親の子は何人かいるんだよ。私もね、実はお母さんがいないんだ。私が保育園に通っている頃、ガンで亡くなったの。突然入院しちゃってね。人の死なんてまだよくわかっていない頃で、まして自分の母親が亡くなるなんて夢にも思っていなかった。だから病院が珍しくて、個室を独占している母親が羨ましくて、お見舞いに行くのが楽しかったぐらい、バカだよね。若かったから病気の進行が早かったの。日を追うごとにお母さん元気が無くなって、どんどん痩せて、寝たきりになって、身体中に管がたくさんついて、そして死んじゃった。それからはずっとお父さんと二人で暮らしてる。お母さんがいないのは寂しいけど、私はそのことを引け目に感じたりしない、だってお母さんがいないから、その分お父さんから愛情をいっぱいそそいでもらったもの。だから他のクラスメイトを嫉んで、自分から距離をおくようなことはしない、みんなとわいわい騒ぐの楽しいじゃない、他の人達も同じだと思う。ひとりの人間としての価値は親がいてもいなくても変わらないよ。相川君みたいにこの世の不幸を一身に背負って生きている、みたいに考えてる子なんてひとりもいない。両親いなくても、おばあさんがいるんでしょ、ここまで育ててくれたんだよね、愛情そそいでもらったんだよね、引け目を感じるなんて言ったらおばあさん悲しむよ」
亜川美帆が話し終わる頃には公園に着いていた。多くの人が満開の桜を楽しんでいた。あちこちでブルーシートを敷いて、まだお昼前だというのに、食事をしている家族連れや、すでに宴会を始めている大学生らしきグループもいた。みな幸せそうに見える。
「すごーい、きれい」
亜川美帆は、目を輝かせて周りをきょろきょろ見ている。
咲き誇る淡いピンクの桜が空を覆っている。時々吹いてくる春のさわやかな風に乗って花びらが宙でワルツを踊っている。亜川美帆は満開の桜を楽しむように、ランチバックを右手に持ったまま、その場でくるくる回った。
彼女が言うことは理解できた。きっと彼女の言葉が正しいのだろう。他人に心を開き、奔放に振る舞う姿を見て僕は自分の矮小さを感じた。でも、僕にはできない……。
「あー、目が、目が回った」
亜川美帆は、酔っ払いのような足どりで僕の腕を掴んだ。
「さっきはごめんね、言い過ぎちゃった」
ぎゅっと掴まれた腕から、彼女の体温が、彼女の心が伝わってくる気がした。
じっと僕を見つめる彼女の顔は暑くもないのに薄紅色に染まっていた。
「いいよ、気にしてないから。それに亜川さんの言うとおりかもしれないね。だけど……」
その時、すぐ近くで声が聞こえた。
「ねえ、ちょっと、いっぱいじゃないの」、女性の声だ。
声がしたほうを見ると、レジャーマットを抱えた大学生らしいカップルが辺りをキョロキョロ見渡していた。
「あっち行ってみようか」、彼氏らしき男性が女性に言う。
よくよく見ると、他にもレジャーマットを持ってうろうろしている人達があちこちにいる。僕は某国が一度に数発のミサイルを発射したような危機感を覚えた。
「だけど何?」
彼女は話の続きを促したけれどそれどころではなかった。場所取りができないと、やっとよくなった亜川美帆の機嫌がまた悪くなり、暴れ出すかもしれない、せっかくお弁当を作ってきたのにと。
そもそも待ち合わせ場所を間違えた僕に言い訳の機会が与えられるとは到底思えない。むしろ、すべての責任を被せられる可能性が高い。彼女の言葉は耳を素通りし、「とにかく場所取りをしようよ」、と、亜川美帆の手から半ば強引にランチバックを奪い、あちこち目を配りながら歩き始めた。
彼女は一瞬きょとんとし、質問を無視した僕に不満そうな表情を向けたが、すぐに嬉しそうな顔をつくり後ろをついてくる。
