彼には彼のペースがある。歩く速度を落とすんでもいいし、いざとなれば立ち止まってもいい。
今の自分の目標は前に進むことじゃない。彼の隣にいつまでも居られたら、もうそれだけでいいんだ。
「夕夏。もう出よう」
狭くて暗い個室、ってのも良くなかったかな。
尚さら暗い気持ちになるし、不安も煽る。でも他にゆっくりできる場所もないのが悩みどころだ。
ひとまずトイレを出て駅のホームに向かった。何となく、人がいない一番端の乗り場まで歩く。夕夏は特に何も言わずついてきた。

「……あの、さっきは変なつもりで触ったわけじゃないんだ。マジで、ちょっと強く抱き締めて、お前が近くにいるんだって確認したかっただけ。それだけは信じて!」

情けなさを全面に押し出すことになるけど、ジェスチャーを交えながら必死に説明した。兎にも角にも、下心はなかったんだと話した。
夕夏は暗い顔をしていたけど段々困った顔に変わり、やがて苦笑した。
「わかった。いや、わかってたよ。だからそんな情けない顔すんなって」
「本当? 俺のこと変態だと思ってない?」
「思ってない。お前はウブで、かつピュアじゃん。……って、ちょっとクサイかな」
不思議そうに空を見上げる彼が、ちょっと可笑しい。人目も気にせず大声で笑ってしまった。
「夕夏ってたまにイタいこと言うよな。でもそれがイイ! かわいい!」
「そ……そういうこと言ってるお前の方がかわいいっつーの」
「ええぇぇ、そういう切り返しをしてくるか……いや、もうやめよう! これじゃエンドレスだ。かわいいの褒め合戦になる……!」
智紀の叫びをかき消すように、ホームでアナウンスが流れる。それから間を空けず、満員の電車が到着した。

「夕夏は心を開くとデレまくるタイプなんだな。そのギャップは正直びっくりした。どれくらいのびっくりかって言うと、次の時間割を勘違いしてたぐらいのびっくり」
「つまり、全然びっくりしてないんだな」

二人で電車に乗り込む。車内は人で埋め尽くされ、おしくらまんじゅう状態だ。智紀は扉の傍に、夕夏は小柄のため中央へ追いやられる。
吊り革から離れた位置で、近くに掴めるものを探した。しかし手の届きそうな位置にはなく、諦めて足元に注意を払う。

「夕夏、そこに立ってて平気? お前って背ぇひっくいもんなぁ」