公園はたくさんの人で溢れ、たった二人が座るだけのスペースが見つからない。探すこと数分、やっと場所取りがされずぽっかりと空いている場所を見つけた。ラッキーとばかり、駆け出し亜川美帆を手招きした。
「じゃーん、ここどう?」
得意げな僕を見て、彼女は、おまえ殺す、とでも言わんばかりの冷たい目で言った。
「トイレの前は嫌」
後ろを振り向くと見慣れた青と赤のトイレマークの男女が目に飛び込んできた。そこはかとなくアンモニア臭が漂っている。僕は彼女に何も抗弁することなく、名誉挽回と左手にランチバッグ、右手にレジャーシートを握りしめ奔走した。だが残念ながら、彼女は次々と僕の選択を否定していく。
「ゴミ箱が臭い」
「地面が濡れてる」
芝生広場では、
「犬のウンコがある」
敷き詰められたブルーシートの間に、僅かな隙間を見つければ、
「酔っ払いがうるさい」
「桜が見えない」
いちいちケチをつけられ、それでも僕は耐えた、先に切れたのは彼女のほうだった。
「真面目に探す気があるの?さっき私に図星を突かれた腹いせしてるんじゃないよね」
胡散臭そうに僕を見た。消費期限切れのシュークリームを眺めるような細い目だった。
「さっきから何だかんだとケチをつけているのは君だろう」
さすがに辛抱できなくなった僕はやけくそのように言った。あっと思ったが、後の祭り、巣を荒らされたスズメバチのように、亜川美帆の反応は素早く攻撃的だった。
「君?君って何よ、その言い方。そもそもあんたが、待ち合わせ場所を間違えたのがいけないんでしょ」
あー、地雷踏んだ。目が吊り上がってる。
いまさらながら後悔したが、昔の人はよく言ったものだ、後悔先に立たず。後は耐え忍ぶしかない。亜川美帆はマシンガンのように連射する。
「あんなところが正面入口だとどーして思えるの?誰がどう見たってあそこは建物の裏口でしょ、扉だってしょぼくれた親父にお似合いのぼろぼろ扉だよね。普通変だと思わない、思うよね、これが公共の図書館入口だろうかって、もしかしたら場所間違えてるかもしれないって、よし反対側に回ってみようって、普通思うよね。でもそれをあんたはしなかったんだよ、約束の時間をニ十分過ぎてもただ待ってただけ、そう、ぼけーっと木偶人形みたいに突っ立ってただけ、その結果がこれだよ。私が見つけなかったら今でもまだ無様に立ってんだよ、全部あんたのせいなんだからね」
すべての責任を僕に被せ、言い訳を挟む余地を一切与えることなく彼女は捲し立てる。僕は縁日で売られるだるまのように手も足も出ず、場末のジムのサンドバッグのごとく無様に打たれ続けた。
突然、彼女は僕の手からレジャーシートを奪い走り出した。ブルーシートの青い海原のすき間を縫うように軽快な足取りで走って行く。訳が分からず慌てて彼女の後を追う。これ以上、言いがかりのネタを与えたくない。
亜川美帆は、宙を舞う蝶のような軽やかなステップで走り続ける。あと少しで公園から出てしまうと思った時、彼女の足が止まりすぐにレジャーシートを大きく広げた。アラビアンナイトの空飛ぶ絨毯のように大きく広がったシートは、自分の意思を持った生き物のごとく彼女の目の前のベンチをすっぽり覆った。
スカッっとするほどの早業だ。あらためて周りを見ると、レジャーマットやレジャーシートを持った人たちが悔しそうに亜川美帆を見ている。
「亜川さん、凄いね」
遅れて辿り着いた僕は、少し息を荒げながら言った。彼女は小学校の運動会の百メートル競走で、一位を取った子どものように、どうだと言わんばかりの得意げな顔でベンチの真ん中に座っている。
「どう、ここ?不満ある?」
息を荒げることもなく、お姫様みたいに言った。当然僕に不満などない、もしあったとしても口が裂けても言うはずが無い。
でも確かにいい場所だった、公園の端のほうに位置するが、足元は土がむき出しの地面では無く、芝生が張られ綺麗に刈り揃えられていた。なにより犬のウンチやアンモニア臭が無い。それに桜の花びらが風が吹くたびにひらひらと芝生の上に舞い積もり、ピンクの絨毯のように芝生を彩っている様は、わび・さびに疎い僕でも心打たれる思いだった。
「参りました」
「でしょ。日頃の行いの賜物だよ。まあ、座りなよ」
亜川美帆は得意そうに言い、僕にベンチに座ることを許可した。
「でもよく見つけたね」
「へへー、荷物を持って立ち上がるお年寄りが見えたんだ。即行動よ」
つい先ほどまでと打って変わって上機嫌だ。
「さてと。ゆっくり桜を見てこない?」
亜川美帆は嬉しそうに提案をしてきた。腕時計を見ればお昼まで随分時間があった。
「賛成、でもここせっかく場所取ったのに大丈夫かな」
「そうだね、ランチバッグと水筒を置いていこうよ。他に何かないかな」
回りをキョロキョロと見始めた彼女は、僕の顔を見てニコっと微笑んだ。
「相川君の被ってる帽子、それも置いていこうよ」
言い終わるより早く、彼女は素早く手を伸ばし、僕の帽子を奪い取った。
「いきなり、何すんだよ」
「ごめん、怒った?」
少し苛立ったような言い方に慌てたのか、珍しく、亜川美帆は神妙な顔をして帽子を返した。
「驚いただけだよ」
僕は、帽子をベンチに置き、立ち上がった。
「相川君、前髪長いのが好きなの?」
長髪は学校で禁止されているので、サイドは耳にかかるぐらいの長さだが、前髪は目に届きそうな長さにしている。
「別に好きってわけじゃないけど、中学からずっとこの髪型だよ」
「ふーん」、感心したように亜川美帆は言い、「でも似合ってるよ」、にやっと笑い、「さあ、行こう」、と立ち上がった。
亜川美帆は妙に機嫌が良かった。僕の前を鼻歌交じりに歩き、時々振り向いて意味不明な笑顔を見せる。いつの間にか片手にデジカメを持ち、「すごーい」、とか、「きれい」、とか、「やばっ」、など短い言葉を連発しながら桜の写真を撮っている。
たまに、桜を背景に、「撮って」、とデジカメを渡され、僕は彼女と桜の写真を撮った。気がつくと、デジカメはずっと僕の手の中にあり、僕は彼女が指示するとおりに写真を撮っていた、まるで専属カメラマンだ。まさか、今日の彼女の本当の狙いはこれだったのかと、疑心暗鬼になりかけた頃、いつの間にか公園を通り抜け、先日、ふたり出会った場所に近づいていた。彼女が手招きしたので僕はまたデジカメを構えた。
「ねえ、相川君。この間はあっちから歩いてきたよね。向こうには何があるの?」
突然の質問に驚いたけれど、とぼけた。
「小さな古びた池があるだけだよ。それよりそろそろベンチに戻らない」
亜川美帆は腕時計を見て、驚いたような顔をした。時間は十二時に近かった。
「やだ、もうこんな時間じゃない。どおりでお腹が空くわけね。早く言ってよ」
彼女はバレリーナのように軽やかにくるっと反転し、引き返し始めた。僕はほっと息を吐き、彼女の後を追った。
あの池を、あの休憩所を、彼女に見られたくなかった、行かせたくなかった。あそこは母との思い出の場所であり、今となっては母を感じられる唯一の場所だ。あの池に他人を連れて行きたくなかった。僕の心の中を覗き込まれたくなかった。
ベンチに戻ると、レジャーシートの上には桜の花びらが何枚も降り積もり、お花見気分を盛り上げていた。
僕は帽子を被り、ベンチに腰掛けた。春の陽ざしを浴びたレジャーシートから、ほんのりとした心地良い暖かさが伝わってくる。隣に座り、嬉しそうにランチバックに手を掛けた彼女を見て、今なら聞けると思い、口を開いた。
「ずっと気になってたから聞くけど、亜川さんは、今日どうして僕を誘ったの?微分積分を教えてなんて口実でしょ?」
亜川美帆は困った顔をし、少し間をおいて、「実はね」、ぬかるみから足を引き抜くような口調で語り始めた。
「今日、相川君じゃなくてもよかったの。前も話したけど、私、毎年ここの桜を見に来てるんだ。本当のことを言うと、ここが桜の名所だからって理由じゃないの。小さい頃、いつもお母さんと花見に来てたんだ。今でもうっすらと覚えてるよ、芝生の上に、昔だからゴザを敷いてね、そこでお母さんが作ったお弁当を食べるんだよ、玉子焼きが美味しかったな。ここの桜を見るのが大好きなのは、お母さんに会える気がするから。ずっとお父さんに連れてきてもらってたんだけど、今年は仕事が忙しくてどうしてもダメだって言うの。学校で友達誘ってみたけど、ここ遠いじゃない、だからみんなから断られて困ってたんだ、ひとりでここにくる勇気がないから、泣いちゃいそうだから」
ずっと俯いている、握ったこぶしが小さく震えている。
「それで僕に目をつけたわけだ」
「こないだの口ぶりからちょくちょくここに来ているのがわかったからね。でも信じて、誰でもいいってわけじゃないんだよ」
縋るような目で僕を見た。
「同じことだよ」
がっかりしなかったと言えば嘘になる。でも正直なところ、ずっと解けなかった方程式が解けたようなすっきりした気分だった。
根暗な僕に好感を持つ女の子なんているはずないし、まして気持ちが通じ合うなんて考えられなかったからだ。でも一方でこんな僕に心を開いてくれる彼女が嬉しかった、心を開ける彼女が羨ましかった。僕には無理だ、理不尽とも思える母の死、心の中に抱え続けてきた人に対する不信感は今でも拭えていない。亜川美帆はしょぼんとし、
「ごめんなさい、暗い話に付きあわせて」
ぽつりと言った。
「別に謝らなくてもいいよ。それに今日はいろいろあったけど面白かったし」
「本当?」
亜川美帆は、顔を上げ僕を見た。ほっとしたような、媚びるような赤みが頬に浮かんでいる。すぐに彼女は嬉しそうにランチバッグを開き、中から弁当を取り出した。
「お詫びというわけじゃないけど、いっしょに食べようね。これはおにぎり、シャケとツナマヨの二種類あるんだよ。それからこっちのパックには、玉子焼き、からあげ、ウインナが入ってるの。全部私が作ったんだよ」
得意そうに言う亜川美帆を見て、これでこの数日間、僕を悩まし続けた落ち着きのない感情とおさらばできると思ったら、妙に食欲が湧いてきた。僕は彼女の手作り弁当を食べることに集中することに決め、シャケおにぎり、玉子焼き、からあげ、ツナマヨおにぎり、ウインナの順番で食べた。間に水筒に入った温かいお茶を飲むことも忘れなかった。母親がいない亜川家では、もっぱら彼女が食事当番をしているそうだ。彼女が作ったお弁当はどれも美味しかった。
食事を終え、近くの自動販売機で一本ずつ買った缶コーヒーを、彼女はミルクと砂糖入り僕は無糖、もちろん僕がお金を出したのだけれど、飲んでいる時だった。
「そう言えば、ここどうしたの」
不意に亜川美帆が口を開いた。彼女は自分の額の上の方、髪の毛の生え際近くを人差し指で触った。ひらひらと桜の花びらがベンチに舞い落ちる。
「さっき、私が相川君の帽子を取った時、髪の毛の隙間からちらっと見えたの。古い傷跡だよね。もしかして相川君の髪型ってその傷を隠す為?」
僕の額の左上に二センチほどの傷跡がある。
「聞いちゃいけなかった?」
「嫌、別にいいよ。さっき僕の母親が交通事故で亡くなったって言ったけど、僕も事故に巻き込まれていたんだ。その時の傷跡だよ。暴走し舗道に突っ込んできた車に母と僕ははねられたんだ。母は亡くなり、僕は一命を取りとめた。この傷を見るたびに、事故のことが母のことが思い出されて、いつの間にか髪の毛で隠すようになったんだ……、ごめん、今度は僕が暗い話をしちゃったね」
「ごめんなさい」
驚いたような顔をしていた亜川美帆はそう言った後優しく微笑み、すぐに神妙な顔をして、「おあいこね」、と言った。そして、「あーあ、夢でもいいからお母さんに逢いたいな」、桜の花びらを指でつまみながら独り言のように呟いた。僕はただ頷き、目の前に広がる景色を眺めた。
満開の桜は空を覆いつくすほどで、桜の木は優しい春の風が吹くだけでも花びらを散らしていく、しんしんと降り積もる雪のように芝生の上に舞い積もっていく。子どもたちが走り回るだけで降り積もった花びらが紙吹雪のように舞い上がる。
その時、やわらかな風は、俄かに勢いを増した。突風が吹いた。亜川美帆が悲鳴を上げる。一斉にあたり一帯の桜の木は花びらを散らし桜吹雪となり、芝生に降り積もっていた花びらは、吸い上げられるように舞い上がった。桜吹雪はやがて渦を描き、舞い上がった花びらと合体し視界を覆うほど大きくなっていった。目が回りそうなほど幻想的ですらある光景に僕は心を奪われ、我を忘れるように見入っていた。
突然、花びらの渦の中から、女性が姿を現した。唐突に現れたようにも、花びらが人の姿になったようにも見えた。ベージュのワンピースの裾と背中まで届く長い黒髪が風に靡いている。透きとおるような肌、吸い込まれてしまいそうな瞳、綺麗な人だった。
もし桜の精霊がいたら、こんな美しさかもしれない。突然現れた女性はつと立ち止まり、肩に乗った花びらをそっと指で摘んだ。目を奪われるように見入る僕の前で、女性はふっと花びらに息を吹きかけた。ひらひらと蝶のように花びらは舞い、ゆっくりと女性の足元に落ちていった。いつの間にか風は止んでいた。
「すごい風だったね」
亜川美帆の言葉で僕は我に返った。彼女は髪の毛や服についた花びらを一枚一枚点検しながら取っている。はっと気がつき、周りを見渡しても女性の姿はどこにも見えなかった。
「髪の毛にまだ残ってるよ」
あちこち見回している様子がおかしくて、僕は亜川美帆に言った。
「どこ?取ってくれる」
彼女は絵画のモデルにでもなったかのように、澄ました顔をしてじっとしている。僕は彼女の頭頂付近と首筋付近に残った花びらをそっと取った。
「照れちゃうな」、と言いながら、彼女は笑みを浮かべた。
「そろそろ戻ろうか」
桜も弁当も堪能したのだろう、満足そうに亜川美帆は言う。片づけをしながら、ふと先ほどの女性のことが思い出され、レジャーシートをたたんでいる亜川美帆に言った。
「さっきの女の人って」
「ん?何のこと?」
「桜吹雪の中から突然現れた女の人だよ」
「知らない、そんな人いたあ?だってすごい風で私、目をつぶっていたからわかんない」
「もういいよ」
その日、僕たちは図書館で四時まで自習をし、もちろん私語は慎みながら、そしてさようならをした。
それからしばらくの間、何事も無く過ぎて行った。僕は今までどおり学校では無口な生徒で過ごし、亜川美帆は飽きもせずクラスメイトの輪の中でワイワイ騒いでいた。たまに彼女と目線が合うことがあっても、彼女は笑みを浮かべるだけで会話をすることは無かった。公園の桜の花はとっくに散り、今では新鮮な若々しい緑の葉を纏っているだろう。僕はしばらく池に行っていない。